「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

子育てが難しくなる理由


教育、勉強、学び、子育て・・いろんな言い方が可能ですが、はたして自分に務まるのかどうか。そうしたためらいは、きっと多くの親や先生もお感じになっている(感じたことがある)かもしれません。

ここはいくつかに分けて考えてみることにします。知識、スキル(知的能力およびその伝え方)、そして大人の側の「自分にとって」。


学びには、一定レベルの知識とスキルが必要になるはず。誰でも教える・伝えることができるというわけではなく。

 

(※ちなみに私の場合は、十代の人たちと関わり、伝えた体験から、もう二十年くらい経っているので、もちろん大幅なブラッシュアップが必要にはなりますが、

それでも今の中高生が使っている本を眺めると、正直、学びの本質はほとんど変わっていなくて、しかもその本質さえ見えていないらしいことも見えてくるので、

スキル(生徒にとっては学ぶ、先生にとっては伝える技術)については、おそらく今も十分に通用するような気もします。

知識については、忘れてしまった部分が多いので、子供たちにスキルを伝えつつ、自分も知識を吸収していくことになりますが、そのことで、子供たちにとってのリアルな「覚える」体験を自分も共有できるので、これまたみんな(子供たち)との接点を増やすという意味で楽しめるように思います。)


知識・スキル以外に大人(親・教師)が伝えるべきは、「自分にとって」。生き方や価値観や感性。何に価値を見るか、どんなことに喜びや美しさを感じるか。

いわば、一人の大人として何についてどう思うかという、人間的な部分です。感じ方、考え方、受け止め方、割り切り方、流し方・・のようなもの。

この部分は、知識やスキルと違って、正解はありません。一人の人間として「わたしはこう考える、こう感じる」というところを、そのまま表現するだけでよいのです。


おそらく子育て・教育が苦手・難しいと感じる大人の中には、伝える・教えることが、何か特殊な能力や一定レベルの研鑽が必要で、

それは自分以外の誰かが知っていて、自分は何もわかっていない、

では正解は何か、他の人は何と言っているか、何を教えているか、隣近所は、学校は、塾の先生は、教育の専門家は・・

と周りの様子をうかがってしまうところがあるのかもしれません。

でも、そうじゃないのです。それは、知識・スキルの話。「自分にとって」については、「自分のままでいる」ことが、そのまま伝える・育てることになるのです。

それは、親ならば誰もが自然にやっていいこと。

親が、人間として、どのように感じて、何を価値とするか、人としての思いをそのまま伝えるだけでいい。

知識やスキルが求められる学校や塾の先生も、この点は同じです。知識・スキルのほかに、5分、10分でいいから、世間の話題について自分はどう考えるとか、何かを一緒に見たときに、この部分がこんな風に好きだとか、好きじゃないとか、素直に語るだけでいいのです。

まずは、自分のままでいること。「自分にとって」を伝えること。それが大人が子供に伝えられる最初のこと。

その言葉や姿を見て、子供は、「そういう感じ方・考え方もあるんだ」と学習できるし、それを吸収することも、自分とは違うものとして流す(ときに反発する)ことも可能になります。

大人が一番やってはいけないことは、自分を伝えないこと。伝えることを控えてしまうこと。そうして、ご近所、他の先生、世間、風潮、専門家、インフルエンサー、文科省といった他人に「正解」を委ねてしまうことです。

広い意味で、これも思考停止。子育て・教育がつまらなくなる元凶の一つ。

 

子と関わる大人というのは、自分のままでいることが大切なのです。

自分を大事にすること。自分をそのまま伝えてみること。それが正解。

間違ったときは素直に訂正して謝ればいいし、価値あると思うことは素直に伝えて、どう受け止めるか、どのように吸収するかは、子に任せる。

「私にとっては、こうなんだよ(こう感じる、こう考える)」を伝えることが、子育て・教育の第一歩です。これ、どれほど大事なことか。
 

冬の到来ひとつも、子供たちにとっては学びの対象になる。灯油ストーブの「ボッ」でさえ至福の瞬間になりうるし、冠雪した富士山を眺めることも、豪雪の中で歩くことも、もちろん度が過ぎれば困難になってしまうけれども、美しさとして感じ取ることはできるかもしれない。

そうした幸せや美しさを、日常会話の中でさりげなく共有することも、子育て・教育の内。どこかに出かけるとか、少し凝るなら、映画とか小説とか、俳句、短歌、詩、絵画など、いろんな表現を通して、冬を、もっと深く鮮烈に感じ取ることも可能になる。

先生であれば、「冬について」というテーマで、国語や社会(地理・経済)や理科(化学も物理学も可)の教材を作ってもいい。


日頃自分が感じたり考えたりすることが、少し工夫すれば、伝える・教える素材になる。大人の自分にとっても学びが増える。

子育て・教育というのは、子供を育てるだけでなく、自分も育ち、しかも育て合うという循環にもなる。

ならばやっぱりためらうことなく始めるべきだなあと思うのでした。最後は「私(龍瞬)にとって」の話。

さあ、始めるよ!

(草薙龍瞬『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)

 

 

2024年12月中旬

 

中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬





あやまちを犯した時は(そして、傷を負った人へ)

 

みずから犯したあやまちについては、

相手に与えた損害、その心の傷を理解しようと努力するか、

責任の取り方がはっきりしている場合(身体的自由の制約か金銭による償い)は、

それを引き受けることでしか、

社会的に許される可能性はありません。

それだけのあやまちをみずからが犯したという現実を受け入れること。

それはたしかに痛みを伴うものかもしれませんが、だからといって、被害を被った相手のせいにしていいということには、絶対にならないのです。

故意はなかったとか、同意があったと思っていたとか、そればかりか事実と異なる嘘までついて、自分のあやまちを否定し、それどころか相手(被害者)のせいだと言いたがる人間が、たまにいます。

そうした自分可愛さゆえの無理筋は、相手の傷にいっそうの塩を擦り込むに等しい「拷問」であり「虐待」であり「愚弄」になります。

相手がどれほどの心の傷を負い、またどれほどの時間と関係性の喪失、経済的損失その他の苦痛を被ったか、また今後も被り続けることになるか。

この社会に生きる人間である以上、想像することが、義務であり責任というものです。


そうした人間としての務めを放棄し、あやまちを謝罪することも、賠償することも、みずからの身をもって贖うことをも放棄して、

なお自分を守ろうとする。

そうしたことができてしまえる、しようと目論むこと自体が、

その人間が、相手を傷つけたこと、損害を与えたことの「証拠」になってしまいます。

というのも、

自らのあやまちを受け入れられない人間だからこそ

――それを世間では、残酷、傲慢、身勝手、幼さ、弱さ、不誠実と呼ぶことになるのでしょうが――

そうした人間だからこそ、みずからの行いの意味や責任を軽く見るし、不都合を隠蔽しようとするし、言うことがその都度変わるし、最後まで否認して、自分は悪くないと言い張れるのです。

そうしたふるまいと言葉のすべてが、その人間(あやまちを犯した者)の輪郭を、はっきりと彫刻していきます。

みずからがどんな人間かを、その行動と言葉によって、浮き彫りにしてしまう。


それは自滅でしかないのですが、本人には、今見える自分の都合、利益、プライド、恐れしか見えないので、止めない(それが通ると錯覚してしまう)のです。


結果的に残るのは、「悪人」としての自分です。

悪人としての刻印が残る。しかも刻み込んだのは、あやまちが明らかになった後の自分自身の行動であり言葉です。

これまでもそうやって自分を押し通し、不利益を隠して、不都合から逃げてきたからこそ、まさに今の自分にたどり着いたのかもしれません。

 

あやまちを認めること、謝罪すること、賠償すること、その罪を自分の残りの人生をもって償うことを、

難しい、やりたくない、と本人は考えてしまうのでしょう。

ですが、長い目で見るならば、それが一番簡単で、自分に確実にできる、正しいことなのです。


罪を認めない人間は、そこから先は「悪人」になってしまいます。

罪を認めて償うことで、はじめて過去のあやまちが、あやまちに留まるのです。それ以上の悪人と化すことを防ぐことができる。その後の生き方は自分次第ということになります。


あやまちをあやまちとして認めること。

被害を被った相手の心情や、その失ったもの、今後の人生を思いやること。


被害を被った、傷つけられた側が望んでいるのは、結局は、人間としての当たり前の、本当は簡単にして、確実にできることのみです。

それすらも受け入れようとしない相手(加害者)の行動と言葉によって、いっそう傷つけられることが多いものですが、

それでも願うのは、まずはあやまちをあやまちとして認めてもらいたいという一点です。

 

簡単なことのはずが、あまりに複雑で、遠いことになってしまう。

そうした事態を招いているのは、あやまちをあやまちとして認めようとしない人間の側にあります。

 

こうしてみると、世の中は、善人と悪人とに、最後は結局分かれていくようにも思います。

善人は、少なくとも、みずからのあやまちを否定しないし、償おうと努力します。

悪人は、最後まで、みずからのあやまちを認めようとせず、嘘、言い逃れ、責任転嫁、その他あらゆる強弁を弄して、自分を守ろうとします。自分が可愛い(そのぶん人が傷ついても)という態度を崩しません。



傷を負った人へ――

もしあなたが善人として生きているなら、ぜひ堂々と生きてほしいと思います。

あなたは悪くない。他人のあやまちに、悪に、巻き込まれてしまっただけで、あなたは何もしていないのだから。

強く、堂々と、生きてゆく――のです。



2024・12・11
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質問&テーマ募集中 ~ 12月15日(日)仏教講座・特別編

【おしらせ】

質問&テーマ募集中
~ 12月15日(日)仏教講座・特別編<自己ベストの生き方&働き方を考える>


興道の里から

12月15日の仏教講座・特別編<自己ベストの生き方&働き方を考える>に先がけて、質問・課題を募集中です。

事前に寄せられた内容をもとに、当日の資料・内容を構成します。

個人的要素を捨象し、一般的な内容に編集しますので、お気兼ねなくお寄せください。

お席はご用意できますので、参加をご希望の方はご連絡ください:

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自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会

<内容> 
仕事・転職・人生設計など、生き方・働き方に悩んでいる大人のための学習会。参加者が持ち寄った悩み・課題を、仏教の智慧を使って解決します。自分のアタマでは出てこない意外な発想や解決策を聞けるかも?

<対象> 今の仕事・生活に課題を感じている人、転職、起業、将来について悩んでいる人など。オンライン受講可(要登録)。

<日時>
12月15日(日)18:00~21:30

その他の詳細は、公式カレンダーをご覧ください。

 

ご予約は、お名前とご職業、当日考えたいテーマ(簡単で可)を koudounosato@gmail.com まで


★当日は参加者の課題・質問をもとに内容を構成します。事前に質問・相談を募集しますので、積極的にお寄せください(※私事性のある内容は省略致しますので、ご安心してお寄せください )。




澄んだ時間~甲府から富士へ

日本全国行脚2024年12月3日


山梨・甲府に出立。新宿から信州に向かう特急は意外と混んでいた。

雲一つない冬の青空。車窓の彼方に銀嶺が見える。 この国のいたるところに、こうした見るだけで溶けてしまうような風光明媚があるのだろう。

こんな景色を毎日見られる場所で暮らしたいなと思う。あいにく体は一つだから、一つの場所を選ぶほかなく、他の場所で暮らしたいという願いはかなわない。数多くの美しい景色を求めて旅するように生きるのも一興だが、根を生やす生き方も捨てがたい。こうした二律背反、相矛盾する憧憬は、一生枯れることはないのだろう。いたたまれないが、いたしかたない。夢見ることを快としよう。

あの丘の名前は? 一度立って風の景色を眺めたい


甲府駅で降りて、講演会場まで歩くことにした。旅するほどの余裕はないが、せめて地元の空気を味わいたいからだ。地図で見るよりも実感遠かった。

(※余談だが今はどこの駅も商業ビル化され、駅前も都市化されている。最近訪ねた北千住や水戸もすごいことになっていた。甲府駅前も然り)。

山梨の農業は、シャイン・マスカットの認知度が上がって利益を上げているそうだ。就農人口も少なくない。ただ、冬は皮膚が痛いほどの冷気で、果実の収穫はやはり大変だという。

今日の講演会は、参加者はほとんど女性。50代以上がほとんどで、50歳未満は1割以下。これは全国の就農人口の世代比とほぼ同じ。

司会の方に紹介してもらった後、「私の本を読んでくださった方、どれくらいいますか?」と訊くと、手が挙がった気配がないので、「ほとんどの人が読んでくださっているのですね、ありがとうございます(笑)」。

なぜ歳を取ると時間が経つのが早く感じるのかという話に始まって、業の話へ。初めて聞く人には、衝撃でもあり、身につまされる話でもあるらしい。会場によっては笑いが起こるが、今回はみなさん真面目に受け止めた印象。こういうときは、たいてい終わった後に、思い当たった人が感想を言いにきたり質問しにきたりするのだが、今回もそうだった。

