親にできること、しなければならないこと


親の務めとは何だろう?

間違いのない根本を整理していこう。

まずは、子どもの人生を後ろから見守ること。

子供が幼い頃であれば、なるべく同じ視線、同じ位置に立って、子供と同じものを見よう、体験しようと心がけること。

もちろん外に対しては親が守る側であり、また子供が幼いほど子供が先に回って受け止めてあげることも必要なのだけれど、

それは子供が成長するにつれて必要がなくなっていく。

子供が大人になっても親として通用するあり方というのは、やはり後ろに立って見守ることであり、同じ位置に立って楽しむことであり、ときに背中を押してあげることだ。

いずれにしても、後ろに立つことが根本になる。

子どもの未来(可能性)を信じるという選択も、後ろに回れば可能になる。「大丈夫、なんとかなる、できる」と。

その時は親も未来を見ているから、自分の物事して一緒に頑張ろうとも思える。親の側にも、子どもの未来を信じようという熱量が出てくる。


難しくなるのは、子供が「歩かなくなった」時だ。

勉強につまずいたとか、学校に行かなくなったとか、ゲームやネットに依存して時間を溶かし始めたとか。

この時期が難しいのは、親の言葉(叱咤・説教)が通用しなくなるからだ。体も大きくなって、体力的にも通用しなくなってくる。

そのうえ理屈も言えるようになる。子供の側の打算計算、ずるさ、甘さ、逃げ、弱さというものを、子供は正当化できるようになる。正当化しようとする。

たとえば「こうなったのは親のせいだ」とか「どうせ学校に行っても勉強ができない」とか、先生が嫌い、友だちが嫌いなどと、あらゆる自己正当化の理屈を繰り出してくることがある。

こうした時、親としては単純に「言っている言葉の意味はわかる」(といったん聞いている姿勢を示す)が、

「そんなことを言っても始まらない」と返すだけでいいのだ。

そうやって返すことで、これは子供自身の選択の問題なのだという状況に戻す。

親はあくまで後ろに回って、一時的に子供であるその人の自立を後押しするだけの役目だから、

「これはおまえ(自分自身)の問題なんだよ」という立場は、どんな状況であれ崩してはいけない。

子供によっては「死ぬしかない」なんて言葉を言うこともある(流行っているらしい。どこで聞いてきたのか知らないが)。

見きわめなければならないことは、その言葉が、学校でのいじめやなにか外の世界で苦しめられて出てきているのか、

単純に親をコントロールするために、脅しとして、あるいは別の利益を引き出すエサとして言っているかだ。

冷静に考えてみると、ある程度自立した子供であれば、外の世界で起きていることをあまり親に語ろうとしないものだ。親に心配かけたくないとか、言ってもわかってもらえないだろうと考えて、口をつぐむことが少なくない。

「死ぬしかない」という言葉を簡単に言ってしまえる時点で、もしかしたら甘えや逃げが潜んでいるかもしれないということだ。怠惰と遊びに流されて、そうした自分を正当化するため、親からお金や食べものを引き出すために、さながら銀行の暗証番号のように「死ぬしかない」と言っているかもしれないのだ。

「死ぬしかない」などという言葉は、そもそも言うことがおかしい、言っては絶対にいけない言葉の一つなのだ。だから親は、こう伝えることになるだろう。真顔でだ。

「本当に死ぬしかないようなことが外で起きているなら、伝えてほしい。親として全力で守るから」

(あるのかないのかを確かめる)

「もし口先だけで言ったのなら、二度と言うな。おまえがいなくなることで周りの人間がどれほど傷つくか。どれほど卑怯な言葉か、わからないのか?」

安易に死ぬと言うこと自体が、親をバカにすることになる。こうした言葉をたやすく語っている様子が見えたら、真剣に怒って見せないといけない。本当は許してはいけない言葉だ。「人を殺す」も「自分を殺す」も同じことだ。


子供が親から学べる最大のことは、自分がこう言えば、これをやれば、親はこう反応してくるということを体験することだ。

親の反応を見て、これを言えば、やれば怒ってくる、悲しむ、傷つくということを体験する。そうした体験が子供の人格を作る。

心はラクをしたがるものだ。ずる賢いし弱いし醜い。抜け出す努力よりも、そんな状態を正当化することを心は選びたがる。ラクだから。

ラクしている自分を正当化するために、いろんなことを言うし、やってくるだろう。

その時に親がどう反応するかで、その先が決まる。

親がただアタフタとあわてたり、はぐらかしたり、子供の機嫌をうかがったり、子供の要求を受け入れて言われるがままに行動したりすれば、

子供は、自分の甘えたっぷりの理屈がそのまま通用することを体験してしまう。「なんだ、こう言えば、これをやってみせれば、この人は簡単に言うことを聞くのだ」と学習してしまうのだ。

