最近よく耳にするようになった「老害」という言葉。
真実を伝えている部分もあるし、危ういレッテルにすぎない部分もあるというのが、個人的な印象です。
真実についていえば、たしかに歳を重ねると体力、気力、健康のみならず、認知能力(理解力・思考力などの知的能力も含む)も衰えていく事実は、否めないかもしれません。
それまで自分の心と体ひとつでできたことが、次第にできなくなってくる。
「できる」ことを前提とする社会における活動や労働については、たしかに「生産性」は落ちるのかもしれません。
ただ、それは老いという自然現象であって、人間だれもが平等です。
老いることがいけないこと、価値がないという判断は、「自分もまた老いゆく生命」である以上、だれも下す資格はありません。
個人レベルの発想として持つことは自由だとしても、社会に発する言葉としては意味がないということです。
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こうした判断が意味を持たない理由は、他にもあります:
1)かつては老いれば生き延びる力を失い、静かに消えていったり、それこそ「姥捨て」されたりしていました。「仕方ない」として受け入れる。そういう社会もありました。
でも次第に社会が、物質的にも精神的にも豊かになって、それこそ老いた人、貧しいとされる人、「できる」ことが大多数の人に比べて少ない人も含めて、「大事にしよう」と考えるようになり、実現されるようにもなった――それが、今の社会です。
人間の尊厳であり、生存権であり、人格権であり、幸福を追求する権利。
それを具体化する数々の制度。
これらは、ひとつの社会が、長い歳月をかけてたどり着いた共通の理念であり価値なのです。
物理的に、確実に、奪われる人間・苦しめられる人間の数が増えます。
苦しみの数が増える――これは、社会にとっては後退・悪化であり、前進・改善ではありません。
自分(あなた)は、苦しめられたいと思いますか? 奪われたいでしょうか?
「思わない」なら、自分にとって価値はありません。思わない自分が生きる社会にとっても、当然、価値を持ちません。
人はみな生きたいと思う。
幸せになりたいと願う。
誰もが大切にされたいと願っている。
ならば、
その思いが尊重される社会をめざすことが、尊重されたいと願う個人(あなた自身)にとっての価値であり正解です。
幸せに生きたい・尊重されたいという個人の思いを無視したり蹂躙したり奪ったりすることは、「そうでもしなければ全滅してしまう」というような極限の状況でもない限り、許容すべきではありません。
言うまでもなく、今の社会は、そうした極限の状況にはありません。
つまり今の社会にあっては、老いを含む、人の属性を理由とした差別や排除を肯定しようという思想は、必要がないのです。
2)もっとも、「老害」と言いたくなるような、社会に共通する問題が存在することも事実です。
ですが、こうした問題については、社会においては「制度」を通じて解決していくことになります。
※たとえば、高齢になった人が交通事故を起こすという問題については、「免許制度」の変更によって解決するのが筋です。免許更新の頻度を増やすか、年齢制限を加えるか。いま開発が進んでいる自動運転技術も、解決策の一つ。「老害」とレッテルを貼ったところで、何も解決しないことは明らかです。
社会保障に膨大なお金がかかるというのも、改善すべきは制度です。医療費一つにしても、貯蓄額や収入に応じてスライドするとか、医療制度の無駄や過剰を削減するなど、本気で探せば、方法はたくさんあるはず。「高齢者多すぎ」と言ったところで、改善にはなりません。
社会を改善する唯一にして確実な方法は、制度を変えることなのです。
そうした方向で考えることなく「老害」とレッテルを貼る――これが「論理的に間違い」であることは、明らかです。必要がなく、役に立たない。
つまりは個人の「妄想」止まりということです。
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「老害」は、価値のないレッテル貼り。これに対して、本当に価値があるのは、「制度」を具体的に話し合う(議論する)ことです。
問題を理解し、改善策を数多く考え、最終的に制度を変えること。
それが、現場・行政・学問に携わる人たちの仕事ということになります。
ちなみに、価値のある話し合い(議論)には、
➀共通の目標と、
②共有する事実認識(問題点や事実の把握)と、
③「方法」こそを話し合うのだという共通の認識と、
④最終的な意思決定の方法
が必要です。そのための場所が、国会や地方議会。ただし、これらの要素がそろった「建設的な議論」である必要があります。
具体的に制度を変えるための議論には、これだけの条件(➀から④)が必要なのです。
となると、「自分はこう思う」という個人の見解や、マスメディアやSNS上で語られるコメントは、社会を改善するという目標においては、まだ力を持ちません。
個人の感想や意見をいくら放っても、またSNS上でぶつけ合っても、社会を変えるには至らないのです。まるで雲をつかもうとしてジャンプするようなものです。
