とある日の道場から:
(おたよりを紹介して)
この人は、思い立って以降、日々(瞑想を)継続している様子。それが最大の褒めポイントです。
うだうだぐずぐず言って現状維持に留まるか、つべこべ言わずに動き出すか。
それが最初の関門。その次の関門は、続けるかどうか。
続けて習慣化するに至れば、自分の状態に気づく時間が増えます。少なくとも退行(無明=自分が見えてない、ゆえに繰り返す)は、歯止めがかかります。「これ以上に悪化することはない」という状態にたどり着ける。これが、きわめて重要なのです。
結局、心の課題というのは、自分の心を見つめる時間をどれだけ持つかによって、解決できるかどうかが決まります。
心を見つめる時間を作らない限り、心の課題が解決・改善されることはありません。
他方、心を見つめる時間を持つと、自分の心を客観視することで、負の反応ループに歯止めがかかり、妄想やストレスを早く消せるようになり、ひいては業を克服できる可能性も出てきます。
「心を観る」という時間・習慣が、いかに大事か。
この真実を知っている人と、知らない人とでは、さながら天上界と地獄の違いのように、人生に差が出てきます。
ちなみに瞑想の世界では、<智慧>と対比されるのが<精進>です。
悪い意味での智慧が長けた人(いわば小賢しい人)は、小手先の技術や工夫で要領よく成果を上げようとします(そういう人も世の中にいますよね)。こういう人は、精進、つまりは努力・継続を嫌います。
他方、智慧がないまま精進だけする人は、いわば努力と根性で結果を出そうとする人。真面目なのはいいけれども、成果につながらないことが多いものです。
智慧が回りすぎると努力しなくなるし、智慧がないと努力が空回りしてしまう。
このジレンマを克服しようと思えば、智慧と精進を「合体」させて、「正しい方法を継続する」という心構えにトランスフォーム(変換)する必要があります。
瞑想における正しい方法とは、目的に沿った、効果的な、という意味。
力まず、脱力しすぎずという「中道」も、正しい方法の派生表現です。
精進しないと、何が効果的な方法なのかもつかめません。その意味で、実践の継続が不可欠。
その中で自分なりに智慧を働かせて、でも智慧に走りすぎずに、正しい方法を探りながら続けていく。
もしこの人が、そういう道筋に沿ってここまでやってきたというなら、純粋に立派です。
あとは、「心を観る」という発想・習慣をどれだけ自分の生き方にしていけるか、です。
『反応しない練習』夏オビバージョン