こうなると、子供にとって「家の中に自分しかいない」状態になる。親・他者がいなくなる。自分の甘え、わがまま、弱さ、逃げ、打算計算だけが残る。そうして閉じこもり始める。親がいても自閉するのだ。自分の都合しか見えなくなる。

みずからの心に振り回され始めた子供に、親はどう向き合うか。反応して見せないといけない。きちんと子供の後ろに立つという根本を守ったうえでの反応だ。


こうした親と子の葛藤(心理的衝突とでも呼べる関係性)が最も出てくるのが、子供が13歳頃から15歳くらいの間。この期間は、いわば子供にとっても、親にとっても「嵐」の中にいるようなものだ。

子供は自分のことがわからない。急速に肥大し始めた自意識と肉体の成長に翻弄され始める。

親としても、制御しきれなくなった子供を持て余す、というか、ただ困惑するしかなくなってくる。

だが生き物としてみれば、この時期の混乱はやがて収まってくる。結局、「後ろから見守る」という立場を崩す必要はない。「いずれ落ち着く」という前提で「耐える(待つ)」ことになる。

ただし、この期間中にどんな衝突が起ころうとも、子供の甘えや逃げや駆け引き(計算)に翻弄されることはあってはいけない。

子供がみずからの成長過程で巻き込まれる「嵐」の外に出て、その先にまもなく来る子供の自立に準備する必要がある。

衝突については、嵐の外に出ること。

休みについては、十分に休ませつつも、近い将来の自立を見すえて待機しておくこと。

休みについて――学校のいじめ、初めて体験する人間関係ゆえの苦痛、受験・勉強のつまずきその他で、子供に休息が必要な時期はある。

それは必要な回復期間だから、休ませてあげることだ。休むべき時はしっかり休む。まずは1か月、3か月、半年、1年・・・2年くらいは、休む必要がある子供もいなくはない。このあたりは「経過観察」していくことになる。ちゃんと休めているかを見守ることになる。

この期間中に親が焦ると回復が遅れることがある。親が期待や思惑をもって邪魔してしまうことで、子供に新たなストレスが生まれてしまうからだ。これでは休めない。


とはいえ、いつまでも回復期間というのもおかしい。回復のプロセスにあるかどうかを見極める必要がある。

たとえば、
◯寝る時間はちゃんと寝る(寝るだけにする)。スマホやゲームを使わせない。
◯ご飯は決まった時間に食べる。部屋ではなく、家族がいるダイニングで(場所を変えることで生活にメリハリをつける)。
◯買いたいものあるなら自分で買いに行かせる(とにかく家だけに居続けることをヨシとしない)。
◯自分のことは自分でやらせる。親と子供の間に最低限の境界線を引く。
◯無制限にお金を渡さない。休むべき期間に過剰な遊びを持ち込みすぎない(動画やゲームなど。これらは依存につながりやすい)

といったことを守る。

新しい体験は外に行かないとなかなか手に入らない。体験こそが興味や意欲を刺激するから、体験すること自体は応援していい。

だから、外に出かけるならお小遣いを渡すという立場を選ぶ。目的を聞いて、渡す時は信頼して渡す。「楽しんでおいで」というくらいの気持ちで送り出す。

家にいるなら、寝る時間と食べ物は用意するが、それ以外のものは慎重に与えるという方針を立てる。ゲームや動画ならリビングで見るとか、決まった時刻が過ぎたらWiFiを遮断するとか(文句を言ってきたら、「だったらバイトして自分で買って」と突き放す)。


