看護師に感情は要らない?

(看護専門学校の試験講評から)

 

 看護の仕事は、視点①から⑤に集約できます。①から⑤の中味(情報)は、教材<看護の技法>に書いてあります。

そうした中味をすべて漏れなく踏まえることができれば、「よい看護師」が成立します。

また、①から⑤の中味に「感情」は直接は入ってきません。

何度も伝えてきた通り、「感情」はコミュニケーションに役立つことはありうるとしても、「看護の本質」には入ってこないのです。

たとえば、ハラスメントを受けた看護師に感情は必要ですか? ①から➂(※最終的には④⑤も含む)の中味を、看護師の側が正しく理解して、どのように伝えて患者に理解してもらうか(ケアを受け入れてもらうか)を考えなければいけないのではないですか?

あるいは、瀕死の重態の患者に、看護師の感情は役立ちますか? これもまた①から➂(※最終的には④⑤も含む)を正確に、迅速に、踏まえるしかないのではありませんか?

①から➂(最終的には①から⑤のすべてのステップ)を踏まえることでしか、正しい看護(患者のためになる、苦しみを増やさず、なるべく心身の苦痛を癒した状態で復帰してもらうこと)は成り立たないのではありませんか?

正しい看護に感情は必要がない(役に立たない)。
ただし、患者とのコミュニケーションにおいて、看護する側の感情が役に立つこともある。

それが今回の正解だったのです。

感情労働は古い概念であり、勘違いされたまま看護の世界に流入してきたものです。もともとアメリカの航空会社が顧客を満足させるサービスとして、キャビン・アテンダントに求めたもの。「イヤな客にも我慢してスマイルで対応せよ」という。

※マクドナルドの「スマイル0円」も同じ系譜から来ています(マクドでは、ひと昔前はメニューにそう掲示されていたのです笑)。

結果的に、看護師は感情にフタをしなければ、イヤなことがあっても感情を抑圧・管理して「優しい看護師」であらねば――というイメージができあがってしまったのです(教材内の記事は、そういうイメージ(勘違い)に立って語られたものです)。

感情は要らない。そもそも看護という仕事は、別の部分で果たすべきものである。

この原則に立たないと、過剰な義務を背負いかねません。

ちなみに、<看護職の倫理綱領>も、看護師の権利や利益擁護については言及していない。「看護師はいろんな義務を背負うべき」という前提で書かれたものです。

こういう部分を見抜けないからこそ、多くの看護師さんが今も無理を背負って疲弊しているのです。

このあたりは、ベテランの看護師でも、いまだに勘違いしている点です。あと十年くらい経てば、このあたりの認識は変わっているかもしれません。

今後時間をかけて考えていってください。

人の苦しみを正面から思いやり、「一人でも救うことが自分の使命だ」という自覚をもって日々の仕事に臨んでいれば、おのずと「人を救うためには、感情以前にもっと大事なことがある」ことが見えてくるはずです。

頑張ってください。全員を応援しています。

 

 2025.9.29

 

『怒る技法』台湾語版


『怒る技法』台湾語版が出版されたようです。

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く4作目。

堂々と怒るべし、慈悲を忘れずに――

ひとことでいえば、そういう作品ですが、上手に怒る技が盛りだくさん。

台湾の人々に必要な作品。隣りの国では永久に出版されないことでしょう。


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なんか煽ってます(笑) 娑婆の世界はしゃーない・・

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剣のモチーフも活かしてます

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智慧の剣をもったブッダもそのまま オリジナル版を忠実に再現




2025・9・29

看護学校のお坊さん


看護学生のレポートを採点中(これさえ終われば少し時間ができます・・)。

自分でもいうのもなんだけど、「いい先生」だとは思います(学生はそうは思っていない可能性も少なくないですが笑)。

いい先生というのは、優しくはない。むしろ厳しい。特にサボっていたり、学ぶことを甘く見ていることが伝わってきた時には、遠慮なく喝を入れる。

だがその一方でかなり甘い。10点満点なのに、よく書けていると思えば、15点つけてしまったりする(採点になってない笑)。内容が若干足りなくても、真剣に取り組んでいることが伝わってくれば、10点満点にしちゃったりもする。

