拝復 ご連絡ありがとうございます。
残念でしたね・・でも学校という場所については、過去にも似たような展開になったことがあります^^。なので織り込み済みです
「宗教家」「公平」というのも、実にしょうもない(中身を見抜くだけの思考力がないきわめて日本人的な)言葉です。
日本社会というのは、本質を見抜く知力が育っておらず、表面的な言葉と同調と(いざ何かあったら・・という)責任回避が先立ってしまう傾向にあります。
その中に収まっていられる人間にとっては居心地がいいのですが、少しでも「思考を迫る(迫られる)」動きがあると、知力が育っていない大人たちは途端にフリーズしてしまうのです。
(過去、校長先生に何人か出会いましたが、今回と同じような展開をたどりました。先生の方は乗り気なのに、別の思惑に簡単に乗っ取られてしまって、考えない・動かない・何もしないことによる安全を選んでしまうのです。)
子供たち(中高生)は、そうした大人たちのしょうもなさ(無思考:何も見えていない・考えていない姿)と、そうした大人たちが足を引っ張り続ける日本という社会に、いろんなモヤモヤ(違和感、失望、懐疑、憤懣、無力感)を抱えていたりします。
でも今の子は賢くて、言っても伝わらないとわかっているので、大人・先生たちの前では、通用する顔・言葉しか伝えていません。反発も主張もしない。いい子を演じるか、不意に消えるか。もちろんそこまで違和感を覚えることなく、純粋に学校を楽しんでいる子供たちも多いでしょうが。
子供たちの本音を引き出し、本当の思考を刺激できる「抉る」言葉を、大人たちが持っていないのですよ。自分たちが考えていないから。考えてこなかったから。
考える力をある程度お持ちの先生たちは、そうした学校のしょうもなさ(現実)を織り込んだうえで、周りの大人・先生たちとはちょっと違った角度から子供たちと関わっていく可能性を探る必要があるように思います。
「見えてはいるけど、とらわれない。自分にできる範囲で子供たちの本当の思考を引き出す(引き出せるような問いかけ・働きかけをする)」というスタンスです。
この場所(興道の里)には、小・中・高の先生方もおります。
みなさん、日頃の持ち場にはないもの(本質を見抜く知力とそれを伝える言葉)を期待して、ここに来てくださっている様子です。
大人より、未来が見える子供たちの方が、生き物としてははるかに優れているし、大切な存在です。
人を育てる仕事ほど価値ある生き方はないと言っても過言ではありません。
その価値が見える大人であることが、人間として最低限の務めであろうと私は思っています。
見えなくなったら、ある意味終わり。老いたということです。
ひきつづき進んでまいりましょう
草薙龍瞬
2025年2月