子供が壊れていく

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子供が壊れていく・・。

街を歩くと、スマホゾンビ、スマホ奴隷がいたるところに闊歩している。

率直に言って、不気味な光景だ。

目の前に誰がいるかも、周囲がどんな状況かにも意を払わず、小さな画面に目を凝らしている。そのままフラフラと夢遊病者のような足取りで歩いている。

小学生の子供は歩きながらゲーム。いい年をした大人さえも、スマホ、ゲームをやりながら歩いていく。歩いてくる。

地下鉄の階段の前を、ヨロヨロと登っていくジャージ姿の中学生らしき男子がいた。

追い越してながめると、ゲームだった。

図書館でも、ノートや問題集を広げながら、大半はスマホいじり。
友だちと勉強しているようでいて、結局はスマホいじり。

教室でも一見勉強しているフリをしながら、頭の中には、ゲーム、スマホ、タブレットがチラついているはずだ。完全な依存状態だ。

一人でスマホをいじる中学生の姿もよく見かける・・・机に突っ伏して、片手にスマホ持って、親指だけでてれんてれんと、画面を眺めているだけ。

病気だ。もはや病気のレベル。

階段さえ登りきれない、本さえ開けない、虚ろな目をしてジャンクライトを浴び続けて、なんと子供によっては、6時間、9時間、24時間(つまりは寝ても醒めても)ということもあるという。


親も親だ。無責任にスマホやタブレットを与えて(国や学校が今やそれを率先してやっているというなら同罪だ)、歯止めがかからない様子を目の当たりにしても、叱れない。

叱れないなら、最初から与えるな。

子供の脳は、発達途上だ。体験して、考えて、選んで、これからの長い人生を生き抜くための知力・学力を身に着けることが、必須の課題だ。

人は必ず大人になるのだから、その将来のために準備しなければならない。そのために心身を育てること、知力を鍛えること。

学校、勉強というもの自体は、選ぶ余地はある。だが学ぶこと、脳を鍛えることは、選ぶものではなく、生き物として、そして社会に生きる人間として、外してはならないことだ。

脳は、育てるべき時期に育てないと、発育・成長は止まる。

ダラダラ、デレデレと、ただ画面を眺めて、テキトーに指先でいじって、そういう状態がラクだからこそ延々と続けていられるのだが、その程度のことにどっぷり浸かってしまっては、

脳も、心も、体さえも、育たなくなる。

現にスマホに溺れて、一日何もしないで終わる子供たちが続出している。

今が終わっている。ならば人生も終わるぞ。


脳が壊れれば、日常生活も、勉強も、仕事も、この先の長い人生も、何も始められなくなる。まさにゾンビであり、病人であり、奴隷だ。

それだけ忌々しき事態だということは、子供たち・大人たちの姿を見れば、簡単にわかるはずだ。

まともに歩けず、まともに学べず、ラクだけを好み、新たな体験を面倒くさいと思ってしまう。

そんな自分にこの先何ができる? 本当に何もできなくなるぞ。


今を壊して、未来をも壊す。取り返しのつかないことをしてしまっている。


親が、大人が、それを許容してしまっていることも、実に罪深い。
中には、親がスマホに夢中で、幼い子が手持ち無沙汰という光景も、目にすることがある。

大人たちがスマホゾンビ化しているから、子供に叱るとか、厳然たるルールを作るとか、そういう覚悟が出てこないのだ。

脳が壊されている。学習障害、発達障害・・当たり前だ。

こんなことをしていたら、障害どころではなく、人生そのものが壊されてしまう。

親のせいであり、社会のせいだ。壊れつつあることに気づかないのか?


酒・タバコ、 公営競技(いわゆる賭け事)は、二十歳から。それだけの有害性・依存性があるからだ。

ドラッグ(覚せい剤・麻薬)は禁止。人生を滅ぼしかねないからだ。

スマホ、ゲーム、タブレットも、同様の危険性はあるのだぞ。

なにしろ脳を壊し、時間を失う。一度失った脳も時間も取り返せない。ラクだからこそ依存性もある。取扱い注意の危険物だ。


手遅れになる前に、年齢制限をかけるべきだという立場に賛同する。

だが、ぬるま湯に浸かりすぎたこの社会においては、規制の動きには反対する声が上がるかもしれないとも思う。

大人でさえ、自分がどんな病的姿を晒しているかを自覚していないのだから。

もはや社会全体が依存症のレベルに入っているのかもしれない。



取り返しのつかない事態に進みつつある気がしてならない。

子供たちが壊されている。




2024年10月末日

理不尽と闘うということ

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世の中は、理不尽に満ちている。

理不尽を作っているのは、たいていが傲慢な人たちだ。

彼らは平気で人を傷つけ、害を及ぼし、その後に言い繕い、嘘をつき、難癖をつけ、言い逃がれの屁理屈を語り、

傷つけられた側が、いつのまにか悪者であるかのように見せる術に長けている。

真っ当な人たち、つまり傷つけられた被害者は、自分にも落ち度があったのではないか、自分が悪いのではないか、自分さえ我慢すれば、犠牲になれば、自分以外の何かを守れるのではないかと考えて、