こういうボーナス点が多いので、総合得点は100点を超えてしまう。平均点が90点越え。もはや採点にもなっていないような気もしなくもない。とにかく甘い。

この甘さは、「頑張れ」という励ましから来ている。どうしても甘くなってしまう。

そもそもみんな成長の途上にある。最初からわかるわけでもない。外すこともしようがない。「いつかわかってくれればいい」というくらいの鷹揚さも持ち合わせている。だから甘くなる。

その一方で、自分自身を甘やかして、自分の将来(の可能性)を掘り崩しているかのような態度が伝わってくれば、その時は容赦ない。「むっちゃおっかない」先生に変わる。

今のところ、それでも脱落者はいない。最低限のヤル気・本気はある様子。

そのあたりが見えた時には、全力で褒めることにしている。このあたり、超素直な先生でもある。

課題の講評については、たとえばこんな「喝」を入れています:



課題「よい看護師」とは何か説明せよ(※説明するための情報は教材に書いてある)

課題「よい看護に感情労働は要らない。その理由を説明せよ」(※これも答えは教材内に書いてある)


<講評>
わかっていない(0点)答案が多すぎます。

「よい看護師」というそもそも曖昧な言葉を「寄り添う」とか「優しい」とか、これまた曖昧な言葉で置き換えている(説明したつもりになっている)学生が多すぎます。0点。

「感情は要らない」と伝えているのに、まだ「共感が大事」とか「感情を抑制する必要がある」とか、とんちんかんなことを言っている学生も多い。

こういう人たち(学生たち)は、看護という仕事をステレオタイプ(月並み)なイメージでとらえてしまっていて、その思い込みから抜け出せていないのだろうと思います。

看護の仕事を視点で整理すれば、①苦の理解 ⇒・・(略)・・⇒ ⑤納得 の5つに尽きるのです。これ、看護だけでなく、実はどんな仕事も同じ。

①から⑤に入ってくる中身(具体的内容)が、看護の場合は、特殊(専門的)になってくるというだけで、どんな仕事も同じ。

視点①から⑤のキーワードを使って、「よい看護師」を置き換えるだけでいい。

視点①から⑤のキーワードに照らして、「感情」がどこに入ってくるのか(役に立つのか)を考えてみればいい。

視点①から⑤に沿って、どんなケアが適切か、答えを出していく。その手順を履むことに、感情とか優しさとか寄り添うといった曖昧なものは、本当は必要ないのです。

ならばまったく意味がないかといえば、それは違います。人間としての優しさや、寄り添おうという姿勢が、患者にとっての安心や癒しや信頼感につながることはあります。「自然に出てくる」部分は大事だし、実際には大きな意味を持つことも多い。

しかしそれは、視点に沿った適切なケアができたうえでのこと。①から⑤の手順をすっ飛ばして、「優しく」「寄り添う」なんていうのは、素人の自己満足と変わらない。患者のためにならない。順序が違う。本末転倒。

君たちは、看護のプロとして苦しむ人と関わろうというのでしょう? 看護は高度な専門職。

「感情」「優しさ」「寄り添う」「共感」といった、いわば世間一般に美徳と(一応)されているものとは、レベルが違う。

世間一般のレベルに収まって(留まって)いては、看護の仕事は務まらないのですよ?

素人レベルで「よい看護師」や「感情」というものをとらえていちゃダメです。

それは看護という仕事を矮小化していることと同じ。素人レベルの発想でしかない。

「それよりも大事なこと、しなければならないことがある」という前提に立つこと。

看護という仕事を甘く見るな(見くびるな)ということです。わかるかな???




2025・9・26


これでいいのだ?


