命が還る場所


春の日の法要に足を運んだ。今回の霊園は、無宗派・無宗教の人の墓も扱っているとあって、墓石はバラエティに富んでいる。御影石、大理石、黒曜石と材質は様々で、カタチもユニーク。故人が選んだメッセージを刻んだ墓もペットの墓もある。

海外の仏教国では遺灰を土か川に戻して終了だ。墓石は日本独自の伝統だが、子々孫々のつながりの象徴としての墓は大事にしていいものと思う。

今回の故人は自然葬を選ばれた。青い芝生の上に、直径十五センチほどの丸い穴が二つ。そこに係の人が遺灰を入れていく。さらさらときれいな白い故人が土に還っていく。芝生の蓋で丁重に閉じた。

その前で私は額づいて礼拝する。この日より始まる新たなつながりが久しく続くようにと。

故人を作っていた物質は土に還る。そのうち分解されて土へ植物へと姿を変えてゆく。いつしか命の連鎖に組み込まれて、はるか未来には別の命に宿っているかもしれない。すべての命は法縁(つながり)の中にある。

もし故人の姿が、生者の心に愛おしい姿で宿ってくれるなら、故人の命は形を変えてなお続くことになる。肉体は土に帰っても、生者の心の中に生きていく。

特に遺すべきは、旅立った命が懸命に生きた姿だ。たくさん苦労もしただろう。悲しい出来事もあっただろう。だが新たな命を育てて人生を全うした。命としての尊い勤めを終えたのだ。その奇跡に生者たちは尊敬と感謝を。

そして自分たちもまた幸福をめざして十二分に生きねばならない。その覚悟を墓の前で新たにするのだ。


生きていた間の苦しみは、死んだ後に持っていくことはできない。ブッダが語った八つの苦しみは、現実を生きる中で生まれる。心か体の苦しみだ。

だが体を作るものが自然に還り、それまでの心がほどけた後には、苦しみは続かない。つまり命の終焉は、やすらぎへの回帰だ。人の苦しみは永久には続かない。死をもってやすらぎに還る。あとはつながりの世界へ、目の前に広がる自然へと還っていくのみだ。


広い世界を見渡してみれば、日が登り、月が輝き、星々がきらめいている。青い空に流れる雲にほとばしる清流に海がある 無数の緑が今も呼吸をしてこの星は凄まじい速度で回り、宇宙を旅し続けている。

広い世界を見渡せばわかること。どこにも苦悩は存在しないということ。過去数えきれないほどの命が自然に還っていったが、その苦しみはどこにも見当たらない。それが命の帰結なのだ。澄明とやすらぎが待ってくれている。



※興道の里アーカイブ(過去の活動記録)から


2025年5月28日

 




ナンバーワンをめざすのは正しいか

<おしらせ>

日本全国行脚2025 訪問地募集中です。

福岡・博多での勉強会の開催が決まりました。詳細は公式ブログ内のカレンダーをご覧ください。


◇◇◇◇◇◇◇◇ 

(オンライン講義での質問~「勝ちたい」「日本一」「世界一」をめざすのは正しいか?についての答え) 


これらは目的というより、動機ですね。「○○をめざしてがんばる」という。

動機は本人限りのものです。他者が認める客観的事実、つまり結果とはじつは直接結びつきません。

つまりは、本人が思い描く妄想でしかない。どんなに本人がヤル気になれるとしても。

だから「日本一」「世界一」をめざすというのは、すごくおかしな表現であり発想なのです。中身がない。結果がない。ナンバーワンをめざすというのは、妄想止まりの自己満足--そんな姿だったりします。


「動機(自分にとっての価値)」と「結果(他者が認める客観的事実)」は違う――この当たり前の理解を持っているかどうか。

動機で目一杯の(自分にとっての価値しか見えない)人は、結果(人が認める客観的事実)に、なかなかたどり着けないものです。

「これは本当に正しいのか(自分がめざすもの・やっていることが客観的に通用するか)」という視点がないからです。

他方、結果を出せる人というのは、動機に留まらず、つねに他者が認める結果・成果を見すえているので、「これで本当に正しいのか」という問いを持つことが可能になります。方法を考える、工夫する、そして専念する。