タイムリミットを親の側で決めておくことも大切なことだ。休む時は休んでいいのだが、いつまでも休んでばかりはいられないという冷静な目も親の側で持っておくこと。

というのも休んだ心と体を回復させるには、相応の時間が必要になる。休んだ時間が長ければ長いほど、回復期間は必要になる。これは入院時のリハビリと同じ。

ある程度逆算して、いつからリハビリを始めるのかという作戦が必要になる。

中学・高校に当たる期間は、ある程度の自由(休み、遊び、逸脱)はアリだ。だが高校を出るくらいの年齢になれば、社会に出るための最初の入り口に立っておくほうがいい(さらに遅れることも事情次第ではありかと思うけれども、それでも「この時期にはこれくらいのところまで進んでおくべき」という目安はある)。

大学でも専門学校でもバイトでも就職でもいいのだけれど、高校を卒業するくらいの年齢には、家以外に居場所を見つける必要がある。自立への最終段階。親として後押しができる、いわば親の最後の務めだ。

仮にそれが大学進学であるとするなら、大学に進むための準備が必要になる。リハビリをして、準備を始めるというのは、心身アタマとも相当弱くなっているから、最初は大変だ。勉強といっても手がつかない。頭が回らない。だけれどそこでまた休みに入ったら、いつまでも回復できない。

「今が一番しんどい時期」ということを、親も子供もわかっておく必要がある。できれば家以外のどこかに通う、親以外の大人とか関わることが最善だ。

リハビリして、社会に出るための入口に立つには、やはり3年くらいの準備期間が必要かもしれない。まずは心と体の回復。頭を使うことに慣れる練習。基礎的な読む・書く・覚えるという作業を継続してやる訓練。これを1年くらい。

大学をめざすというなら、大学に行くための準備、いわゆる試験対策に2年くらいは残っているほうがいい。

2年のうちの1年は、受験に必要な範囲(科目)を一通り回す時期。できれば模試も受けてみて、失敗・試行錯誤を体験しておくほうがいい。

そして最後の1年は本気で頑張る。それまでの準備期間が1年、2年とあれば、最後の1年でかなり成長できる。

私が個人的に、中学生くらいの子供に「まだ焦らなくて大丈夫」と伝えるのは、こうした見通しがあるからだ。社会に出るための訓練(頭を鍛える練習)は、まだ後でなんとでもある。

つまり余裕を見て3年。前に進む(進学)という目標を達成するための準備期間として2年。

そこから逆算して、「今はどんな状況か」を見る。言い方を変えれば、「今この状況から2年または3年後に、社会への入り口に立っていることが必要になる」という発想を、親の側が持っている必要がある。


「そろそろ準備を始めない?」という働きかけをすべき時期は来る。タイミング。

ここは、真面目に話をすることだ。「大事なことだから聞いてくれる?」と伝えること。

この先をどう生きていくか。

人間は必ず年を取る。子供も近いうちに一人で生きていくことになる。

今が親として何かができる最後の期間。

「この期間を過ぎたら、もう親は何もできないよ」と「宣告」することが必要になる。

いずれは子供を置いて、自分は離れていかねばならない。老いていく。ほぼ確実に親より先に死ぬ。そう伝えること。

そして子供が何を言ってこようが、どんな理屈で責めてこようが、

「言っている言葉の意味はわかるし、気持ちは受け止めるけれど、これはあなたの人生のことだから。あなたが自分の力でなんとかしないといけないことだから」

と言って突き放す。


いずれ、本当の勝負処はやってきます。

親としては、子供の自立への大きな地図を心の中に持っておいて、今どのあたりを歩いているのか、冷静に見守ることかと思います。
 
 
 
 
 

できることは残されている

 