いや、娑婆(世俗)の世界は本当に疲れます。いろいろと考えなければいけないことが新たに出てきていることもあり・・。

出家というのは、ほんとは娑婆の世界に降りて(?)きてはいけない種族のような気もします。

でも山奥にひきこもれば解決ということにはならなくて、自分自身に解決すべき問題は残っていないので、やっぱり「新たな可能性を創る」ことくらいしか命の使い道はなく、

そうなると、やはりやれることというのは、今やろうとしていることで、

やろうとすると、こういう苦労も背負わざるを得なくなって、

苦労というのは背負える限りは背負う(ことがあってもいい)もので、

背負う限りは、「大変だけれど、そういう時期」として受け止めるほかないもので、

結局は「そういう時期なんだ」という思い(諦念)をもって受け止めて、

やっぱり歩ける限りは歩く・・という今の姿に落ち着くので、

最後は「これでいいのだ」というバカボン的心境に落ち着くのでありました。

めでたし、めでたし?


2025・9・23(そうか、祝日か・・)


秋の講座スケジュール 10・11月

興道の里から


講座の最新スケジュールです。

9月16日に愛知・高蔵寺で開催した公開講座
<仏教で思い出そう「あの日の幸福」を>
東京でも開催します(構成・教材はほぼ同じです)。


会場は東京都内です。詳細は、公式カレンダーでご確認ください。

興道の里の講座は登録制です。受講希望の方は、公式ブログ内の<活用ガイド>をご覧のうえ、必要事項をご連絡ください※。

※たいへん小さな場所ですので、すべての方にご参加いただけるわけではありません。あらかじめご了承ください。


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10月26日(日)
18:00~22:00
個人相談会
東京・神楽坂

<時間枠> ➀18:00~18:45 ②18:50~19:35 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ⑤21:20~22:05

<内容> お一人45分のミニ個人相談会を開きます。自分では答えを出せない悩み・課題を抱えている方で、代表・草薙龍瞬への相談をご希望の方は、お名前・相談内容・ご希望の時間枠をご連絡ください。折り返し詳しいご案内をお送りします。


11月1日(土)
18:00~21:30
座禅会
東京・神楽坂



11月2日(日)
18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
特製オリジナル資料つき


「あの時は幸せだった」と思える時間をいくつ覚えていますか? 幸せを忘れて、ストレスや心配事ばかりに追われているのは、なぜでしょう? どうすればこの先、楽しい時間を増やしていけるのでしょうか? この講座では、人がつい幸せを忘れてしまう原因をつきとめ、楽しい時間を取り戻す「暮らしのヒント」を紹介します。少しの工夫で「万年・幸せ上手」になれるかも。まずはこの講座から。



よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
興道の里


2025・9・17



草薙龍瞬の作品紹介記事

 

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興道の里2025 
【おしらせ】
草薙龍瞬の作品紹介記事
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興道の里から

草薙龍瞬の4作品が、<読む・聞く読書ラボ>というサイトで紹介されています。

上手なライターが書いているらしく、内容の要約やPRポイントが的確です。

ただ、他の本も同じように絶賛しているので、要は宣伝のためのサイトなのだろうと思います(笑)。

本のまとめとしてよく書けている(書いてくださっている)ので、お気が向いたら読んでみてください:





怒る技法.png



2025.9・17
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とはいえ、早く


分校の工事は時間がかかっているし、その他の重たい課題もあるけれど、

とはいえ、早く移って、「子供たちと勉強したい!」という思いが沸々と湧いてきますw。

私がこの歳になって(何歳かは秘密・・にしたかったw)なお、

子供たちと同じ目線でいろんなことを学びたいと本気で思えるのは、

成績を上げるためとか、いい大学に進むためといった見栄や打算のための勉強に心が汚染されなかったことが、大きい。これ、ほんとに大。

学校に通ってしまった人(よい面もあるはずだけれど、ここでは悪い面を前提にしている)、

いい成績を維持して見栄とプライドを守り続けてきた人にとって、

勉強とは、学ぶ意味も面白さもよくわからないが、とりあえず周りがやっているから自分も合わせてやる(やらざるをえない)とか、

点数・成績という中身のない妄想を、プライドを支える実体あるものと勘違いして、意味はさておいてとにかく頑張る

ものだったように見える。

だから、大人になっても、プライドを捨てきれず、しかし学んだことの意味や、身に着けた能力を活かしきれていなかったりする。

そもそも試験でいい点数を取るという「特殊技能」と、社会で価値ある働きをするという(生産・貢献・改善)能力とは、まるで違う。

特殊技能は、試験が終われば(卒業すれば、合格すれば)、その時点で役に立たなくなる。

そういう勉強しか知らない大人が、「勉強なんて意味がない」と言いたがる。

勉強に意味がないのではなくて、もともと意味がないものしか勉強していないから、勉強が終わった後に「意味がない」という感想が残るのだ。

つまりその言葉は、自分が意味のない勉強しかしてこなかったという告白だ。
 

勉強が終わったのだから、「意味がない自分」が残ったということだ。

学校や試験という制度を根拠とした「勉強の意味」というのは、それ自体が歪(いびつ)で狭くて偏ったものでしかない。その「意味」は、本当の意味ではない。

本当の意味というのは、純粋に知ることが楽しいし、体験することが楽しいし、できたこと、できるようになることが楽しい――

そういう生き物としての知的好奇心(生存本能から来ている。動物にもある)から来る純粋な喜びだ。

この夏、十代向けの本や参考書に触れて感じたのは、「こんなに面白い、考えさせられる、心をくすぐってくれる、感動させてくれる言葉が、世の中にはあるんだ」という純粋な感動だった。

