「宗教」に迷わされている人へ

名古屋・栄中日文化センターの講座は、12月16日が年内最後。

みなさん、おつかれさまでした。来年は4月から再開します。

3月18日の特別講座・大人になった私たちはどう生きるか? は、すでに満席。16日(日)に臨時増設します。


世の中には、人間はそもそも悪人だとか、死んだら何かに生まれ変わるとか、そういう理屈がまだ存在しているのだそうです。たまにそういうおたよりが来ます。

心はそういうものじゃないのでは?――生まれた時にすでに汚れているというようなものではないし、死んだ後にまで残るような自我は存在しません。

(酒や薬でさえ簡単に飛ぶような意識が、体が灰になっても残る? それはどういう原理で?)。

人間はとにかく欲深だし、妄想が好き。それだけ自我が強烈。そういう人間の心が、あれこれと思いつく限りの、心とは、前世とは、死後の世界とは・・・みたいな理屈が溢れています。


みずからも妄想にまみれている人間は、そうした妄想に簡単に染まってしまう。「そうかもしれない」「きっとそうなんだ」と妄想した瞬間に、人間が作り出した妄想に巻き込まれてしまう。

騙されやすい人、迷わされやすい人の多くは、妄想を自覚していない。ふわふわとたわいないことを考え続けている。だからこそ、他人が語る妄想に簡単に染まってしまう。

さまざまな妄想を繰り広げて、信じて、振り回されて、奪われて、失って、それでも「そうかもしれない」という妄想から抜け出せない・・。その状態自体が罪深い。

いや、妄想をさも真実らしく語る欲深で理屈に長けた人間たちが、罪深い。


人間の心はそもそも汚れてなどいないし、罪も悪もない。本来の状態は。

だがどう反応するかで、悪にも染まるし、関わりの中では罪をも犯す。その意味では人間は愚かだし、罪深い存在であることが多いけれど、だからといってそれが前提だと信じてしまうと、大事なことが見えなくなる。

死後など考えなくていいし、自分が罪深い存在だと否定する必要もない。違うのですよ、そんなことは、人間が勝手に作りだした妄想でしかない。

人間は、生きられるだけ生きて、寿命が尽きれば死ぬ。それだけの存在です。その当たり前のことが、悪だの罪だの、なにか特別な物語(妄想)のネタになってしまう。そうした思いつきこそが妄想だと気づかないとね。


フワフワ、フラフラと妄想しているうちに、人生が終わってしまいます。

他人が作り出した妄想を信じるよりも、自分の心を振り返ってみてほしい。


罪も悪も苦しみも、もともとは(生まれた時には)なかったはず。自分が忘れているだけで。

いったいいつ、何がきっかけで、今の苦しみが始まったのか。どんな妄想を積み重ねて、迷路のような今にたどり着いてしまったのか。

原因は、過去にあるのですよ。心の中に(過去の体験の中に)あるのです。

人間の心は妄想まみれだから、そうした簡単な謎さえも解けない。

でも解決することは、実は難しくはありません。


人を迷わせるくらいなら、宗教は要りません。

解決できないなら、どんな理屈も説明も無益です。

捨てちゃえばいい、人間が思いつく程度の妄想はすべて。

宗教という妄想に見切りをつけるほうが、人は、生きるだけ生きるという当たり前の姿に近づくことができる。それがこの場所の立場です。


いつでも人は自由と幸せを取り戻せるのに。本当に妄想は罪深い。



2024・12月下旬
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ただいま執筆中!