背負わなくていい苦しみまで背負ってしまう。

どんなに被害者側が、なるべく穏当に、他の誰も傷つかないようにと、ひとり苦痛をかみしめ、犠牲・負担を背負っても、

現実に残るのは、傲慢な加害者たちの嘘と無責任と野放図と、何もなかったかのような欺瞞に満ちた日常だ。

彼らは、自分たちが、どれだけ人を傷つけ、損害を与え、苦しみを強いたかについては、最後まで見ないフリを決め込む。「なかった」(むしろ困らされているのは自分たちだ)というのが、彼らの言いグセだ。

こうした人間たちは、放っておいても、決して反省しないし改心もしない。責任を取るという発想は永久に出てこない。

人を傷つけておいて、自分はさも善人であるかのような顔をし続けようとする。

その時点で、彼らは悪人なのです。最もタチの悪い悪人たち。


もしあなたが、誰かに傷つけられて、いったい誰が悪いのか、もしかしたら自分が悪いのかと、まだ混乱の中にいて独り苦悩しているのなら、こう考えてください:


◆問題の原因を作っているのは、「事実」を引き起こした側である。
(その者たちがそんなことを言わなければ、しなければ、こんな事態は、こんな被害は生じていなかったといえるなら、罪を背負うべきはその者たちである)

◆その場合は、理解を求めることは間違っていない。

◆ただし、最終的には社会に理解を求めることになるので、事実(つまりは証拠)をきちんと示す必要がある。

◆いずれにせよ、他人が作った問題については、自分が悪いわけではない。

あなたは犠牲者であって、罪人では絶対にない。

◆被害を被った者は、被害を訴える権利がある。それが市民社会のルールである。


しっかり心を守ってください。

理不尽に対しては、泣き寝入りせず、堂々と被害を訴えてよいのです。






2024・10・27
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学校に行きたくないという君へ

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勉強は、いつでもどこでも自分でもできます^ ^。自分が強くなる必要があるけれど。
 

学校は、たしかにしんどい場所かもしれません。休んでみるのも経験のうちかもしれない^ ^。

(休んでいる間に自分が何を感じるか何をするか、よく観察して、しばらくしてから自分で検証する=どんな意味があったか考える といいかもしれない。)

その間、親は学校の先生に相談してみるとか(学校の対応次第で、どんな学校かわかるから)。

学校は通過点に過ぎないから、もしほんとに苦しいと思うなら、休むのはアリかなと思います。

学校という場所は小さいし、そこで会う人たちは、生徒も先生も含めて、もっと小さい。

一人でクラスにいることが可能なら、行ってみる(周りの様子を見る)のもいいかもしれない(友だち付き合いはあってもなくてもいい、それくらいの話^ ^)。

苦痛でたまらないなら、休んでみるのもいいかもしれない。


ただ、勉強と、高校と、未来にどこかに居場所を見つける(将来の仕事も含めて)ことは、大事にするほうがよいと思います。

それができるなら、場所を選ぶ(学校に行き続けるか休んでみるかも含めて)ことは、自分の選択。

ただし、未来も自分で選択することになるから、しっかり自分で考えて、一つひとつ答えを出していくことかなと思います^ ^。


なんとかなるものです。

とりあえず体験してみるということでよいのかもしれません^ ^


2024年10月末




選挙は行かねば始まらない

選挙は行かねば始まらない。

選挙というのは、

自分の意志が政治に反映されるかとか(→どうせ反映されない)、

世の中変わるか(→どうせ変わらない)という理由で行くというよりも、


「自分にとって」を明らかにする作業です。


まずは世の中をどの方角に変えていきたいかを、

「自分の内側で」確認すること。そのきっかけ。


自分なりに知ろうとして、選んで、意思表示しなければ、「自分にとって」は明らかにならない。

そんな自分は社会につながっていない。何もしていない。

そんな自分が社会に不平不満を持つなんて、おかしな姿ということになる(不満なのに最低限の行動さえしていないのだから)。


政治のことがよくわからない、

一票入れてきたって何も変わらない、

投票したいと思う候補者がいない、

といろいろ理屈はあるかもしれないけれど、


いないなら白票入れてきたってよいし、

ほんの少し検索してみれば、その候補者がどんな人間かをうかがい知ることはできるかもしれない。

普段、ネットニュースを眺めて、名の知れた人のゴシップに詮索・批判できる時間はあるというなら、

候補者が、どんな過去・仕事・生活をその背景に持っていて、

何をめざして、具体的に何をやっているのか、多少は首を突っ込んでみることはしてもいい。

 