参考書そのものは、「意味のない勉強」に合わせて作られているから、その姿そのものには魅力がない。むしろゲンナリする。

だが、その中に取り上げられた、広い世界の、各分野のプロや「その道を生きている人」の言葉というのは、それ自体が無性に面白い。

こういう言葉に出会えるだけでラッキー、と思える(これ、主に国語の話をしています)。

この純粋に楽しめる感性は、私が十代の頃に育てたものだ。「意味のない勉強」から離れて、独りになって、いったん心を「漂白」して、

真っ白になった心で、純粋に楽しめる言葉を探し始めたところから、私の「意味のある勉強」が始まった。

その勉強は、本当に意味があった。ちゃんと面白さ、つまりは本質が見えていた。

だからこそ、何十年も経った今でも、その頃と同じように「面白い」と思える。

「面白い」うえに、「わかる」し、さらに自分で「足す」ことも可能になっている。「こんな書き方も可能」とか「ここからこんな展開もできる」とか。

さらには、自分がとらえた本質を発展させるような問いを作り、関連する知識や情報やテーマに「広げる」ことも可能になっている。


「やっぱり勉強って面白いなあ」と感じたその瞬間に、脳がグンと若返った気がした(笑)。これ、ほんと。

「あれ、自分、歳取らないぞ?」と感じた。ものすごく心が若い。「こんなに面白いことが、人生にはまだまだあるんだ」と思えたから。

年齢という概念を超えた境地。いわば、仏教で得た境地と、本当の勉強で得た知力が融合して生まれた、”草薙龍瞬3.0”的な心境(なんか陳腐でヤな表現だがw)。

こんなに面白いことを伝えない手はない。面白いから伝えたい。

「はよ子供たちと勉強したい」とは、そういう心境から出てきた言葉。


なお、大人のみんなも、同じ勉強を体験してもらおうと思います。同じ言葉に触れて、同じように考えて、みずからを振り返ってもらう。

他人の言葉を通して、他人の心の中やその人生に触れる。すると、自分の人生を外から見ることも少しできるようになる。

さらには、自分以外の人生に「仏教をどう活かすか」という新たな視点で思考することができる。

これまで学んだことが、「そうか、場面が変わったからわからなかったけど、仏教はこうやって活かすんだ」とわかる。

子供も大人も楽しめる。大人も同じように”通信添削”を受けてもらうことも可能w。

最初はおそらく難しすぎて、脳の血管がプチプチ切れるのを感じるかもしれない(ヤバいか笑)。それは、固まってしまった自我を一度解体する時間でもある。

そういう”プチプチ”を重ねていくと、次第に考えることが楽しくなってくるだろうと思う。

「心は歳を取らない」ということが、ふとした瞬間にわかる時が来る。

そういう面白さも見えるから、「とはいえ、早く子供たちと学びたい」という思いが出てくるのでありました。



2025・9・11
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「そういう時期」という理解


9月13日(土)の自己ベストの生き方&働き方を考える(学習会)の質問・相談内容を引き続き募集します。

サティの力を鍛えると、睡眠を一切とらなくても長期にわたり活動を維持できます(経験上1週間くらい?)。

でも肉体はそうはいかないらしく、心臓の鼓動がヘンになってきます笑(笑っていいのか?)。

来週前半は、愛知・高蔵寺と栄で講座があります。お近くの方はどうぞいらしてください。




今がつらい人へ――

つらい時期というのは、「そういう時期なのだろう」と受け止めて、日々を歩いていくほかありません。

人生には、何度かそういう「しんどい」時期が来るのでしょう。

そして、人間(他人)には期待できない、ということも、改めて思い知ることになります。

「(娑婆の現実を生きるとは)そういうものだ」ということです。

だからこそ過剰に反応せず、人に求めすぎることなく、自分にできること・必要なことを粛々淡々と進めていくのみです。

ままならない現実の中にあって、できる範囲で理解を求めて闘い続けるということです。

できることがある限りは、私も闘いを続けます(独りではありませんよ)。

この世は天国ではありません。人間とはどういう生き物かを学ぶ場所なのです。



2025・9・11



見えるプロをめざしてください


看護専門学校にて(課題講評)


すべての医療は、人間の苦しみを増やさない(減らす)ためにあります。「増やす」選択は、その時点で正しくありません。

気管挿管事例で取り上げたように、患者が死ねば、その選択は(AであれBであれ)間違っているのです。

何が正解だったか、どうすれば救えたかを、①事実の理解⇒②方法⇒③選択 の順序で検証する。

その検証するという態度こそが、「倫理的に正しかった」と言える唯一の根拠になるのです。

支持するとか反対するとか、そういう話ではありません。すべてを理解したうえでの選択だったのか。選択は患者・人間によって当然違うから、違うことを前提として、手順を追って、人それぞれの選択を促さなければならないのです。

だから、自分自身の見解を語るのはいいけれども、その根拠は何か、その根拠をどこから引いてきたのかを、きちんと明示してください。

「受け売り」(誰かが言っていた)レベルの理由は、理由になりません。権威(「○○先生が言っていた」的な)はただの妄想です。人を救えないなら、なんの実態もありません(違いますか?)。

(略)


単純に、事実(fact&evidence)がないということ。「理屈ではこうなる」と言う企業や専門家はいても、裏づける事実はないのです(あるという人がいたら、聞いてみてください)。

このことを理解しないと、前に進めません。せめて「まだ(事実は)わかっていないんだ」ということは、わかってもらう必要があります。誰が何をどのように語っていようと、です。

ひとつだけ、「倫理的に正しい」といえるかを測る目安があります。わかりますか?

それは、「苦しみを見ているか?」の一点です。

理屈・理論だけで「○○すべき」とか「〇〇したほうがいい」というのも、一部のデータだけを取り上げて安全だ、有効だというのも、間違いです。

その理屈・理論で選んだ時に、苦しみを背負う人は出てこないのか、どれくらいの割合で出てくるのか。

そのデータが正しいものと仮定して(間違っている可能性もありますが)、そのデータにもとづけば、苦しみ(副反応・後遺症・死亡・社会的影響)は、どの程度・どれくらいの割合で生じているのか?