明日15日の東京新聞・中日新聞のイラスト
本文は明日のお楽しみに


新聞連載には年末進行というのがあって、原稿を前倒しで仕上げないといけません。

ということでここ一週間は、本文とイラストのほうに集中していました。

来年2月2日分まで、合計6本を完成! これで私もしばらく他の仕事に専念できます。

『ブッダを探して』は、読者の皆さんからお問い合わせいただいていますが、単行本としてまとめられるかは未定です。

文芸的・自伝的作品なので、文芸に強い出版社にお声をかけてもらえたら・・と思っているのですが。

この作品、週に一本800字ほど、さりげなく、あっさり書いていますが、内容はかなり濃厚かつディープです。仏教や瞑想についても、実はかなり掘り下げた内容を薄口・淡泊にまとめています。

なんとか与えられた連載期間の中で、現代編さらには未来の展望にまで漕ぎつけたいと思っています。



2024・12・14

子育てが難しくなる理由


教育、勉強、学び、子育て・・いろんな言い方が可能ですが、はたして自分に務まるのかどうか。そうしたためらいは、きっと多くの親や先生もお感じになっている(感じたことがある)かもしれません。

ここはいくつかに分けて考えてみることにします。知識、スキル(知的能力およびその伝え方)、そして大人の側の「自分にとって」。


学びには、一定レベルの知識とスキルが必要になるはず。誰でも教える・伝えることができるというわけではなく。

 

(※ちなみに私の場合は、十代の人たちと関わり、伝えた体験から、もう二十年くらい経っているので、もちろん大幅なブラッシュアップが必要にはなりますが、

それでも今の中高生が使っている本を眺めると、正直、学びの本質はほとんど変わっていなくて、しかもその本質さえ見えていないらしいことも見えてくるので、

スキル(生徒にとっては学ぶ、先生にとっては伝える技術)については、おそらく今も十分に通用するような気もします。

知識については、忘れてしまった部分が多いので、子供たちにスキルを伝えつつ、自分も知識を吸収していくことになりますが、そのことで、子供たちにとってのリアルな「覚える」体験を自分も共有できるので、これまたみんな(子供たち)との接点を増やすという意味で楽しめるように思います。)


知識・スキル以外に大人(親・教師)が伝えるべきは、「自分にとって」。生き方や価値観や感性。何に価値を見るか、どんなことに喜びや美しさを感じるか。

いわば、一人の大人として何についてどう思うかという、人間的な部分です。感じ方、考え方、受け止め方、割り切り方、流し方・・のようなもの。

この部分は、知識やスキルと違って、正解はありません。一人の人間として「わたしはこう考える、こう感じる」というところを、そのまま表現するだけでよいのです。


おそらく子育て・教育が苦手・難しいと感じる大人の中には、伝える・教えることが、何か特殊な能力や一定レベルの研鑽が必要で、

それは自分以外の誰かが知っていて、自分は何もわかっていない、

では正解は何か、他の人は何と言っているか、何を教えているか、隣近所は、学校は、塾の先生は、教育の専門家は・・

と周りの様子をうかがってしまうところがあるのかもしれません。

でも、そうじゃないのです。それは、知識・スキルの話。「自分にとって」については、「自分のままでいる」ことが、そのまま伝える・育てることになるのです。

それは、親ならば誰もが自然にやっていいこと。

親が、人間として、どのように感じて、何を価値とするか、人としての思いをそのまま伝えるだけでいい。

知識やスキルが求められる学校や塾の先生も、この点は同じです。知識・スキルのほかに、5分、10分でいいから、世間の話題について自分はどう考えるとか、何かを一緒に見たときに、この部分がこんな風に好きだとか、好きじゃないとか、素直に語るだけでいいのです。

まずは、自分のままでいること。「自分にとって」を伝えること。それが大人が子供に伝えられる最初のこと。

その言葉や姿を見て、子供は、「そういう感じ方・考え方もあるんだ」と学習できるし、それを吸収することも、自分とは違うものとして流す(ときに反発する)ことも可能になります。

大人が一番やってはいけないことは、自分を伝えないこと。伝えることを控えてしまうこと。そうして、ご近所、他の先生、世間、風潮、専門家、インフルエンサー、文科省といった他人に「正解」を委ねてしまうことです。