自分とすべての点において考えが同じということは、ほぼありえない。

物足りない、不満に思う部分もあるかもしれないけれど、部分的に支持・共通するところがあるなら、その部分だけ支持するという形があってもいい。

 

自分が動いても動かなくても、誰かが議席を取って、いい方向にか悪い方向にか、いずれにせよ世の中は動いてゆかざるを得ないのだから、

まずは
「自分にとって」
「自分の内側で」
「ひとまず」

誰を選ぶか、明らかにしてみてもいい。


政治はどうしたって非合理で、残酷で、醜悪で、低俗で、非生産的なものではあるけれど、

それでも自分の中でどんな社会になってほしいかを明らかにすることは、「自分にとって」意味を持つし、

もし少しでも共感できそうな、この人には政治の世界で頑張ってほしいと思えるような人がいるのなら、

ないよりは、あったほうがよかろう程度の可能性を見て、とりあえず一票投じて、自分の務めを果たすこと。


(もちろん勘違いかもしれないし、裏切られることもあるかもしれないけれど、そのことに落胆・憤懣していても始まらない。「しょせん人間」という諦めは持っておこう。「それでも」とプラスに思える部分を見つけようという話。)


それは、社会のためでもあるし、自分のためでもある。

票を投じなければ、社会と自分の両方を失う。何者でもない自分自身に、放棄という名の一票を投じて、まさに何者でもない日常をただ生きていくだけになる。

それは「自分にとって」意味がない。

 

国政選挙の投票率は、わずか50%強だ。有権者の半分近い人間が、「どうせ変わらない」とか「自分一人投票しても」みたいなところに留まっている。

もし一人一人が、「自分にとって」を明確にし、

その分、自分の頭で考えて、行動して、意思表示するところまで習慣化して、

そういう動く人たちが投票するようになって、

投票率が70%、80%、90%になったなら、

社会は大きく変わるよ。民意を無視できなくなる。恐れるようになる。


(若者が全員投票したってシニア層に勝てないという声は、自前のニヒリズム・自滅思考をもとに語っているだけで、現実を見ていない。

現実を変えよう・変わろうという意志のない人間が、そういうことを語って虚無に導こうとするのです。正しい理解ではありません。)

 

「どうせ変わらない」程度の意識しかない有権者が半分もいる限り、

「どうせ見抜かれっこない」と見くびる政治家が必ず出てくる。


政治家にバカにされているのは、有権者がみずからをバカにしているから。

「自分にとって」を大事にしていないからです。



2024年10月27日






智慧と精進をつなぐもの

とある日の道場から:

(おたよりを紹介して)

この人は、思い立って以降、日々(瞑想を)継続している様子。それが最大の褒めポイントです。

うだうだぐずぐず言って現状維持に留まるか、つべこべ言わずに動き出すか。

それが最初の関門。その次の関門は、続けるかどうか。

続けて習慣化するに至れば、自分の状態に気づく時間が増えます。少なくとも退行(無明=自分が見えてない、ゆえに繰り返す)は、歯止めがかかります。「これ以上に悪化することはない」という状態にたどり着ける。これが、きわめて重要なのです。

結局、心の課題というのは、自分の心を見つめる時間をどれだけ持つかによって、解決できるかどうかが決まります。

心を見つめる時間を作らない限り、心の課題が解決・改善されることはありません。

他方、心を見つめる時間を持つと、自分の心を客観視することで、負の反応ループに歯止めがかかり、妄想やストレスを早く消せるようになり、ひいては業を克服できる可能性も出てきます。

「心を観る」という時間・習慣が、いかに大事か。

この真実を知っている人と、知らない人とでは、さながら天上界と地獄の違いのように、人生に差が出てきます。


ちなみに瞑想の世界では、<智慧>と対比されるのが<精進>です。

悪い意味での智慧が長けた人(いわば小賢しい人)は、小手先の技術や工夫で要領よく成果を上げようとします(そういう人も世の中にいますよね)。こういう人は、精進、つまりは努力・継続を嫌います。