農家の高齢化は全国的に進んでいる。あと十年経ったら、放棄地も激増するだろう。ここ数年、旅をしながら、この美しい景色がいつまで続くのだろうと、自分が見届けられない未来のことを心配している。

帰りは身延線に乗った。ローカル列車で終着の富士駅まで4時間以上かかるが、地元の人たちと同じ景色を眺めたい。途中、市川大門駅を通る。学生時代に夏の花火大会を見に行った場所。20代にも仕事仲間と車で来たことがあった。

路線後半はガラガラ。だがこの身延線、ちょうど斜面をくだって平野に出る時に、富士宮の街並みを一望できるスポットがある。その景色を久々に見たかったのだが、無事成就した。

旅ともいえない旅だったが、景色と人の姿を見ることはできた。もうひとつは、独りきりの純粋な時間。何者でもない空白の時間。これらがそろうことが、私にとっての旅だ。一年の終わりに澄んだ旅ができた。

富士宮の夜景 この景色をもう一度見たかった




2024・12・3

里のアーカイブ 公園の猫

<おしらせ>
★東京の講座は、12月15日の働き方講座、22日の坐禅会、28日の仏教講座・総集編で締めくくりです。

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※昔のブログ記事を”発掘”したのでおすそ分けします:


2016年10月2日

今朝起きたら、すっかり秋の気配が。肌寒くなってきました。

気になるのは、近所の公園に一週間ほど前に現われた、白地に雉模様の若い猫。

最初は怖がって近づいてこない。だから、エサを遠くから放る。チョッチョッチョッと舌を鳴らして音を覚えさせる。雪駄の音もわざと大きめに鳴らして、〝この音が聞こえたら、エサくれる人〟というのを覚えさせる。

2、3日そうすると、音を鳴らすだけでミャアと草むらの中から声がするように。近くでエサを食べるようになった。それでも恐る恐る。近づくと逃げる。食べながらも周囲をうかがうことは忘れない(一度、近所の黒の飼い猫がいやがらせにやってきて、走って逃げて行ったことがあった。人間に対しても相当警戒心が強い)。

私はそのそばでじっとして、気配を消す。視線も合わせない。でもチョッチョッと舌を鳴らして、敵じゃないということに馴染んでもらう。

二日ほどすると、食べた後に、思いきり背筋を伸ばしてみせるようになった。「ごちそうさま」という合図らしい。その場で尻尾を丸めて、じっとうずくまって見せる。

それでもまだ警戒心が強くて気が休まらないのか、近くのやぶの中に入っていく。逃げるわけじゃなく、やぶの中でこちらの気配をうかがっている。それに対して、「大丈夫だよ」という思いを送る。

誰かに捕まったら殺処分? この界隈に野良猫はほとんどいない。それは可哀そうだからこちらで保護しようかと思ったが、しかしそれは仏教じゃないなぁと思う。気持ちを送って、相手が近づきたいと思うようになるのが、自然な成り行き。とりあえず、近づき方、距離の取り方、すべて猫のリアクションをみてから決める。これが仏教流、つまり正しい理解(笑)。

今朝は、いよいよ、エサを食べた後に、道の途中まで私についてくるようになった。公園を出ていく私を追いかけて、やぶを抜け柵の下を潜り抜けて、道の真ん中でミャアと鳴く。「ウチにおいで」と言ってみるが、まだそこまで決心がつかないらしい。結局、向かいのマンションの生垣の下に隠れて、部屋に入った私の様子をうかがっている。今のところ、こんな感じ(笑)。


相手が動物であれ、人間であれ、こちらに一方的な(あるいは最初に)思惑や「かくあるべき」という判断や、「こうあってほしい」という要求があっては、もうそれだけで〝心の通じ合い〟は遮られてしまう。

一定の判断や、明確な働きかけが必要な時、功を奏する時もあろうが、それはえてしてこちら側のエゴや勝手な思惑であることが多い。「相手のことがよくわからない」と悩む人が多いけれども、そういう場合はたいてい「私はこう思う(こう考える)」というところが最初にあって、その思いにしがみついていることが多い。

「私はこう思う」というのは、極端にいえば、「どうでもいい」(笑)。それよりも、相手を、今の状況をよく見透せていること(理解できていること)のほうが圧倒的に大事。というか、心の向け方としては、「理解すること」が最初なのだ。

解釈するのでもなく、良し悪しを判断するのでもなく。妄想するのではなく、反応するのでもなく、ただ理解する。相手の心をよく理解できたときには、びっくりするくらい、いろんなことが見えてくる。たぶんアレコレと妄想して悩んでいた人にとっては、「え、こんなにラクでいいの?」と戸惑うくらいに、物事が見えるようになる。わかりあえない苦悩やストレスからも、無縁になれるかもしれない。

もちろん、本当の理解というのは、限りなく難しく、「妄想」との境界線はかぎりなく曖昧だ(だからこそ「わかっている」と思うこと自体が、慢であったり妄想だったりする可能性はかなり高い。だから、仏教では「わかっている」とは最後まで判断しない)。

だが、妄想を捨てて「ひたすら理解する」という心がけに立ち続けることで、妄想が作り出す悩みや、人間関係をめぐる誤解や感情的ストレスは、大幅にカットされるものである。

「理解する」ためには、つつしみ(謙虚さ)も欠かせない。ゆめゆめ、「わかっている」と思ってはいけないのだ。そう思ってしまった時点で、その理解は「正しい理解」ではなくなってしまう。


はて、私はこの猫――サラと呼んでいる(沙羅双樹のサラ)――の心をどれくらい理解しているか。一度は飼われた猫らしい。去勢手術も受けて、まだ生後半年くらい? なんの因果か、夏の終わりに、公園でひとり生きることになってしまった。

完全な野良なら懐かぬ可能性もあろうが、一度飼われたことがある猫なら、人に期待をかける部分はまだ残っているかもしれない。寒くなる前に、「ウチにきていいよ」というところまで伝わってほしいものだと思っている。


8年後(現在)のサラ
猫ハウスより古新聞の中にやすらぎを感じるらしい
このあたりも飼い主に似ている




真実を決めるのは誰か


この世界は妄想の海。誰もが言いたいことを言い、嘘を本当だといい、本当のことを嘘だという。滅茶苦茶だ。いや、これが世界の現実だ。

真実を決めるのは誰だろう?

自分? 違う。自分に見えるものは、自分にしか見えないから、妄想かもしれない。

自分にとっての真実を、人にとっても真実だとするには、どうするか。

徹底して事実のみを語り、事実を裏付ける証拠をそろえることだ。

証拠、事実、自分にとっての真実――3つがそろってはじめて、自分に見える真実が、人にとっても真実たりうる可能性が出てくる。

真実は人の数だけあるし、自分にとって間違いない真実に見えるとしても、それだけでは足りないから、問題が生じる。

その問題を解決するには、自分以外の人の理解が必要になる。直接には相争う相手。その相手が受け入れないなら第三者。「世間」だ。

諍い・争いに巻き込まれた当事者にできることは、事実と、裏付けとなる証拠をそろえること。そして「真実は人さま(世間)が決めること」という諦念に立つことだ。いさぎよく。


人が往生際悪くなるのは、証拠、事実、真実がつながっていないからだ。

自分は真実と言い張る。だが隠している別の事実がある。

事実っぽく見せている主張がある。だがそれを裏付ける証拠がない。


証拠があれば、事実であると主張することも可能になる。自分にとっての真実が、客観的にも真実だと認めてもらえる(世間が受け止める)可能性も出てくる。

逆に、自分が訴える真実が、事実と異なるか、証拠がないか。その場合は、真実ではなく、「無理」を訴えることになる。

被害を被った側が、無理を訴えざるをえない場合は、苦しい闘いを強いられる。だが証拠があるなら、世間に訴えることも可能になる。自分にとっての真実を、世間を受け入れてくれた時に、本人にとっての真実が社会的真実だったことになる。

たちが悪いのは、逆に害を与えている側、いわゆる加害者が、都合のいい真実だけを一方的に訴え、実はそれは事実ではなく、もちろん証拠もない場合だ。

本当は本人もそうと知っている。だが都合の悪い真実にフタをして、都合のいい真実をさも客観的真実であるかのように言い張って、押し通そうとする。

そういう人間は、嘘をついていることになる。そのうえ誰かに苦しみを与えているなら、苦しみを想像しない欺瞞か、冷酷か、傲慢か、非常識な人間ということになる。

傲慢な人間は、平気で嘘をつく。

未成熟な人間は、都合の悪い事実を認めない。受け入れる強さがない。

自分の都合を守るために、人に責任を転嫁しようとする姑息な人間も存在する。


それぞれが主張する真実が食い違うとき、人は自分にとっての真実を守ろうとするばかりに、事実を隠し、ごまかし、歪曲し、改善して、都合の悪い証拠を隠すか、消すかしようとするが、

これは悪と罪の上塗りであって、正しい選択にならない。悪は悪であり、罪は罪だ。その先に待っているのは、世間における恥だ。


人がまっとうな人間として生きていくには、事実をいさぎよく認める勇気が必要になる。いずれが証拠を持っているにしても、客観的に確認しうる事実こそが、真実かどうかを決めるのだ。

証拠をともなう事実。これが最も確かなもの。ここから離れようとしてはいけない。


事実から離れようとすること――いかなる強弁、屁理屈、嘘、言い逃れ、他責の言葉も、重ねるべきではない。

そうした言葉を謹んで、事実を受け入れることが、その人の誠実さであり、人間としての品格になる。

あやまちは詫びるしかないのだ。そして事実を受け入れて、事実にもとづいて相応の責任を取ること。法を犯した場合は裁きを受けること。どんな痛みを伴うとしても。


そこまでいけば、悪も罪も解消できる可能性が出てくる。

あやまちを犯した人間は、そこからやり直すしかないのだ。



2024年11月末



親戚の子とどう向き合うか


親戚の子との向き合い方について

まずは一般論。相手を変えたい・影響を及ぼしたいと思う――

そんなとき、人は言葉か態度を使います。そうして及ぼす影響力のことを、広い意味で「権力」(パワー)と表現します。

これは物理的な暴力や、妄想の押しつけ(圧力)とは違うので、要注意。

自分の思いが届くかどうか。伝えることで、相手の考え方や振る舞いが変わるかどうか。

届く、変わるなら、権力(影響力)を持っている、と表現します。

人間関係、特に大人が子供に関わる場合は、はてどの範囲で、どの程度の権力(影響力)を、どうやって及ぼすか。及ぼしていいのか。

多くの場合、それがテーマになります(権力という表現はあまり穏やかではないけれど、社会学ではよく使われるし、思考を整理する記号としては役に立つので、今回はあえて使ってみます)。


たとえば、自分がおじさん・おばさんの場合。親戚の子供(甥・姪)が学校に行かないとか、ゲームばっかりやっているとか。

そばで見ている大人の自分としては、いいことだと思わない。本人の様子を見ても、決していい状態じゃないように思う。

でも、肝心のその子の親たちは、クセがあったり、無関心だったりと、子供たちになにもしようとしない。

なんか割り切れない、やきもきしてしまう。そんな状況にあるとしましょう。

そんなとき、心あるおじさん・おばさんとしての自分は、どうするか? 

