最近寄せられたおたよりにちなんで、人と人は理解し合えるものか?という問いについて考えてみましょう。
もともと理解というのは、人の心(厳密にいえば脳)の中で「わかった」と思えること。
それは、自分の中での認識(そういうものだと認知する)であり、実感(感情をともなう認識)といえるかもしれません。
自分が「わかった」と思える、思った。
でもそれは、相手の思いとは違うかもしれません。相手の心(脳の中)を確認して、すべての思いと自分の思いが一致しているかを確認することは、物理的に不可能だから。
もしそんなことが可能になったとしても、すべての思いが一致している確率なんて、宇宙の中で自分とまったく同じ心と体を持った生き物を発見する確率と同じくらい低いかもしれない・・それくらいのことかもしれません。
理解する・わかるというのは、あくまで自分が理解できた・わかったと思える範囲でのことなのだろうと思います。
その時点での、自分にとっての理解。でも、相手の思いや理解とは違うもの。
その意味では、分かり合うということは、ないのかもしれない――。
「あなたの気持ちはよくわかるよ」という言葉があるけれども、正確には「わかる気がするよ(すべてを正確にわかっているとは言えないけれど、わかる気がするような気がする・・今の自分にわかる範囲では」
と表現するほうがいいのかもしれません。
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では、わかり合えるといえる場面や関係性は、どういう時に成り立つのか? 厳密にはわかり合っていないとしても、それでも話が通じる、わかってもらえた、そうだよねと納得できた、共感できたと感じられるのは?
それは、二つの思いが、ある程度共通していることが互いにわかるとき。
同じものを見て、互いに何かを感じたり考えたりして、
その思いや感情が似ているなと思えたり、伝わってきたり、言葉で「そうだよね」と確認しあえるときなのかなと思えてきます。
「話が合う」「この人ならわかってくれる」と感じられる
そこまでいかなくても、「この人はわたしのことを(この人なりに)想ってくれている」と感じられる。
たとえば、仲のいい友だち同士とは、話を聞いてくれる、伝わっている、こちらもよく聞いて、理解できる気がすると感じ合える関係です。
そういう関係なら、厳密にはいろいろとズレていたり、勘違いがあったりしても、わかり合える関係でいられるような気がします。
わかり合うというのは、アバウトなものなのです。だいたい、おおざっぱ、大まかに見れば・・同じものを見ている、感性や嗜好や価値観が近い、おおよそのところで話が合うと思える。
それが、わかり合える(理解し合える)ということなのかもしれません。
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このアバウトなわかり合う関係というのは、そのままアバウトにわかり合ったまま続くこともあるし、わかり合えていなかったことが発覚することもあります。友情、恋愛、夫婦、親子・・あらゆる場面で起こります(そもそも完全な理解の一致はありえないからこそ)。
そのときは、「相手をわかっているはず」という思いは、ただの勘違いだったと気づくことになります。
「相手にわかってもらえている」という思いも、勘違いだったとわかることになります。
そのときに何を感じるかです。
もともと厳密な意味でわかり合うことは不可能。人は、他人の心(脳)をのぞけない。合わせることなんてできないし、合わせてもらうことも不可能。
だから、「ああ、勘違いだったんだな」と理解すること。相手は自分と違っていた、完全に他人(別の生き物)だったという事実を知るということです。
完全に他人だったという事実を、そのまま受け入れるなら、「そうなんだ、そうだったんだ、でも考えてみたら、当たり前か」という思いになるかと思います。
他方、もしそのときにショックや落胆を感じたとしたら、それは、わかっている、わかってくれているという”妄想”が作り出す反応です。
もし怒りを感じたとしたら、それだけ自分はわかっている、相手にわかってもらえていると思い込んでいたということ。実は違っていた現実に、妄想で反応して、怒っているということになります。
これらは、そのときだけの反応です。その反応がずっと続くとすれば、”執着”しているということになります。
執着は、相手への期待、要求、願望を止められないからこそ生まれる心の状態。
広い意味でいえば、承認欲から来る思いです。なぜ承認欲が長引くかと言えば、妄想ゆえということになります。