他方、智慧がないまま精進だけする人は、いわば努力と根性で結果を出そうとする人。真面目なのはいいけれども、成果につながらないことが多いものです。

智慧が回りすぎると努力しなくなるし、智慧がないと努力が空回りしてしまう。

このジレンマを克服しようと思えば、智慧と精進を「合体」させて、「正しい方法を継続する」という心構えにトランスフォーム(変換)する必要があります。

瞑想における正しい方法とは、目的に沿った、効果的な、という意味。

力まず、脱力しすぎずという「中道」も、正しい方法の派生表現です。

精進しないと、何が効果的な方法なのかもつかめません。その意味で、実践の継続が不可欠。

その中で自分なりに智慧を働かせて、でも智慧に走りすぎずに、正しい方法を探りながら続けていく。

もしこの人が、そういう道筋に沿ってここまでやってきたというなら、純粋に立派です。

あとは、「心を観る」という発想・習慣をどれだけ自分の生き方にしていけるか、です。


『反応しない練習』夏オビバージョン


悩ましい問い:メディアとの関わり


見つけてくれることは、たいへんありがたく・・。

でも出家の立ち位置からすれば、すぐには乗れない話が、メディアからの依頼。

テレビ、新聞、動画、ネットメディアーー

この社会の幸福の総量を増やすことにつながるか、

それとも一見意味があるように見えて、実は消費されるだけで、まったく意味がないか。

後者の可能性をまったく恐れない人であれば、どんどん乗っかって露出が増えていくのかもしれないけれど、

そうした部分に価値を見ない出家にとっては、前者のみが、メディアとの関わりを決める基準になる。

ときおりお声がかかる。しばらく悩む。せっかくお声をかけていただいたのにお応えできない申しわけなさを背負ってしまう。

かつての対応の一部を抜粋します(ネットメディアの最先端をゆく某メディア様への出家的回答です):


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今回、興味深いオファーをいただいたと感じ、前向きに検討するつもりで、ご案内のコーナーを拝見致しました。

・・・・・やはり、SNS(ツイッター)と同じ価値観でプラットフォームを構築されておられるのですね。

目が傷みます×▽×)

記事あるいは個人と読者とのやり取りに、フォロワー数の表示は必要なのでしょうか・・・。

今の世の中・時代が、人の心に過剰に負荷をかけている一因は、純粋な言論・表現に、逐一数値による評価を押しつける節操なき仕組みにあります。ツイッターがその最たるもの。「完全に病気」だと個人的に感じています。

人には承認欲があるので、フォロワー数とか視聴回数とかチャンネル登録者数とか、いちいち数値化されると、どうしても反応して、それに応えようとします。結果的に本来の目的(交流・共有)から離れて、過剰に他人の評価を気にせざるをえなくなります。

ご紹介いただいた方の記事も、自分では制御できない部分まで、自前の承認欲に基づいて妄想を広げて、最終的に疲弊なさったのだろうと感じます。

(妄想に快を感じ追いかけている時がハイで、疲弊した状態がローです。躁鬱とは妄想が作り出す心の病です。思考によっては抜け出せない。妄想を解除しないと。その原点にある承認欲を書き換えないと。)


もともと人の心には、負荷(ストレス)が過剰に達するまでの許容範囲があります。その範囲は人さまざま。

人さまざまだからこそ、画一的な価値観をもって数値化し評価する仕掛けを採用することで、適応しきれない人たちが病んでゆくのです。

過剰な数値化によって人の心を扇動することで、一時的には利用者のモチベーションが上がったり、その数値を見て注目する人が増えたりするかもしれません。ビジネスモデルとしては一見成功して見えることでしょう。

しかし、「数値」というノイズが入る限り、情報の真価・本質が見えなくなります。簡単に見抜けること(自分にとっての価値の高低)さえ見えなくなる。

本質を見極めようと思えば、不必要な情報(たとえば経歴・ポスト・数値)を捨象したほうが、速くたどり着けるものです。今の時代は、必要のない刺激と情報が過剰なために、本質を見極めることが逆に難しくなっている印象があります。

おそらく〇〇〇〇の読者様たちは、価値ある情報を掘り起こすために、選別に相当なエネルギーを使っておられるのだろうと察します。しかも何を語るか、自分をどう見せるかを、目まぐるしく計算しながら・・。

 
現在のSNSの設計は、発信する側にも負荷がかかり、見る側にも負荷がかかります。

その根本的理由は、自己顕示欲をベースに設計しているから。心の病が極北まで進んだ海の向こうの国の価値観(病気)に基づいているからです。同じことをしなくてもいいのに・・・。

数値が価値を持つというのは、一つの価値観。しかし、数値は無駄(なくていい)というのも、正しい価値観です。

価値観というのは、平等。どちらかだけが正しく、優れているということはありません(価値観そのものは妄想だからです(笑))。

二つの価値観が併存してこそ、価値観が豊かだということになります。さまざまな価値観が併存するプラットフォームを作る場所こそが、多様な価値観を実現する、それこそ「一歩先をゆく」場所ということになります。