結論からいうと、「自分に何ができるだろう?」と考えて、「使える範囲で上手に権力(持っているもの)を使う」ことになります。


子供に最も権力を持っているのは、親です。お金を出さない。真剣に叱る。あるいは、じっくり話を聞いて、考える時間を与えて、一定の時間が経った後に、何を体験したか、何を考えるか、今後どうするかを、よく聞いて、親の側の思いも伝える。

これはプラスになる権力の使い方。大事です。

親ならば、子供との距離は選べます。その選び方があまりに下手というか、考えていない親も多いことが、今の世の中の問題の一端でもあります。

他方、最も権力がないのが、公立校の先生や塾の教師かもしれません。子供への影響力が限られている。学校の先生なら業務に追われてそもそも一人一人の生徒をフォローする余裕がなかったり、制約が多すぎたりする(義務教育というイケスの中でしか動けない)。塾なら、生徒はお客さん。辞められたら困るし。生徒からの評価・評判を落とせないし。

では、親戚の子を憂うおじさん・おばさんはどうか。

子供といい関係を築けているなら、会話の中で自分の思いを伝えることも可能です。だから、まずは子供との関係作りがテーマになります。

他方、それほどの関係が育っていない場合は? その場合は、自分が権力(影響力)を持てる範囲を確認することになります。


一番わかりやすい権力の発動どころは、お年玉・お小遣いをあげるとき。その時に話をするか、交換条件としてこちらの思いを伝えるか。

もちろんそれが届くかどうかは、子供次第。「うざい」と思われて終わるかもしれない。そうした関係性においては、権力はゼロということになる。

自分の直接の子供ではない子供に、自分の思いを伝えるには、それなりの関わりが育っていること、あるいは権力を持っている必要がある。

わかりやすい例を挙げれば、

「話ができない(伝わらない)なら、与えない」

「あれを頑張ったら、これをあげる」という権力。

わかりやすい。ドライすぎて戸惑う人もいるかもしれないけれど。

もし親戚の子供がゲームばっかりやっていて、はたから見てマズイなと思ったら、本人にどう思っているのか直接聞いてみることから始めて、「〇〇ができたら(努力できるなら)、おこづかい・お年玉をあげる」という話に持って行く。

達成できなければ、自分としては何もしない。与えない。それが自分にできる最低限の権力行使ということになる。



えてして親戚の子については、おじさん・おばさんは権力ゼロのことが多い。

特に、親がその子をスポイル(ダメに)している場合。無関心、甘やかし、将来について無計画。中には、子供には自分を越えてほしくない、自分の支配下に置いておきたいという、子供の足を引っ張る毒親(蜘蛛親と呼ぶべきか)も、たまにいる。

親がこういう人だと、子供は、社会も未来も人生も何もわからない段階で、「何をやってもいい」という状況に置かれてしまう。そこにスマホ、ゲームなどがあれば、あっという間に染まってしまう。「依存」レベルに達すれば、勉強どころではなく、学校にも行けなくなり、脳が、未来が、壊れる。

こういう親子・家庭も、今はものすごく増えている。


残念ながら、こうした家については、心あるおじさん・おばさんの権力はゼロ。ほぼ何もできません。

唯一の権力である(という言葉自体があまりにしょぼくて無粋で悲しいけれど)、お金(おこづかい・お年玉)さえ、親がザルなら、子供にあげても無意味。ドブに捨てるようなもの。

そのときは、いったん権力を行使しない――つまり何も与えず、何もしないことが唯一の正解になる。「本当に今のままでいいのかい?」と、ラストチャンスで声をかけるくらいは可能かもしれないけれど。

もし誰かが、中学生くらいの甥っ子・姪っ子におこづかいやら進学祝いやらのお金をあげてしまって、それをゲーム課金に使われてしまうようなことがあったら、

それは、その人が「負けた」ことを意味します。ムダなことをしてしまった。あるいは、唯一権力を行使できる機会をうまく活かせなかった。

本来は、自分の思いをその子に伝えて、せめて交換条件を提示する。そこまでが自分にできること。

伝わらない、聞かない、交換条件を受け入れない――というなら、権力を行使しない。与えない。

自分にできるのは、そこまでです。

親であれ、先生であれ、その他の大人であれ、自分の手が届く(影響力を行使できる)範囲で、適切に権力(いい意味ですよ)を使う訓練を積むことです。

気兼ねしたり、言葉が出なかったり、相手のご機嫌をうかがったりして、権力をうまく使い損ねた時は、自分の負け。まだまだ力不足(智慧と覚悟が足りない)ということです。

子供になくて、大人にあるのは、体力だったり、言葉だったり、お金だったり、智慧だったり、体験だったりします。いろんな権力の源泉がある。うまく使えば、プラスの影響力を行使できる。

それをうまく使える大人を目指すこと。


力が及ばないことには、ヤキモキしない。相手と自分は違う人間なのだから。妄想を広げない。

でも力を及ぼせる限りは、子供の状況を理解し、将来のことも想像して、どうしたいのか、どうするつもりなのか、このままでいいのか、

子供の立場に立って、子供自身にまだ見えていない部分のことも考えながら、


でも押しつけるのではなく、理解者であろうと意識して、なおかつ毅然と向き合う――という自分をめざすことになります。


大人が子供に向ける思いには、執着も、慈しみも、慢も、妄想も、混じるものです。距離が近い関係性なら、なおさらです。大人の側の思いをきれいに区別する必要はないし、できない可能性のほうが高いものです。

むしろ、自分が権力を行使できる範囲--まだ言葉が届く、影響力を及ぼせる範囲を明確にして、

そうした範囲(立場)に自分がまだいる間に、

自分なりのベストを尽くす――子供の将来にとって何が価値あることかについて、自分なりに答えを出す、伝わる範囲で伝えようと努力する。

大人として関わることは、その繰り返しであり、それだけでよいのだろうと思います。

イラスト満載の『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書から

 


2024年11月下旬



こころを洗う技術


『心を洗う技術』SBクリエイティブ 重版決まりました^^*

ブディズムの教科書(図解入り)です。仏教を学びたい人は、まずコレ一冊。

やっぱり紙の本がお勧めです。「読んだ」「モノにした」という実感が残るのは、やはり紙の本。体を持った人間には(※ここ大事)、目と指先で直接知覚するほうが、脳に刻まれる深さと量が違うはずです。

 





人生の選び方


人生を選ぶとは、手にしたものを何に使うかを選ぶことだ。

何を考え、何を語り、何を行動するか。時間を、お金を、何に使うか。


たいていは、自分が最初に思いつくこと、衝動、欲求、願望、都合、打算計算で選ぼうとするのかもしれない。

だが、仏教を知ると、別の考え方をするようになる。


手にしたものを、自分以外の誰かのため、世界のため、未来のために使う――という発想が入ってくる。

自分を越えた価値のために、手にしたものを何に使うか、を選ぶ。


今進めている「寺子屋」は、半世紀以上生きてようやくさずかったものを活かそうという試みだ。

いつも考えるのは、この場所は誰のためか?ということ。

自分のためでは、あきらかにない。自分の寿命(時間)なんて、そう長くはないのだから。

人はあっという間にいなくなる。私も同じだ。
 

だから、自分のためというより、自分の後に残る家のため。

未来に残るのは、自分ではなく家のほうだから。

では家は誰のためかといえば、その土地のため、その土地の未来に生きる人たちのためということになる。

土地にとって、未来にとって価値あるものを残せるかもしれない――そうした思いこそが、家づくりという冒険を引き受ける理由になる。

 

人生は短いからこそ、人生を越えた価値を見据えて生きることなのだろうと思う。

それがはたして可能かどうか、

今のところ、不可能ではないという場所にいる。可能かもしれないという地点に。
 

人が最後に選ぶのは、希望であり、未来につなごうというポジティブな意志であるべきだ。

そうした、自分を越えた本当に価値ある選択こそが、人生最後の選択肢。

そのことがわかっていれば、正しく生きている――価値あるものを選んで生きているという納得に帰ることができる。

何が人生で大事なことかという道を、見失うことなく生きていける。



2024年11月下旬


志望校が決まったら(勉強編)


考えてみたら、学校の勉強を真面目にやれば志望校に近づける・・というノー天気な発想を持っている中高生は、今の時代も多いのかもしれません。

そういう人たちは、2、3年生になって、そろそろ受験だ~という周囲の雰囲気を感じてようやく「勉強しなきゃ」という気になって、

塾や予備校に通うのだけど、結局ゴールを見ていないから、真面目に通うしお金もかけるのだけど、「見切った」(これをやれば受かるという見きわめ)レベルに到達する前に、受験本番を迎えて、

運が良ければ受かるし、運が悪ければ落ちる――「やったー」(前者)「残念だったね」(後者)という感想をもって、それぞれの進路に進んでいく・・というパターンが多い気がします。

こういうのは、「通過儀礼」としての受験であって、「狙って確実に突破する」受験とは違います。

正直、もったいないと思います。そもそも学校と受験は、まったく別の世界だから。二つは連続していない。受験は独自の世界。学校の勉強とは別物。



今考えてみると(記憶を検索・・・)、超進学校の勉強が得意な生徒は、学校の勉強はほどほどで、受験を見据えた勉強は、別のところでしっかり、ちゃっかり、ひっそりやっていたように思います。

彼らはどこか余裕こいてる(笑)。学校の勉強はそこそこ、ほどほど。遊んでいるように見えなくもない(これは地方の進学校より、都会の超進学校に顕著。彼らは受験とはどういうものかが、肌感覚でわかっている・・情報格差か。うーむ)。

でも押さえるべきはしっかり押さえていて、受験直前になってスパートかける。競馬でいう「まくる」感じ? で、あっさり合格していく。なんか憎たらしい(笑)。

冷静に分析すると、彼らは受験を先取りしていたから、そういうことができるのだと思う。中学生だからといって、中学の教科書や参考書を使ったりしない。先取りして、高校の参考書を使っていたりする。高校になったら、大学受験参考書。浪人生が使うのと同じ本。



数Ⅰ・数Ⅱみたいな不自然な分類が、数学の世界にないことも知っていた。彼らは「ベクトル」とか「代数」とか、そういう体系別の(先取りした)本を使っていた。

「難しそう」と思うのは、学校の勉強というトリック・罠にかかっているから。実は先取りしたほうが、よくわかる。そういうもの。

受験は、下から(学生や学校の先生から)見れば「受験」なのだけど、出題する大学の先生から見れば、ふだんやっている「学問の棚卸」(たなおろし)みたいなもの。日頃やっている研究や関心を「問題」という形に変えて、受験生向けに聞いている。

だから受験の成功を決めるのは、終わりから、ゴールから、上から見ること。

英語も国語も歴史や自然科学や数学も、「学年」「学校」という不自然な枠を取っ払ってみたら、それぞれの科目・分野を貫く手順や知識というものがある。
 

※ちなみに昔、私がやっていた寺子屋では、中2男子が東大の現代文をフツーに解いて正解を出していた。特に優等生というわけでもないフツーの子。ある程度文章を読める力があれば、あとは「論理的な読み方」をマネれば、学年を問わず問題は解けるということ。共通一次も二次も同じ。

どの科目にも、学年を越えた「本質」とでもいえるものがある。その一端が試されるのが、入試。というか前者が本質であって、後者(入試)は人為的・制度的な区切りでしかない。

本質部分は変わらない。入試制度がどんな改正・改悪を重ねようと、学ぶべき本当の対象は「本質」部分だ。

本質は、目先の勉強ではなく、目線を上げて、もっと先のゴールを見据えた方が、よく見える。

入試は、「下から」見上げずに、「上から」見下ろしてしまうこと。先取りしちゃう。中学生・高校生なら、大学受験用の参考書や問題集を使いつつ、「上から目線で」学校の勉強にも「お付き合いしてあげる」w。



「難しそう」と思わないでほしい。先取りするという発想が身に着けば、学校の勉強は簡単に見えてくる。簡単に見えるような勉強の仕方を始めよう。

他にもいくらでもアドバイスはできる。来年夏には寺子屋が完成するから、最初は志望校が決まった中高生相手に、とっておきの受験指南、いわば秘儀を伝授しようかと勝手に思っていますw。



2024年11月下旬



SNS vs. オールドメディア


今日の講座(栄中日文化センター2024年11月)では、SNSとオールドメディアについて話をした。


必要なのは、<事実>と<主観>と<知見>という3つの視点。

<事実>  調査・分析・裏付けが必要――マスメディアに期待されてきた取材力。

<主観>(自分はこう思う・こうに違いないという意見)――人の数だけ存在する。歯止めはかけられない。SNSという便利な道具ができれば、それぞれの<主観>が語られることは当然。

多くの<主観>が並び立つ状態は、プラスの価値を持ちうる。自由。公平。多角的。そもそもマスメディアはこうした企業倫理を持つべきものとされている(されていた?)。

<事実>と<主観>をどう見るか――<知見>が大事になる。専門的な知見を<専門知>と呼び、人々が共有できる全体の利益についての知見を<公共知>と呼ぶ。

これは個人の<主観>を越えた、全体に通じる利益・価値につながるものでなければならない。

<事実>を掘り下げ、多様な<主観>を並べたうえで、どのように見ればいいかを、「全体の利益につながる」ことを前提条件として、整理し、提示する。それが<知見>というもの。

そうした力を持つものが、社会的に信頼される情報および言論だ。

信頼されるからこそ、権威にもなる。

独占・寡占・旧態依然による権威ではなく、社会全体の利益に貢献する<知見>を提示することが、権威の源泉になる。


<主観>だけなら、陰謀もゴシップも誹謗中傷も、良心にもとづく訴えさえをも、フラットに並べられてしまう。「私はこう思う、こうに違いない。ゆえに正しい、正しいに決まっている」。そこで思考停止してしまうのが、<主観>の特徴だ。

これは致し方ない部分がある。人間は一つの脳しか持っていないから。


SNS・ネットが信頼を得ることが難しいのは、<主観>だけが並ぶ空間だからだ。<主観>は無限に増えるが、これを<知見>へと昇華させることは難しい。

これを可能にする役割を担う筆頭が、公共放送・報道と呼ばれるものだ。

今やオールドメディアと揶揄されている媒体は、こうした役割を期待されていた。<事実><主観><知見>を示す役割。資本、人材、情報網、調査・分析能力、発信力を持つからこそ、こうした役割を果たすことが可能になる。

