「これまで何をして生きてきたのだろう」という人へ


おたよりありがとうございます。

全体に目を通した感想を最初にお伝えするなら、「十分に頑張ってきた(頑張らなくていいことまで頑張ってきた)ので、無理をする必要はありませんよ」というところになるかと思います。

生きるというのは、もともと単純素朴なものでよいのです。ただ働く、ただ生きる。それだけ。「事実としてとらえる(生きる)」ということかと思います。

人間以外の生き物は、おそらくそういう生き方をしています。命がかかっている過酷な環境にはあるけれども、悩んではいない。ただ生きる、ということを続けているだけです。

これは、一切の妄想から解放された仏教的な生き方とすごくよく似ています(違うのは、「仏教的な生き方」は、そうした「ただ生きる」を自覚的に選んでいるところです)。



そうした生きるの基本線に照らしてみると、本来ならいくつか理解を掘り下げてほしい部分が出てきます。

ひとつは、やはり親の影響。どういう親から、どんな影響を受けて、今の自分にどんな心のクセがあるのか。いわゆる業を自覚する(言語化する)ことです。

言語化できれば、そうした心のクセが出てくるたびに、「また出てきた」と気づくことが可能になります。気づいたうえで、妄想を切って捨てる実践に入ります。実践というのは、事実確認(ラベリング)とか、間隔を意識するとか、つつしみに帰るといった仏教的方法の基本をやることです。

※『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房




幸福とは何かが分からないということについて――幸福が分からないというより、「生きている実感がない」ということです。生きている実感を体験することが、めざすべきことです。

それには、業(心のクセ)を自覚し、妄想から抜ける実践をすることです。

つまりは、考えるよりもまずは外に出るということ。どこでもいいので「向かってみる(出かけてみる)」こと。『反応しない練習』の中では歩くだけ歩こうという話が出てきます。あのあたりの話です。

幸福というのは、本来は「ただ生きる」時間そのものを言うのです。何もしていなくても、考えなければ(妄想しなければ)その時間を幸福と表現することは可能です。というか、何もしない時間を当たり前のように過ごせることをめざすのです。

「それができないから悩んでいる」と思う人は多いと思いますが、今の自分の脳内言語(思考)の順序が真逆(あべこべ)になっていることに気づいてもらえたらと思います。

考えてもしようがないことは考えない。幸せという言葉で思考を組み立てることも、正しくない。

「幸福を感じられない」ということは、「生きている実感が持てない」という事実のことであり、そこには「心の動きを止めている原因がある」ということを理解して、「ならば本当の原因は何だろう?」と考えて、先ほど伝えた「実践」に戻る――。

それで、「考える」は完結です。それ以上に考えることは意味がありません。「これ以上考えるとしたら、それは妄想だ」と自覚する。そこまで(終了)です。
 



今の仕事が苦痛でこれ以上無理だというなら、無理する必要はないように思います。「ただ生きる」という生命線(前提)さえ確保できれば、仕事というのはなんでもよいはずなので。

「働かないとする事がない」というのは、働く理由として立派(正しい)です。人間というのは一般論として、それほど中味はなかったりするもの(それが真実)です。空っぽ。そもそも「無我」。

だからこそ、何かをして埋めていくことになります。生きるために糧を得る必要がある、だから働くというのが正解だし、それとは別に「他にすることがない」から働くというのも、立派な理由です。それでいいのです。

「それでいい」と思えないのは、妄想するからです。まだ何かを求めている(期待している)のかもしれません。

それは何なのでしょう? 誰かを見返したいのか、誰かからの期待にいまだ応えようとしているのか、それとも刷り込まれた自分の中の承認欲が働いているのか――。

そういうものは「もういい(必要ない)」と思えるようになるまで、きちんと自分の心のクセ・アタマの中(思考)をしっかり見つめて、書き出して(言語化して)、客観化するのです。

ほとんどの時間を妄想に使っているから、後になって「何をやってきたのだろう」と思うのです。ほとんどの妄想は残らないから。残る妄想は決まりきったパターン(もう何度も繰り返してきているもの)でしかないからです。



働き続けることは、正解です。場所・仕事内容は、なんでもいいのです。生きるため。あるいは、誰かの役に立つため。

役に立っているというのは、すごいこと(価値あること)なのですよ。それだけで人生を丸ごと肯定していいくらいの偉業です。

役に立てる限りは役に立って、それも難しくなったら、その時こそ自分のために、自分の時間だけを過ごす日々に入っていくのです。

生きるというのは、どんな段階にあっても価値がある、生きる意味があるものであって、それは仕事があってもなくても、身を引いた後でもまったく変わりません。不動です。

なぜなら、「ただ生きる」ということだけが、生きるという営みの本質(すべて)だからです。

だから、何歳になろうと、どんな状況にあろうと、生きること自体は肯定すべきもので、そのためにこそ無駄な妄想・負の妄想にとらわれないように心がけることが、「仏教的生き方」ということになります。