現時点で、本当に先進的なプラットフォームは、存在するのでしょうか。ないかもしれない。
 

現代の宿痾(止み難き病)の一つは、自己顕示欲・承認欲を煽り、煽られる仕掛け「だけ」が、唯一価値を持つかのように、社会全体が勘違いしていることにあります。


単純に価値観が貧しいということです。その閉塞ぶりが、人々に過剰な負荷を強いている。

この国の人たちが、みな、単一の価値観の中に閉じ込められているように、私には映ります。

他にいくらでも、生き方・価値観・制度設計はありうるのに、みんな「乗っかる」ことに必死で、別の可能性を探そうとしない。

この国が迷走し続けているのは、別のあり方を想像し、かつ創造する知性が枯渇しているからです。

豊かなようで、きわめて貧しく、先進的に見えて、実はかなり遅れている。なぜなら、この世界のあり方を疑い、別の可能性を提起する知性が、ほとんど見当たらないのだから。

みんな、乗っかってしまっている。根底から考えるということをしていない。

と、かように懐疑的なので、今の世界(貴誌のプラットフォームも含め)とは一線を引いて活動しています^^。


とはいえ・・・〇〇様のように見つけてくださる人もいます。それは、とてもありがたいことです。

本当は、 〇〇様のような人たちに向けて、もっと多くの言葉を届けたいとも思ってやまないのですが。

私はSNSも一切やっていません。今の私は、この殺伐とした異常な世界にあって、見えるようで見えない場所にいるのだろうと思います。

それでも本を見つけて、やすらぎを見出してくださる人たちが、たくさんいます。

そうした人たちとつながっていけるなら、それでいいのかなというのが、今の心境です。

わざわざ自分から出ていくことも、過剰な数値化を強いてくる歪な世界に乗っかることも、まだまだ先の話でいいのかなと思っています(永久にないかもしれません)。

ご案内くださったプラットフォームが、もう少し優しい(というか合理的な)設計であるなら――たとえば、フォロワー数をデフォルトで開示するというツイッターもどきの仕組みを採らないことも選択できるなら^^;)、

この世界で頑張って生きている人たちとつながるつもりで、言葉を発することもあっていいかなとは思います。

現時点では、まだ躊躇する思いのほうが大きい次第です(踏み切るだけの名分がまだ見えない)。時機を待ちたいと思います。


多くの人が自分を語り、自分を見せつけたがる、「見た目、痛い」世の中です。


そんな中で、優しさやまっとうな生き方を貫いて頑張る人たち(〇〇様もそのお一人なのでしょう)のことを想って、地道に作品を送り出していきたいと思っています。




2024・10・25
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市井のプロフェッショナル


15日は、名古屋での講座。新規では「オーディオブックを聞いて」とか「新聞連載を読んで」という人が増えた。

新聞連載は12字✕70行しか書けないし、週に一度の読み切りなので、細部をかなり端折っている。今回の連載には書けない部分もある。いずれ機会があれば、すべての出来事を明らかにしたいと思っているが、その機会がいつ来るかは、わからない。

この講座では、膨大な原始仏典の中から、比較的、世俗の人に伝わりやすい&興味を持ってもらえそうなエピソードを、自前で翻訳して紹介している。

本当は全編訳していきたいのだが、内容が非現実的だったり、高度すぎたり、観念的過ぎたりする部分も多く、ついてきてもらえないだろうと思って省略している。

すべてを伝えようというのは執着だ。その人に伝わる範囲で伝わればいい。

そうした脱力があるから、みなさん気軽に集まってくる。シニアの人たちもいい表情だ。末永く続けられたらと思っている。



翌々日、奈良某所。どっちゃりと溜まった廃材を引き取りに、業者の人たちが来てくれた。午後3時すぎに現地に着くと、あれだけあった廃材がきれいに無くなっていた。恐れ入った。

あの廃材・残材・私物は、本来は他の人間たちが責任をもって処分せねばならないものだ。ところが彼らは無責任・不誠実の極みで、すべての責任を放棄した。そういう人物たちも世の中にはいる。

だが今回の業者さんは、わずか3人で、6時間ほどかけて、すべての残材を運んで行ってくれた。

しかも午前に電話があって、「予想以上に量があって、今日一日じゃ終わらないかもしれません」と言ってきた。

恐縮して、「たくさんあってすみません、追加料金はお支払いします」と言ったら、

「いえ、これは私たちの問題なので、追加はいただきません。ただ、今日中に終わらないかもしれないことだけ、お詫びしたかったのです」と言う。

実際は、無事一日で終わったのだが、昼食を抜いて作業してくださったという。現場は車が入れない路地裏なので、近くの駐車場に止めた3トントラックまで人力で運ばねばならなかった。そういう多大な労も引き受けて、仕事終わりの晴れやかな顔をなさっていた。

こういうことは気持ちだ。見積もりの額の他に、せめてもの御礼を足してお支払いした。


こういう人たちがプロなのだろうと思う。手を抜かず、依頼者に迷惑をかけず、裏切らず、自分が言ったことは確実に遂行して、できなかった部分は自分が持ち出してでもやり抜こうとする。

本物の矜持を備えたプロフェッショナル。年齢も肩書も関係がない。すさまじく高い職業倫理を持った、胸のすくような人たちだ。

そうしたプロの青年たちと比べるのは実に野暮だが、今回の残材を放り出して逃げ続けている無責任な男たちがいる。彼らに最低限の誠意や責任感があれば、今回のプロの青年たちにお願いせずにすんだことだ。