断片的な事実だけではなく、さまざまな事実を、調査し、分析し、裏を取って発信する。

多くの主観(自分はこう考える)を、偏ることなく、「公平に」「多角的に」報道する。

さらには、個々の主観にとらわれがちな一般の人々に、事実・主観はこのように見るべきだという<知見>をもって整理する。

その<知見>には、もちろん独自の視点や価値観が含まれることは仕方ないが、それでも「社会全体の利益に奉仕する」という使命を担う前提は一貫している――

それが、マス(大衆)に向けてのメディア、つまり新聞・テレビだとされてきた。


マスメディアがこうした姿を過去どれほど実現していたのかは、冷静に考えるとわからない部分もある。あの戦争当時も、薬害報道も、今回の選挙についても、報道機関・マスメディアは、「本来の姿」からかけ離れていて、偏向、党派対立、イデオロギー、スポンサーへの迎合や忖度、無視や決めつけにとらわれていた可能性はある。

今まではそれしかなかったから、目立たなかった(気づかれなかった)だけなのかもしれない。

だが、今はインターネット・SNSという別の媒体(メディア)がある。これらもまた<事実>の欠落や、偏った<主観>の発信という性質はなくはない(もっとひどい面もある)のだが、


全体を見れば、欠落した<事実>を補い、多角的な<主観>を発信するという機能を果たしつつあるようにも見える。

たしかに社会的価値から程遠い内容も多い。多すぎる。一定の内部手続を経て発信するマスメディアと同じ信頼性を持つことは、全体としてみればまだないし、今後も完全に得ることはないかもしれない。だが、

それでもマスメディア以上に<事実>に迫り、また多くの<主観>の発信に、つまりは公平・多角的な報道・放送に「貢献」している面も出てきている。そうかもしれないとは思う。


SNSを越える信頼性をマス(オールド)メディアが得るには、①<事実>についての調査・分析・取材の力を見せること、②公平で多角的な<主観>を並べて見せること、さらには③どのように見ればいいかという<知見>を掲げる必要があるのだが、

今やマスメディアもまた、都合のいい一部の<事実>を切り取り、偏った<主観>を発信し、専門家・学者・コメンテーターという肩書きを掲げつつも結局は「自分はこう思う」という主観を語るだけ、というレベルに留まるならば、

その情報はSNSと変わらなくなる。これは「敗北」というより、みずからが招いた役割の劣化なのだ。


最も危惧すべきは、マスメディアが、<事実><主観><知見>いずれの面においても、劣化してきたこと。果たすべき機能を果たしていない。

多くの人が、マスメディア(テレビ・新聞)の報道の偏り・不足・独善・退屈をかぎ取り、テレビ離れ・新聞離れという現象を起こしつつあるのは、

こうした機能をみずから果たさなければ(取り戻さねば)という使命感というか矜持というか、マスメディアがマスメディアたりうる根拠を、みずから放棄しつつあるからかもしれない。

 

思えば、コロナ騒動の3年間は、マスメディアの凋落を広く知らしめる出来事だったのかもしれない。人々の不信は、この期間に大幅に増えた気がしなくもない。

さらに危惧すべきは、SNSにせよマスメディアにせよ、価値ある情報とはどういうものか、つまりは<事実><主観><知見>がそろっているか、あるいは、それぞれを構成するどの部分(取材力・分析力・公平性・社会全体の利益への配慮etc.)が欠けているかを指摘する「知力」が欠落しているかもしれないことだ。

こういう部分を示す知力を備えている職業人が、本来の学者・専門家・知識人・思想家であるはずだが、

いつの間にか、だれもが「自分はこう思う」という主観レベルの言葉を語るだけで満足し、罵り合い、結果的に、

社会全体の利益・価値というものを、そろって棄損しているかのような現実が見えなくもない。

<主観>のみを語り、その主観以外の主観を想像することや、まだ見えていない事実を掘り起こすことや、どのように見ることが、社会全体の利益につながるのかという全体を考えない。

全体知の欠落。思考停止。知の劣化――これこそが、最も憂慮すべきことなのかもしれない。


SNSが、マスメディアが拾いきれない、拾おうとしない<事実>を拾い、多くの<主観>を取り上げて、それをもとに人々が考えて動くことを可能にするなら、その点においては、オールドメディアだけだった時代よりは、進歩といっていいかもしれない。

他方、社会全体の利益というものを無視して、事実を捏造・改竄・隠蔽しようとしたり、無責任な主観を一方的に発信して、主観と主観の対立・分断を際限なく増やしたりしていくだけならば、SNSは、社会全体を壊す危険を持ちかねない。

結局は、社会全体にプラスになる価値を増やす方向をめざしてこそ、SNSもオールドメディアも等しく価値を持つ。その方角をめざすべきなのだろうと思う。

 

いずれの側にも課題・問題は山積みなのだが、何が問題で、どこが欠けていて、何を補わなければいけないかという全体像を思い出す必要がある。そのための<事実><主観><知見>だ。3つがそろったメディアこそが、価値のある媒体ということになる。

 

この3つを通して情報の価値を検証する役割を、世に立つ誰かが担ってほしい。

 

ちなみに、事実も主観もうつろいゆくもので、消えてゆくもの、入れ替わるものだ。だが今回お話した<事実><主観><知見>という3つの視点は、メディアが担うべき不可欠の機能であり、時代・社会を問わず通用する、通用させるべき普遍的な知の一つだ。つねにこの3つをもって検証していくことだ。一過性の出来事に騒いで終わりにするのではなく。


こうした普遍的な内容・価値を持ちうる思考を、仏教においては「智慧」と呼び、「ダンマ」と呼ぶ。

もっと智慧が必要だ。こういう話をそれこそSNSで発信すれば価値あるものが生まれるか? そんな話にもなった。



2024・11・19



とある出来事(知事選)にちなんで

 

たぶんもうひとつの根の深い問題は、

事実は何か(まだ解明されていない、それだけの客観的な資料・材料がそろっていない)ということを忘れてしまっていることにあるように思います。

いつの間にか事実が置き去りにされて、それぞれの「こう思う(こうに違いない)」という推測・仮説・期待・希望のほうが真実であるかのように見え始めてしまっている。

「主観」と呼ばれるもの。オールドメディアと揶揄されるに至った媒体にも、SNSにも、それはある。

一番危ういのは、それぞれが「主観」しか見なくなっていることかもしれません。主観だけを選び、語り、発信し、「きっとそうなのだろう、そうに違いない」という主観が増えていく。


そしてもうひとつの問題は、時間という大事な視点が、その場の主観にとって代わられつつあること。時間とは、時系列や文脈ともいえるもの。

過去の出来事(これも事実を通してとらえないといけないものだけれど)と並べて、つなげて、どこがどう変わったのか、あるいは一貫しているのかを考えること。

そうすれば、矛盾、変容、嘘、あるいは確かな変化、反省、成長かということも、見きわめることが可能になる。

もし人それぞれが、個人的に選ぶ主観と、こうかもしれない、きっとそうなんだという妄想だけで今を切り取って、それを真実だと判断するようになれば、過去とのつながり・文脈という視点は切り落とされてしまう。

そうなると、過去をすぐ忘れる。すると嘘や矛盾にも気づかなくなる。善は簡単に悪に、悪は簡単に善に変わって見せることが可能になる。

結果的に、真実も見えなくなる。


「事実」と「時間」の二つは、真実を浮かび上がらせるうえで欠かせないもの。

その二つが、どうやら、どの立場においても危うくなりつつある――というのが、本当は最も目を凝らさねばならないところなのだろうと思います。


ただ、事実と時間を置き去りにして、都合の良い主観のみを切り取って大々的に流すということは、もしかしたらテレビや新聞というマスメディアから始めてしまったことかもしれず、

彼らが信頼を回復するためには、事実と時間を通して真実を浮き彫りにするという知力(過去、取材力、分析力、公平な報道と言われてきたもの)を、

理屈ではなく、実際に発信する情報の中身によって示すことが必要になるはずです。

その努力ができるかどうか。できない、しなくていいというなら、凋落と不信(影響力および売り上げの低下)は避けられない――そういう状況なのかもしれません。

 

社会という大きな器にとって、「時間」を忘れた「主観」だけの言説は、さすがに危うさを秘めているだろうとは思います。

何が嘘で何が真実かわからなくなる。「主観」がつながりあって大きな「主観」を作る一方で、別の「主観」も同じような動きをする。

主観だけなら、分断が生まれます。社会においては分断であり、個人においては孤立と対立です。

 

主観は価値を持つのだけれど(大切なのだけれど)、主観だけじゃ足りないのです。


社会という共通の器を未来につなげるためには。

すべての人は社会という器の中で生きることになるのだから。


※補足ですが、時間を忘れた主観だけの発信は、マスメディアのほうこそ顕著なのかもしれません。その影響力の大きさも考えれば、なおさらそう思います。

SNSにおける主観は、案外、時間(時系列)を精査して事実を掘りこそうという努力が見えることもあります。

ジャーナリズムの役割を、SNS上の私人・市民がやっている・・。

そうした点を見ると、いっそうマスメディアの価値は相対化して(揺らいで)くることも真実です。



2024・11・18


いつかはチョキン✂と


苦しみの原因は執着だ、とブッダは言ったけれども、これはかなり深い洞察に基づいた言葉です(まさにinsight:内側を見抜いた言葉)。

というのも、反応だけなら、いずれ消えるし、生きていくうえで反応は欠かせないものでもある。

(※たまに「反応しないなんてムリだ」と言う人もいる様子だけれど、本で伝えているのは「ムダな反応をしないこと」だ。本の冒頭で言っているのに・・伝えることは本当に難しい^^;)

業については、人生を丸ごと作る(支配する)くらいに強い力を持っているけれども、なぜ業が人生を支配するかといえば、執着してしまうからだ。

業を抜けて、自由を手にして、自分自身の(納得のいく)人生を生きるには、執着を切って捨てることが必要だし、それが始まりになる。


人がなぜ苦しみを背負うのか。苦労を重ねてしまうのか。

そこには、相矛盾する執着が潜んでいることが多い。

ちなみに苦労して家を支えるとか、苦労して子供を育てるというのは、自分で選んで納得して背負っているかぎりは、ここにいう執着ゆえの苦しみには当たらない。納得して頑張って生きている人たちは、尊き人たちだ。

ここで考えようとしているのは、慎重に選んでいるつもりが裏切られたり、うまく行かなかったりする場合。「なんで?」と自分でも首をかしげる事態に遭遇してしまう人のケース。

たいていは、親、子、結婚相手が絡んでいる。身近な人との間で苦労を背負う。

身近だからこそ重い。そして、報われない。

そうした日常の中を、暗中模索、五里霧中気分で生きて、いつの間にか報われない事故のような出来事に遭遇してしまう。

その出来事は、たいていは「外から」だ。事故のようにやってくる。だが不思議なことに、事故に自分から突っ込んでいっているかのような状況もある。

なんで?(なぜ私だけが?)と本音では首をかしげている。でも本人は殊勝に頑張り続けている。頑張れる体力がなぜかある。苦労を背負い続けて、心の体力だけはついているのかもしれない(それも限界があるけれど)。

なぜ望んでもいない苦労をいつの間にか背負ってしまうのか。

たいていは、執着が原因だ。しかも一つじゃない。二つ以上の執着。相矛盾する、ほんとは両立しない執着。

その執着を抱え続ける限り、人生を間違う。


一体自分は何に執着しているのか。どの執着を手放さなければいけないのか。

じっくり見つめて考える時間が必要だ。


それが、その人にとっての人生の転機。再生--人生のやり直し――の始まりになる。


どこで謎が解けるか、つまりは自己矛盾、二律背反の精神状態に気づけるかが、人生の分岐点になる。


最初の転機を迎えるのは、多くは三十代後半だ(※『心の出家』参照)。

しぶとく頑張って(執着して)いるうちに四十代に入る人も多い。

五十前後にもなれば、たいてい持ち前の業と、相矛盾する執着に取り憑かれて、「わけがわからない」状態になっている人もいる。

ブディズムという視点を通せば、なぜ自分の人生がかくもこんがらがってしまったのかは、ほとんど解き明かせる。

どんな迷走も混乱も、「必然」だったとわかる。その必然とは、執着が作り出すものだ。


その執着をほどくことができれば、矛盾、混乱は解消する。本来の自由な心、本人が「自分らしい」と思える自分を取り戻せる。

本当の人生は、そこから始まる。

執着さえ突き止めて、チョキン✂と切って捨てれば、人生をやり直すことは可能だ。おそらく何歳になっても。


今は熟年離婚も増えている。ひそかに「家出」する既婚女性もいる。逆に、振り回されて生き血を吸われてきたかのような夫が目を醒ますこともある。

本来、家とか子育てとか男女の仲とか、社会を未来につなぐために必要とされてきたもの、それはこれからも欠かせないはずのものが、崩れつつあるのが、今の日本かもしれない。

それはそれで痛ましい話ではあるのだが、間違った関係性を続けても、苦労が続くだけで、一人一人が病んでしまうから、

いったん関係性を解消して、自由を取り戻して、本当の生き方を一人一人がつかみ取って、できればその状態で未来につながる関係性をもう一度育てていく、という方角の方がよいだろうとは思う。

(人生は短すぎるから、解消するところまでで精一杯になることが多いけれど。でも始まらないよりは、まだそのほうがいいだろうとは思う。まずは自分らしい生き方をつかもうということだ)。


