心の若さを保つ秘訣

 心の若さを保つ秘訣


年配の作家の文章を読むと、ある傾向が出てきていることに気づく。

それは、自分のこと(身辺雑記)だけ語って満足しているらしいという傾向。

こんなものを食べたとか、どこに行ったとか、友人に会ったとか。ほとんど日記のノリ。

私生活を記録することは価値ある営みではあるけれど、プロの作家たる人が、一般の人と変わらない、自分の周りにこんなことがありました・・的な記述だけで終わってしまうのは、あまりいい傾向とは思えない。

おそらく脳(思考力)が委縮して、自分以外のことを考えにくくなっているのかもしれない。

そりゃ自分がこれやった、あれやった、こう考えたということだけ独り言のように語ることは、ラクではある。でも、その話題が、聞く側にとって価値がある(聞きたいと思う)かどうか)は別の話。

いつの間にか自分のことだけ・・・というのは、物書きとしては老化の象徴かもしれないと思う。


この点、仏教は、「自分のことはさて置いて」という発想を取る。自分のことは後回し。自分について語る時は、「ちなみに」「私事にすぎないけれど」という枕詞をつける。

これは過剰になると自意識の裏返しになりかねないので、塩梅(割合)が大事になるのだけれど、そういうバランスを取ろうという意識も含めて、心(脳)の若さを保つことにつながっている気がする。

自分のことはさておいて、まずは相手のこと、人のこと、世の中のこと、未来のこと・・それを考えることで、思考の量が増える。

(考えてみたら、SNSで自分のことばかり語ることは、老化を早めているのかもしれない。自分、自分、自分・・・妄想の垂れ流し。価値ある言葉かを厳密に吟味せずに独り言。頭を使っているとは言えないのかもしれない)

本を書くときも、書き出しは、一般的な話題や、共感できるテーマ設定から。これはけっこうしんどい(脳に負荷がかかる)。だがこれをやらないと、文章の一般性(共感可能性)が落ちてしまう。脳も劣化する。

「私の場合は」から書き出せるのは、私小説とか随筆とか。これはすごくラク。『ブッダを探して』は、自分のことを書けばいいからすごくラク(笑)。

だが、この種の文体に慣れてしまうと、脳の老化が早まってしまうだろうと思う。あくまで人さまのことを第一に考え、自分については冷静に(冷徹に)見るというのは、かなりの思考を必要とする。おのずと脳を鍛えることになる。

それでも「自分のことを語りたい」という誘惑は、心(脳)につねに働いているものだ。こうした怠惰(無思考)への誘惑をつねに自覚している必要がある。

自覚が利かなくなった時が、ボケ(老化)の本格的な始まりだ。逆らわねば、と思う。

「自分のことはさて置いて」――この点でも、やはり目を閉じて己を見つめる時間が利く。

心の若さを保つ秘訣は、こんなところにもある。

 

今年の年越しも、しっかり己を見つめる静寂の中で迎えよう。 


 

2024・12・31



コスモスの下には・・(『海に眠るダイヤモンド』感想)


&Premium(マガジンハウス)という写真誌(2025年2月号)が映画特集。

「愛について考える映画」コーナー、草薙龍瞬も一本語らせていただきました。

20代の頃は、年間200~300本くらい見る映画好き。TVドラマにもどっぷり浸かって、脚本のセリフを分析するくらいのマニアぶり(笑)。
 
「愛について」いろんな映画を思い出してみましたが、今回はクリスマス・シーズンに出る号ということを受けて、「あの」作品を選んでみました。


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味のある映画は、今も昔もそれなりに出ている気はするけれど、秀作は、それこそ半世紀以上さかのぼっても発掘できるし、発掘すべき。優れた映画は陳腐化していないから。

出家してからはほとんど映画を見なくなったけれど、、、今回、久々に映画脳をくすぐられた感じ。編集者さん曰く「いろいろ(映画)見てそう」と直感で思ってくださったのだそうです。


ちなみに、最近最終回を迎えた『海に眠るダイヤモンド』(TBS)。

時空をまたがるあの壮大な世界観は好きだし、見どころがたしかに多い名作だと思うけれど、多くの人が語っているような美しい物語として終わっているかは、個人的には正直疑問でした(笑)。

だって、あの草笛リナ・・・鉄平が行方不明になった原因を一番知っている、自分が語らねば誰もわからないままで終わってしまうことを十分理解している最大の当事者なのに、

何もしなかった!!!--

のだから。恐ろしい。


自分を守り、子供(誠)をかばった鉄平が、殺される危険を引き受けて必死で逃げまくっていることを、誰よりも理解していながら、

何もせず、語らず、動かず、遺書さえ書かずに、ただ死んでいったというのは、サイコパス以外の何物でもないのでは?