世の中、カッコばかりつけて、キレイごと言って、エラそうな肩書きを集めながらも、都合が悪くなると嘘、難癖、屁理屈をつけて、逃げまくる罪深き人間もいる。カッコ悪さの極み。

こうした人間は責任を負うということを学ばないから、いつまで経っても成長せず、最後は罪人としての馬脚を露わにしてしまう。


そうはならないように、本当に今のままでいいのですか?(いずれ社会に知られることになりますよ)と伝えても、耳を塞いだままでいるらしい。


本当の矜持を持ったプロフェッショナルな人たちと、話にならないレベルの人たちと。

人生の理想は、後者に遭遇せず、前者にのみ出会えることだ。


世の中には、醜悪な人間もいるが、善良な人、心が美しい人、気高く働く人たちもいる。

そういう人たちとたくさんめぐり逢えている今が楽しい。




2024年10月下旬




正しく生きることの意味(原始仏典から)

名古屋・栄中日文化センターで開催している仏教講座から一部抜粋します。

価値のある知識および生き方の両方を学べるように構成しています。

かなり硬派。でも教材の専門性(いわゆるガチ度)とは別に、講座そのものはゆるめの楽しい雰囲気で毎回やっています。

自分を向上させるには「学び」が必要です。

学ぶきっかけとして、活用していただければと思います:

 

正しく生きることの意味
Mahādhammasamādānasutta
Majjhima Nikaya 46

                            
 私はこのように聞いております。あるとき世尊は、サーヴァッティ近く、ジェタ草苑のアナタピンディカ長者の僧院に滞在しておられました。そこでこのような対話をなさいました――。

「道の者たちよ、人々はこのような願い、欲望、期待を持つものだ。ああ、嫌いなもの、欲しくないもの、気に入らないものが減って、好きなもの、望ましいもの、気が合うものだけが増えてくれたら!と。だが現実には真逆のことが起こる。それはなぜだと思うか?」

 弟子たちは、自分たちの見解を述べるよりも、純粋にブッダの言葉を聞くことを求めた。その真摯な姿を受けて、ブッダは話し始めた。

「生き方を知る(*原典は「高貴な」)人々に出会ったことがなく、その教えについて鍛錬も習熟も得たことがない者がいるとしよう。彼らは自分が取り組み、育むべき実践(修行)を知らない。どのような習慣を避けるべきかも学んでいない。

 そこで彼らは心赴くままに、手を出すべきではないことに親しみ、育てるべきことを鍛錬しようとしない。結果的に、好ましくない、望ましくない、気に食わない物事が目につくようになる。他方、好ましく、望ましく、気に入る物事は目に入らないようになる。これが道理を知らぬ者の定めである。

 だが、学のある(≒生き方を知っている)修行者は、そのように生きる(高貴な)者と出会い、その教えを習い、鍛錬し、習熟している。彼らは真実の人と真実の生き方を知っている。自らが鍛え育むべき実践(生き方)を知っており、手を染めるべきではない習慣も理解している。

 ゆえにおのれがなすべき実践に励み、遠ざけるべき物事から離れている。こうした心がけで生きるとき、好ましくなく、望ましくなく、気に入らない物事は減り、好ましく、望ましく、気の合う物事が増える。それが道理を知る者の定めである」。


<解説>

“執着”(維持したがる心の状態)は、みずからの反応の繰り返し(再生、いわば輪廻)と、生活環境、人間関係によって支えられる。反応の繰り返しは、そのことを思い返す(妄想する)ことで生じる。

 自分を取り巻く生活環境は、同様の刺激を心に与えることで、同じ反応を繰り返させる。同様の反応を促してくるのは、関わる他者も含まれる。

 学ぶとは、そうした執着状態にある心とは異質の生き方を聞いて、理解して、考えて、納得して実践することである。これは学ぶことでしか得られない。執着したがる心は、同じ反応を繰り返すことに全エネルギーを使うので、“新しい生き方”は発想として出てこないのである。

「なぜ自分は繰り返し不快な人間や苦痛な出来事に遭遇してしまうのだろう?」という問いへの答えは、「すでに不快・苦痛な人間や出来事に遭遇して思いきり反応してしまったために、執着状態に陥っているから」という説明が正しい。

 執着した心は、おのずと、同様の反応ができる刺激のほうに向いてしまうのである。「まったくどいつもこいつも‥」と文句を言っている人は、不満を覚えつつも、文句を言えるような相手だけを見ているのである(慢を満たせる快楽が、その状態をいっそう長引かせる)。

 問題は、不快・不満のループに見事に嵌っている自分自身を、相対化・客観化できるきっかけがあるかである。「バカバカしい。このままではいけない」と、多少の聡明さがある人間ならば、おのずと気づく可能性もある。だが執着に心が支配された人は、永久に執着し続ける。

