未来を育てることは難しいか


未来を育てるというのは、本当は難しいことではないと思っています。

というか、難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか、その原因を取り除けば、未来を育てることは、もっと簡単になるはずです。


たとえば、結婚を難しくしているのは誰なのか、なぜなのか。

労働形態の変化や長引く不景気などが引き起こす就職難・生活難・地位の不安定といった外的なマクロの原因も当然あります。

でも、「一人のほうが気楽でいい」という個人の志向にもとづく選択については、結婚を難しくしている原因は自分が作っている、と理解できなくはありません。

「一人のほうが気楽でいい」のは、一面真実かもしれません。でも、

本当は、「二人でいても気楽でいられる」生き方・関わり方に切り替えるという可能性だってあるのです。

なぜ一人のほうがラクだと思えるのか、どうして二人にして暮らす・生きることが難しくなってしまうのか。

そのあたりは考えてみる価値はあります。原因は人さまざまです。



子供を育てることも、本当は同じ。

子育てを難しくしているのは、誰なのか、なぜなのか。

見栄を張るため、世間・近所・親・親戚の目に合わせるために、あるいは「何歳ならこれだけのことができなければ」といった自分自身の思い込みのために、

「こうでなければ」――イイ子でなければ、これくらいの勉強ができなければ、いい中学・高校・大学に進まなければ・・といった思いに駆られてしまえば、

子育ては、途端に格段に難しくなってしまいます。

でも本当は、子供を育てることは、もちろん責任はあっても、自分が考えるほど難しいことではないかもしれなくて、

食べさせて、遊ばせて、寝させて、世話して、一日一日を過ごしていれば、それなりに育っていく・・・そういうものかもしれないのです。

そもそも生き物はそうやって新たな命を育てています。人間だって何十万年とやってきたこと。

そうした本来の営みが、難しいはずはない。難しくなるほうがおかしい。

そう思えることが大事(まとも)であるような気がします。


物事を難しく考えるから、結婚も子育ても、難しくなってしまう。難しいと思うから、最初からパスしようとも考えてしまう。

そうした可能性もなくはないような気がします。

たしかに制度や収入といった外的要因もたくさん重なっていて、わざと難しく見せてビジネスにしている部分もあったりして、事態はけっこう難しく見えるし、実際に難しいのかもしれないけれども、

一人一人が作ってしまっている難しさも、けっこうあるような気がします。


結婚も、子育ても、自分が思っているよりも、もっとシンプルなやり方があるのかも、もっとラクでいいのかも・・? 

そう発想するところから、別の可能性が見えてくる気がします。

(各論:制度論や関わり方・育て方の技法論については、別の機会に)



2025年2月