鉄平は巻き込まれただけ・・・まっとうな人間ならば胸を痛めて、なんとか事態を収束させねばと、時機を見て真相を語り、鉄平を救うために動き回るであろうに、この女性は何もしなかった。

この女性のために何人が不幸になった?(端島に来る前を含めて)。恐ろしいのは、そうした点について、すべて未精算のまま、自分の都合だけで人生を終えたこと。

(朝子が東京で活躍している姿を新聞などで見てました・・・とリナの息子である誠は語っていたが、そういう話ではあるまい)。


あのドラマは、3姉妹物語的な女子グループのキラキラに(脚本家・演出家・プロデューサーさんの)目が取られてしまった印象がなくもありません。

女子3人はキラキラ、キャピキャピ(それぞれに苦労や切なさはあるのだけれど、彼女たちの人生を大きく肯定するという世界観は一貫している)。

他方、鉄平は、サイコパスかもしれないリナをかばい、誠を守るために、人殺しの罪を背負って、ひたすら逃げ続け、結局、最後まで、真相を知られることなく、端島時代の仲間や友人たちとよりを戻せないまま死んでしまうという・・。

鉄平の日記が謎を解くカギだみたいな位置づけ・演出をされていたけれども、リナが真相を明かせば一発で謎は氷塊したはず。そんなに難しい話じゃない。

リナが原因で、鉄平も、賢将も百合子も母親のハルさんも、鉄平はリナと駆け落ちした!!みたいなとんでもない誤解を晴らせないまま、バラバラになって死んでいった。

リナの言動には、自分さえ助かればいいという潜在意識が透けて見える気がして――。

いや、恐ろしい女です(笑)。と言ってはいけないでしょうか。


しかも残念にしてこれまた恐ろしいといえなくもないのは、朝子、百合子、賢将らが曲がりなりにも持つことができた幸せな家族物語から、鉄平一人を締め出して死なせておいて、コスモス畑で「美化」して終わらせたこと。

あれはね・・・美しく見えて美しくない。制作陣がほぼ全員女性だからやってしまえた終わらせ方・演出の仕方じゃなかったかな。そんな気にもなりました(笑)。

すごく残酷で利己的な(都合が良すぎる)終わらせ方なのに、表面的には美しく見せてしまう。そういう怖さが、あのきれいなコスモス畑の映像に透けて見える気がしなくもありませんでした。


桜の樹の下には屍体が埋まっているとは、梶井基次郎の言葉。

コスモスの下には鉄平が埋まっている――。

誰が埋めたかといえば、劇中人物では第一に草笛リナ。大きく見れば、制作陣・・と考えるのは、うがちすぎ?
 
あれほどに輝いていた登場人物たちを、朝子を除いて、みんな簡単に死なせてしまった。最終回に至って、地滑り的に登場人物たちが実在感を失った。現代につなぐという設定のためだけに?

もし本当に登場人物たちが心を持った人間ならば(それだけの実在感があったならば)、あれだけ長い歳月にわたって鉄平一人を置き去りにはできないんじゃないかな? 絶対に動くはず。賢将、朝子、誠・・みんながみんな鉄平一人を放置したというのは、あまりに不自然。

 

物語というのは恐いもので、作る側の目線というか立場というか、無自覚の内に選んでしまっている立ち位置が、つい露わになってしまう。
 
あのドラマの「救いがない」(救いがあったように見せかけて、実は救われていない・・)結末は「必然」ではなく、作り手側の無自覚の「意図」が出てしまったような気がしてなりません。
 
あのラストに必然的な理由や切実なメッセージがあったわけでなく(それまではイキイキと響いていた言葉が、最終回は上滑りで空疎に聞こえた。登場人物の心とセリフとがつながっていない不自然さが残りました)。
 
謎解きを最後まで残そうとすれば、あの展開が一番都合が良かったのでは・・そんな印象が残ります。
 
鉄平は、あえてコスモス畑に孤独のうちに「埋められた」のだというのが、一視聴者としての感想です。あのドラマ・世界を貫く最も大事な存在であるはずなのに、添え物として最後は打ち棄てられた。
 
それを愛と呼んでは(見せかけては)いけない気がします。
 
 
あくまで個人の感想、いえ邪推です(笑)。ごめんなさいね。


なんでTVドラマ一つにあえてここまで語ってみたか。作り手には、物語とそこに出てくる人物たち、さらに受け取る側(視聴者)への責任があると思うからです。
 
結局最後に何が残るか、伝わるか。そのことで物語は生きもするし、死にもする。物語は、本当の意味で生かさねばならないと思います。ドラマも、映画も、小説も。つまりそれは、登場人物を実在する人間として最後まで敬意をもって扱うということ。
 
そのためには登場人物を最後まで生かさないと。生きてもらわないと(簡単に死なせて終わりにしてはいけないという意味です)。みんな、心を持った生きた人たちであったはずなのだから(それくらいに端島のみんなが輝いていたことが、あのドラマの最高の魅力だったのに)。
 
 
作り手の偏(かたよ)りが前面に出て終わってしまう作品を、たまに見かけます。後味の苦い結末。
 
そんなとき、「成仏」しきれなかった物語のポテンシャル(未発揮のまま消えていった価値)を感じて、残念に思ってしまうのです・・。
 
 
(それでも全編に情熱溢れる見ごたえのある作品でした。俳優さんたちの演技がとにかくすごい。リナ役の女優さんも。プロの役者さんはとにかくすごい!)
 
 
 

2024年12月下旬