ともあれ、人生の迷走、混乱、行き止まりは、相矛盾する執着を抱え込んでしまった状態から来る。

その状態のままでは、まっすぐ進んでもなぜか事故る。そういうものだ。

何に執着しているのかをじっくり見つめて、答えを出すこと。

「これか」と突き止めて、チョキン✂と切除する。そうすれば、人生の病気は治る。何歳であっても治せる。


その希望だけは覚えておいてください。

頑張っているあなたに敬意を表します。


2024年11月中旬




踏み出すか、留まるか


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』などの著作に託した内容が、「社会常識」になってくれるくらいに、広く知ってもらえたらという思いはあります。

今はSNSはやっていませんが、近い将来ネットメディアを活用して、もっと情報発信していく時期が来るような(始めなければいけないような)気もしています。

大きな目でみれば、日本という社会から次第に希望が減りつつある気が(ある程度の年齢を重ねたからかもしれませんが)してなりません。

「心の使い方」という合理的な視点を貫くからこそ、広く受け入れてもらえる余地が広がり、その分、希望を増やすことに貢献できるかもしれないと感じています。

ただ、現時点では、ネットメディア(SNS:Y○○T○○○も含む)に出ていく心の準備ができていません・・・。

こうした媒体ではたしてどこまで伝わるのか。時間潰しに使われるだけではないか(お気軽に視聴できるだけに、お気軽な範囲でしか心に残らない)と思わなくもなく、

でもそうした傾向はあるとしても、ならば軽い範囲で届く内容を伝えればいいのではないか、伝わらない(伝えない)より、伝わる可能性があるほうが、よいのではないか、

こうしたメディアを通してでないと伝わらない、出会えない、でも受け止めてくれる人たちもいるのではないか、という思いもあります。

特に思うのは、毎日仕事に追われているであろう勤め人の人たちとか、遠い場所でひっそり暮らしている人たちとか。

そうした人たちに届く、伝わる、出会えるという純粋な価値だけ作れるのなら、やってみる意味はあるかなと思わなくもありません。
 

この点は、ずっと考え続けてきたけれども、まだ答えは出ていません(ずっと思春期(笑)?)。


もし踏み出すなら、みんな幸せになって(なろうよ)、元気出そうよ、という思い全開で、つまりはもとのキャラを全開にして届けたいと思っていますが、そんな動機が通用するような世界なのかどうか・・。






こんな感じ?(『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)




2024年11月中旬

ブディズムの可能性


いや、この一週間はたいへんだった。いわゆるテンパるという状態が続いていた。

『反応しない練習』のコンテンツを講演用のスライドにしていたのだ。引くべき文章はそのまま引き、関連する仏典の引用やパーリ語の解説や本文注釈、最新の話題、仏教以外の関連図書(社会学・経済学・心理学等)のリストや、未公開原稿を付けたりして。

名づけて、『反応しない練習 The Upgrade』。

スライドだが、百ページ近くになった。今後さらに膨らませていくから、最終的にはもっと増える。

徹夜が続いたが、やっと終わった。そして成果を活かす機会が、さっそく完成当日にあった。

『反応しない練習』を解説し、実際に体験してもらう講演会だ。

講演というのは生ものだから、本の活字よりは、伝わる情報量や表現の正確度は落ちる気はしている。だがライブで直接伝えることには、正確さとは違う価値があるらしい。

(考えてみたら、アーティストの音楽も、スタジオ収録とライブ・コンサートは、伝わるものが違う。前者が作品としてのクオリティを上げることをめざす半面、後者は、目の前の観衆にダイレクトに伝える、まさに訴えることをめざす。ライブのほうが圧倒的に声に迫力があったり深みを感じたりすることがよくある(だから泣く観衆も出てくる)のは、それだけ送り手・受け手の心が激しく動いているからだろう。まさにライブだから伝わるものがあるのだ。)


今回は、50ページを超える本に近いスライド資料も用意したから、それなりに価値のあるコンテンツを作れたような気がしなくもない。「読む講演」的な。


『反応しない練習』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』『怒る技法』は、現代社会を生き抜くうえで欠かせないスキルを集めた3部作だ。

これらの作品は、今を生きていくうえで不可欠。だが、ほとんどの人は知らない。合理的な心の使い方、業(ごう)、そして正しい怒り方について(※怒ってはいけないなんていうムリな発想は卒業してくださいw)。

これらを知っているかどうかで、人生はまったく変わってくる。本当は、企業に入った最初の時点で学んでおくべき内容が含まれている。

きちんと読んでもらえば、人生に見通しがつくようになる。ラクに生きられるようになるだろう。そうあってほしいと願う。


一人一人の人間は、広い世界の歯車に過ぎないかもしれない。だが、それぞれが小さな役割を果たすことで、この大きな世界が回っている。

どんな仕事であっても、その人が元気に働いている。それが、社会にとってどれほど大切なことか。

だから、一人として欠けてほしくない。働ける人は、働ける限り働いてほしい。元気に、幸せに。

そういう人としての思いをこめてお伝えして帰ってきた。充実した一日だった。


一人打ち上げとして外食しようと思ったが、いつの間にか値段がグンと上がっていた。久しぶりに(?)スーパーに行ったら、お米だけでなく、いろんなものが高くなっていた。値上げぶりが容赦ない。もはや隠そうともしなくなったようだ。

収入が連動して上がるわけではないから、急に暮らしが厳しくなったと感じる人は多かろう。さながら不意に水位が上がって溺れかけるかのような気分か。

そんな時勢に〇〇党は、ろくでもないことをやっている。あの党は壊れている。だから国を滅茶苦茶にしてしまっているのだ。任せていたら、ますます国を壊して復旧可能になるぞ。ガチで終わらせないとダメだ。この国全体を覆う閉塞感と為政者の絶望的な愚昧さは、この国は過去何度か体験しているはずだが、はてこの先変わる機運は高まってくるのだろうか。


これでようやく休めると思ったら、新聞連載のイラスト描きが残っていた。また徹夜か・・。

でも久しぶりに、集中を継続できた。働いたという実感を思い出した(笑)。

そろそろ本の執筆でも、この継続モードを起動せねばなるまい。



2024・11・13

離婚記念日のススメ

(決断であり、卒業した女性たちへの素直な祝福の記・・)
 
 
今日は、おめでたいことが2回続きました。

その2回とも、内容は限りなく近いものでした。

離婚して、自分の人生に踏み出すことを決意したという女性からの報告でした。

しかも新しい部屋を借りて自分だけの生活をまもなく始めることも、共通していました。


いや、すばらしいというか、おめでとうというか、よくがんばりましたね(祝)というか。


結婚生活を続けてきた背景は若干違いますが、今回の栄えある決断をした相手(夫側)には、共通項があったのです。

どちらも、やはり一言で言うなら「慢の人」だったという。

男という生き物は(と一応男に分類される私がいうのも妙ですが)、慢の生き物であることが多いものです。

それは、男の側が、同じく慢の生き物である父親から学んだ(刷り込まれた)部分もあるだろうし、

母親に甘やかされて慢を育てていった部分もあるだろうし、

生物学的性に由来する部分もあるかもしれません(攻撃性から来る慢。育てる本能を持つ生物学的女性とは異質のもの)。

最初の段階では、その慢はあまり表に出てこなかったとしても、女性の側が合わせたり、そもそも女性が逆らえない性格だったりして、

そういう「一歩下がる」「一段下に立つ」女性の姿を見て、男性(夫)側の潜在的慢が刺激されて、「こいつの上にオレは立って(君臨して)いいんじゃないか?」と思うようになってきて、

こうした潜在意識レベルのやり取りが積み重なっていくと、いつの間にか、男(夫)が完全に上で、女(妻)が完全に下、という関係性にたどり着いている、ということが、頻繁に起こるものなのです。


慢で固まった老いた男という生き物は、共通して、視野が狭く、自己中心的、独善的で、ケチ臭い。

しかも女性(妻)を、絶句レベルで見下し、モノ扱い(私有物)扱いする。

さらにこうした男に共通するのは、中身が空っぽということ。仕事くらいは真面目にやる男もいるけれど、総じて家の中では何もしない。あるいは、妻の領域を脅かすようなふるまいをする。
 
つまりは口うるさく干渉し、やりたいようにやりたがり、妻がやることは(自分のやり方と違うという判断をもって)否定したり、干渉したり、「教育」しようとしたりする。

妻は奴隷か、人形か、ペットか・・言葉にするととんでもないけれども、それくらい妻が人間であるということが見えない。わからない人間。


こうした男は、妻が言い返してくるということを想定していない。妻が反論すると、生意気とか、素直じゃないとか、性根が曲がっているとか、心を持った人間だということさえ認めないような物言いをしてくる。まさに何サマ?と思わざるを得ない言いざま。

その心理には、自分の都合しか見えていない。自分が完全であり、支配者であり、主人である。

対する妻(と「オレが認めてやった女」)は、不完全であり、従順であるべき奴隷であり、奉公人である。「なにしろ養ってやっているんだから」みたいな思い上がりを本気で持っていたりする。

こうした思いを、男は無自覚のうちにやっている(問題だと思っていない)。
 
無自覚だからこそ、本音・本心がポロポロとこぼれ出てくる。
 

女性は次第に、自分が対等な人間扱いされていなかったことに気づき始める。

本当はもっと早くに気づいてもよかったかもしれないけれど、こちらの心にもいろんな課題があって混乱してもいたから、気づけなかった。

でもようやく見えるようになった・・・で、見えたから決断して、行動に移した。離婚、そして脱出。


そういう女性が複数いたのが、今日という日。
 
3連休最後の祝日は、離婚(報告)記念日だったのです。


別れて生きること(離婚)を持ち出した時の、慢の生き物(夫側)の反応は、2タイプあるような気がします。

1つは、何を言っても無駄だというあきらめに立つタイプ。もともと他人だから・・と切り替えてしまう。つまりはそれくらい、実は最初から別の目で見ていた(見下していた・身勝手だった)かもしれないタイプ。

もう1つは、このオレ様に別れを切り出すとは生意気な、許せない、と根に持つタイプ。こちらのほうが多いかも。

こうした人は、過去の財産をどうするかなど、お金のことを言い始める。「損したくない(オレのものだ)」というのが、その本音。

前者のタイプなら、ラッキーと言えなくもない。こちらの執着を手放しさえすればいいのだから。あとは自分の人生を生きるのみ。

後者のタイプなら、脱出まで、もうひと苦労が必要。離婚後の人生のために、守るべきものは守らなければ。そのための作戦を練らなければいけない(ぜんぶ手放しても生きていけるという状況にある女性なら、出ていくだけでいいけれど)。


新しい人生に踏み出す女性が知っておきたい真実をいくつか:

◆長く続いた相手・生活から脱出することは、変化を嫌う心にとっては、それ自体が未知の挑戦であり、恐く、荷が重く、憂鬱で、不安を誘うもの。

でも、それは通過儀礼みたいなもので、避けては通れないが、一日一日を重ねていけば、次第に慣れていってしまう程度のもの。


◆失った時間は、喪失(間違っていた、無駄だった)に見えるかもしれないが、これは心が「そう見せる」もの(いわば錯覚)にすぎない。
 
心は過去に価値を見たくなる。意味があった、頑張った、報われた・・・と思いたがる。

そうした思いを通してみるからこそ、過去は意味がなかったように見える。だが、過去そのものは妄想だから、意味があってもなくても、実は大差ない。

大事なことは、この先の新しい時間をどう生きるか、だ。


◆女性によっては、恐くて足がすくむ・・・といった心理に駆られるかもしれないけれど、住む場所と仕事(生計の手段)があるなら、いずれ必ず新しい生活になじんでいく。

と同時に、自分のために使える時間が増えていく。もう誰にも支配されず、気兼ねすることなく、自分の毎日は自分で選べるようになる。

トータルで見れば、自由が増えて、不自由が消えていくということ。

別れる直前というのは、いわば、久しぶりの長旅に出る直前のようなもの。荷造りがめんどくさいな、やっぱり家にいようかなと思ったりもするが、いざ旅に出て、旅に慣れると、旅の楽しさが入ってくる。

そういうものです。


◆もし新しい自由な人生に足がすくむ思いがする女性がいたら、

いったん目を閉じて、自分のためらいや怯えを自覚して、

「この足を踏み出すんだな、恐いな」と思いつつ、

目を閉じたまま、実際に一歩踏み出してみよう。
 

あら、しっかり足がつく! ことを確認する。そう、それが本当の現実。

 
足がつくし、歩いていける。地面はどこまでも続いている。そっちが本当。

そのうち歩き慣れると、地面がある(足がつく)ことが当たり前になる。かつて落ちるかも、先がないかもと不安がっていた自分こそが、妄想だったのだとわかるようになる。


不安なく、歩きたい方角に歩いていける。
どこに出かけるも、どんな景色を見るのも、自由。


それが離婚した後に始まる人生です。大丈夫。


ある有名な短歌になぞらえるなら、


自分を生きようと決めたから
〇月〇日は離婚記念日


(自由記念日 のほうがいいかも?)
 