広い意味で、これも思考停止。子育て・教育がつまらなくなる元凶の一つ。

 

子と関わる大人というのは、自分のままでいることが大切なのです。

自分を大事にすること。自分をそのまま伝えてみること。それが正解。

間違ったときは素直に訂正して謝ればいいし、価値あると思うことは素直に伝えて、どう受け止めるか、どのように吸収するかは、子に任せる。

「私にとっては、こうなんだよ(こう感じる、こう考える)」を伝えることが、子育て・教育の第一歩です。これ、どれほど大事なことか。
 

冬の到来ひとつも、子供たちにとっては学びの対象になる。灯油ストーブの「ボッ」でさえ至福の瞬間になりうるし、冠雪した富士山を眺めることも、豪雪の中で歩くことも、もちろん度が過ぎれば困難になってしまうけれども、美しさとして感じ取ることはできるかもしれない。

そうした幸せや美しさを、日常会話の中でさりげなく共有することも、子育て・教育の内。どこかに出かけるとか、少し凝るなら、映画とか小説とか、俳句、短歌、詩、絵画など、いろんな表現を通して、冬を、もっと深く鮮烈に感じ取ることも可能になる。

先生であれば、「冬について」というテーマで、国語や社会(地理・経済)や理科(化学も物理学も可)の教材を作ってもいい。


日頃自分が感じたり考えたりすることが、少し工夫すれば、伝える・教える素材になる。大人の自分にとっても学びが増える。

子育て・教育というのは、子供を育てるだけでなく、自分も育ち、しかも育て合うという循環にもなる。

ならばやっぱりためらうことなく始めるべきだなあと思うのでした。最後は「私(龍瞬)にとって」の話。

さあ、始めるよ!

(草薙龍瞬『人生をスッキリ整えるノート』家の光協会から)

 

 

2024年12月中旬

 

中学受験をする親と子のみなさんへ


なんだか中学受験が、日本の冬の風物詩っぽくなってきた感があります(けっしてプラスの価値があるとは思っていませんが)。

中学受験に向かう小学生というのは、まだ脳と心の発育段階においては、「思考」未満の「感覚、感情、そして反射神経レベルの段階」だと理解してください。

「思考」レベルの勉強・受験というのは、出題傾向や出題者の意図(問題の傾向や解法のコツ)まで見抜いて、手順を言語化できて、「これだけのことをやれば、これくらいの点数は取れる」という結果まで、ある程度計算できるレベルのことです。

難しいことに聞こえるかもしれませんが、大学を受験するくらいの年齢になれば、こうした思考レベルの勉強(いわゆる対策)はできるようになります(やろうと思うか、場当たり的な受験で終わらせるかは、本人次第ということになりますが)。

でも、小学生は、そこまで進んでいません。そうしたレベルにまで進ませていいかといえば、そうでもありません。

脳と体には、発達のためのプロセスがあるのです。まずは健康を保って、適度に運動して、適度に五官をつかって感覚を刺激して、喜怒哀楽の感情を味わって・・という。心の成長には、このひとつひとつの体験が欠かせないのです。

中学受験に飛びついてしまうと、このプロセスが阻害される可能性が出てきます。すると、中学以降に成長が止まります。あるいは反射神経の延長として勉強し続けて、伸び悩むか、感情が育たず喜びのない(たまにサイコパス的な)大人になる可能性もなくはありません。

そうした状態でも大学受験程度のことなら(←それほどレベルは高くないという意味を含んでいます)、できてしまえる人もいます。狭い日本社会なら、いい大学に入った優等生と思ってもらえるかもしれません。

ただ、それは知的能力をフルに伸ばした成果とはいえないものがあります。


要するに、お伝えしたいことは、中学受験というものを過大視しないこと、入れ込みすぎないほうがいいですよ、ということです。

ほとんどの小学生にとって、中学受験というのは、やりたいことの範疇に入ってきません。いつのまにか放り込まれていた程度のものではないでしょうか(大人が、社会が、そういう制度を押しつけてきたから、なんとなく引き受けた程度のもの)。

