&Premium(マガジンハウス)という写真誌(2025年2月号)が映画特集。
「愛について考える映画」コーナー、草薙龍瞬も一本語らせていただきました。
20代の頃は、年間200~300本くらい見る映画好き。TVドラマにもどっぷり浸かって、脚本のセリフを分析するくらいのマニアぶり(笑)。
「愛について」いろんな映画を思い出してみましたが、今回はクリスマス・シーズンに出る号ということを受けて、「あの」作品を選んでみました。
味のある映画は、今も昔もそれなりに出ている気はするけれど、秀作は、それこそ70年代くらいにまでさかのぼっても発掘できるし、発掘すべき。優れた映画は陳腐化していないから。
出家してからはほとんど映画を見なくなったけれど、、、今回、久々に映画脳をくすぐられた感じ。編集者さん曰く「いろいろ(映画)見てそう」と直感で思ってくださったのだそうです。
ちなみに、最近最終回を迎えた『海に眠るダイヤモンド』(TBS)。
時空をまたがるあの壮大な世界観は好きだし、見どころがたしかに多い名作だと思うけれど、多くの人が語っているような美しい物語として終わっているかは、個人的には正直疑問でした(笑)。
だって、あの草笛リナ・・・鉄平が行方不明になった原因を一番知っている、自分が語らねば誰もわからないままで終わってしまうことを十分理解している最大の当事者なのに、
何もしなかった!!!--
のだから。恐ろしい。
自分を守って、子供(誠)をかばって、殺される危険を引き受けて鉄平が必死で逃げまくっていることを、誰よりも理解していながら、
何もせず、語らず、動かず、遺書さえ書かずに、ただ死んでいったというのは、サイコパス以外の何物でもないのでは?
鉄平は巻き込まれただけ・・・まっとうな人間ならば胸を痛めて、なんとか事態を収束させねばと、時機を見て真相を語り、鉄平を救うために動き回るであろうに、この女性は何もしなかった。
この女性のために何人が不幸になった?(端島に来る前を含めて)。恐ろしいのは、そうした点について、すべて未精算のまま、自分の都合だけで人生を終えたこと。
(朝子が東京で活躍している姿を新聞などで見てました・・・とリナの息子である誠は語っていたが、そういう話ではあるまい)。
あのドラマは、3姉妹物語的な女子グループのキラキラに(脚本家・演出家・プロデューサーさんの)目が取られてしまった印象がなくもありません。
女子3人はキラキラ、キャピキャピ(それぞれに苦労や切なさはあるのだけれど、彼女たちの人生を大きく肯定するという世界観は一貫している)。
他方、鉄平は、サイコパスかもしれないリナをかばい、誠を守るために、人殺しの罪を背負って、ひたすら逃げ続け、結局、最後まで、真相を知られることなく、端島時代の仲間や友人たちとよりを戻せないまま死んでしまうという・・。
鉄平の日記が謎を解くカギだみたいな位置づけ・演出をされていたけれども、リナが真相を明かせば一発で謎は氷塊したはず。そんなに難しい話じゃない。
リナが原因で、鉄平も、賢将も百合子も母親のハルさんも、鉄平はリナと駆け落ちした!!みたいなとんでもない誤解を晴らせないまま、死んでいった。
リナの言動には、自分さえ助かればいいという潜在意識が透けて見える気がして――。
いや、恐ろしい女です(笑)。と言ってはいけないでしょうか。
しかも残念にしてこれまた恐ろしいといえなくもないのは、朝子、百合子、賢将らが曲がりなりにも持つことができた幸せな家族物語から、鉄平一人を締め出して死なせておいて、コスモス畑で「美化」して終わらせたこと。
あれはね・・・美しく見えて美しくない。制作陣が全員女性だからやってしまえた終わらせ方・演出の仕方じゃなかったかな。そんな気にもなりました(笑)。
すごく残酷で利己的な(都合が良すぎる)終わらせ方なのに、表面的には美しく見せてしまう。そういう怖さが、あのきれいなコスモス畑の映像に透けて見える気がしなくもありませんでした。
桜の樹の下には屍体が埋まっているとは、梶井基次郎の言葉。
コスモスの下には鉄平が埋まっている――。
誰が埋めたかといえば、劇中人物では第一に草笛リナ。大きく見れば、制作陣・・と考えるのは、うがちすぎ?
物語というのは恐いもので、作る側の目線というか立場というか、無自覚の内に選んでしまっている立ち位置が、つい露わになってしまう。
あのドラマの「救いがない」(救いがあったように見せかけて、実は救われていない・・)結末は「必然」ではなく、作り手側の無自覚の「意図」が出てしまったような気がしてなりません。
あのラストに必然的な理由や切実なメッセージがあったわけでなく、最後に謎解きしようとすれば、あの展開が一番都合が良かったのでは・・そんな印象が残ります。
鉄平は、あえてコスモス畑に孤独のうちに「埋められた」のだというのが、一視聴者としての感想です。あのドラマ・世界を貫く最も大事な存在であるはずなのに、添え物として最後は打ち棄てられた。
それを愛と呼んでは(見せかけては)いけない気がします。
(あくまで個人の感想、いえ邪推です(笑)。ごめんなさいね。)
なんでTVドラマ一つにあえてここまで語ってみたか。作り手には、物語とそこに出てくる人物たち、さらに受け取る側(視聴者)への責任があると思うからです。
結局最後に何が残るか、伝わるか。そのことで物語は生きもするし、死にもする。物語は、本当の意味で生かさねばならないと思います。ドラマも、映画も、小説も。
作り手の思惑・都合・偏(かたよ)りが前面に出て終わってしまう作品を、たまに見かけます。そんなとき、「成仏」しきれなかった物語のポテンシャル(未発揮の価値)を感じて、残念に思ってしまうのです・・。
2024年12月下旬