選挙は行かねば始まらない。
選挙というのは、
自分の意志が政治に反映されるかとか(→どうせ反映されない)、
世の中変わるか(→どうせ変わらない)という理由で行くというよりも、
「自分にとって」を明らかにする作業です。
まずは世の中をどの方角に変えていきたいかを、
「自分の内側で」確認すること。そのきっかけ。
自分なりに知ろうとして、選んで、意思表示しなければ、「自分にとって」は明らかにならない。
そんな自分は社会につながっていない。何もしていない。
そんな自分が社会に不平不満を持つなんて、おかしな姿ということになる(不満なのに最低限の行動さえしていないのだから)。
政治のことがよくわからない、
一票入れてきたって何も変わらない、
投票したいと思う候補者がいない、
といろいろ理屈はあるかもしれないけれど、
いないなら白票入れてきたってよいし、
ほんの少し検索してみれば、その候補者がどんな人間かをうかがい知ることはできるかもしれない。
普段、ネットニュースを眺めて、名の知れた人のゴシップに詮索・批判できる時間はあるというなら、
候補者が、どんな過去・仕事・生活をその背景に持っていて、
何をめざして、具体的に何をやっているのか、多少は首を突っ込んでみることはしてもいい。
自分とすべての点において考えが同じということは、ほぼありえない。
物足りない、不満に思う部分もあるかもしれないけれど、部分的に支持・共通するところがあるなら、その部分だけ支持するという形があってもいい。
自分が動いても動かなくても、誰かが議席を取って、いい方向にか悪い方向にか、いずれにせよ世の中は動いてゆかざるを得ないのだから、
まずは
「自分にとって」
「自分の内側で」
「ひとまず」
誰を選ぶか、明らかにしてみてもいい。
政治はどうしたって非合理で、残酷で、醜悪で、低俗で、非生産的なものではあるけれど、
それでも自分の中でどんな社会になってほしいかを明らかにすることは、「自分にとって」意味を持つし、
もし少しでも共感できそうな、この人には政治の世界で頑張ってほしいと思えるような人がいるのなら、
ないよりは、あったほうがよかろう程度の可能性を見て、とりあえず一票投じて、自分の務めを果たすこと。
(もちろん勘違いかもしれないし、裏切られることもあるかもしれないけれど、そのことに落胆・憤懣していても始まらない。「しょせん人間」という諦めは持っておこう。「それでも」とプラスに思える部分を見つけようという話。)
それは、社会のためでもあるし、自分のためでもある。
票を投じなければ、社会と自分の両方を失う。何者でもない自分自身に、放棄という名の一票を投じて、まさに何者でもない日常をただ生きていくだけになる。
それは「自分にとって」意味がない。
国政選挙の投票率は、わずか50%強だ。有権者の半分近い人間が、「どうせ変わらない」とか「自分一人投票しても」みたいなところに留まっている。
もし一人一人が、「自分にとって」を明確にし、
その分、自分の頭で考えて、行動して、意思表示するところまで習慣化して、
そういう動く人たちが投票するようになって、
投票率が70%、80%、90%になったなら、
社会は大きく変わるよ。民意を無視できなくなる。恐れるようになる。
(若者が全員投票したってシニア層に勝てないという声は、自前のニヒリズム・自滅思考をもとに語っているだけで、現実を見ていない。
現実を変えよう・変わろうという意志のない人間が、そういうことを語って虚無に導こうとするのです。正しい理解ではありません。)
「どうせ変わらない」程度の意識しかない有権者が半分もいる限り、
「どうせ見抜かれっこない」と見くびる政治家が必ず出てくる。
政治家にバカにされているのは、有権者がみずからをバカにしているから。
「自分にとって」を大事にしていないからです。
2024年10月27日