そこでやる勉強は、まだ言語能力・思考力が育ちきっていない状態でさせられるものなので、本当はよくわかっていないのです。それでもできちゃえる(できるように見える)子はいるので、中学受験そして進学指導というのが成り立ってしまうわけなのですが。

わかっていないうちに巻き込まれて、みんなが受験、受験と言い始めて、塾の先生も親もなぜかそれしかないというような熱病モードに入ってしまっている。もちろん子供には、他に居場所なんてないから、その場所に留まろうとするし、受験もするかもしれませんが、

多くの子にとって、中学受験は、よくわからないままやってきて、わからないままに終わる(でも合格・不合格の結果は当然出てくる)。そういうものではないでしょうか。


よくわからないものに過剰な価値を見出すのは、明らかに間違いです。大人(親や塾の先生)は、こういう無神経なことを平気でやってしまいます。

よくわからないけれど、合格できなかった――その事実は子の心を傷つけます。「あんなに頑張ってくれたお母さん、お父さんに申しわけない」という後ろめたさも残ります。親ががっかりする姿(なんて身勝手な姿かと思いますが)を見て、子供はいっそう傷つきます。


中学受験のための勉強で身に着く程度の学力なら、正直、その後の六年間をちゃんと生かせば、十分身に着くものです。

一番大事なことは、脳と体の成長を阻害しないこと――きちんと段階を経て育てていくことです。

多少の知識や技能や、思考力の基礎的なものは、教え方が上手であれば、中学受験でも身に着けることは可能です。「その限りでは」意味を持ちますが、

わかっておいてほしいのは、親や先生たち(煩悩にまみれた)大人が思うような「勉強」は、まだ小学生の子供には無理(器としての脳に入らない)ということです。

大人が考えている「勉強」と、小学生の子供に見えるものは、違うということ。塾の授業も教材もです。

大人がやってしまう間違いは、子供の心に入るもの、必要なものをすっかり忘れて(というか自分自身も身につかないまま終わってしまって)、

大人になった自分がかき集めてきた、あるいは外からどんどん放り込まれてくる、受験とは、勉強とは、成績とは、お友達のあの子は何点、塾からこんな連絡が来た、受かったら見栄を張れる、落ちたら恥ずかしい、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら、受かったら、落ちたら・・・というゴミのような妄想に支配されて、

親である自分がアップアップというか、舞い上がったり落ちこんだりと、自分の物事以上に中学受験を巨大視してしまって、結果的に子供に自分の体重分のプレッシャーを上乗せしてしまっているという状態です。

自分だってわかっていないことを、自分だってしなかったことを、自分だって今になってもできないかもしれないことを、

子供が何も言わない、まだ素直に言うことを聞くことを利用して、つけこんで、やらせようとしていませんか?

子供のことより、まずは自分がどれだけ妄想でヒートアップしてしまっているかに気づいてください。頭を冷やすこと。


まだ思考力が発達途上の子にとっては、中学受験は「おみくじ」に近いと思っておくほうがよいと思います。

受かればラッキーだけど、そうでなくても大したことはない。未来なんて、体験してみないとわからない。今、親である人が思っているような妄想(期待や予想)とは違う未来が待っている。その未来は、中学受験に受かっても受からなくても来る。いい未来にすることも可能なのです。


