閉ざされた檻

<興道の里から>

8月30日(土)午後 個人相談会 臨時増設しました。

8月31日(日)夏納め国語キャンプ~言葉を力にかえる in 千葉・野田 まもなく開催

参加希望の方は、このブログまたは公式カレンダーをご覧のうえ、お申し込みください。

◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 

※長いです(教師あるある笑)。


都内の大きな書店に行ってみた。印象的な点がいくつか。

ひとつは、「〇大本」が溢れていたこと。〇大という大学名をなんの臆面もなく売りにして、体験記やらノウハウ本を出している。


〇大というのは、ただの大学名。〇大生というのは、ただの学生であって、近い将来、社会で役割を果たすための準備期間にあるというにすぎない。本来価値はないはずなのだが。

大学生というのは、本当は肩書ではない。何者かになるまでのプロセスの呼び名(文字通りの学生)であって、何かを達成した人ではない。

こうした勘違いを育ててしまったのは、「〇大」というだけで価値を持つかのように、煽って、崇めて、そして今なおその価値観から抜け出せない、視野の狭い大人たちなのだろうと思う。

結局は、社会が、こういう幼い文化を育ててしまったのだ。



こういう臆面も分別もない「〇大本」が大量に並んでいることにも、ゲンナリしてしまったし、

小・中・高・大学受験というステージと、科目・分野別の参考書が、あいかわらずできあがった学校制度を前提として不自然に分類されていること(学年で分けたり、数Ⅰ、数Ⅱと不自然な概念で区分したり。数学の体系にそんな概念は存在しない)も、不自然に感じたし、

カラフルなわりに、雑多な知識が視点もなく並んでいるだけで、こんな本で地理や世界史や日本史を学んでも、「物語」も「体系」も「視点」も身につかず、

バラバラな知識の断片を一部覚えて一部忘れて、結局、この地球の上に何があって、どこで何が起きていて、過去どの場所でどんなことがあったから、今の国や地域や風土や国際関係になっているのかを説明できるようになる、という「まともな学び」が限りなく難しくなってしまっている(変わっていない)ことも、甚だ嘆かわしく感じた。


こういう分類や教材の作り方をして平気でいられるというのは、教える側も「学びとは何なのか」を、あまり突き詰めて考えていないからだろうとも思ってしまう。

学校では教科書を教えるもの、何年生の何学期にはこれを教えるもの、受験用にはこれを教えておけばいいという、型にはまったイメージが固まっていて、

教えた後に自分に何が残ったか、学んだ側に何か意味あるものが残ったかを検証しようという発想が、教師の側にないのかもしれない。まさに「仕事だから」教えているという姿なのだろうか。

ちなみに楽しい授業というのは、教師の側に楽しい感情が残ったかどうかでわかる。不満や迷いが残ったとするなら、その授業はやはりどこか間違っている(工夫の余地がある)ということなのだろうと思う(違いますか・・?)。



学生の側も、不幸な時間を過ごしている。中学ではコレ、高校ではコレ、何学期はコレ、というお決まりの内容しかない、と思い込んでいる。学校の成績のため、受験のため、いい高校、いい大学に行くため、という形でしか、勉強というものをとらえられない。

「そういうものだ」という思い込みだけで授業に「お付き合い」して、なんとなく学年が進んで、卒業して、進学して。

だが後で振り返って、数学とは、文学とは、古典とは、自然科学とは、歴史とは、といったそれぞれの体系や面白さというものを、まったく思い出せない。「教養」が残らない。

まったく栄養にならないものを、教師は教えているのかもしれず、学生は学んだ気になっているのかもしれない。なんだか不幸な関係性だ。



もうひとつ印象的だったのは、大型書店に足を運ぶ親子連れの「意識の高さ」である。親のほうが、熱心に参考書をチェックしていたりする。

子供(小学生)は、そんな親に付き合って、素直に勉強する意欲を見せていることもあれば、あきらかにヤル気のなさそうなこともある。

親の目から見た勉強や受験というのは、親が見る妄想であって、そんなものを押し付けられても、子供は楽しくとも何ともないだろう。小学生くらいの子供が、意識高い系の親につきあっているのは、まだ素直で、親のことが好きだから(勉強が好きな子については、ひとまず問題ナシとしよう)。

親が敷いたレールの上を進むことに、もう少し大人になった子供が、何を感じるかだ。自分のこととして頑張るか、反発して拒絶するか、あるいはどちらも選べずに、ただ気力を削がれてスポイル(無気力化)されてしまうか。