それはこれからもできるのではないでしょうか。


2026年6月


後悔しない選択を


人生の最終ゴールは、「これでよかった」「この人生が最良」と思えること。

それは完璧な人生を生きることではありません。生きることは不確実な出来事の連続だから、望まないことにも遭遇します。

望まない相手、たとえば人間や事故や病気にも出会います。

そのうえ自分自身もけっこう弱くて、危(あや)うかったりします。遭遇する出来事に過剰反応したり、引きずってしまったり、だらしなく過ごしてしまったり。

スイスイと順調に進むことのほうが少なくて、進み始めた途端に衝突したり故障したりと、まあほんとに「うまくいかない」ことのほうが多いものです。

生きるというのは、きっとこうしたつまずきや妨げに満ちているもの。ガラクタの中を進んでいくようなもので、進む自分もまた期待するほど上等ではなかったりします。不器用でどこか抜けてしまっているかのような。



それが出発点だとして、ではどんな心がまえで日々を過ごせば、最も望ましい未来にたどり着けるかと言えば、それは、

後悔しない選択をする――ことのような気がします。

「あとで後悔しない」ような過ごし方をすること。

後になって、「あの時もっとやっておけばよかったな」とか「もっとできたはずだよな」と思わないように過ごすこと。

「今を正しく過ごせているか」を自分に訊くようにすること。

もしあまりいい時間の過ごし方ができていなくて、過去に遭遇した相手や出来事を引きずっていたり、弱い自分に流されていたりした時は、

「今の自分をこのまま続けていたら、どうなる?」と想像してみること。

正しく過ごせていない今をそのまま繰り返しても、やっぱりその未来には正しく過ごせていない今がやってくる。

しかもずっと正しく過ごせていない自分が続いているのだから、どこまで行っても、自信が持てない。胸を張れない。「これでいい」という納得にはたどり着けない。

だから、今の自分はいい状態じゃない、今を正しく過ごせていないと感じるなら、どこかで必ず「今を断ち切る」必要が出てきます。

断ち切って、やり直す。もう一度イチから始める――というのが、唯一の正解。

その一本の道筋を邪魔してくるものが、外で遭遇する出来事(人間も含む)と自分自身の弱さ。

これらのつまずきは、きっとこれからも続く。まったく邪魔されずに万事がスイスイ快調に進むということは、そもそもない。

だから人生は、「やり直す」と「遭遇したくない出来事」とのせめぎあい。

負けることもある。でもやり直す。

負けが混む(続く)こともある。でもやり直す。

それが、あとで後悔しない自分を作る。

「あとで後悔しない自分」と「やり直す」は、イコール。

「あとで後悔しないか?」と自分に訊いて、「このままでは後悔しそうだ」と感じたら、「もう一度やり直す(やり直そう)」と考える。

こうした考え方を続けることで、次第に人生という名の道はまっすぐになっていく。つまずきが減っていく。後で後悔しない未来に近づいていける。


一歩踏み出す勇気


静謐平穏な日々が続いています。


その一方で、今の時代は、人間の狂気・野蛮にいつ遭遇するかわからないし、


時代はいつの間にか、個人の静謐平穏や志というものを、そのままにしておいてはくれなくて、つねに情報として利用し、晒して、評価や判断という名の暴力を押しつける社会に変わり果てているので、

そうした社会にあって、「世にあって世に染まらず」という一線をどのように保つのか、いやはたして保てるのかというところを、今切実に「悩んで」います^^;)。



これも一つのグローバリズム――アメリカ発の巨大テック産業が繰り出す商品・サービス・情報環境(SNSや生成AI含む)によって、

人間のすべてが数値化され商品化され評価され消費される暴力的な世界。

情報を取れれば、お金になれば、何をやっても、言ってもいいという暴論的な世界。

そういう世界に、いつの間にか包囲されてしまっていることに気づいてしまった今日この頃です。



本当は何もしないほうが安全でいられる。ひっそりと歳を重ねていくだけで十分だと思うのだけれど。

ただそれは、新たなものを創り出してきた自分の人生そのものを放擲することにほかならず、

もし取り巻く環境がもっとまとも・真っ当であれば、なんの心配もためらいもなく、新たな挑戦・創造に挑めるであろうにと思いつつ、

でもそんな真っ当な世界は未来永劫こない――もはや完全に失われてしまった(かつて一度でもあったのかどうかは知らないけれど)だろうから、

この殺伐とした暴力的な世界の中を泳いでいくほかなく、



泳ぎながら、自分の心がおもむくことは、やはりこの世界において価値あるものを、というところだから、

だからこそ、個人的な価値あるものの創造をという志と、真っ当さを失ったこの無節操で残酷で暴力的な世界とが真っ向からぶつかってしまって、

今のところ「泳ぎにくい」という心境にたどり着いています。


この先、このぬかるみのような状況をどのように潜(くぐ)っていくのか、そのあたりに答えを出せる智慧を発揮していくことになるのだろうけれど、

智慧といっても現実に妥協迎合することとあまり変わらないように思う(この命の本質はあくまで静謐と清澄にあるから)のだけれど、

それでもやはり泳いでいかねばならないだろうから(何もしないという静謐は、この命の根底にある慈悲がヨシとしない――苦労している人はいつの時代もいるだろうから)、

なんとか智慧を働かせて、泳ぎだすための心がまえみたいなものを確立せねばと思っています。


一歩踏み出す勇気、になってくれそうな智慧が必要です。


外は台風前夜の小降りの雨が続いています。こういう時間がいとおしい命です。



2026年6月初旬