きちんと「裏(背後)」も見ないと、正しい選択にはなりません。「全体を理解する」ということ。

裏を見ていなかったということ。今も見えていないかもしれないということ。


じつは誰も、事実と苦しみを直視していない――かもしれない。

医療・看護の現場においても。当然、学生である君たちも。


「見えない人間」が、人を救うことはできないと私自身は思います。

「見える看護師」になってほしいというのが、私個人の願いです。





2025・9・10


夏の国語キャンプによせて

<おしらせ>

9月21日(日)午後に個人相談会を開催します。ご希望の方は、公式サイトおよびカレンダーをご覧のうえ、必要事項をご連絡ください。 

◇◇◇ 

夏の国語キャンプにご参加くださった皆様、おつかれさまでした。そしてありがとうございました。

興道の里では、大人向けの仏教講座を開催してきましたが、今回は子供たち向けの初の試みとなりました。

 

遠い昔、まだ自分が何者かわからなかった頃に、いくつかの世界を渡り歩き、その間に多くの十代の若者や子供たちと出会ったことがあります。

かつての私にとっては、ただ勉強を教えるというより(そもそもそういう発想は大嫌い)、自身が高校に行かなかった空白を埋めるための時間であり、授業をきっかけに新しい知識や言葉を見つける個人的な趣味でもあり、前に進もうとしている若い人たち・子供たちへの純粋な励ましでもありました。

私は個人的に、人を応援することが大好きなのだと思います。これは性格です(出家前の)。

子供たちとのやり取りは純粋に楽しく、子供の姿を受け止めて、価値あること(生き方・学び方)や励ましの言葉を向ける仕事は、もともと人間が好きで、かなりの熱血でもある私の「性に合う」ものです。

今の私はいくつかの役割を授かっていますが、教えること、それも十代の子供たちに――というのは、もともと得意でもあり好きでもある「天職」の一つであろうと思うので、

このプロジェクト(明日を育てるプロジェクト#旅する寺子屋#国語キャンプ)は、今後も続けていこうと思っています。



子供たちと向き合うのは久しぶりで、どうなることやらと思っていましたが、個人的には、子供たちとの垣根を感じませんでした(坊さんになって完全自由な心を得てからは、やりとりの技みたいなものに、いっそう磨きがかかったかも笑)。

来てくれた子供たちは、みんな頑張ってくれたし、素直だし、一見聞いていないように見えても実はちゃんと聞いているし(すごい(笑))、元気がなさそうだった子供も終了後に挨拶に来てくれたりと、

みんながそれぞれに受け止めてくれたような気がして、「やってよかった」と感じ入りました(TへT)。


あの子たちが、揺れやすい十代という時間を、大切なことを見失うことなく、無事潜り抜けていってくれたらと願ってやみません。

親との関係や、家での時間や、学校の友だちや先生や勉強・進路のことなど、心を重くする物事を、すでに背負っている子はいるだろうし、これから背負う子も出てくるだろうと思います。

そんな時にほんのわずかな時間でいいから、会って話ができる場所や機会があれば、「心の荷物」を早めに下ろすことも可能な気がするのです。

その意味では、それこそ週に一度でも教室を開きたいくらいですが、それはかなわず・・。

今回出会った子供たちが、この先も自分らしく育ってくれることを願っています。



<旅する寺子屋・国語キャンプ>の来年以降のスケジュールは、決まり次第、公式ブログ内で告知します。


子供たち向けのこのプロジェクトは、この命の情熱が続くかぎり(まだまだ燃えております)、続けていきたいと思っています。

またお会いできれば幸いです。


みんな、元気でね!


※授業のフォロー(解説その他)をお送りしていますので、当日の参加者でメールアドレスを登録していない方は、koudounosato@gmail.com までお知らせください。

 

2025年9月1日