中学受験をする子は、ここからの時間をどんな方針で過ごすかだけ、言葉にしておいてください。

「先につながる勉強」を今のうちにやっておく――それが基本です。

読み方・書き方・解き方を増やすという方針なら、受験勉強も無駄にはならないかと思います。

新しい言葉や知識を覚えることも、意味を持ちます。ただし「試験に出るかも」とか「落ちられない」といった切羽詰まった思いで覚え込むのではなく、

「大人になっても使えるように(誰かに話せる・モノの見方として役に立つ)」くらいの気持ちで落ち着いて、知って、覚えて、という時間を過ごすほうがよいかと思います。

「反射神経」でできてしまえる器用な子も、周りには当然います。でもそうした反射神経ぶりは、子供によって違うので、較べてもしようがないのです。

 大事なことは、自分にとってプラスが残るような体験をすること。

「プラスになるような学び方」こそが大事なのだという意識を持つことです。

親の側も、子供以上に深刻に考えないで、大人目線を崩さずに、頭の体操として問題を解いてみたり、自分も知らなかった知識を覚えたりする時間にしてしまうほうがよいように思います。

くれぐれも自分はただ心配する側(追い詰める側)に回って、勉強という孤独な時間に子供を追い詰めないことです。


中学受験程度の勉強は、あとでなんとでもなります。成長の阻害や心の傷として残らないように。

仮にうまくいかなかったとしても、そこで体験した読み方・書き方・解き方や知ったことは、後にも残る――そういう時間を過ごしてもらえたらと思います。



2024年12月中旬





あやまちを犯した時は(そして、傷を負った人へ)

 

みずから犯したあやまちについては、

相手に与えた損害、その心の傷を理解しようと努力するか、

責任の取り方がはっきりしている場合(身体的自由の制約か金銭による償い)は、

それを引き受けることでしか、

社会的に許される可能性はありません。

それだけのあやまちをみずからが犯したという現実を受け入れること。

それはたしかに痛みを伴うものかもしれませんが、だからといって、被害を被った相手のせいにしていいということには、絶対にならないのです。

故意はなかったとか、同意があったと思っていたとか、そればかりか事実と異なる嘘までついて、自分のあやまちを否定し、それどころか相手(被害者)のせいだと言いたがる人間が、たまにいます。

そうした自分可愛さゆえの無理筋は、相手の傷にいっそうの塩を擦り込むに等しい「拷問」であり「虐待」であり「愚弄」になります。

相手がどれほどの心の傷を負い、またどれほどの時間と関係性の喪失、経済的損失その他の苦痛を被ったか、また今後も被り続けることになるか。

この社会に生きる人間である以上、想像することが、義務であり責任というものです。


そうした人間としての務めを放棄し、あやまちを謝罪することも、賠償することも、みずからの身をもって贖うことをも放棄して、

なお自分を守ろうとする。

そうしたことができてしまえる、しようと目論むこと自体が、

その人間が、相手を傷つけたこと、損害を与えたことの「証拠」になってしまいます。

というのも、

自らのあやまちを受け入れられない人間だからこそ

――それを世間では、残酷、傲慢、身勝手、幼さ、弱さ、不誠実と呼ぶことになるのでしょうが――

そうした人間だからこそ、みずからの行いの意味や責任を軽く見るし、不都合を隠蔽しようとするし、言うことがその都度変わるし、最後まで否認して、自分は悪くないと言い張れるのです。

そうしたふるまいと言葉のすべてが、その人間(あやまちを犯した者)の輪郭を、はっきりと彫刻していきます。

みずからがどんな人間かを、その行動と言葉によって、浮き彫りにしてしまう。


それは自滅でしかないのですが、本人には、今見える自分の都合、利益、プライド、恐れしか見えないので、止めない(それが通ると錯覚してしまう)のです。


結果的に残るのは、「悪人」としての自分です。

悪人としての刻印が残る。しかも刻み込んだのは、あやまちが明らかになった後の自分自身の行動であり言葉です。

これまでもそうやって自分を押し通し、不利益を隠して、不都合から逃げてきたからこそ、まさに今の自分にたどり着いたのかもしれません。

 

