自分らしさを取り戻すには


世の中、真っ当な人のほうが苦しみを背負うことがあります。これは人間関係にありがちな現象(化学反応みたいなもの)で、

そばにいる業の深い人と関わることで、真っ当な(良心的な、そして有能な)人のほうが、いつのまにか悪者にされたり、しわ寄せを受けたりするという現象です。

みにくいアヒルの子とかシンデレラとか(今回引っ張ってくる例としてふさわしいかどうかはわかりませんが笑)、

本人は本人のまま自然にいるだけなのに、周りが変わっていたりクセが強かったりすることで、相対的に真っ当な本人のほうが「ヘン」(異物)みたいな扱いを受けてしまうのです。

人間は自分のことがわからないし、自然体でもいられない。やっぱり認めてほしい、わかってほしいという思いもあるから、わかってほしい → でも理不尽な扱いを受ける・変だと言われる → きっとその通りなのだろう、と思ってしまう。

傷ついているのだけれど、周りの判断をつっぱねる強さや自信も人間なかなか持てるものではないので、その場におけるストレスを緩和するために、「きっと周りが言う通りなのだろう」と思って、その関係性を受け入れてしまうのです。

話をあえて広げましたが、この人も、その場所で抱く異物感みたいなものを長く抱えてきたように見えました。

はねつける強さを身に着けるには、どうするか?

自分のことがよくわからない自分一人の力ではなく、そんな自分と完全に違う立ち位置に立っている人のモノの見方や考え方に触れて、いわば同調して(これはいい意味)、自分を越える思考や発想を内面化することなのです。

だから、場所、人、出会いというのは、ものすごく大事なのです。そのためには求めること、動くこと。

幸いにこの人の場合は、求めて、動いて、この場所にたどり着きました。

この場所がどれほどの効力を持っているかは、それこそ人それぞれだし、この人のように自分で考えて、必要なものを吸収していける人であれば、いろんな場所や人との出会いを通して、遅かれ早かれ道を見出していったのではないかと思います。

とはいえ、そこまで役に立ったと言ってくれることは幸いです。この場所が価値を持った(貢献できた)ということだから。


(興道の里において)

 

 

新聞連載も佳境入り


『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、ミャンマー編もいよいよ佳境。

「草木も生えない失望」に直面する局面に入ります。

私は敵を作ることが嫌で俗世から離れたのですが、この世はそもそも人の数だけ真実があり、誰もが自分にとっての真実に執着したがるものなので、

その中で自分にとっての真実を語れば、どうしたって対立が生まれてしまいます。そのことがすごく悲しいのです。

それが嫌なら、何も語らないほうがいい。目立たないほうがいい。メディアへの露出やSNSの利用を敬遠してきたことと、理由は共通しています。

単純に望んでいない。幸せが増えることだけを願っていたい。

ならば自分にできることだけを、極力小さく、伝わる人にだけ伝えていく。それが理想だと今も思っているのですが、

その一方で、真実が掘り起こされないままだからこそ、見えない人、気づけない人、道に迷う人、苦しみ続ける人も、たくさんいるわけで・・(とはいえ、こうした思いもまた正しさへの執着になってしまう危険があって、その危険を恐れることが出家の流儀=戒律なのですが)。


痛みが生じかねないことに配慮し、ためらいながらも、自分にとっての真実を語るしかない。そんな場面も今後増えてくる気がします。

新聞連載一つにもこれだけ細心の注意を払う・・・もともと出家は世俗にはなじまないのです。

そんな個人的なためらいを抱えつつ、

心の眼に映るすべてのものを昇華・洗練させて、

世に伝わる普遍的な価値を創り出していく――。


そんなテーマを抱えて、2025年の春に入ります。


  
3月2日(?)掲載予定の『ブッダを探して』イラスト
どんな話題かは紙面でご確認ください
 
 


春からの予定


こんにちは、草薙龍瞬です。

3月16日の名古屋1日講座から、今年の活動をスタートします(※3月の講座はすべて満席となっています)。

4月以降は未定。東京にいるのか、新拠点に移っているのかもわかりません。

仏教講座をどうするか。4月以降月イチのペースでやるか。でもまだ施設が整っていない可能性が高い。オンラインでやっていく?

