自己愛はひそかなブーム?

最近ひそかなブーム(?)になっているかもしれないテーマとして「自己愛」がある。

自己愛――自分の承認欲を満たすために、人・物・情報・装い・ライフスタイルと、あらゆるものを利用しようとする心の動き。

たいていは、自分の姿を人に見せようとする(自己顕示)として現れる。


なぜ自己愛を取り上げるかといえば、自己愛に満ちた親のあり方が、子供にどれほど負の影響を与えるかを痛感することが多いから。

個人的に苦い気持ちになるのは、親の自己愛を満たす道具として子供を使ってしまっている姿を目撃する時。

小さな子供の姿をSNSやメディアで公開して、子供を通して自分の価値をアピールしようとしているところが見えてしまう時。日常を単純に共有するだけなら趣味といえるが、子供に接している私を見て、褒めて、という動機が見えることがある・・。

幼い子供にとって、他人の視線は有害だと思うほうがいい。子供は小さな日常の中で安心して遊べれば、それでいい。パパ・ママが自分を見てくれていたら十分に満足。それ以上のものは、求めていない。

ところが、自己愛に染まった親は、子供ではなく、外の他人の視線や評価、いわば「世間ウケ」のほうを見てしまっている。

子供とすれば、いつの間にか自分のプライベートが、人生の大事な一部が晒されているという状況になってしまっている。ご近所自慢もSNSもテレビ取材も、子供にとって本質は変わらない。

心にとって「イヤ」だろうと思う。何がイヤって、自分のプライベートを、自分の意志におかまいなしに晒されること自体が、イヤ。「勝手に決めないでよ」と思うし、そのうち奇妙な苦々しさを感じ始める。

愛されているのではなく、親の自己愛に利用されていることが見えてくるゆえの違和感だ。


さながら、強制的に舞台の上に立たされて、パパ・ママが求める演技を強いられるようなもの。楽屋裏でやればいいことを、わざわざ衆人環視の中でやらされる。

「わたしは、パパ・ママの自己愛のエサなんだ」――そんな言葉は子供から出てこないだろうけど、起きていることは、そういうこと。

剥き出しの自己愛を一方的に振るわれる子供は、顔がひきつっていたり、こわばっていたり、無表情だったり、不機嫌そうだったり、憂鬱そうだったり、泣いていたり、リストカットしていたりしているのだが、

親はまったく気がつかない。それよりも、「どう、こんなに輝いている私?」 というところに立ってしまっている。

こういう親は、自分が子供をどれほど圧倒し、打ちのめし、奪っているかに気づかない。たとえば、子供が気を遣ってこんな言葉を言ったとして--「お母さんはすごいね」「お母さんありがとう」「お父さんにはかなわない」――その言葉を簡単に真に受ける。感動して、泣いたりする。

自己愛のカタマリだから、親を賞賛してくれる子供の言葉に瞬時に飛びつく。エサに食いつく魚のように。


この時点で、親子関係は実は破綻している。言葉の裏にある子供の思いが見えていないから。

「お母さんはすごいね」という言葉の裏には、「私のことは、どうでもいいんでしょ?」という本音が隠れていることがある。

「ありがとう」の言葉の裏に「そう言ってほしいんでしょ?」という醒めた思いがあることもある。

「親にはかなわない」という殊勝な言葉の裏には、「どうせ私は及ばないから」という自己肯定の低さが潜んでいることもある。

自己愛のカタマリと化した親には、立ち入るスキがない。本人たちは、自分がおかしなことをしているという自覚がない。しかも、ご近所・世間の評判は良かったりする。

子供は、内心うろたえ続けるほかない。

「お父さん、お母さん、私のことはどうなるの?」
「私って、結局なんなの?」

という疑問が、いつまでもつきまとうことになる。

それが、自己愛の帰結。心理的虐待の一種。



「自分キラキラ、頑張ってます」という自己愛は、止まる気配がない。だが、そんなに大事なものだろうか。「なくても生きていけるし、持たずに生きている人は大勢いる」という点で、本当は必要がないもの。卒業したっていいものではないかと思えてくる。

自己愛は、結局、周りの人たち、特に子供の心を、自分に吸い寄せる効果しか持たない。

自分は満足。だが子供の心は確実に奪われる。親の自己愛に搾取され、傷つけられる。

それでも自己愛の快楽は、あまりに甘美なものだから、人は何歳になっても、どんな立場に立っても、子供がいても、なお自分をキレイに見せる生き方を続けようとする。

子供としては、立場がない・・・だが疑問をぶつけることは、自分の足元(生活)を掘り崩すことになるから、口をつぐんで、絶対に語らない。

自己愛で限りなく突っ走る親と、そんな姿に言葉を失った子供と・・・遠い距離のまま、歳月が過ぎる。

そして、いつか破綻する。



自己愛は、厄介なものだ。いくら満たしたところで、小さな自意識の満足にしかならない。それでも麻薬のように人の心をひきつける。

自己愛を卒業できれば、小さな自意識の満足以上の喜びが入ってくるかもしれないのに。

幼い子供が信頼してくれて、優しさや気遣いを精一杯向けてくれて、いろんな表情を見せながら日々大きくなっていく。

その姿をそばで見られるだけで、十分幸せではないのだろうか。なぜ自分が必要なのだろう?


目の前の子供の優しさと成長よりも、まだ自分が他人に賞賛されることを求め続ける。

「輝いていたい」・・・それが自己愛。


自分の姿を見なければ、それだけで卒業できるものなのに。





2023年10月7日