かつて肉親であった人たちのこと、詳しくお聞かせいただきました。

◯親については、「それ以降会っていない」ということですから、すでに終わった人間です。もし今なお影響を受けているとしたら、自分自身の執着です。

本当は、妄想の残り滓だと割り切って、思い出さないくらいに遠い過去にしてしまうこと一択です。


なりたかった職業というのも、今となっては妄想に過ぎません。別の役割を果たしなさい、別の人生を生きなさいというメッセージなのです。

逃げグセなどの影響が残っていることは、よくあります。そうした「呪い」のような負の影響から全力で脱出することが、人生の第一の課題です。


いずれの親からの影響が強いかについては、

自分の執着がどちらの人間に対してより強いかによって決まります。

自分が覚えている人間の姿というのは、必ず影響を受けています(完全に忘れることが一番正しい方向性である所以=理由です)。

が、怒りであれ、わかり合いたいといった未練であれ、その人間を脳裏で追いかけているという状態そのものが、執着に当たるのです。

怒りといっても、もう「終わった」はずなのだから、それを引きずっているのは、自分自身の執着でしかありません。その執着を切除すれば、解決します。


喩えるなら、あなたは負の影響を受けて「風邪を引いている」状態なのかもしれません。

執着をすれば、伝播(感染)する。意味がありません。「意味がない」と自覚したところから、心に刷り込まれた負の影響との「闘い」が始まるのです。

人は気づかないうちに、親だった人間そのものになってしまっているものです。


抜け出すための努力だけを、どれだけ積み重ねるか。それだけが唯一、考える価値のあることです。


大抵の場合、「もっとまともな、マシな人生(を生きたかった)」というのは、貪欲、つまり都合の良い妄想だったりします。

正しい思考は、「本気で願うなら、まずは自分の足元を掘り起こせよ」ということになります。

人間はただでさえ欠落や弱さだらけなのだから、不満を感じた場合は、ほぼ百%の確率で、まだ自分の側でやっていないこと、まだできることがあるものです。

できることを数えれば百でも千でも見つかるだろうけど、それを追いかけるとまた都合の良い妄想(貪欲)になってしまうから、「まずは一つできることをやる」ことになります。小さなプラスを重ねて(増やして)いく。

まともな人生を生きようと願うなら、本当は、それしかないのです。


執着にとらわれた人(心の状態という意味ですが)は、とらわれた心を通して世界を見るから、出口が見えない。心が動かない。壊れているとも言えるし、固まっている、凍っているとも言えます。

ただ、それは執着にまみれた心を通してしか見えないから(ごく自然なこと)です。わかりますか? 

その心の中にある原因さえ取り除けば、壊れていたと感じていた心は治るし、動き出すものです。

「生まれ変わった」という実感は、単純に、心を支配していた過去などの執着がなくなった時に、自然な感想として出てくるものです。


仕事は変えてもいいのですが、心が変わらなければ、どこにいても、何をしても、感じることは同じままです。それは確か。

ただ、仕事をしない、何もしない、という選択は、正しい治療法(選択)にはなりません。原因は、仕事や外で出会う人たちではなく、自分の心の中にあるからです。


ひとつお勧めします。この手紙を読んだら、何も考えずに、理由を探さずに、財布だけ持って外に出てください(携帯は置いていくほうがよいです。財布は何か買いたくなったとき用w)。

「心の声に耳を貸さない」ことも、すごく大事な意味を持ちます。まずはいったん外を歩いてみること。

できるでしょうか。

 

 2025年6月

 

 

 親からの負の影響を脱出するには

 

 

 

「これまで何をして生きてきたのだろう」という人へ


おたよりありがとうございます。

全体に目を通した感想を最初にお伝えするなら、「十分に頑張ってきた(頑張らなくていいことまで頑張ってきた)ので、無理をする必要はありませんよ」というところになるかと思います。

生きるというのは、もともと単純素朴なものでよいのです。ただ働く、ただ生きる。それだけ。「事実としてとらえる(生きる)」ということかと思います。

人間以外の生き物は、おそらくそういう生き方をしています。命がかかっている過酷な環境にはあるけれども、悩んではいない。ただ生きる、ということを続けているだけです。

これは、一切の妄想から解放された仏教的な生き方とすごくよく似ています(違うのは、「仏教的な生き方」は、そうした「ただ生きる」を自覚的に選んでいるところです)。



そうした生きるの基本線に照らしてみると、本来ならいくつか理解を掘り下げてほしい部分が出てきます。

ひとつは、やはり親の影響。どういう親から、どんな影響を受けて、今の自分にどんな心のクセがあるのか。いわゆる業を自覚する(言語化する)ことです。

言語化できれば、そうした心のクセが出てくるたびに、「また出てきた」と気づくことが可能になります。気づいたうえで、妄想を切って捨てる実践に入ります。実践というのは、事実確認(ラベリング)とか、間隔を意識するとか、つつしみに帰るといった仏教的方法の基本をやることです。

※『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房




幸福とは何かが分からないということについて――幸福が分からないというより、「生きている実感がない」ということです。生きている実感を体験することが、めざすべきことです。

それには、業(心のクセ)を自覚し、妄想から抜ける実践をすることです。

つまりは、考えるよりもまずは外に出るということ。どこでもいいので「向かってみる(出かけてみる)」こと。『反応しない練習』の中では歩くだけ歩こうという話が出てきます。あのあたりの話です。