あやまちを認めること、謝罪すること、賠償すること、その罪を自分の残りの人生をもって償うことを、

難しい、やりたくない、と本人は考えてしまうのでしょう。

ですが、長い目で見るならば、それが一番簡単で、自分に確実にできる、正しいことなのです。


罪を認めない人間は、そこから先は「悪人」になってしまいます。

罪を認めて償うことで、はじめて過去のあやまちが、あやまちに留まるのです。それ以上の悪人と化すことを防ぐことができる。その後の生き方は自分次第ということになります。


あやまちをあやまちとして認めること。

被害を被った相手の心情や、その失ったもの、今後の人生を思いやること。


被害を被った、傷つけられた側が望んでいるのは、結局は、人間としての当たり前の、本当は簡単にして、確実にできることのみです。

それすらも受け入れようとしない相手(加害者)の行動と言葉によって、いっそう傷つけられることが多いものですが、

それでも願うのは、まずはあやまちをあやまちとして認めてもらいたいという一点です。

 

簡単なことのはずが、あまりに複雑で、遠いことになってしまう。

そうした事態を招いているのは、あやまちをあやまちとして認めようとしない人間の側にあります。

 

こうしてみると、世の中は、善人と悪人とに、最後は結局分かれていくようにも思います。

善人は、少なくとも、みずからのあやまちを否定しないし、償おうと努力します。

悪人は、最後まで、みずからのあやまちを認めようとせず、嘘、言い逃れ、責任転嫁、その他あらゆる強弁を弄して、自分を守ろうとします。自分が可愛い(そのぶん人が傷ついても)という態度を崩しません。



傷を負った人へ――

もしあなたが善人として生きているなら、ぜひ堂々と生きてほしいと思います。

あなたは悪くない。他人のあやまちに、悪に、巻き込まれてしまっただけで、あなたは何もしていないのだから。

強く、堂々と、生きてゆく――のです。



2024・12・11
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質問&テーマ募集中 ~ 12月15日(日)仏教講座・特別編

【おしらせ】

質問&テーマ募集中
~ 12月15日(日)仏教講座・特別編<自己ベストの生き方&働き方を考える>


興道の里から

12月15日の仏教講座・特別編<自己ベストの生き方&働き方を考える>に先がけて、質問・課題を募集中です。

事前に寄せられた内容をもとに、当日の資料・内容を構成します。

個人的要素を捨象し、一般的な内容に編集しますので、お気兼ねなくお寄せください。

お席はご用意できますので、参加をご希望の方はご連絡ください:

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自己ベストの生き方&働き方を考える~大人のための学習会

<内容> 
仕事・転職・人生設計など、生き方・働き方に悩んでいる大人のための学習会。参加者が持ち寄った悩み・課題を、仏教の智慧を使って解決します。自分のアタマでは出てこない意外な発想や解決策を聞けるかも?

<対象> 今の仕事・生活に課題を感じている人、転職、起業、将来について悩んでいる人など。オンライン受講可(要登録)。

<日時>
12月15日(日)18:00~21:30

その他の詳細は、公式カレンダーをご覧ください。

 

ご予約は、お名前とご職業、当日考えたいテーマ(簡単で可)を koudounosato@gmail.com まで


★当日は参加者の課題・質問をもとに内容を構成します。事前に質問・相談を募集しますので、積極的にお寄せください(※私事性のある内容は省略致しますので、ご安心してお寄せください )。




澄んだ時間~甲府から富士へ

日本全国行脚2024年12月3日


山梨・甲府に出立。新宿から信州に向かう特急は意外と混んでいた。

雲一つない冬の青空。車窓の彼方に銀嶺が見える。 この国のいたるところに、こうした見るだけで溶けてしまうような風光明媚があるのだろう。

こんな景色を毎日見られる場所で暮らしたいなと思う。あいにく体は一つだから、一つの場所を選ぶほかなく、他の場所で暮らしたいという願いはかなわない。数多くの美しい景色を求めて旅するように生きるのも一興だが、根を生やす生き方も捨てがたい。こうした二律背反、相矛盾する憧憬は、一生枯れることはないのだろう。いたたまれないが、いたしかたない。夢見ることを快としよう。