「なぜ似たタイプの人と出会ってしまうのだろう?」と思う人へ

 






2024年11月初旬


マイペースは老化のあらわれ?


出家の独り言――

最近、仕事が遅くなった気がしてならない。

仕事とは本づくり(執筆)のこと。

週イチの新聞連載は確実快調に進めているが(落としたら犯罪級なので、これは当然のこと)、

単行本の執筆となると、なかなか進まなくなった気がしてならない。

(気がするというより、確実にそうなっている・・『これも修行のうち」』と『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』は、『反応しない練習』の翌年にほぼ同時期に上梓したのに・・客観的に見ても、あの2作は中身の詰まった本だと思う。それを半年以内でほぼ同時に書き上げたのだ。)

仕事のペースが遅れがちなのは、なぜか。執筆以外の雑事が増えてきたのか・・。

正確にいえば、できることなら新しいもの(路線・内容)をという自分に課するハードルと、慎重にという性分はそのままに、いろんな物事が上乗せされてきたからというのが、正しいかもしれない。

本づくりについても、新たな作業が入ってきた。

新しいものをというハードルをクリアするには、「勉強」せねばならない。

ところがこの勉強が、率直に告白して面白いのだ。

映画を観たり、小説を読んだり・・正直、これだけをやり続ける暮らしがあってもいいかもと思ってしまうくらいに楽しい作業ではあるのだ。

(楽しんでいるだけでなく、作品にどう活かすかという視点で、表現の技法や演出の方法や展開の順序を学んだりと、かなり心はせわしなく働かせているのだが)。

だが、こうした作業は、あくまで自己満足にすぎない。いうなれば、自分優先で、出版社・編集者様本位ではない。

自分のことを優先させて、仕事で関わる人たちにもうしばしの猶予を求めてしまう・・というのは、プロの仕事人としては、劣化であり、老化、退化なのだと思う。

自分で配分やペースを選んでしまう、それが許される気がしてしまう・・・このあたりが、物書きの、いや独立自営業者の老化の現れだ。そんな気がしてきた。


本来なら、依頼者(出版社・編集者)様目線で、速攻で書き上げる! 中身も素晴らしい! しかも多くの読者に届く!! というのが、理想なのだろう。そうは承知しているのだが。

わがまま、マイペースは、老化の現れ。これは受け入れてはならない。

もっと速く! おまえならできる! やれ! 急げ!! と鈍亀になりつつあるかもしれない自分に危惧を覚えつつ、ムチを打つ。

(まずは時間割を工夫しよう・・書く日は書くだけにしないとダメだ・・とまずは初歩的な反省から・・)


もっと頑張れよ、自分。



2024年11月1日
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子供が壊れていく

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

子供が壊れていく・・。

街を歩くと、スマホゾンビ、スマホ奴隷がいたるところに闊歩している。

率直に言って、不気味な光景だ。

目の前に誰がいるかも、周囲がどんな状況かにも意を払わず、小さな画面に目を凝らしている。そのままフラフラと夢遊病者のような足取りで歩いている。

小学生の子供は歩きながらゲーム。いい年をした大人さえも、スマホ、ゲームをやりながら歩いていく。歩いてくる。

地下鉄の階段の前を、ヨロヨロと登っていくジャージ姿の中学生らしき男子がいた。

追い越してながめると、ゲームだった。

図書館でも、ノートや問題集を広げながら、大半はスマホいじり。
友だちと勉強しているようでいて、結局はスマホいじり。

教室でも一見勉強しているフリをしながら、頭の中には、ゲーム、スマホ、タブレットがチラついているはずだ。完全な依存状態だ。

一人でスマホをいじる中学生の姿もよく見かける・・・机に突っ伏して、片手にスマホ持って、親指だけでてれんてれんと、画面を眺めているだけ。

病気だ。もはや病気のレベル。

階段さえ登りきれない、本さえ開けない、虚ろな目をしてジャンクライトを浴び続けて、なんと子供によっては、6時間、9時間、24時間(つまりは寝ても醒めても)ということもあるという。


親も親だ。無責任にスマホやタブレットを与えて(国や学校が今やそれを率先してやっているというなら同罪だ)、歯止めがかからない様子を目の当たりにしても、叱れない。

叱れないなら、最初から与えるな。

子供の脳は、発達途上だ。体験して、考えて、選んで、これからの長い人生を生き抜くための知力・学力を身に着けることが、必須の課題だ。

人は必ず大人になるのだから、その将来のために準備しなければならない。そのために心身を育てること、知力を鍛えること。

学校、勉強というもの自体は、選ぶ余地はある。だが学ぶこと、脳を鍛えることは、選ぶものではなく、生き物として、そして社会に生きる人間として、外してはならないことだ。

脳は、育てるべき時期に育てないと、発育・成長は止まる。

ダラダラ、デレデレと、ただ画面を眺めて、テキトーに指先でいじって、そういう状態がラクだからこそ延々と続けていられるのだが、その程度のことにどっぷり浸かってしまっては、

脳も、心も、体さえも、育たなくなる。

現にスマホに溺れて、一日何もしないで終わる子供たちが続出している。

今が終わっている。ならば人生も終わるぞ。


脳が壊れれば、日常生活も、勉強も、仕事も、この先の長い人生も、何も始められなくなる。まさにゾンビであり、病人であり、奴隷だ。

それだけ忌々しき事態だということは、子供たち・大人たちの姿を見れば、簡単にわかるはずだ。

まともに歩けず、まともに学べず、ラクだけを好み、新たな体験を面倒くさいと思ってしまう。

そんな自分にこの先何ができる? 本当に何もできなくなるぞ。


今を壊して、未来をも壊す。取り返しのつかないことをしてしまっている。


親が、大人が、それを許容してしまっていることも、実に罪深い。
中には、親がスマホに夢中で、幼い子が手持ち無沙汰という光景も、目にすることがある。

大人たちがスマホゾンビ化しているから、子供に叱るとか、厳然たるルールを作るとか、そういう覚悟が出てこないのだ。

脳が壊されている。学習障害、発達障害・・当たり前だ。

こんなことをしていたら、障害どころではなく、人生そのものが壊されてしまう。

親のせいであり、社会のせいだ。壊れつつあることに気づかないのか?


酒・タバコ、 公営競技(いわゆる賭け事)は、二十歳から。それだけの有害性・依存性があるからだ。

ドラッグ(覚せい剤・麻薬)は禁止。人生を滅ぼしかねないからだ。

スマホ、ゲーム、タブレットも、同様の危険性はあるのだぞ。

なにしろ脳を壊し、時間を失う。一度失った脳も時間も取り返せない。ラクだからこそ依存性もある。取扱い注意の危険物だ。


手遅れになる前に、年齢制限をかけるべきだという立場に賛同する。

だが、ぬるま湯に浸かりすぎたこの社会においては、規制の動きには反対する声が上がるかもしれないとも思う。

大人でさえ、自分がどんな病的姿を晒しているかを自覚していないのだから。

もはや社会全体が依存症のレベルに入っているのかもしれない。



取り返しのつかない事態に進みつつある気がしてならない。

子供たちが壊されている。




2024年10月末日

理不尽と闘うということ

※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)


世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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学校に行きたくないという君へ

 ※2024年年内の全講座スケジュールを公開しました(クリック)

 

勉強は、いつでもどこでも自分でもできます^ ^。自分が強くなる必要があるけれど。
 

学校は、たしかにしんどい場所かもしれません。休んでみるのも経験のうちかもしれない^ ^。

(休んでいる間に自分が何を感じるか何をするか、よく観察して、しばらくしてから自分で検証する=どんな意味があったか考える といいかもしれない。)

その間、親は学校の先生に相談してみるとか(学校の対応次第で、どんな学校かわかるから)。

学校は通過点に過ぎないから、もしほんとに苦しいと思うなら、休むのはアリかなと思います。

学校という場所は小さいし、そこで会う人たちは、生徒も先生も含めて、もっと小さい。

一人でクラスにいることが可能なら、行ってみる(周りの様子を見る)のもいいかもしれない(友だち付き合いはあってもなくてもいい、それくらいの話^ ^)。

苦痛でたまらないなら、休んでみるのもいいかもしれない。


ただ、勉強と、高校と、未来にどこかに居場所を見つける(将来の仕事も含めて)ことは、大事にするほうがよいと思います。

それができるなら、場所を選ぶ(学校に行き続けるか休んでみるかも含めて)ことは、自分の選択。

ただし、未来も自分で選択することになるから、しっかり自分で考えて、一つひとつ答えを出していくことかなと思います^ ^。


なんとかなるものです。

とりあえず体験してみるということでよいのかもしれません^ ^


2024年10月末




選挙は行かねば始まらない

選挙は行かねば始まらない。

選挙というのは、

自分の意志が政治に反映されるかとか(→どうせ反映されない)、

世の中変わるか(→どうせ変わらない)という理由で行くというよりも、


「自分にとって」を明らかにする作業です。


まずは世の中をどの方角に変えていきたいかを、

「自分の内側で」確認すること。そのきっかけ。


自分なりに知ろうとして、選んで、意思表示しなければ、「自分にとって」は明らかにならない。

そんな自分は社会につながっていない。何もしていない。

そんな自分が社会に不平不満を持つなんて、おかしな姿ということになる(不満なのに最低限の行動さえしていないのだから)。


政治のことがよくわからない、

一票入れてきたって何も変わらない、

投票したいと思う候補者がいない、

といろいろ理屈はあるかもしれないけれど、


いないなら白票入れてきたってよいし、

ほんの少し検索してみれば、その候補者がどんな人間かをうかがい知ることはできるかもしれない。

普段、ネットニュースを眺めて、名の知れた人のゴシップに詮索・批判できる時間はあるというなら、

候補者が、どんな過去・仕事・生活をその背景に持っていて、

何をめざして、具体的に何をやっているのか、多少は首を突っ込んでみることはしてもいい。

 

自分とすべての点において考えが同じということは、ほぼありえない。

物足りない、不満に思う部分もあるかもしれないけれど、部分的に支持・共通するところがあるなら、その部分だけ支持するという形があってもいい。

 

自分が動いても動かなくても、誰かが議席を取って、いい方向にか悪い方向にか、いずれにせよ世の中は動いてゆかざるを得ないのだから、

まずは
「自分にとって」
「自分の内側で」
「ひとまず」

誰を選ぶか、明らかにしてみてもいい。


政治はどうしたって非合理で、残酷で、醜悪で、低俗で、非生産的なものではあるけれど、

それでも自分の中でどんな社会になってほしいかを明らかにすることは、「自分にとって」意味を持つし、

もし少しでも共感できそうな、この人には政治の世界で頑張ってほしいと思えるような人がいるのなら、

ないよりは、あったほうがよかろう程度の可能性を見て、とりあえず一票投じて、自分の務めを果たすこと。


(もちろん勘違いかもしれないし、裏切られることもあるかもしれないけれど、そのことに落胆・憤懣していても始まらない。「しょせん人間」という諦めは持っておこう。「それでも」とプラスに思える部分を見つけようという話。)


それは、社会のためでもあるし、自分のためでもある。

票を投じなければ、社会と自分の両方を失う。何者でもない自分自身に、放棄という名の一票を投じて、まさに何者でもない日常をただ生きていくだけになる。

それは「自分にとって」意味がない。

 

国政選挙の投票率は、わずか50%強だ。有権者の半分近い人間が、「どうせ変わらない」とか「自分一人投票しても」みたいなところに留まっている。

もし一人一人が、「自分にとって」を明確にし、

その分、自分の頭で考えて、行動して、意思表示するところまで習慣化して、

そういう動く人たちが投票するようになって、

投票率が70%、80%、90%になったなら、

社会は大きく変わるよ。民意を無視できなくなる。恐れるようになる。


(若者が全員投票したってシニア層に勝てないという声は、自前のニヒリズム・自滅思考をもとに語っているだけで、現実を見ていない。

現実を変えよう・変わろうという意志のない人間が、そういうことを語って虚無に導こうとするのです。正しい理解ではありません。)

 

「どうせ変わらない」程度の意識しかない有権者が半分もいる限り、

「どうせ見抜かれっこない」と見くびる政治家が必ず出てくる。


政治家にバカにされているのは、有権者がみずからをバカにしているから。

「自分にとって」を大事にしていないからです。



2024年10月27日






智慧と精進をつなぐもの

とある日の道場から:

(おたよりを紹介して)

この人は、思い立って以降、日々(瞑想を)継続している様子。それが最大の褒めポイントです。

うだうだぐずぐず言って現状維持に留まるか、つべこべ言わずに動き出すか。

それが最初の関門。その次の関門は、続けるかどうか。

続けて習慣化するに至れば、自分の状態に気づく時間が増えます。少なくとも退行(無明=自分が見えてない、ゆえに繰り返す)は、歯止めがかかります。「これ以上に悪化することはない」という状態にたどり着ける。これが、きわめて重要なのです。