動機という自己満足を卒業して、方法そのものにエネルギーを使うから、結果が出る確率が上がるのです。

ビジネスなら「売れて(求められて)ナンボ」ということがわかっているから、売るための努力を惜しまない。

学びならば、「学んで(覚えて、できるようになって)ナンボ」ということがわかっているから、淡々黙々とインプット&アウトプットを繰り返す。

スポーツの世界でも、結果は自分のパフォーマンス次第という当たり前の事実を知り尽くしているから、自分を追い込んで練習する。

本当の結果・目標というのは客観的なもので、自分の妄想が通用しない。
方法を実践しなければ、結果を出せない。

そういうことがわかっているからこそ、努力できるし、人に通用する価値・結果を出せる。結果的に勝利・上位・一番にもなる、ということになります。



「結果的に」というところがポイントです。勝利・上位・一番というのは、めざせばかなうというものではなく、

まったく別のところ(方法)に思い・体・時間を投入した時に、あくまで結果として出てくるものなのです。

だから、動機としては正しいとしても、動機止まり。
結果を出すには、動機だけではまったく足りない。

その意味で、間違っている(足りない)ということになります。




2025年5月22日 オープンカレッジ・オンライン講義にて

 

 

 

心は歳を取らない


私の場合は、毎年夏までに1つ歳を取ります。

今年の日本全国行脚を告知した時の心が、ほぼ20代の頃と同じであることを、ふと発見しました(笑)。

旅に出るぞ~、

夏が始まるぞ~、

という思いしかなくて、

でも客観的に考えると、社会年齢はけっこう「行ってる」ことに気づいたのでした(笑)。

社会年齢は、戸籍上記載されている年齢、または、周囲の人たちからの扱いによって決まる年齢。

肉体年齢は、体そのものの年齢(正確には肉体の状態。これも人さまざま)。

精神年齢は、心の年齢--

ところが年齢というのは概念・観念でしかなく、妄想に過ぎないから、自分で〇歳だと判断しない限り、年齢は存在しない。

つまりは、歳を取らない。


妄想しない技術を身に着けると、年齢という妄想さえ飛ばすことができるから、

夏に向かう子供のような心の状態に持って行くことも、可能になる。


「あら、この心、ほんとに年齢が存在しない・・」ということを自覚した次第。


「心は歳を取らない」ということを、あらためて確認したのでした。

 この心が歳を取るのは、いつの日か?





2025年5月中旬


夏の日本全国行脚2025 訪問地募集!

九州・博多訪問決定

8月 2日 (土曜日)⋅13:30~16:30
勉強会~仏教でこれからの生き方を考える 日本全国行脚2025九州

今年で13年目の草薙龍瞬・夏の日本全国行脚。九州博多を訪問します。参加者からの質問に答える形で内容を構成します。これからの生き方、働き方、夫婦・親子の悩み、子供の進路や学び方など、幅広いテーマを取り上げます。

参加希望者は、①お名前(実名) ②簡単な自己紹介 を koudounosato@gmail.com まで。折り返し当日の会場の場所を含む案内をお送りします。

参加費2000円(※経済的ご負担の大きい方はお気持ちでかまいません) 

※子供が同伴する場合は勉強道具・本などを必ずご持参ください)。乳幼児の同伴は歓迎します(途中退室も自由です)。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


今年も夏の日本全国行脚を開催します。

北は北海道、南は沖縄まで――お声かけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教に触れたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある

など、お気軽にご応募ください。


夏の全国行脚は2013年から。今年で13年目に入ります。

よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、

ぜひご活用下さい。


◆◆◆◆◆◆◆
<訪問地募集>

期間 7月9日から9月15日まで:

7月9日(水)~21日(月祝) 西日本 近畿・中部・ 山陽・山陰
7月26日(土)~8月3日(日) 四国・九州
8月9日(土)~17日(日) 関東・東北・北海道
8月23日・24日(土・日) 北陸・甲信越
8月30日(土)~9月7日(日) 沖縄


◆◆◆◆◆◆◆
<確定済みスケジュール>

※スケジュールは、確定次第、公式ブログ内のカレンダーで公開します:

7月9(水)・10(木)・11日(金)
南大阪・看護専門学校特別講義(3日間) 
※医療従事者で見学をご希望の方はご連絡ください。詳細をお知らせします。


7月11日(金)午後 
神戸・講演会(非公開)

7月15日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター

7月16日(水)
大阪・岸和田 公開市民講座

8月19日(火)午後 
愛知・栄中日文化センター


9月15日(月祝)
愛知・高蔵寺 特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を 


◆◆◆◆◆◆◆
<全国行脚への応募方法>

1)応募のご連絡

下記をメールでご連絡ください:

①お名前 
②ご住所 
③連絡先(携帯番号)
  +
④訪問を希望する場所
※およそでかまいません。「自宅を希望」「〇〇という公共施設の使用を考えています」等)

⑤訪問希望日
※「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、およその日程をお知らせください。

⑥応募理由
※「仏教の勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「親族を集めて法事を執り行いたいです」等

※初めて応募する方は、詳しい自己紹介をお願いします(仕事・日頃の生活・課題などなるべく具体的に)。 
※勉強会については、会場を手配していただくことになります。告知は興道の里でも行います。
※個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。内容をふまえて訪問の可否を検討します(さまざまな用事を調整して最終決定しますので、必ずお応えできるわけではありません。あらかじめご了承ください)。

※①から⑥までの記載が不十分・不明瞭な場合は、返信差し上げておりません。あらかじめご了承ください。


2)興道の里からご連絡

*ご応募内容を興道の里のほうで検討し、お応えできる可能性がある場合は、興道の里事務局から折り返し案内メールを差し上げます。

*全国行脚期間中は、直前のご連絡でも、スケジュール調整が可能であれば対応しています。いつでもご応募ください。


3)訪問日・場所の確定

*ご連絡をいただいてのち、事務局と応募者との間で、訪問場所・日時等の詳細を確定していきます。

*講演・勉強会など公開企画については、公式ブログ内のスケジュールに掲載するとともに、一般向けにも告知いたします。


4)予定日に訪問します


◆◆◆◆◆◆◆
<その他>
*いずれも真摯な動機・意欲が伝わってくることが条件となります。

*勉強会の内容は、仏教・子育て・働き方・心の健康・十代の生き方&勉強法など、ご希望に応じます。開催規模の大小は問いません。

*個人相談については、相談内容の詳細をお知らせください。内容によっては、ご要望にお応えできない場合がございますので、あらかじめご了承ください。

*勉強会・講演の告知用の文面・タイトルなどは、主催者(応募者)からもご提案いただけます。興道の里もお手伝いしますので、お気軽にご相談ください。

*当日の参加費またはご負担のない範囲のお気持ち等で、交通費・宿泊費を調達します。旅の途中に立ち寄るという形式を取りますので、正規の講演・講座のような一定額のご負担を求めるものではありません。お気軽に、ご負担が過ぎない範囲でご協力ください。


ご応募・お問い合わせは、メールで  koudounosato@gmail.com までお寄せください。

お応えできる可能性がある場合は、折り返し詳細を記した案内をお送りします。


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夏の日本全国行脚は、毎年たくさんの出会いと学びを得られる貴重な機会になっています。
お気軽にご応募ください。


充実の夏をめざして
現地でお会いいたしましょう

興道の里・草薙龍瞬

さあ、夏が始まるよ!
(猛暑にだって負けないよ!)