連休を利用して講座と坐禅会のセットを開催したい。ゴールデンウイーク、夏&秋の連休、年末年始(10連休でしたっけ・・日本経済は大丈夫なのかと別の心配もありますがw)。ただ、宿泊場所を確保せねばならず。

子供たちの寺子屋活動、明日(未来)を育てるプロジェクト、本の執筆・・と大事な作業も入ってきます。

いろんな皿をどのように、どの順序で回していくか。決めていくのは、すべてこれからです。

興道の里も新章突入。どんな絵を描いていくか。とりあえず現地で生活を始めて(猫のサラも一緒)、構想を練ろうと思っています。

今年の活動内容が固まったら、お知らせしますね。

 


 

 2025年2月下旬

 



未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月

 

 

ある先生に向けて

 

拝復 ご連絡ありがとうございます。

残念でしたね・・でも学校という場所については、過去にも似たような展開になったことがあります^^。なので織り込み済みです

「宗教家」「公平」というのも、実にしょうもない(中身を見抜くだけの思考力がないきわめて日本人的な)言葉です。

日本社会というのは、本質を見抜く知力が育っておらず、表面的な言葉と同調と(いざ何かあったら・・という)責任回避が先立ってしまう傾向にあります。

その中に収まっていられる人間にとっては居心地がいいのですが、少しでも「思考を迫る(迫られる)」動きがあると、知力が育っていない大人たちは途端にフリーズしてしまうのです。

(過去、校長先生に何人か出会いましたが、今回と同じような展開をたどりました。先生の方は乗り気なのに、別の思惑に簡単に乗っ取られてしまって、考えない・動かない・何もしないことによる安全を選んでしまうのです。)


子供たち(中高生)は、そうした大人たちのしょうもなさ(無思考:何も見えていない・考えていない姿)と、そうした大人たちが足を引っ張り続ける日本という社会に、いろんなモヤモヤ(違和感、失望、懐疑、憤懣、無力感)を抱えていたりします。

でも今の子は賢くて、言っても伝わらないとわかっているので、大人・先生たちの前では、通用する顔・言葉しか伝えていません。反発も主張もしない。いい子を演じるか、不意に消えるか。もちろんそこまで違和感を覚えることなく、純粋に学校を楽しんでいる子供たちも多いでしょうが。


子供たちの本音を引き出し、本当の思考を刺激できる「抉る」言葉を、大人たちが持っていないのですよ。自分たちが考えていないから。考えてこなかったから。


考える力をある程度お持ちの先生たちは、そうした学校のしょうもなさ(現実)を織り込んだうえで、周りの大人・先生たちとはちょっと違った角度から子供たちと関わっていく可能性を探る必要があるように思います。

「見えてはいるけど、とらわれない。自分にできる範囲で子供たちの本当の思考を引き出す(引き出せるような問いかけ・働きかけをする)」というスタンスです。


この場所(興道の里)には、小・中・高の先生方もおります。

みなさん、日頃の持ち場にはないもの(本質を見抜く知力とそれを伝える言葉)を期待して、ここに来てくださっている様子です。


大人より、未来が見える子供たちの方が、生き物としてははるかに優れているし、大切な存在です。

人を育てる仕事ほど価値ある生き方はないと言っても過言ではありません。

その価値が見える大人であることが、人間として最低限の務めであろうと私は思っています。

見えなくなったら、ある意味終わり。老いたということです。


ひきつづき進んでまいりましょう
草薙龍瞬



2025年2月


消えゆく未来と育つ未来

(抜粋)

ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。

なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。

どの国も内戦やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、希望の見えない日々を過ごしている。

個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)とその母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。

赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。

核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供が生まれなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。


子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。

日本社会は、この映画が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある。


人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。本当は虚無の闇と隣り合わせ。

死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。

子供たちがいるから、人と社会は、なんとか未来への希望を感じて生きていける。


もし子供たちが生まれなくなったら、未来は霞み、希望の総量は確実に減っていく。


それが社会というものなのに、人々は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えるより受け取ることを、愛するより傷つけることを選んでしまう。

愚痴に不満、萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。

そんなことをしていても、虚無の闇は埋まらないのに。


それでもなお人を傷つけ、他人事に首を突っ込み、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。

まるで銃弾飛び交う殺伐とした、この映画の世界のよう。


保身や批判や中傷に汚染された社会に、希望は見えない。

希望とは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯(とも)る。
 

未来が育つという当たり前の輝き――その輝きを人々が思い出せる日がくるのだろうかと、ふと思う。


全編どんよりと暗い(イギリス映画らしいといえなくもない)映画なので
お付き合いできる人はどうぞ
(〇〇〇〇primeで見られるそうな)




2025年2月


「許せない」を卒業するには?