結局、心の課題というのは、自分の心を見つめる時間をどれだけ持つかによって、解決できるかどうかが決まります。

心を見つめる時間を作らない限り、心の課題が解決・改善されることはありません。

他方、心を見つめる時間を持つと、自分の心を客観視することで、負の反応ループに歯止めがかかり、妄想やストレスを早く消せるようになり、ひいては業を克服できる可能性も出てきます。

「心を観る」という時間・習慣が、いかに大事か。

この真実を知っている人と、知らない人とでは、さながら天上界と地獄の違いのように、人生に差が出てきます。


ちなみに瞑想の世界では、<智慧>と対比されるのが<精進>です。

悪い意味での智慧が長けた人(いわば小賢しい人)は、小手先の技術や工夫で要領よく成果を上げようとします(そういう人も世の中にいますよね)。こういう人は、精進、つまりは努力・継続を嫌います。

他方、智慧がないまま精進だけする人は、いわば努力と根性で結果を出そうとする人。真面目なのはいいけれども、成果につながらないことが多いものです。

智慧が回りすぎると努力しなくなるし、智慧がないと努力が空回りしてしまう。

このジレンマを克服しようと思えば、智慧と精進を「合体」させて、「正しい方法を継続する」という心構えにトランスフォーム(変換)する必要があります。

瞑想における正しい方法とは、目的に沿った、効果的な、という意味。

力まず、脱力しすぎずという「中道」も、正しい方法の派生表現です。

精進しないと、何が効果的な方法なのかもつかめません。その意味で、実践の継続が不可欠。

その中で自分なりに智慧を働かせて、でも智慧に走りすぎずに、正しい方法を探りながら続けていく。

もしこの人が、そういう道筋に沿ってここまでやってきたというなら、純粋に立派です。

あとは、「心を観る」という発想・習慣をどれだけ自分の生き方にしていけるか、です。


『反応しない練習』夏オビバージョン


悩ましい問い:メディアとの関わり


見つけてくれることは、たいへんありがたく・・。

でも出家の立ち位置からすれば、すぐには乗れない話が、メディアからの依頼。

テレビ、新聞、動画、ネットメディアーー

この社会の幸福の総量を増やすことにつながるか、

それとも一見意味があるように見えて、実は消費されるだけで、まったく意味がないか。

後者の可能性をまったく恐れない人であれば、どんどん乗っかって露出が増えていくのかもしれないけれど、

そうした部分に価値を見ない出家にとっては、前者のみが、メディアとの関わりを決める基準になる。

ときおりお声がかかる。しばらく悩む。せっかくお声をかけていただいたのにお応えできない申しわけなさを背負ってしまう。

かつての対応の一部を抜粋します(ネットメディアの最先端をゆく某メディア様への出家的回答です):


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回、興味深いオファーをいただいたと感じ、前向きに検討するつもりで、ご案内のコーナーを拝見致しました。

・・・・・やはり、SNS(ツイッター)と同じ価値観でプラットフォームを構築されておられるのですね。

目が傷みます×▽×)

記事あるいは個人と読者とのやり取りに、フォロワー数の表示は必要なのでしょうか・・・。

今の世の中・時代が、人の心に過剰に負荷をかけている一因は、純粋な言論・表現に、逐一数値による評価を押しつける節操なき仕組みにあります。ツイッターがその最たるもの。「完全に病気」だと個人的に感じています。

人には承認欲があるので、フォロワー数とか視聴回数とかチャンネル登録者数とか、いちいち数値化されると、どうしても反応して、それに応えようとします。結果的に本来の目的(交流・共有)から離れて、過剰に他人の評価を気にせざるをえなくなります。

ご紹介いただいた方の記事も、自分では制御できない部分まで、自前の承認欲に基づいて妄想を広げて、最終的に疲弊なさったのだろうと感じます。

(妄想に快を感じ追いかけている時がハイで、疲弊した状態がローです。躁鬱とは妄想が作り出す心の病です。思考によっては抜け出せない。妄想を解除しないと。その原点にある承認欲を書き換えないと。)


もともと人の心には、負荷(ストレス)が過剰に達するまでの許容範囲があります。その範囲は人さまざま。

人さまざまだからこそ、画一的な価値観をもって数値化し評価する仕掛けを採用することで、適応しきれない人たちが病んでゆくのです。

過剰な数値化によって人の心を扇動することで、一時的には利用者のモチベーションが上がったり、その数値を見て注目する人が増えたりするかもしれません。ビジネスモデルとしては一見成功して見えることでしょう。

しかし、「数値」というノイズが入る限り、情報の真価・本質が見えなくなります。簡単に見抜けること(自分にとっての価値の高低)さえ見えなくなる。

本質を見極めようと思えば、不必要な情報(たとえば経歴・ポスト・数値)を捨象したほうが、速くたどり着けるものです。今の時代は、必要のない刺激と情報が過剰なために、本質を見極めることが逆に難しくなっている印象があります。

おそらく〇〇〇〇の読者様たちは、価値ある情報を掘り起こすために、選別に相当なエネルギーを使っておられるのだろうと察します。しかも何を語るか、自分をどう見せるかを、目まぐるしく計算しながら・・。

 
現在のSNSの設計は、発信する側にも負荷がかかり、見る側にも負荷がかかります。

その根本的理由は、自己顕示欲をベースに設計しているから。心の病が極北まで進んだ海の向こうの国の価値観(病気)に基づいているからです。同じことをしなくてもいいのに・・・。

数値が価値を持つというのは、一つの価値観。しかし、数値は無駄(なくていい)というのも、正しい価値観です。

価値観というのは、平等。どちらかだけが正しく、優れているということはありません(価値観そのものは妄想だからです(笑))。

二つの価値観が併存してこそ、価値観が豊かだということになります。さまざまな価値観が併存するプラットフォームを作る場所こそが、多様な価値観を実現する、それこそ「一歩先をゆく」場所ということになります。

現時点で、本当に先進的なプラットフォームは、存在するのでしょうか。ないかもしれない。
 

現代の宿痾(止み難き病)の一つは、自己顕示欲・承認欲を煽り、煽られる仕掛け「だけ」が、唯一価値を持つかのように、社会全体が勘違いしていることにあります。


単純に価値観が貧しいということです。その閉塞ぶりが、人々に過剰な負荷を強いている。

この国の人たちが、みな、単一の価値観の中に閉じ込められているように、私には映ります。

他にいくらでも、生き方・価値観・制度設計はありうるのに、みんな「乗っかる」ことに必死で、別の可能性を探そうとしない。

この国が迷走し続けているのは、別のあり方を想像し、かつ創造する知性が枯渇しているからです。

豊かなようで、きわめて貧しく、先進的に見えて、実はかなり遅れている。なぜなら、この世界のあり方を疑い、別の可能性を提起する知性が、ほとんど見当たらないのだから。

みんな、乗っかってしまっている。根底から考えるということをしていない。

と、かように懐疑的なので、今の世界(貴誌のプラットフォームも含め)とは一線を引いて活動しています^^。


とはいえ・・・〇〇様のように見つけてくださる人もいます。それは、とてもありがたいことです。

本当は、 〇〇様のような人たちに向けて、もっと多くの言葉を届けたいとも思ってやまないのですが。

私はSNSも一切やっていません。今の私は、この殺伐とした異常な世界にあって、見えるようで見えない場所にいるのだろうと思います。

それでも本を見つけて、やすらぎを見出してくださる人たちが、たくさんいます。

そうした人たちとつながっていけるなら、それでいいのかなというのが、今の心境です。

わざわざ自分から出ていくことも、過剰な数値化を強いてくる歪な世界に乗っかることも、まだまだ先の話でいいのかなと思っています(永久にないかもしれません)。

ご案内くださったプラットフォームが、もう少し優しい(というか合理的な)設計であるなら――たとえば、フォロワー数をデフォルトで開示するというツイッターもどきの仕組みを採らないことも選択できるなら^^;)、

この世界で頑張って生きている人たちとつながるつもりで、言葉を発することもあっていいかなとは思います。

現時点では、まだ躊躇する思いのほうが大きい次第です(踏み切るだけの名分がまだ見えない)。時機を待ちたいと思います。


多くの人が自分を語り、自分を見せつけたがる、「見た目、痛い」世の中です。


そんな中で、優しさやまっとうな生き方を貫いて頑張る人たち(〇〇様もそのお一人なのでしょう)のことを想って、地道に作品を送り出していきたいと思っています。




2024・10・25
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市井のプロフェッショナル


15日は、名古屋での講座。新規では「オーディオブックを聞いて」とか「新聞連載を読んで」という人が増えた。

新聞連載は12字✕70行しか書けないし、週に一度の読み切りなので、細部をかなり端折っている。今回の連載には書けない部分もある。いずれ機会があれば、すべての出来事を明らかにしたいと思っているが、その機会がいつ来るかは、わからない。

この講座では、膨大な原始仏典の中から、比較的、世俗の人に伝わりやすい&興味を持ってもらえそうなエピソードを、自前で翻訳して紹介している。

本当は全編訳していきたいのだが、内容が非現実的だったり、高度すぎたり、観念的過ぎたりする部分も多く、ついてきてもらえないだろうと思って省略している。

すべてを伝えようというのは執着だ。その人に伝わる範囲で伝わればいい。

そうした脱力があるから、みなさん気軽に集まってくる。シニアの人たちもいい表情だ。末永く続けられたらと思っている。



翌々日、奈良某所。どっちゃりと溜まった廃材を引き取りに、業者の人たちが来てくれた。午後3時すぎに現地に着くと、あれだけあった廃材がきれいに無くなっていた。恐れ入った。

あの廃材・残材・私物は、本来は他の人間たちが責任をもって処分せねばならないものだ。ところが彼らは無責任・不誠実の極みで、すべての責任を放棄した。そういう人物たちも世の中にはいる。

だが今回の業者さんは、わずか3人で、6時間ほどかけて、すべての残材を運んで行ってくれた。

しかも午前に電話があって、「予想以上に量があって、今日一日じゃ終わらないかもしれません」と言ってきた。

恐縮して、「たくさんあってすみません、追加料金はお支払いします」と言ったら、

「いえ、これは私たちの問題なので、追加はいただきません。ただ、今日中に終わらないかもしれないことだけ、お詫びしたかったのです」と言う。

実際は、無事一日で終わったのだが、昼食を抜いて作業してくださったという。現場は車が入れない路地裏なので、近くの駐車場に止めた3トントラックまで人力で運ばねばならなかった。そういう多大な労も引き受けて、仕事終わりの晴れやかな顔をなさっていた。

こういうことは気持ちだ。見積もりの額の他に、せめてもの御礼を足してお支払いした。


こういう人たちがプロなのだろうと思う。手を抜かず、依頼者に迷惑をかけず、裏切らず、自分が言ったことは確実に遂行して、できなかった部分は自分が持ち出してでもやり抜こうとする。

本物の矜持を備えたプロフェッショナル。年齢も肩書も関係がない。すさまじく高い職業倫理を持った、胸のすくような人たちだ。

そうしたプロの青年たちと比べるのは実に野暮だが、今回の残材を放り出して逃げ続けている無責任な男たちがいる。彼らに最低限の誠意や責任感があれば、今回のプロの青年たちにお願いせずにすんだことだ。

世の中、カッコばかりつけて、キレイごと言って、エラそうな肩書きを集めながらも、都合が悪くなると嘘、難癖、屁理屈をつけて、逃げまくる罪深き人間もいる。カッコ悪さの極み。

こうした人間は責任を負うということを学ばないから、いつまで経っても成長せず、最後は罪人としての馬脚を露わにしてしまう。


そうはならないように、本当に今のままでいいのですか?(いずれ社会に知られることになりますよ)と伝えても、耳を塞いだままでいるらしい。


本当の矜持を持ったプロフェッショナルな人たちと、話にならないレベルの人たちと。

人生の理想は、後者に遭遇せず、前者にのみ出会えることだ。


世の中には、醜悪な人間もいるが、善良な人、心が美しい人、気高く働く人たちもいる。

そういう人たちとたくさんめぐり逢えている今が楽しい。




2024年10月下旬




正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


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<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


◇◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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子供と過ごす先生に向けて

 

幼い子の心情は、大人にうかがい知れないところもあるので、過剰な心配から入らない方がいいかもしれません(特に遅い時間帯は、母親に早く会いたいとか、疲れているとか、いろんな理由がありうるので)。

何をして過ごすかは、大人に決められるものでもなくて、子供が何をしたいかによります。正解はナシ。

夕方以降は園児の数も減るでしょうから、その時間は、その子と先生だけの時間。さて、何をしようか。2人きりなら、2人きりだからこそできることもあるかもしれません。


自分自身が、親に先回りされて、干渉されたり、圧力を受けたり、ダメ出しされたりした体験があると(子供がぐずぐずしていると叱るのも、親が都合のいい妄想だけを見ているからですが)、