一般公開
2025年5月12日



看護専門学校にて


TVドキュメント『ガイアの夜明け』で看護の世界が取り上げられています。

前半は看護の現場、後半は看護学生(3年生)の日常について。


あまり未来を見すぎないほうがいいかもしれないけれど、看護師になる(看護師国家試験に受かる)ことは、ただの出発点にすぎなくて、

その後をどう生きるか、創るか、(職場や看護の世界を)変えるかは、自分次第です。

未来は自分で選ぶもの。まずは出発点に立ってみること(立たなくちゃ始まらない)。


全国の看護専門学校で頑張っている人たちがいます。

自分よりもはるかに勤勉で、能力があって、周りを見る力があって、苦労した過去もあり、背負っているものもあって、それでも前に進んでいる人たちは、全国に大勢います。


自分一人ではないし、
自分よりはるかに優れた人もいる(同い年でも)。


そういう世界の広さに目を向けることも、謙虚さを取り戻すきっかけになってくれます。

謙虚になると、心が安定するのです。そして本来のなすべきことに戻れます。




いつまでも負けてはいられないだろう?

 

瞑想(自己理解)が進むとは、こうした矛盾(というか、思いと思いの連鎖)に自分で気づいて、切って分けることができるようになることです(だから”智慧”にも近くなってくる)。

執着タラタラ、というか執着を前提にして物事を考えてしまう。考え方も関わり方も、すべての足元に執着がある。努力さえも、執着をかなえるため。

だからこそ、自分の範囲でできる努力をはるかに超えてくる他者の言動に動揺して、不安や悲しさに呑まれてしまうのです。

すさまじく強い執着です。だからこそ弱い。


足元にある執着にまだ心の自由を奪われているから、簡単に足元をすくわれる。

執着する人というのは、相手からすると、凄まじく弱っちいのです。簡単に転がせてしまえる(笑)。転がされてしまう。身に覚えのある人は多いはず。


座談会の後半は、相手に執着を向け続けているからこそ、動揺するし、疎外されるがゆえに自信が持てない人の声を取り上げました。いわば負け続けてきた人たちの声です(←否定的な意味ではなくて、事実としてそうなっていたという意味です^^)。


大人になれ。

強くなれ。

そろそろ勝たないと。勝て。いつまでも負けてはいられないだろう?


そうお伝えしたのです。

 