幸福というのは、本来は「ただ生きる」時間そのものを言うのです。何もしていなくても、考えなければ(妄想しなければ)その時間を幸福と表現することは可能です。というか、何もしない時間を当たり前のように過ごせることをめざすのです。

「それができないから悩んでいる」と思う人は多いと思いますが、今の自分の脳内言語(思考)の順序が真逆(あべこべ)になっていることに気づいてもらえたらと思います。

考えてもしようがないことは考えない。幸せという言葉で思考を組み立てることも、正しくない。

「幸福を感じられない」ということは、「生きている実感が持てない」という事実のことであり、そこには「心の動きを止めている原因がある」ということを理解して、「ならば本当の原因は何だろう?」と考えて、先ほど伝えた「実践」に戻る――。

それで、「考える」は完結です。それ以上に考えることは意味がありません。「これ以上考えるとしたら、それは妄想だ」と自覚する。そこまで(終了)です。
 



今の仕事が苦痛でこれ以上無理だというなら、無理する必要はないように思います。「ただ生きる」という生命線(前提)さえ確保できれば、仕事というのはなんでもよいはずなので。

「働かないとする事がない」というのは、働く理由として立派(正しい)です。人間というのは一般論として、それほど中味はなかったりするもの(それが真実)です。空っぽ。そもそも「無我」。

だからこそ、何かをして埋めていくことになります。生きるために糧を得る必要がある、だから働くというのが正解だし、それとは別に「他にすることがない」から働くというのも、立派な理由です。それでいいのです。

「それでいい」と思えないのは、妄想するからです。まだ何かを求めている(期待している)のかもしれません。

それは何なのでしょう? 誰かを見返したいのか、誰かからの期待にいまだ応えようとしているのか、それとも刷り込まれた自分の中の承認欲が働いているのか――。

そういうものは「もういい(必要ない)」と思えるようになるまで、きちんと自分の心のクセ・アタマの中(思考)をしっかり見つめて、書き出して(言語化して)、客観化するのです。

ほとんどの時間を妄想に使っているから、後になって「何をやってきたのだろう」と思うのです。ほとんどの妄想は残らないから。残る妄想は決まりきったパターン(もう何度も繰り返してきているもの)でしかないからです。



働き続けることは、正解です。場所・仕事内容は、なんでもいいのです。生きるため。あるいは、誰かの役に立つため。

役に立っているというのは、すごいこと(価値あること)なのですよ。それだけで人生を丸ごと肯定していいくらいの偉業です。

役に立てる限りは役に立って、それも難しくなったら、その時こそ自分のために、自分の時間だけを過ごす日々に入っていくのです。

生きるというのは、どんな段階にあっても価値がある、生きる意味があるものであって、それは仕事があってもなくても、身を引いた後でもまったく変わりません。不動です。

なぜなら、「ただ生きる」ということだけが、生きるという営みの本質(すべて)だからです。

だから、何歳になろうと、どんな状況にあろうと、生きること自体は肯定すべきもので、そのためにこそ無駄な妄想・負の妄想にとらわれないように心がけることが、「仏教的生き方」ということになります。

それはこれからもできるのではないでしょうか。


2026年6月


後悔しない選択を


人生の最終ゴールは、「これでよかった」「この人生が最良」と思えること。

それは完璧な人生を生きることではありません。生きることは不確実な出来事の連続だから、望まないことにも遭遇します。

望まない相手、たとえば人間や事故や病気にも出会います。

そのうえ自分自身もけっこう弱くて、危(あや)うかったりします。遭遇する出来事に過剰反応したり、引きずってしまったり、だらしなく過ごしてしまったり。

スイスイと順調に進むことのほうが少なくて、進み始めた途端に衝突したり故障したりと、まあほんとに「うまくいかない」ことのほうが多いものです。

生きるというのは、きっとこうしたつまずきや妨げに満ちているもの。ガラクタの中を進んでいくようなもので、進む自分もまた期待するほど上等ではなかったりします。不器用でどこか抜けてしまっているかのような。