子供の心がどっちに転がるかを見守る(子供が何を見つけるかを見ること自体を楽しむ)という心の余裕が持てなくなります。そういう背景もあるかもしれません。


どんな子供も、その子だけに向き合える時間は、貴重だし、楽しいものでは? 何が園児との時間を作る「回路」になるかは、わかりません。それを探ることが楽しいことなのかもと思います。

一緒にいられる時間を楽しむことが、人間・子供相手の仕事の最初かも。シンプルでいいのかもしれません。




講座最新スケジュール11・12月

 
興道の里・最新スケジュールをお知らせします:

生き方として学ぶ仏教講座・最終期は全3回です。
 
11月に2コマ、12月に総括編1コマを開催します。

11月は種田山頭火を題材とします。原始仏教、禅の思想、業と執着など、仏教講座の締めくくりにふさわしい内容です。

専門的な内容も含みますが、生き方に役立つ合理的・実用的な内容です。参加者の質問・相談にもお答えします。
 
今の形での東京での講座は、これが最後です(おそらく)。
 
仏教という枠を越えた内容をお届けしています。初めての方も積極的にご参加ください。
 

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<講座スケジュール>

11月2日・30日(土)および12月(※12月は後日告知します)
18:00~21:00
生き方として学ぶ日本仏教・2024年後期(全3回)

<内容>
仏教を「生き方・考え方」として学んでいくシリーズ講座。原始仏教から大乗・日本仏教まで、仏教思想の全貌を明快に解説していきます。毎回オリジナル資料を使用。世間の話題をめぐる仏教的解説や質疑応答のコーナーも。1回の参加で多くのことを学べます。 一般的イメージと異なる斬新かつ実用的な内容です。
★2024年度は日本仏教編。後期は種田山頭火ほかを予定。全3回。


11月4日(月祝)13:00~16:30
座禅会(瞑想と法話の会)
東京・新宿区 


11月10日(日)18:00~22:00
個人相談会
東京・新宿 

<時間枠> 
➀18:00~18:45 ✕(予約済み) ②18:50~19:35 〇 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ✕ ⑤21:20~22:05 〇
※ ✕(予約済み) 〇の時間枠のみ受付可能です
※ご希望の時間枠と相談内容を事務局までお送りください


10月15日・11月19日・12月17日(火)
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html



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スケジュールの詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。

※参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 

<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。

 

よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
 
興道の里事務局
 

しあわせになるために学ぶんだよ



 

 

新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように座る時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心が若返る。かつてはこれくらいのテンポで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、30分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しく始めようとしていることは、十代までの子供たちに、未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は2本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい。理科・社会・国語という分類を越えた精緻なテーマで巧みに解説している。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある――はずであり、あるべきである。高度な学びにシームレスにつながっている内容こそが、本質だ。

本質を学べる子供向けの本が、けっこう出ていることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで学びの階梯をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。途端に内容が歪(いびつ)になる。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった「概念」のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるかもしれない。だからこそ「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。たとえば世界史--トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? おいおい。そんな単語を年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。世界を見通す手助けになるもの。

今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるか?

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり、概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的(マイ・テーマ)に沿って作り直して、本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。


近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・20代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながる空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月中旬

 

 


日本全国行脚2024 福岡・志賀島


日田を朝に出て、久留米経由で博多に向かう。天神近くの公共施設で勉強会。

どの場所も同じだが、地元で場所を用意してくれる人がいないと、全国行脚は成り立たない。今回も、動いてくださった人がいてようやく開催できた(ありがとう)。


ブログ以外に告知しなかったが、予想以上の数の参加者。最年少は小学3年生。大人たちが日常の苦悩やおどろおどろしい業の話をさっそく始める中で、はて小学生に聞かせてよいのか戸惑う部分もあったが、辛抱できたようだ。父親の圧力に負けてやむなくという雰囲気だったが笑。

ほんとは、子供向けの学びキャンプを別立てで開催すればよいのだ。親のほうで場所を見つけて声をかけてくれればいい。教材はこちらで用意しよう。


どの場所でも、参加者の関心・質問に応じて答えを組み立てるので、毎回内容が違う。板書する図も変わる。即興で答えることで、自分も思いつかなかった新しい理解(智慧)が生まれる。

内容を準備したことは一度もない。その場で思考を組み立てる。だからこそ生きた智慧が生まれる。

各地の講座・勉強会を書き起こしてテキスト化すれば、かなり面白い資料になるだろうが、作業する時間がない。今は前に進む(新しい体験を積み重ねる)ことに専念しよう。

終わった後も、近くの喫茶店で希望者向けの無料相談会。なるべく多くのものを持って帰ってもらえたらという思いで続けている。

終電で東京に帰る予定だったが、相談者が多くて間に合わなくなった。急きょ宿を調べて、近くのカプセルホテルに泊まることにした。




翌朝は、バスで博多港まで。玄界島や壱岐島へのフェリーが運航中。私が向かったのは志賀島。かの金印「漢委奴国王」が発掘された島。小学生の頃に聞いた知識と地理が、やっとつながった(笑)。

この地に来ると、大陸がとても近く感じる。釜山にも船で行ける。近畿や関東のほうが距離感としては遠い気もする。とはいえ出征するほどの距離でもない。秀吉も無謀な挑戦をしたものだと思ってしまう。


海から博多の街を眺めるのは初めてだ。世界が青い。



西戸崎駅前から市営バスで勝馬海水浴場まで。気ままな一人旅。どこで過ごすのも自由という今日がありがたい。


浴場から少し離れた旅館の裏側で、だれもいない浜辺を眺めてひと休み。



海岸沿いの旅館兼食堂に寄ってみた。アイドルらしき女子の写真やバナーが壁一面に貼ってあるので、誰かとたずねたら、○○坂46の○○○○さん(ファンの呼び名は「○○ちゃん」)だという。

この村出身で、すぐそばの小学校に通っていたとか。私が偶然立ち寄ったのは、彼女が高校時代にバイトしていた旅館・○○荘だった。

そうかあ、○○ちゃんはここで育ったんだ、オーディション受けに東京まで行って、以来、乃木坂で頑張っているんだ~♪と思うと、人の背後にある物語が見える気がして感慨深い。急に土地のありがたみが増した気がする(アホですか笑)。


バスに乗って西戸崎駅へ。そこから陸路で博多に戻って新幹線で一路東京へ。

夏の全国行脚、これにて(ほぼ)終了。いや、夏風情を満喫した旅だった。



志賀島の海





2024年8月下旬



日本全国行脚2024 大分日田・咸宜園


羽犬塚から久留米乗り換えで日田に向かった。筑後川が造ったであろう沖積平野に広がる緑を見渡しながら、列車はゆっくりと標高を上げていく。

日田は、山岳のくぼ地に合流する複数の川が造った盆地だ。『進撃の巨人』の作者出身の町だそうで、駅前には「進撃の日田」と銘打った幟やポスターが目立った。物語冒頭に巨人が出現した巨大な壁(ウォール・マリア)に見立てたダムやミュージアムが近くにあるらしい。ファンには楽しい街かもしれない。




駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。






創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。

その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。

咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。

入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。

明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。

咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。

特徴的なのは、試験を毎月実施して、席次を決めたこと(月旦評)。最上級から最下級まで19等級に分かれて、各級にも上下があった。

筆記(書・詩・文・句読)と平常点と口頭試問で成績を評価。全員の名前と順位を掲示。入った時は横一線だが、ひと月経てば誰が優秀かはすぐわかる仕組みだ。このあたりは進学塾の先駆け的匂いも感じる。

順位をつけることは、モチベーションにつながる部分もあろうが、度を越すと順位を上げることが目的化するおそれがある。成績上位の学生に歪んだ優越感や尊大さが育つ可能性もなくはない。咸宜園は、他の教育遺産と比べても、競争原理を採用することに躊躇いがなかった印象を受ける。

さらに目を引いたのは、多くの政治家や官僚を輩出していること。

大村益次郎は、戊辰戦争で官軍側の参謀を務め、明治維新後は日本陸軍の基礎を築いた。

長三州(ちょうさんしゅう)は、勤皇の志士として大村とともに戊辰戦争の参謀を務め、明治維新後は太政官(立法・行政・司法の全機能を担う最高機関)の官僚に。文部省局長として近代学制を主導した。伊藤博文や山形有朋は「門人」とも。

長三州は大正デモクラシーに反対したとも聞く。

咸宜園には他にも、枢密院議長から内閣総理大臣になった清浦奎吾、検事総長・大審院長を務めた横田国臣、海軍軍医総監の河村豊洲、尊皇攘夷活動家で三菱・三井の両財閥を渡り歩いた実業家の朝吹英二、東京女子師範学校長をへて貴族院議員になった秋月新太郎など、明治期の公権力の一端を担う要人を輩出している。

咸宜園が是とした競争原理、上昇欲の肯定が、卒業生の生き方に影響した可能性はないか。少なくとも倒幕から近代化、中央への権力の集中という時代的潮流と整合するような塾風はなかったか。

最も特徴的だったのは、松田道之についての記述だ。滋賀県令、東京府知事などを歴任し、明治政府による琉球処分に「活躍」と記されている。

あきらかに官軍目線(^w^;)。琉球処分とは琉球王国が滅ぼされた出来事だが、それを活躍と言ってしまうのは、さすがに今の時代にそぐわない。

勉強に励み、成績を上げ、塾内トップをめざし、卒業後は立身出世というわかりやすい人生街道。それを礼賛する空気は、かの時代に強かったし、咸宜園の校風だった可能性がある。
 
ということを仮説として考えながら見ていたら、なんと、仮説をそのまま裏づけるといっていい史料があった。「咸宜園の出にして世に名をなせし人々」の名を並べた当時の掲示物があったのだ。
 

この夏日本遺産をまわって見えてきたことは、礼節と人生訓という儒教ベースの教育は共通している半面、それぞれに個性があるということ。あまり語られない点だが、創立者の身分・目線・教育観、さらには時代背景や土地柄が、けっこうな度合いで影響している。
 
だがその影響は、遺産として残る校舎ほどには、明瞭な姿で残っていないのだ。この場所でかつてどんな教育をしていたか、どんな空気が流れていたかを推し量るのが難しい。だからこそ「遺産」なのか。もはや現代に活かせる内容を取り出すのは、難しくなってしまったか。

古い寺を廻った時に感じることだが、今に遺(のこ)る建物は箱でしかない。かつては箱の中に中身があった。生きていた。なぜかといえば、教える者、学ぶ者が、つまりは人間がいたからだ。

人間が消えた箱は、ただの箱でしかない。かつてこんな教育をしていましたという記録が残ったとしても、現在進行形で続く教育がなければ、箱そのものにさしたる価値があるように思えない自分がいる。
 
立派な箱を持った学校・塾・予備校は、今の時代に溢れている。そうした場所が将来に滅びたとして、箱だけをありがたがるだろうか。ありがたい(価値がある)のは、箱ではなく、箱の中身であるに違いない。

教育は、あくまで伝える側と学ぶ側との生きた関係によって成り立つ。学ぶ側は生まれてくる。伝える側の個体はやがて死ぬ。

死んでなお残る、残せる教育とは、どんなものだろう。どうすれば可能になるか。やはり言葉か。いや、言葉だけでは足りないように思う。

最も残さねばならないものは、未来につなぐシステムのようなものだろうと思える。智慧、意志、生き方を継承する仕組み。未来の心に残りうる力を持ったもの。

それが実現すれば、未来にも教育を通して過去の人が生きることが、可能になる。未来に残せるようになる。

システムを残す――という主題をもって、教育を進めていくことにしようか。

  ◇

翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。

あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。

山頭火は九州を好んで旅した。たしかに土地の陰影が深く、地熱というか山の霊力というか、どこをめぐっても本州とは異質の神秘とダイナミズムが足元から伝わってくる気がする。

分け入っても分け入っても青い山(山頭火)。

山頭火のように一族の業に翻弄され彷徨い続けた人間には、九州の地は、心の闇を忘れさせてくれる力があったのだろう。


濃緑の葉を茂らせたイチョウの大木に出会った。石碑には“特攻イチョウの木”とある。日田から飛び立った特攻隊の青年が、この木の上空を旋回して故郷に別れを告げて、帰らぬ人となった。

日本人は、あの戦争を、遠い過去の特殊な出来事としてとらえている。もう二度と繰り返さないだろうと、それくらいに日本人は賢くなったはずだと、少なくない人が思い込んでいる。

だが、人間の業は、そう簡単に変わるものではない。事なかれ主義、周りに合わせて安心してしまう臆病と無思考の業は、今も変わることなく続いている。
 
その顔をのぞかせる出来事は今も起きているのだが、あの戦争と、今の日本社会に起こる出来事は別物だと思い込んでいる。だが実はそうではないのだ。

どうしようもなく根の深い無思考という病。この病が伝播しないように、自立して思考できる人間を育てる努力を始めるしかないではないか。


特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない


ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた 
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ 
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう 
つまりは永遠を生きている

 

水郷の朝 今回の旅で最も絵画的な一枚



2024年8月末