2025・5・5某所にて 

ひっそりと、つつましく


このプロジェクトがどのような規模になるかは、未知数です。

つつましく、でも確実に、というこれまでの方向性に沿って進める予定です。


できあがってしまった社会と人を変えることは難しい。

育てるならば ”芽” の段階からと、これまでの活動を通じて痛感したことが、きっかけです。


仏教だけでは、新たな価値を創造できない。

仏教ほど、人によってどうとでも受け取れる思想は、他にないかもしれない。

ゆえに都合よく利用され、奪われ、変容していく傾向は避けられない。


仏教と、金儲けや自己顕示とは、相容れない水と油、別宇宙のようなもの。

本来の仏教は、ただ、

苦しむ人のために、

自分の命を、この世界の片隅で、人の幸せのために活かそうと頑張る人のために、ある。



この世界はあまりに利己と狡猾と虚栄に満ち、

仏教という智慧さえも、私欲のために使おうとする場所だから、


仏教というものを、汚されず、利用されることなく、

本当に必要としている人に向けて届けようと願うなら、


必然的に、世にあって世に染まらず、

欲と怒りと妄想に満ちたこの世界とは、一線を引いて、

自己をさらすことなく、目を引くことなく、

ただひたすらに陰のなかを、地道に、つつましく進んでいくことになる。


この場所は、世俗的価値を追求しない。

そうしたものへの執着は、とっくの昔に手放しているから。


時流・世相に感化されることなく、

50年後も色褪せない普遍的な価値を遺せるように、

残りの時間を使って参ります。



わかる人たちに向けて

草薙龍瞬



仕事は誰のためにするものか


仕事は、相手のためにするものです。

仕事(経済的労働)とは、自分が持っているものを提供して(働いて)、その対価として報酬を受け取ることです。

だから、投資とは違うし、ボランティアや趣味とも違う。

投資は、文字通り資本(お金)を投下して、誰かに稼いでもらって、その利益の分配を受け取ること。

ボランティアは、報酬を受け取れるだけの経済的価値あることをするけれども、あえて報酬を受け取らない関係性のこと。その関係を引き受ける動機は、人さまざま。

趣味は、自分が好きだからやること。経済的価値とは関係なく、自分がそうしたいからするという自己完結型の行為。

これらに対して、仕事はあくまで自分の務めを十分に果たして、相手がその価値を認めて対価を払う。そういう対等な関係性です。



だから仕事(働き方)の基準になるのは、この仕事が本当に相手の役に立っているか、これが相手が求めていることか、ということになります。

自分にとってはよかれ、正しい、価値があると思っていても、相手にとってはそうでない可能性もあります。

自分は頑張っているつもり、できているつもりでも、相手にとっては、求めているものと違うということが起こりうる。

こうした関係性においては、一方(仕事を提供する側)は「こんなに頑張っているのに」と感じている半面、相手は「いや、そこではありません(求めていることが違います)」ということになってしまいがち。

この関係性が悲劇となりうるのは、双方に不満が募っていくこと。一方は「頑張っても報われない」と感じ、他方は「求めていることと違う」という不満が募る。

これは、あらゆる仕事の場面で生じうる不幸な事態。さて、どうするか?



解決策はシンプルです。

「そもそも誰のためか?」を自分の立場で考えて、「そのために自分がなすべきことを十分にやっているか?」を振り返るだけでいいのです。

自分がなすべきことというのは、本当は決まっているもの。それほど難しいことではない。

まずは絶対に外せないこと――自分が引き受けた仕事においては、これだけは絶対にできなければならないという一線(最低限の基準)がある。

その一線を踏み外してしまったとき、自分の仕事に「穴」が空いてしまったときは、その穴が相手の不満を買ってしまったのだと理解する。

「穴」に気づけるか。自分が穴を作ってしまったことを受け止められるかどうか。

そして、穴を埋めることを真っ先にやる。「なすべきことは全部きちんとやりました」と言える状況に持っていく。

そこまで進んで初めて、仕事における不満が、理由のある不満なのか、相手側が作り出しているだけの理由なき不満なのかを区別できるのです。



仕事で空けた穴を埋めることができるか。

仕事ができる人と、できない人との区別が分かれていくのは、このあたりです。

できる人は、きちんと穴を埋めようとします。実際に埋める。そのことで、仕事という最初の約束を守ることができる。自分の能力、資格、信頼性というものを復活させることができる。

穴を埋める努力ができる人は、自分が空けた穴(失敗・落ち度・欠落・ミス)を自覚できるから、その体験を次に活かすことができる。

「やってしまった、今度は絶対に繰り返さないようにしよう」と考えることもできる。

穴そのものは、つい空けてしまうことが人間の定めのようなものだとしても、

穴を空けた自分に対して悔しさや落胆(広い意味での怒り、自分への)を覚えることができるから、

「こんなことをしていてはダメなんだ」と思い直すこともできる。

そう考えることができれば、できなかった・しなかったことを、今後は”できる・やる”に換えることができる。

成長し続けることが可能になるのです。



穴を空ける、つまりは相手が求めていることに応えきれない事態――は、不注意、疲れ、倦怠、混乱、散漫、おごり、さらには老化(心か体の機能低下)によって生じうる。

穴は次第に大きく、しかも数が増えていく。その可能性は、老いる定めにある以上、避けられない。


大事なことは、そういう自分にどんな理解の眼を向けるか。

増えてきた穴というものを自覚できるかどうか。

「以前はできていたことができなくなっている」
「早くできたことが遅くなっている」
「気づけたことが、気づけなくなっている」
「回っていた頭が、回らなくなっている」