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個人の思いを発することは、会話・交流としては意味を持ちます。共感できれば楽しいものだし、そうでなくても「いろんな見方があるんだな」と学ぶことが可能です。
しかし「制度」を考えなければいけない職業人、つまり政治・行政・学問に従事する人たちが、「自分はこう思う」程度の意見や感想を語っても、本来の仕事にはなりません。
彼らは「個人の思いつきで終わらない人たち」でなければいけないのです。
ところが、そうした役割を果たすべき人たち――具体的な制度を語れる人(学者・知識人・評論家・メディア)が少ない。これが日本社会が変わらない理由の一つのように思います。
社会を変える道筋とは――
まずは、現場を知る人たち(現場で活動する人や団体・行政職員・学者など)が、問題を把握し、改善するための「制度」を提案する(※きっと多くの人が思いつくのは、フランスの経済学者トマ・ピケティ)。
次に求められる役割は、行動につなげる人たち――たとえば、制度案をわかりやすく世に伝える人(これぞ本当のインフルエンサー)とか、有権者の支持を得るための働きかけができる人(政治家)とか、最終的な意思決定に参加する人(議員)とか、実際に施行・対応する人(行政職員)とか・・・
こうした人たちがそろって初めて、制度が変わり、社会が変わるのだろうと思います。
社会が変わらないのは、当たり前といえば当たり前です。変わるための条件を何も満たしていないのだから。
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こうした真相をふまえたうえで、「老害」という言葉の意味を考えてみると?
「老害」という言葉を語れば、鬱憤晴らしになるのかもしれない。人によっては、「そうか、高齢者を排除すれば、社会は改善されるんだ」と期待してしまうのかもしれない。けれど、
現実には、ほぼ確実に「何一つ変わらない社会」が残ります。
なぜかといえば、「制度」を変えようという発想がないから。しかも、変わらない社会の中で、ストレスは確実に増えていきます。
というのも「自分はこう思う、これが正しい」という思い込みは(「老害」というレッテル張りや、今日よく語られる世代論も含めて)、
自分が正しいと思いこむ人間と、その正しさを押しつけられ、排除される人間とを、作り出すからです。
制度は変わらないのに、個人の分裂・分断は増える――そうした風潮が強くなればなるほど、「自分は正しい」という妄想止まりの個人が増え続け、「社会」は社会でなくなっていきます。
問題は何一つ変わらず、社会には分断が、そして個人にはストレスが増えていく。
価値がないばかりか、危険でもあることが、見えてくる気がしないでしょうか。
そうした社会を肯定するのであれば、「(自分だけは)排除されない人生」を、椅子取りゲームのように奪い合う社会へと変わっていかざるをえないかもしれません。それは、もはや社会とも呼べない殺伐とした場所かもしれません。
レッテルを貼って排除する――こうした発想には、社会をいっそう縮小・衰退させてゆく、もっといえば破壊していきかねない危うさが、あるのです。
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もともと社会とは、人間が生き延びるために、それぞれが役割を果たして創り上げた共同体です。
その共同体が発展した結果として、なるべく多くの人が、できることならすべての人が、大事にされる、安心して生きていける、そんな社会を作ろうという今があります。
こうした方向性を維持することが、最上の価値です。この点を「議論」することは、ほとんど意味はありません。逆の方向に踏み出せば、すべての人が(あなたも、私も)生きていく基盤である社会そのものを掘り崩すことになるからです。
そんなことをしなくても、社会を変える方法は、いくらでもあります。
「制度」を変えればいいだけです。
あきらめることも、ニヒリズム(虚無主義)を決め込むことも、レッテルを貼って排除することも、正しくありません。それは、滅びゆくことを受け容れることでしかありません。
個人の趣向・選択としてはあっていい(止められない)かもしれないけれど、社会にとって価値はないのです。
人間は生きていくこと。
社会は続いていくこと。
それが生命線(引き下がってはいけない一線)です。
生きることが個人の、続いていくことが社会の大前提である以上、目の前の問題は「改善する」しかないのです。めざす方向性は、その一択。
社会の問題は、制度を変えることで改善できます。
実現への道筋が見え、かつ苦しみを増やさない制度のあり方を具体的に提示して、
社会にとってどのような選択肢がありうるかを、明らかにすること。
それが出発点です。その出発点に立たせてくれる発言ならば、社会にとって価値を持ちます。
「私はこう思う」という個人止まりの言葉ではなく、制度本位の(どのような制度がありうるかという視点で考える)言葉こそが、社会にとって価値を持つということです。
「老害」という言葉は、社会にとって価値を持ちません。早めに「卒業」してもいいのかもしれません。
2024・3・13