「学び」は前者に属する人を助けてくれる。学びそのものが、執着を抜け出すきっかけになることもある。

 歳を重ねると、学びの機会が減ることも多い。すると執着しか見えなくなる。執着に慣れすぎて、学びの機会が視界に入らなくなることもある。

 この点において、学びの機会に恵まれた時期、つまり子供・青年時代は貴重ではある。できることなら、執着し始める前に「生き方」を知っておくほうがよいが、執着による苦しみを体験しないと生き方に目覚めないことも、真実である。「学ぶ」という営み自体が、執着する生き物である人間には、「高貴」であるに違いないのである。


*執着を劇的に強化する行いが、「四六時中スマホ」かもしれない。好ましいもの、望ましいものが欲しいという発想さえ駆逐されて、他人事への詮索、判断、妄想、気に入らないこと、不平不満、倒錯した正義感などへの執着に、心が占領されてしまう。

 こうした事態に陥ると、もはや学ぶという営みから切り離され、ひたすらネガティブな執着だけを繰り返して、そうした自分に気づくこともなくなる。執着の終着地点は、“心の廃人”かもしれないということである。



栄中日文化センター10月期開催中(単回の受講も可能です)

2025年は3月第3週の特別講座から始まります

お問い合わせ 0120 - 53 - 8164

https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html




心の健康と若さを保つ基本


*『反応しない練習』はモンゴル語、スペイン語、ドイツ語での翻訳出版が決定。『怒る技法』はアメリカでの出版が決まりました。


<おたよりから>

強い執着があると、色んな方向に向かっていくつも妄想が生まれる悪いスパイラルのような現象、自分にもあったなと思いました。

私は、寝付けない時は本を読みながら眠りにつくと上手く入眠出来ることが多いです。今は「消えない悩みのお片づけ」がスタメンです。(時々スタメンは入れ替わります)

選ぶのは、その本の内容に集中出来て、尚且つ気持ちが穏やかになるものがいいみたいです。私の場合、小説はあまり向かないかも。先が気になったり感情移入したりで交感神経が活発になっちゃう気がします。

それでも日曜日の夜は寝付けない事が多いです…リラックスした休日と、思うようにならないのが常である現実の世界で闘う月曜日からの1週間が憂鬱だ、という妄想があるのかもしれません。

土曜日も仕事が多いので、なかなか無い貴重な休みに何をしようかなぁとプランを考えるのが楽しいです。

しかし、何日も前から仕事中にもその事を考えてしまい作業への集中に欠けてしまう時があるのです。楽しみなことに対しても妄想で心が疲れる、ということはあるんでしょうか? 子どもがお出かけ前に具合が悪くなったりとかありますよね? アレも「楽しみな妄想」が心を疲れさせるんでしょうか。

先生がご著者で書かれていた、「そんなん知らんし」と関西弁で呟くのも、どうでもいいじゃんと思えてくる気がするので、気に入ってやっています!(私は東京出身です)


◇◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇◇
<興道の里から>

眠れないときは、玉ねぎを枕もとに置く(または吊るす)と良いそうです。硫化アリルという成分に鎮静効果があるのだとか。

「楽しみな予定」も妄想に違いはないので、ストレスだろうとは思います。意識は複数の妄想に分裂してしまうと、ストレスを感じるものなのです。

余計なことを考えないためには、やはり、目を閉じて目の前の暗がりを見る(現実に戻る)という心がけが、一番効くように思います。

感覚に帰る練習を重ねる。すると、ヘビーでハードな過去さえも、現実の感覚に戻って消せるようになります。

これ、できる人とできない人とでは、ストレス値はものすごく変わってくるはずです。

心の健康と若さを保ちたいなら、妄想を消す練習を重ねることが一番です。



一番気楽に読める本かも

子供にもお勧めです



2024・10・13


親の業を越えて

*次回の講座は、
11月2日(土)生き方として学ぶ日本仏教 18時~
11月4日(祝月)坐禅会 13時~
詳細の確認および参加申し込みは、公式カレンダーでご確認ください。


<おたよりから>
「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」も読み返し、自分を苦しめていた業に気付きました。

私は生家とは距離を取っていましたし、もう「そういう人だ」と思えていると思っていたのですが、いざ母を亡くし、1人で泣いた時に出た言葉は「もっと愛されたかった。」でした。

母の頭は兄でいっぱいでしたし、父は末っ子である妹だけにはとても甘く、可愛がっていました。

そんな2人に私は愛されたかったんだと思います。しかし、愛してはもらえなかったことで、私だけが愛されないのは私が悪いからだと自己否定ばかりしていたのだと思います。
 
でももうそんな人生は辞めたいのです。(略)


最近、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」のポッドキャストを購入しました。落ち着く声で読み聞かせしていただくと、とても心強く思います。