あの丘の名前は? 一度立って風の景色を眺めたい


甲府駅で降りて、講演会場まで歩くことにした。旅するほどの余裕はないが、せめて地元の空気を味わいたいからだ。地図で見るよりも実感遠かった。

(※余談だが今はどこの駅も商業ビル化され、駅前も都市化されている。最近訪ねた北千住や水戸もすごいことになっていた。甲府駅前も然り)。

山梨の農業は、シャイン・マスカットの認知度が上がって利益を上げているそうだ。就農人口も少なくない。ただ、冬は皮膚が痛いほどの冷気で、果実の収穫はやはり大変だという。

今日の講演会は、参加者はほとんど女性。50代以上がほとんどで、50歳未満は1割以下。これは全国の就農人口の世代比とほぼ同じ。

司会の方に紹介してもらった後、「私の本を読んでくださった方、どれくらいいますか?」と訊くと、手が挙がった気配がないので、「ほとんどの人が読んでくださっているのですね、ありがとうございます(笑)」。

なぜ歳を取ると時間が経つのが早く感じるのかという話に始まって、業の話へ。初めて聞く人には、衝撃でもあり、身につまされる話でもあるらしい。会場によっては笑いが起こるが、今回はみなさん真面目に受け止めた印象。こういうときは、たいてい終わった後に、思い当たった人が感想を言いにきたり質問しにきたりするのだが、今回もそうだった。

農家の高齢化は全国的に進んでいる。あと十年経ったら、放棄地も激増するだろう。ここ数年、旅をしながら、この美しい景色がいつまで続くのだろうと、自分が見届けられない未来のことを心配している。

帰りは身延線に乗った。ローカル列車で終着の富士駅まで4時間以上かかるが、地元の人たちと同じ景色を眺めたい。途中、市川大門駅を通る。学生時代に夏の花火大会を見に行った場所。20代にも仕事仲間と車で来たことがあった。

路線後半はガラガラ。だがこの身延線、ちょうど斜面をくだって平野に出る時に、富士宮の街並みを一望できるスポットがある。その景色を久々に見たかったのだが、無事成就した。

旅ともいえない旅だったが、景色と人の姿を見ることはできた。もうひとつは、独りきりの純粋な時間。何者でもない空白の時間。これらがそろうことが、私にとっての旅だ。一年の終わりに澄んだ旅ができた。

富士宮の夜景 この景色をもう一度見たかった




2024・12・3

里のアーカイブ 公園の猫

<おしらせ>
★東京の講座は、12月15日の働き方講座、22日の坐禅会、28日の仏教講座・総集編で締めくくりです。

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※昔のブログ記事を”発掘”したのでおすそ分けします:


2016年10月2日

今朝起きたら、すっかり秋の気配が。肌寒くなってきました。

気になるのは、近所の公園に一週間ほど前に現われた、白地に雉模様の若い猫。

最初は怖がって近づいてこない。だから、エサを遠くから放る。チョッチョッチョッと舌を鳴らして音を覚えさせる。雪駄の音もわざと大きめに鳴らして、〝この音が聞こえたら、エサくれる人〟というのを覚えさせる。

2、3日そうすると、音を鳴らすだけでミャアと草むらの中から声がするように。近くでエサを食べるようになった。それでも恐る恐る。近づくと逃げる。食べながらも周囲をうかがうことは忘れない(一度、近所の黒の飼い猫がいやがらせにやってきて、走って逃げて行ったことがあった。人間に対しても相当警戒心が強い)。