※講座内の質問に答えて(一部抜粋):

 

 大人になるというのは、

①今の自分ならなんとかできる、

②理解してくれる大人は他にもいる(無理解な他者だけじゃない)

ということがわかること。

そこまで視野が広がって初めて、自分の怒りや「許せない」を相対化できるようになります。大人というのは、そういうことができるようになった状態です。


ただ、この人(質問者)の場合は、まだ心が子供のまま。なんとかできると思える状態にまで進んでいないし、理解してくれる大人というのは、実は世の中にたくさんいることを、実感レベルで理解できていないのだろうと思います。

それはなぜか?というと、ご自身の言葉の中に答えがあります。そう、父親があまりに大きく見えているから。ずっと父親のほうを見続けてきたからです。

この人は、父親にすさまじく執着していて、だからこそ怒りも「許せない」も、子供の頃とまったく同じレベルで燃やしているのです。

老いた親の姿を見て泣けてきたというのは、今の姿への同情(共感)もありうるけれども、心はたしかに往生際の悪いところがあって、

「今なら私の積年の願いがかなうのではないか」(つまりは良き父と子という関係を持てるのではないか)という方向に動いた可能性はあります。

その願いがかなう可能性があるなら、最後の親孝行をしてもよいとは思います。親の態度が変われば、「許せる」ようにもなるかもしれないし。その可能性はなくはありません。

他方、父親の地の部分が変わっていなくて、やっぱり怒りがぶり返す・・という事態もあり得ます。

この先の親との関わりは、「今の親の人間性」次第です。老いて素直になった、性格が変わった、呆けてしまった・・・いろんな理由はあり得ますが、

昔の親ではなくなった(少なくとも過去と同じ反応をしないですむようになった)なら、「新しい人」として向き合うことは可能です。新たな関わり方を選べばいいのです。

親との関わりは、①今の親のあり方(親というより一人の人間としてのあり方)と、②大人になった自分のあり方、の2つの組み合わせによって成り立ちます。

①も大事ですが、②も大事です。自分が大人になったといえるのか。過去の怒りや「許せない」を手放せたか。なぜ手放せないのか。

手放していないとしたら、自分の側の執着ゆえです。それは自分の側の選択であり、自分の問題。

遠い過去のことを、今なお怒り続けて、許せないと思い続けている。つまりは時間が止まったまま。子供のまま。執着の中に留まったままなのです。


過去はすでに終わっているのですよ。

だから過去と同じ感情を今に持ち込む必要は、本当はないのです。


過去は上書き&塗り替えることが可能です。


「大人になっていいのでは?」ということです。


2025年1月




春の講座スタート

受付開始しました 2025年2月4日から

下記講座はすべて満席となりました  2025.3.1


大阪研修会「こころを整える練習」
~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験

3月16日 (日)14:30~17:30
 

<内容> 現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践メニューを紹介します。

<会場> 大阪市中央公会堂 第4会議室(地下1階)大阪市北区中之島1丁目1番27号

 

大阪公開講座 生き方として学ぶ仏教全4回

人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ご参加ください。

◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)
◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける 
◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 
◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方

受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
会場 認定NPO法人 岸和田健老大学

 

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お申込み 一般の方はE-mailにて 

①お名前 

②自己紹介(職業・近況等をお顔が見える程度に詳しく) 

③臨時連絡先(携帯番号) 

を koudounosato@gmail.com まで。追って主催者からメールで案内をお送りします。


※ご参加いただける方のみへのご連絡となります。満席などご参加いただけない場合は案内をお送りしておりません(その場合は連絡内容を消去する形で対応しています)。あらかじめご了承ください。