統合失調症は怒りの一種という言葉が、とても腑に落ちました。仏教的に見る病気とはどんなものなのでしょうか。いつか講義で教えて頂きたいです。


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<興道の里から>

同じような境遇の人は、世の中に大勢います。この場所にも。

親という生き物には、持ち前の執着があります。それが自分の過去から来るものか、性格や性差から来るものか、背景はさまざまですが、

親は、その執着を満たせそうに感じる対象に執着します。

たとえば、野心(上昇欲)を隠し持った女性が母親になると、自分の分身として、でも自分を脅かさない存在としての、男の子に執着します。

この場合、娘には執着しないのです。娘は同性だから。もし娘が、自分以上に成功を収めたら自分の立場が危うくなるので、むしろ妨害することもあります(いわゆる嫉妬・敵愾心)。

男親の場合は、男の子はいずれ自分を脅かす存在に見える部分もあり、どうしても執着するのは、異性である娘のほうになります。

親の側で、執着する子供を選んでいるということです。「お気に入り」を見つけるのです。

気に入ってもらえた子供は、愛されていると思います。もちろん自己肯定感も育ちます。

しかも自分を愛してくれた(親からするとけっこう身勝手な執着でしかないのですが)親のことをコピーします。親はいい人。仲がいい。他の兄弟姉妹が親に不満を持つと、「なんで親のことが嫌いなの? いい親なのに」と親をかばいます。

兄弟姉妹が3人になると、執着する親は2人だから、どうしても1人分、執着を向けない(子供の側からすると愛されない)子供が出てきてしまいます。

親が執着するものを持っていない(ように見える)子供。多くの場合は、真ん中の子です。

執着は、愛を求める子供からすると、欲しいと思うかもしれませんが、長い目で見ると、良し悪しがあります。執着を向けられる(愛される)ことが、子供にとって良いとは限らない。

親とそっくりになるとか、親の執着によって自分らしさが歪められてしまうとか。

だから、愛されない=執着してもらえなかった子供は、実はラッキーだったりします。兄弟姉妹の中で、一番親の影響を受けていない(そんな姿を見て、執着をたっぷり向けられた兄弟姉妹は、「あんたは気楽でいいよね、得しているよね」みたいな勘違いを持ってしまうこともしばしば・・兄弟姉妹は、見るものがまったく違うので、わかりあえません)。

本当はラッキーかもしれないのだけれど、淋しさ、自己疎外、自己否定といったネガティブな思いを抱え続けてしまう。

「愛されたかった、でも愛されなかった自分」というところに留まっている限り、どうしたって手にしていないものを求めてしまい、手に入っていない自分を受け入れることができず、

つねに「無いもの」を追いかけてしまうので、現実に向き合えなくなる。失敗も多くなる。気が入らなくなる。自分の人生なのだけど、自分の人生とは思えない・・・そんな空洞を抱えて生きることになってしまいます。

結局、愛されたいというしょうもない(とあえて言ってしまいますが)執着を手放すことが正解になるのです。

もちろん痛みを伴うし、大泣きすることになるかもしれませんが、それは、親が死ぬとか、親と別離することを決意するとか、執着がかなわない現実を受け入れた時に必要になる通過儀礼みたいなもので、

どうせ親は死ぬのだし、愛されなくたって生きていけるのだし、愛されたいという余計な妄想への執着を捨ててしまえば、ありのままの自分だけが残るのだし、

手放してしまえば、どうということはない。その程度のことだったりします。

ちなみに、こう語っている私自身も、かつてはさんざん執着したし、涙した部類です。


潜り抜けてみればどうということはない。でも潜り抜けることが難しく、人によっては一生かけても終わらない・・

執着とはそういうものです。治せるのだけれど、治ることが多くの人にとって難しい病気。

「でも治せるよ(本当は簡単だよ)」というのが、ブッダの教えです。






2024・10・10
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子供と過ごす先生に向けて

 

幼い子の心情は、大人にうかがい知れないところもあるので、過剰な心配から入らない方がいいかもしれません(特に遅い時間帯は、母親に早く会いたいとか、疲れているとか、いろんな理由がありうるので)。

何をして過ごすかは、大人に決められるものでもなくて、子供が何をしたいかによります。正解はナシ。

夕方以降は園児の数も減るでしょうから、その時間は、その子と先生だけの時間。さて、何をしようか。2人きりなら、2人きりだからこそできることもあるかもしれません。


自分自身が、親に先回りされて、干渉されたり、圧力を受けたり、ダメ出しされたりした体験があると(子供がぐずぐずしていると叱るのも、親が都合のいい妄想だけを見ているからですが)、

子供の心がどっちに転がるかを見守る(子供が何を見つけるかを見ること自体を楽しむ)という心の余裕が持てなくなります。そういう背景もあるかもしれません。


どんな子供も、その子だけに向き合える時間は、貴重だし、楽しいものでは? 何が園児との時間を作る「回路」になるかは、わかりません。それを探ることが楽しいことなのかもと思います。

一緒にいられる時間を楽しむことが、人間・子供相手の仕事の最初かも。シンプルでいいのかもしれません。