中日文化センター1日講座受付開始しました:
愛知高蔵寺 公開講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
無料相談会つき
申し込み&お問い合わせ先 高蔵寺中日文化センター 0568-92-2131
https://www.chunichi-culture.com/programs/program_195300.html
*「わたしが覚えているあの日の幸福」
思い出&エッセイを募集します。応募くださった方にもれなく当日に特製ポストカードをプレゼント。
(※個人的な内容を省略し一般化したうえで、当日の教材内で紹介させていただくことがあります/匿名・ペンネーム可)
応募は koudounosato@gmail.com まで
(オープン・カレッジの受講生の方から)
善い方向に導く業とはどのようなものでしょうか?
また、悪い方向に導く業の連鎖を産まない、正しい親子関係とはどのようなものでしょうか?
人生の目的とは何か?についても考えました。結局、ヒトは自分が生きた証をなんらか後世に残したいと思うものなのかな?と思いました。
そのような思いは、自分の生きた証を残したい欲、〇〇欲?みたいなのものとは違うのでしょうか?
自分自身の人生の目的を考える良い方法があれば教えてください。大それたものではなく、慎ましく穏やかに過ごす、とかでも良いのかとも思うのですが、
これだ!と自分で思えるものをどうやって見つけるのが良いのでしょうか。
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※初めて聞く人にとっては、あやしげな言葉に聞こえるかもしれませんが、性格や慢性的な気分のことを、仏教の世界では業(ごう)と呼んでいます。心を理解する工夫のひとつだと思って、気軽に読んでください^^)
業というのは、事実として存在する反応のパターン、心のクセなので、正確にいうと、善いも悪いもありません。
今回の講義で取り上げたように、悪は、自分にとって苦しいか、誰かを苦しめる時に成り立ちます。
業が自分を苦しめるなら、悪業です。その場合、
①業が苦しみをもたらしている、つまりは悪であると自覚する。
↓
②まずは原因となっている関係性から距離を置く(外部要因を最初に取り除く)
↓
③自分の業を自覚する。軽減・解消する練習をする。
もし親子関係が、その業の原因であるなら(その可能性はきわめて高い・・原因である可能性は95%くらいかもしれない・・印象にすぎませんが)、
その親子関係を解消する、つまり親と距離を取る(反応しないでいられる距離)ことが、第一歩になります。
面白いのは、悪業であっても、善業として働く可能性もなくはないということです。
その場合の善は、”関わり”において発揮されます。たとえば、承認欲の不満がある → 頑張らねばと思って頑張ってしまう(業)→ 完璧主義で自分が疲れるし、そばにいる人も疲れさせてしまう → でも仕事においては、それが緻密さとして評価されることもある
という場合は、自分の内面においては苦しみだけれども、その業のおかげでいい仕事ができている、ということもありえます。
「生きた証」は、遺したい人は、何を遺せるかを考えて、できることをやってみることになります。
でも、それが執着になってしまったら、求めすぎ(妄想)ということになるので、「遺せる範囲で考える」というのが、一番バランスが取れた発想になるかと思います。
心に苦しみがなければ、それが最上のゴールだし、正しい今の過ごし方ということになります。
自分以外の命を想う(その命は、今生きている命でも、未来に生きることになる命でもよく)、
ことが、今の自分にとって幸福・納得のひとつになるからです。
遺らなくてもいいし、遺っても消えてゆく(姿を変えていく)だろうし、世界は、自分自身の思惑や願いとは関係なく進んでいく。それはそれでまったくかまわない(関係しない)。
自分なりに正しく生きたという納得につながるのではないかと思います。
(略)
そんな生き方もあるような気がします。
2025年6月1日