わかってほしい、わかってくれるはず、という相手に向けている自分の側の妄想。
わかりたい、努力すれば相手のことをわかるはず、という、これもまた自分の側の妄想。
この妄想は、間違っているわけではありません。こういう妄想があるから、人は人を好きになるし、信頼するし、わかろう、わかってもらおうと努力するのです。ほどほどの妄想は、人と人とをつなぐ、大切な接着剤(という言い方が無粋なら”きずな”のようなもの)です。
ただ、その一方で、この妄想が、わかり合えないどころか、苦しみをもたらしてしまうことも起こります。これは妄想過多の状態。求めすぎている、相手に夢を見てしまっているということかもしれません。
おそらく最も自然な関わり方とは、多少の妄想を、相手への好意や愛情や信頼の証だとして保ち続けて、それをエネルギーとして関わって、そのことで自分だけでは作り出せないさまざまなことを、人との関わりの中で体験することです。
この点においては、やはりほどほどの妄想も、人とのつながりも、大事なものなのです。
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でも、その妄想が、落胆、怒り、悲しみといった自分を苦しめる感情をもたらすのなら、そしてその状態が長く続いているのなら、
その妄想は正しいものではないのです。過剰、あるいは勘違い、かもしれない。
とはいえ、ならば自分が妄想をすべて捨てて、執着を断ち切って、それでもその相手と関わり続けるのか?といえば、それは正解とはいいきれません。
その妄想(人への思い)は、自分の生き方や性格につながっているかもしれない。
その妄想はそのままでも、他の人には通用する、生きる、「わかり合える」と思えるかもしれない。
そのときは、その妄想は正しいものになります。価値がある。それは、人との関わり次第で変わるのです。相性次第ということでもあります。
もし自分の側の妄想や執着も、自分にとっては悪くないもの、それなりに価値があると思えるならば、
そのときは、そういう自分(妄想込み・執着込みの自分)を選ぶ。そのうえで「合わない相手」をどうするのか、関わり続けるのかを考えることになります。
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この見極めは、けっこう難しいものです。
ほんの少し自分が妥協すれば(妄想を減らせば)、わかり合える関係になれるかもしれない。
でも、相手はまったく別の生き物で、こちらの思いを理解しようとも思わない人間で、
そんな相手に自分が歩み寄れば寄るほど、自分を見失って、犠牲になって、自分が何をしているのか、なんのために生きているのかわからないという状態になってしまうこともあります。
ではどうすればいいの?と思いますよね(笑)。
やはり「今の自分を大事にする」ということだろうと思います。
自分は、今の自分を生きることが基本。生まれてきて、ここまで生きてきて、自分に体験できる範囲でいろんな感情や考えた方を育ててきたはず。
そうやって育ててきた自分を前提にして、軸にして、そんな自分と話が合う、わかり合えると思える相手を大事にするほうがいい。
どんなに頑張っても、自分は他人にはなれないからです。
わかり合えると思える相手の数は、かなり限られてきます。気の合う友だち、異性、家族、仕事仲間・・たまにいるかもしれない。いないかもしれない。
ほとんどの人たちは、ほどほどにわかり合える関係でいられる人です。「完全にわかり合える」ではなく。
それでも寂しくない、苦痛にならないのは、相手に過剰な期待や願いを持たないから。「ほどほどでいられれば、それでいい」と思えるからでは?と思います。
「ほどほどにわかり合える、でも自分は自分のままで生きていく」
そんな自分にたどり着くために、人は学びながら、互いにほどほどに生きられる自分と相手を探して、生きていくのだろうと思います。
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まとめると、
人はわかり合えないもの。それはごく自然なこと。
「ほどほど」の関わりの中で、自分も相手も心地よくいられる関係をめざす。
そうした関係は、
過剰な妄想、長引く執着を自覚して、その都度リセットして、卒業して、
人に求めすぎず、それでも怒りや落胆を感じたときは、自分の側の妄想に気づいて「ほどほど」に帰る――。
そういう繰り返し、積み重ねで、育っていくような気がします。
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2025年5月2日