と客観的に自覚できるかどうか。


一番の問題は、「穴が空いている」ことに気づけなくなること。

これは本当に気をつけなければ(注意しなければ)いけないことだけれど、

穴が空いている、空きつつあることに気づかない、

それどころか、自分は以前と変わらずできる、できていると思い込んでしまう。

それが、世間でいう老いの最大の特徴なのかもしれません。



老いをなるべく遅くする、減らす、留(と)めるには、どうすればいいか。

やはり自覚することです。「できなくなっている」「穴を空けてしまうようになっている」自分に気づくこと。

そのきっかけが、仕事においては、相手からの不満や指摘だということ。誰かの声は貴重なサインでありメッセージになりうる。

そこで自分のプライドが邪魔したり、「そういうあなた・あの人はどうなんだ」的な不満を持ってしまったら、それこそが自分自身の、仕事人生の危機。

空けた事実はあるのに、穴を埋められなくなってしまうから。

穴が空いた(穴を空けた)自分だけが残ってしまう――ならば当然、空け続けることになってしまう。


老い、衰え、退化という現象に逆らうためにも、自覚することは欠かせないのです。

年齢や人生の段階に関係なく、どんな場面にあっても、とりわけ仕事という場面においては、

「自分がなすべきことを、すべてできているか」を基準として、その基準をクリアすることをめざす。

それが最後に残る正しいあり方であるように思えてきます。




仕事の流儀というのは、本当はすごくシンプルです。

自分がなすべきこと、できていなければいけないことを、確実に、すべて、できること。

自分の側の仕事については、満点を出せること。

仕事を始めたばかりの人は、自分に満点を出せることをめざす。失敗して叱られたり、クレームを受けたりするかもしれないけれど、穴を埋める貴重な声だと思って、穴を埋められる自分をめざす。そこで反応して止まっていたら、穴を空けるだけの自分が残ってしまうから。

穴を埋められる自分になった時に初めて、人に何かを言われても、動じない自分ができるのです。

動じない自分とは、穴を空けない自分。空けてもすぐ埋められる自分。埋める力があるとわかっているから、うろたえない。自己弁護に走る必要もない。「すみません」と言って、即座に穴を埋める。

その努力を続けるうちに、穴を空ける回数も減ってくる。「なすべきことはすべてやっています」と言えるようになる。「これは自分で空けた穴ではありません」と区別がつくようにもなる。

そこにいるのは、”仕事ができる自分” です。やりがい、生きがい、誇りも入ってきます。



仕事の関係がややこしくなるのは、自分の側でできていなければいけないことがあって、それができていないのに、外に不満を向けてしまうとき。


これをやってしまうと、最果ては、ぜんぶ外の世界(相手・職場・仕事)が悪いんだ、ということになっていく。自分が空けた穴を棚上げにした、いわば責任転嫁メンタルに落ちてしまう。

この罠にはまると、話がややこしくなる。仕事はこじれ、人生が進まなくなる。


すべては、「自分がなすべきこと」がおろそかになったところから始まっている。



自分が空けた穴を、相手への不満に転嫁しては、仕事人生は終わってしまう。

これは、自分自身の問題であり、自分自身の闘いなのです。

穴はますます大きく、多くなっていくかもしれない定めにあって、

その定めにあらがって仕事ができる自分をどこまで保てるのか、という闘いです。

この闘いに勝つには――正確には敗北、いや ”仕事人生からの卒業” をなるべく先延ばしにするために、何が必要かといえば、

自分が空けた穴を自覚すること。「やばい(自分)」と思えること。


まずは自分自身と闘わねばなりません。





2025年5月3日
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人と人は理解し合えるものか


最近寄せられたおたよりにちなんで、人と人は理解し合えるものか?という問いについて考えてみましょう。

もともと理解というのは、人の心(厳密にいえば脳)の中で「わかった」と思えること。

それは、自分の中での認識(そういうものだと認知する)であり、実感(感情をともなう認識)といえるかもしれません。


自分が「わかった」と思える、思った。


でもそれは、相手の思いとは違うかもしれません。相手の心(脳の中)を確認して、すべての思いと自分の思いが一致しているかを確認することは、物理的に不可能だから。

もしそんなことが可能になったとしても、すべての思いが一致している確率なんて、宇宙の中で自分とまったく同じ心と体を持った生き物を発見する確率と同じくらい低いかもしれない・・それくらいのことかもしれません。


