(抜粋)
ふと思い出したのは、 Children of Men (邦題『トゥモロー・ワールド』という近未来SF映画。
なぜか全世界的に女性が妊娠できなくなった。一番若かった少年(たしか18歳)が殺されて、人類は、ただ老いていくだけという状況になった。
どの国も内戦やテロ・犯罪などで治安の悪化が進み、大人たちは、ただ死に向かっている自分と世界の現実を感じながら、希望の見えない日々を過ごしている。
個人的に覚えているのは、奇跡的に生まれてきた一人の赤ちゃん(人類にとって18年ぶり)とその母親を、主人公の男性が抱きかかえながら、銃弾飛び交う廃墟と化した病院を脱出する場面。
赤ちゃんの姿を見た男たちが銃撃を一斉に止めて、”絶対に死なせてはならない”というすがるような目で見守って、赤ちゃんと主人公たちを見送る(このあたり少し記憶が曖昧なのだけど)。
核戦争でも隕石でも気候変動でもなく、子供が生まれなくなったことによる緩慢な人類の死。それがどれほど殺伐としたものかが伝わってくるエンディング。
子供が生まれてこない・育たない世界というのは、死に向かっていくのと同じ。
日本社会は、この映画が描いた近未来世界の縮図みたいな状況になりつつある。
人間とは哀しい生き物。たちまち老いて死んでゆく。本当は虚無の闇と隣り合わせ。
死がもたらす虚無を埋めてくれるのが、新しい生、つまりは子供たち。
子供たちがいるから、人と社会は、なんとか未来への希望を感じて生きていける。
もし子供たちが生まれなくなったら、未来は霞み、希望の総量は確実に減っていく。
それが社会というものなのに、人々は未来を育てることより、なお自分だけの都合を見て、与えるより受け取ることを、愛するより傷つけることを選んでしまう。
愚痴に不満、萎縮に見栄の張り合い、信頼よりも猜疑を、称賛と応援よりも中傷と非難を向けることに明け暮れている。
そんなことをしていても、虚無の闇は埋まらないのに。
それでもなお人を傷つけ、他人事に首を突っ込み、子供という未来よりも、老人と化した自分たちの今しか見ようとしない。
まるで銃弾飛び交う殺伐とした、この映画の世界のよう。
保身や批判や中傷に汚染された社会に、希望は見えない。
希望とは、未来が現在進行形で育っていることを目の当たりにできる社会にこそ灯(とも)る。
未来が育つという当たり前の輝き――その輝きを人々が思い出せる日がくるのだろうかと、ふと思う。
(〇〇〇〇primeで見られるそうな)
2025年2月