私はそのそばでじっとして、気配を消す。視線も合わせない。でもチョッチョッと舌を鳴らして、敵じゃないということに馴染んでもらう。

二日ほどすると、食べた後に、思いきり背筋を伸ばしてみせるようになった。「ごちそうさま」という合図らしい。その場で尻尾を丸めて、じっとうずくまって見せる。

それでもまだ警戒心が強くて気が休まらないのか、近くのやぶの中に入っていく。逃げるわけじゃなく、やぶの中でこちらの気配をうかがっている。それに対して、「大丈夫だよ」という思いを送る。

誰かに捕まったら殺処分? この界隈に野良猫はほとんどいない。それは可哀そうだからこちらで保護しようかと思ったが、しかしそれは仏教じゃないなぁと思う。気持ちを送って、相手が近づきたいと思うようになるのが、自然な成り行き。とりあえず、近づき方、距離の取り方、すべて猫のリアクションをみてから決める。これが仏教流、つまり正しい理解(笑)。

今朝は、いよいよ、エサを食べた後に、道の途中まで私についてくるようになった。公園を出ていく私を追いかけて、やぶを抜け柵の下を潜り抜けて、道の真ん中でミャアと鳴く。「ウチにおいで」と言ってみるが、まだそこまで決心がつかないらしい。結局、向かいのマンションの生垣の下に隠れて、部屋に入った私の様子をうかがっている。今のところ、こんな感じ(笑)。


相手が動物であれ、人間であれ、こちらに一方的な(あるいは最初に)思惑や「かくあるべき」という判断や、「こうあってほしい」という要求があっては、もうそれだけで〝心の通じ合い〟は遮られてしまう。

一定の判断や、明確な働きかけが必要な時、功を奏する時もあろうが、それはえてしてこちら側のエゴや勝手な思惑であることが多い。「相手のことがよくわからない」と悩む人が多いけれども、そういう場合はたいてい「私はこう思う(こう考える)」というところが最初にあって、その思いにしがみついていることが多い。

「私はこう思う」というのは、極端にいえば、「どうでもいい」(笑)。それよりも、相手を、今の状況をよく見透せていること(理解できていること)のほうが圧倒的に大事。というか、心の向け方としては、「理解すること」が最初なのだ。

解釈するのでもなく、良し悪しを判断するのでもなく。妄想するのではなく、反応するのでもなく、ただ理解する。相手の心をよく理解できたときには、びっくりするくらい、いろんなことが見えてくる。たぶんアレコレと妄想して悩んでいた人にとっては、「え、こんなにラクでいいの?」と戸惑うくらいに、物事が見えるようになる。わかりあえない苦悩やストレスからも、無縁になれるかもしれない。

もちろん、本当の理解というのは、限りなく難しく、「妄想」との境界線はかぎりなく曖昧だ(だからこそ「わかっている」と思うこと自体が、慢であったり妄想だったりする可能性はかなり高い。だから、仏教では「わかっている」とは最後まで判断しない)。

だが、妄想を捨てて「ひたすら理解する」という心がけに立ち続けることで、妄想が作り出す悩みや、人間関係をめぐる誤解や感情的ストレスは、大幅にカットされるものである。

「理解する」ためには、つつしみ(謙虚さ)も欠かせない。ゆめゆめ、「わかっている」と思ってはいけないのだ。そう思ってしまった時点で、その理解は「正しい理解」ではなくなってしまう。


はて、私はこの猫――サラと呼んでいる(沙羅双樹のサラ)――の心をどれくらい理解しているか。一度は飼われた猫らしい。去勢手術も受けて、まだ生後半年くらい? なんの因果か、夏の終わりに、公園でひとり生きることになってしまった。

完全な野良なら懐かぬ可能性もあろうが、一度飼われたことがある猫なら、人に期待をかける部分はまだ残っているかもしれない。寒くなる前に、「ウチにきていいよ」というところまで伝わってほしいものだと思っている。


8年後(現在)のサラ
猫ハウスより古新聞の中にやすらぎを感じるらしい
このあたりも飼い主に似ている