経営者の鉄則(仏教的な)

仏教の視点からお伝えできること:

 

経営というのは、性善説に立つと、たいてい、いやほぼ間違いないく失敗します。

性善説とは、人は信頼できる・時間を経ても変わらないという個人的印象のことです。

ですが、哀しいことに、人間の心には欲も慢もあります。

たとえば、その企業や社長、周りを批判的に見がちな性格の人が入ってくると、

その性格をもって周囲を批判し始めて、そのとき募ってきた不満を周りに愚痴や非難として垂れ流し、

それに触発されて、同調する人間が出始めたところで、組織の中に負の感情が肥大し始めます。

慢を持った人間が次にやることは、上を引きずり降ろそうという画策です。同調者を集め、上の立場の人のどこが問題かを言い募り始めます。

その理由というのは、ときに言いがかり・難癖に近いものもあります。


個人的な慢と、上の人を引きずり降ろすこと、あわよくば組織を乗っ取ってやれという個人的な強欲が、複数人の支持を得ると、

小さな組織は危機的状況に陥ります。

社長さんがお人よしで、役割に見合った内容以上の話を聞いてしまうとか、聞く姿勢を見せてしまうとか、そうしたスキ・甘さを見せると、その動きはさらに増大します。


「その人の仕事をはるかに超えてしまっている」ということに気づけるかどうか。


結局は「摘まみだす」(やめてもらう)ことが正解になります。というのも、そうした人が残っても、またその人に同調して作られた雰囲気というのは、必ずその場所を腐らせていくからです。「聞き入れる」ことに、あまり意味はありません。

こうした問題が生じた時は、いつ頃から始まったことか、誰が入った頃から始まったのか、時系列をよく見てください。

その人と話をしても、正直それほど効果は見込めません。その人物は性格で動いているのであって、話して解決できるものではないからです。


どのような組織も、必ずこうした内部の不穏な動きや声に、一度や二度は、やられます。性善説ではなく、文字通りの組織を、システムを、築いていかねばならないのです。

組織内の物事の是非というのは、立場を超えた意見交換や過剰な交流からではなく、立場・権限の上下で決めるべきことです。

それぞれに役割があり、その役割を果たすことが基本です。


本当に雰囲気のいい企業というのは、それぞれの立場・役割がはっきりしているものです。みんな、わきまえている。

だからこそ、それ以外の話も有意義なものになるし、多少の愚痴もガス抜きにはなるのです(もっともそうした愚痴めいた言葉もまた、結局、組織の生産性や円滑な運営に役に立つかどうかという目で吟味せねばなりませんが)。

役割を越えて愚痴や批判を語る人間は、その場所にとってはマイナスしかありません。早めに辞めてもらうことです。


極端な話をいえば、組織というのは、担っている人間が決めてよいのです。その組織のあり方が良いか悪いかは、上の立場、特に経営者が決めればいいのです。

もちろん企業というのは、営利・発展・維持という大前提があるので、最終的にその判断が正しかったかは、経営上の成果が決めることになりますが。


上の人(経営者)というのは、人間が時に弱く、悪にもなりうるということを前提としたうえで、それぞれが心地よく「役割を果たす」仕組みを作って行かねばなりません。

それがまさに経営というものでは?


最終的な判断は、自分で下さねばならないのです。なんでも聞くいい人ではいられないし、人に頼ることもできません。人の悪に触れることも、ときにあります。

経営者は孤独なものです。


小さな会社の社長さんは、こういう階梯をみんな進んでいくものです。

強くあらねばなりません。とはいえ、人間とは、組織とは、そういうものだと受け入れてしまえば、それが当たり前になるのですが。

強いというより、それが地(日常)になるということです。

 

 

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 2025年6月末日