揉めごとが生じた時は

(最近届いたおたより:学校での事故にちなんで)

 

人間関係や仕事で揉めた時は、どう動けばいいか。

最初の整理の仕方としては、その揉めた原因となった事実は、自分の側で作り出したものか、相手側が作ってしまったものかを考えることになる(『怒る技法』)。

事実を引き起こしたのは、どちらなのか。

こちら側も、その事実は誰が起こしたものかを理解しようと努めることになる。

と同時に、事実を相手側に理解してもらう


事実認定は慎重に。冷静に。過剰に反応せず、妄想をふくらませず。

事実そのものは、自分の輪郭外だ。いっそ他人事だと思えるくらいに客観的に、冷静になれるほうがいい。

できるかぎりの記録を確保して、事実を保全する。それが第一歩。


揉める(こじれる)可能性があるのは、事実を引き起こした側がどちらなのか、判定が難しい場合。一方当事者が「事実を否認」した場合も含まれる。

こうした場合に役立つのは、本来あるべきだった事実(事故やミスがなく進むこと)は、誰が担うべきだったか、役割として、仕事として――という視点。

もし現場に直接関わる側(教師や監督など)がいるなら、その現場で起きた事実については、その人たちが(現場に直接関わっていた人・監理監督すべき人)が、責任を負うことになる。


だから、揉めることなく事態が落ち着く(解決できる)のは、

事実について責任を負うべき側が、その部分についての責任をいさぎよく認める時だ。

もし自分がきちんと本来の仕事・役割を果たしていたら、その事実は発生しなかっただろうといえる場合は、その事実については責任を負う。

それで一件落着する。


難しくなるのは、事実にもとづく本来の責任さえ負おうとしない場合。

一般的に、事故・過誤・ミスが大事(おおごと)になっていくのは、この場合だ。

この局面に至ると、人間性というものが出てくる。

本当の役割・責任を担う人というのは、自分に都合が悪くても、「たしかにその通り、その部分については責任を負います」といさぎよく言える。誠意を示せる。

だが、人によっては、責任を負うことを拒んでしまう。事実を否認するか、自分には責任がなかったと言いたいがために、別の口実を見つけてきてしまう。

場合によっては、まったく関係のないことまで持ち出して、責任を負わないという選択を正当化しようとすることもある。


こうして段階を追って見ていくと、揉め事がなぜ生じてしまうかの本当の理由が見えてくる。

揉め事というのは、事実について、自分が担うべき役割・責任を負わない人間が出てくる場合なのだ。

単なる弱さか、ずるさか、幼さか、悪意があったかは、人による。揉め事が生じるまでは、すこぶる善良な、問題のない人も多い。

だが、いざ揉め事が生じた時に、地の部分が見えてしまう。人間性が「試される」ということだ。


試された時に誠意を示せれば、そんなにこじれることはない。

被害をこうむった側(その事故・ミス・欠落によって不利益を受けた側)が求めるのは、事実を認めて相応の責任を負ってくれることだけだから。

結局は、誠意を見せてほしいという一心に尽きることが多い。


小さな揉め事はあらゆる場面で起きている。こうした揉め事がいつまでも落ち着かないのは、

生じた事実について、役割・責任を負いきれない人がいる時だ。


もし事実に基づく責任を負わない事態が続くなら、その時は、第三者に理解を求めるという方向に切り替えることになる。

「それはあなたの側の責任ですよ」ということを、第三者に認定してもらうことになる。

手間・時間はかかるだろうが、その道筋に間違いはない。



この国の文化かもしれないけれど(平たくいえば、日本人というものはという類型的な言い方になってしまうのだけれど)、

いざという時に、事実にもとづいて責任を負うということが、きわめて弱い印象がある。

やはり雰囲気やノリで進めることに慣れているからか。「なんとなくそれでやってきた」という程度のあやふやな関係性を生きてきた。そういう仕事をしてきた。

だからいざ事実が起きた時に、いさぎよく責任を負うという選択ができない。うろたえたり、責任転嫁したり、へそを曲げたりというアタフタになってしまう。

自分が、自分の役割を果たすこと、

その役割の範囲内で起きた事実については責任を負うこと。

すべて、自分の物事であり、自分の仕事であり、自分の人生である――

という軸が定まっていれば、それほど困難もなくできることではある。


こうした軸が定まっていない人が、現実の社会には多い。日本という場当たり的な、人を見て立ち位置を替えるという ”間人” 文化に多い印象もなくはない。


もう一度あらためて言おう。事実にもとづく責任を負うことは、難しいことではない。

被害を被った側は、事実に基づいて責任を負うことを、相手に堂々と求めればいい。事実と責任について「理解を求める」ということ。「わかってほしい」と伝えていくだけでいい。

被害を与えた側は、自分が作りだした事実については(だけは)、いさぎよく責任を負えばいい。

伝えるべきだし、負うべきである。だが「べき」になってしまうのは、責任を担う側に、無責任あるいは甲斐性のなさが見えた時だ。本来は「伝えればいいし、負うだけでいい」という実に簡単な話。


最終的には、第三者が、社会が、判定を下すことになるが、そこまでいかなくても、

「これは自分の領域(仕事・物事)だ、だから自分が責任を負います」という軸さえ崩さなければ、問題がこじれることはあまりない。


最終的には、人間が問われる。自分はどういう人間か。

事実と責任を受け入れられる人は、誠意ある人間として堂々と生きていける。

そういう人間の一人であろうと思うし、あってほしいと思います。


2025年6月