理解する・わかるというのは、あくまで自分が理解できた・わかったと思える範囲でのことなのだろうと思います。

その時点での、自分にとっての理解。でも、相手の思いや理解とは違うもの。

その意味では、分かり合うということは、ないのかもしれない――。


「あなたの気持ちはよくわかるよ」という言葉があるけれども、正確には「わかる気がするよ(すべてを正確にわかっているとは言えないけれど、わかる気がするような気がする・・今の自分にわかる範囲では」

と表現するほうがいいのかもしれません。




では、わかり合えるといえる場面や関係性は、どういう時に成り立つのか? 厳密にはわかり合っていないとしても、それでも話が通じる、わかってもらえた、そうだよねと納得できた、共感できたと感じられるのは?

それは、二つの思いが、ある程度共通していることが互いにわかるとき。

同じものを見て、互いに何かを感じたり考えたりして、

その思いや感情が似ているなと思えたり、伝わってきたり、言葉で「そうだよね」と確認しあえるときなのかなと思えてきます。

「話が合う」「この人ならわかってくれる」と感じられる

そこまでいかなくても、「この人はわたしのことを(この人なりに)想ってくれている」と感じられる。

たとえば、仲のいい友だち同士とは、話を聞いてくれる、伝わっている、こちらもよく聞いて、理解できる気がすると感じ合える関係です。

そういう関係なら、厳密にはいろいろとズレていたり、勘違いがあったりしても、わかり合える関係でいられるような気がします。

わかり合うというのは、アバウトなものなのです。だいたい、おおざっぱ、大まかに見れば・・同じものを見ている、感性や嗜好や価値観が近い、おおよそのところで話が合うと思える。

それが、わかり合える(理解し合える)ということなのかもしれません。



このアバウトなわかり合う関係というのは、そのままアバウトにわかり合ったまま続くこともあるし、わかり合えていなかったことが発覚することもあります。友情、恋愛、夫婦、親子・・あらゆる場面で起こります(そもそも完全な理解の一致はありえないからこそ)。

そのときは、「相手をわかっているはず」という思いは、ただの勘違いだったと気づくことになります。

「相手にわかってもらえている」という思いも、勘違いだったとわかることになります。

そのときに何を感じるかです。


もともと厳密な意味でわかり合うことは不可能。人は、他人の心(脳)をのぞけない。合わせることなんてできないし、合わせてもらうことも不可能。

だから、「ああ、勘違いだったんだな」と理解すること。相手は自分と違っていた、完全に他人(別の生き物)だったという事実を知るということです。


完全に他人だったという事実を、そのまま受け入れるなら、「そうなんだ、そうだったんだ、でも考えてみたら、当たり前か」という思いになるかと思います。

他方、もしそのときにショックや落胆を感じたとしたら、それは、わかっている、わかってくれているという”妄想”が作り出す反応です。

もし怒りを感じたとしたら、それだけ自分はわかっている、相手にわかってもらえていると思い込んでいたということ。実は違っていた現実に、妄想で反応して、怒っているということになります。


これらは、そのときだけの反応です。その反応がずっと続くとすれば、”執着”しているということになります。

執着は、相手への期待、要求、願望を止められないからこそ生まれる心の状態。

広い意味でいえば、承認欲から来る思いです。なぜ承認欲が長引くかと言えば、妄想ゆえということになります。

わかってほしい、わかってくれるはず、という相手に向けている自分の側の妄想。

わかりたい、努力すれば相手のことをわかるはず、という、これもまた自分の側の妄想。


この妄想は、間違っているわけではありません。こういう妄想があるから、人は人を好きになるし、信頼するし、わかろう、わかってもらおうと努力するのです。ほどほどの妄想は、人と人とをつなぐ、大切な接着剤(という言い方が無粋なら”きずな”のようなもの)です。