それが出発点だとして、ではどんな心がまえで日々を過ごせば、最も望ましい未来にたどり着けるかと言えば、それは、

後悔しない選択をする――ことのような気がします。

「あとで後悔しない」ような過ごし方をすること。

後になって、「あの時もっとやっておけばよかったな」とか「もっとできたはずだよな」と思わないように過ごすこと。

「今を正しく過ごせているか」を自分に訊くようにすること。

もしあまりいい時間の過ごし方ができていなくて、過去に遭遇した相手や出来事を引きずっていたり、弱い自分に流されていたりした時は、

「今の自分をこのまま続けていたら、どうなる?」と想像してみること。

正しく過ごせていない今をそのまま繰り返しても、やっぱりその未来には正しく過ごせていない今がやってくる。

しかもずっと正しく過ごせていない自分が続いているのだから、どこまで行っても、自信が持てない。胸を張れない。「これでいい」という納得にはたどり着けない。

だから、今の自分はいい状態じゃない、今を正しく過ごせていないと感じるなら、どこかで必ず「今を断ち切る」必要が出てきます。

断ち切って、やり直す。もう一度イチから始める――というのが、唯一の正解。

その一本の道筋を邪魔してくるものが、外で遭遇する出来事(人間も含む)と自分自身の弱さ。

これらのつまずきは、きっとこれからも続く。まったく邪魔されずに万事がスイスイ快調に進むということは、そもそもない。

だから人生は、「やり直す」と「遭遇したくない出来事」とのせめぎあい。

負けることもある。でもやり直す。

負けが混む(続く)こともある。でもやり直す。

それが、あとで後悔しない自分を作る。

「あとで後悔しない自分」と「やり直す」は、イコール。

「あとで後悔しないか?」と自分に訊いて、「このままでは後悔しそうだ」と感じたら、「もう一度やり直す(やり直そう)」と考える。

こうした考え方を続けることで、次第に人生という名の道はまっすぐになっていく。つまずきが減っていく。後で後悔しない未来に近づいていける。


一歩踏み出す勇気


静謐平穏な日々が続いています。


その一方で、今の時代は、人間の狂気・野蛮にいつ遭遇するかわからないし、


時代はいつの間にか、個人の静謐平穏や志というものを、そのままにしておいてはくれなくて、つねに情報として利用し、晒して、評価や判断という名の暴力を押しつける社会に変わり果てているので、

そうした社会にあって、「世にあって世に染まらず」という一線をどのように保つのか、いやはたして保てるのかというところを、今切実に「悩んで」います^^;)。



これも一つのグローバリズム――アメリカ発の巨大テック産業が繰り出す商品・サービス・情報環境(SNSや生成AI含む)によって、

人間のすべてが数値化され商品化され評価され消費される暴力的な世界。

情報を取れれば、お金になれば、何をやっても、言ってもいいという暴論的な世界。

そういう世界に、いつの間にか包囲されてしまっていることに気づいてしまった今日この頃です。



本当は何もしないほうが安全でいられる。ひっそりと歳を重ねていくだけで十分だと思うのだけれど。

ただそれは、新たなものを創り出してきた自分の人生そのものを放擲することにほかならず、

もし取り巻く環境がもっとまとも・真っ当であれば、なんの心配もためらいもなく、新たな挑戦・創造に挑めるであろうにと思いつつ、

でもそんな真っ当な世界は未来永劫こない――もはや完全に失われてしまった(かつて一度でもあったのかどうかは知らないけれど)だろうから、

この殺伐とした暴力的な世界の中を泳いでいくほかなく、



泳ぎながら、自分の心がおもむくことは、やはりこの世界において価値あるものを、というところだから、

だからこそ、個人的な価値あるものの創造をという志と、真っ当さを失ったこの無節操で残酷で暴力的な世界とが真っ向からぶつかってしまって、

今のところ「泳ぎにくい」という心境にたどり着いています。


この先、このぬかるみのような状況をどのように潜(くぐ)っていくのか、そのあたりに答えを出せる智慧を発揮していくことになるのだろうけれど、

智慧といっても現実に妥協迎合することとあまり変わらないように思う(この命の本質はあくまで静謐と清澄にあるから)のだけれど、

それでもやはり泳いでいかねばならないだろうから(何もしないという静謐は、この命の根底にある慈悲がヨシとしない――苦労している人はいつの時代もいるだろうから)、

なんとか智慧を働かせて、泳ぎだすための心がまえみたいなものを確立せねばと思っています。


一歩踏み出す勇気、になってくれそうな智慧が必要です。


外は台風前夜の小降りの雨が続いています。こういう時間がいとおしい命です。



2026年6月初旬