ただ、その一方で、この妄想が、わかり合えないどころか、苦しみをもたらしてしまうことも起こります。これは妄想過多の状態。求めすぎている、相手に夢を見てしまっているということかもしれません。

おそらく最も自然な関わり方とは、多少の妄想を、相手への好意や愛情や信頼の証だとして保ち続けて、それをエネルギーとして関わって、そのことで自分だけでは作り出せないさまざまなことを、人との関わりの中で体験することです。

この点においては、やはりほどほどの妄想も、人とのつながりも、大事なものなのです。



でも、その妄想が、落胆、怒り、悲しみといった自分を苦しめる感情をもたらすのなら、そしてその状態が長く続いているのなら、

その妄想は正しいものではないのです。過剰、あるいは勘違い、かもしれない。


とはいえ、ならば自分が妄想をすべて捨てて、執着を断ち切って、それでもその相手と関わり続けるのか?といえば、それは正解とはいいきれません。

その妄想(人への思い)は、自分の生き方や性格につながっているかもしれない。

その妄想はそのままでも、他の人には通用する、生きる、「わかり合える」と思えるかもしれない。

そのときは、その妄想は正しいものになります。価値がある。それは、人との関わり次第で変わるのです。相性次第ということでもあります。


もし自分の側の妄想や執着も、自分にとっては悪くないもの、それなりに価値があると思えるならば、

そのときは、そういう自分(妄想込み・執着込みの自分)を選ぶ。そのうえで「合わない相手」をどうするのか、関わり続けるのかを考えることになります。


この見極めは、けっこう難しいものです。

ほんの少し自分が妥協すれば(妄想を減らせば)、わかり合える関係になれるかもしれない。

でも、相手はまったく別の生き物で、こちらの思いを理解しようとも思わない人間で、

そんな相手に自分が歩み寄れば寄るほど、自分を見失って、犠牲になって、自分が何をしているのか、なんのために生きているのかわからないという状態になってしまうこともあります。


ではどうすればいいの?と思いますよね(笑)。

やはり「今の自分を大事にする」ということだろうと思います。

自分は、今の自分を生きることが基本。生まれてきて、ここまで生きてきて、自分に体験できる範囲でいろんな感情や考えた方を育ててきたはず。

そうやって育ててきた自分を前提にして、軸にして、そんな自分と話が合う、わかり合えると思える相手を大事にするほうがいい。

どんなに頑張っても、自分は他人にはなれないからです。


わかり合えると思える相手の数は、かなり限られてきます。気の合う友だち、異性、家族、仕事仲間・・たまにいるかもしれない。いないかもしれない。

ほとんどの人たちは、ほどほどにわかり合える関係でいられる人です。「完全にわかり合える」ではなく。

それでも寂しくない、苦痛にならないのは、相手に過剰な期待や願いを持たないから。「ほどほどでいられれば、それでいい」と思えるからでは?と思います。


「ほどほどにわかり合える、でも自分は自分のままで生きていく」

そんな自分にたどり着くために、人は学びながら、互いにほどほどに生きられる自分と相手を探して、生きていくのだろうと思います。



まとめると、

人はわかり合えないもの。それはごく自然なこと。

「ほどほど」の関わりの中で、自分も相手も心地よくいられる関係をめざす。

そうした関係は、

過剰な妄想、長引く執着を自覚して、その都度リセットして、卒業して、

人に求めすぎず、それでも怒りや落胆を感じたときは、自分の側の妄想に気づいて「ほどほど」に帰る――。

そういう繰り返し、積み重ねで、育っていくような気がします。


草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』ポプラ新書 から





2025年5月2日