さらに印象的だったのは、幼稚園・小学校受験の参考書コーナーが充実していたことだ。「行きつくところまで行ってしまっている」と思わざるを得ない、充実・発展ぶりなのだ。

「○○的思考」とか「○○学習法」とか・・これ、大人向けの本ではなく、4,5歳児対象の参考書なのだ(実際は親が読むのだろうが)。

子供向けの自己啓発本も、恐ろしいまでの充実ぶりだ。プログラミング、ジャーナリング、生成AIの活かし方、傾聴力、マネジメント、SNSの使い方、心を知る、時間活用法、整理整頓、文章がうまくなる・・あらゆる分野の、いやこれ大人が学ぶことじゃんと思うようなタイトルの本が並んでいる。

しかも、中身がなかなかなのだ。「文章がうまくなる」という本を開けば、「日記は事実と気持ちを分けて書こう」なんて、プロのノウハウまで書いてある(私の『怒る技法』には、怒りは事実・感情・願望に分けて書きましょうと書いたが、似たようなことw)。

大人が読んでも「なるほど」と思ってしまう。どこまでレベル高いねん、今の子供(笑)。



だがしかし・・だ。なんだろう、この閉塞感は。まず価値観が限定されている。外の輪郭は、せいぜい学歴を身に着けるため、名の知れた大学に行くため、アタマがいいというステイタスを得るため・・・「その程度」の価値観しか伝わってこない。

学びの先にあるもの――つまりは、人生は何のためにあるのか、幸せとは何なのか、知力はなんのために使うのかといった、最も大きな、突き抜けた問題意識が、伝わってこない。つまり、本当の<知>とつながっていない。

<知>の本質とは、それほど難しいものではない。命が抱える苦しみを減らすこと、快(喜び・楽しさ・希望・信頼などの感情・思考)を育てること、

そして、絶え間なく変わりゆく世界の現実を見て、生き延びていくための方法を探っていく。地球規模でいえば、なるべく長く人類という種が生き延びる、その可能性をめざすこと。

苦しみを避けられない定めを持つのが生き物であるなら、<知>を持つ人間の最大の特質は、こうした生き物を越えた価値をめざすことにある。

こうした究極の価値をめざし、共有し、実現するための方法を探り、実用に持ち込んで、現実を変えていく。

それを可能にする<知>こそが、アタマの良さというものであって、学校の勉強ができるとか、たかだが大学に行くとか出たとか、そんなことは、本当は「どうでもいいこと」(妄想による自己満足か、制度化されたただの概念か)なのである。

人間には、世界には、もっともっともっと広くて大きくて切実なテーマがあるというのに、子供たちを取り巻く教育、勉強、進学、学校、教科書、参考書の、この“貧しさ”はなんだろう。

噛むのに苦労する干物のようなものか。必死に噛んで呑み込んでも、あまり栄養にならない。

価値観の貧困、方法の貧困、目標の貧困――だが、勉強とはこういうもの、学校とは、進学とは、社会とは、こういうものだという巨大な決めつけによって、学びが持つ可能性を極限まで狭くしているような気がしてくる。

教育のシステムが、ほぼ出来上がってしまっている。成熟というより、硬直化、もっといえば化石化だ。もっと他にシステムがあるはずなのに、前提となる価値観が貧しいものだから、作り込まれた教育の外に、一歩も出られない。

「よくできた参考書」は、たくさん出ている。だが、他の可能性を探る余地を許さないという大人のエゴのように見えなくもない。

分厚く頑丈な「勉強とはこういうもの」という、大人側が築きあげた監獄というか檻の中に閉じ込められて、その中で適応して結果を出すしか、選択肢がないのだ。

うまく順応して「お利口さん」として生きていける人間は、この閉ざされた檻の中でプライドを満たし、築き上げられたシステムの中でうまく立ち回って、他の人より「相対的に豊か」と思える程度の人生を生きていけるのかもしれない。

だが、その豊かさが、肩書や収入や世間からの賞賛といった程度のものであれば、結局は、妄想の自己満足に過ぎないし、

社会的に価値ある働き――つまりは苦しみを減らし、快を増やすための働き――を果たせるわけでもない。

何より悲劇的なのは、「その程度のことで満足してしまえる人間」を育てる程度にしか機能していない、今の教育システムにさえ順応しきれなかった子供は、何も得られなくなることだ。

周囲は、しょうもないことをめざし、必死になり、得意になる、しょうもない大人であり、学校であり、価値観のみ。

それに順応できなかった自分には、何も残らない。

部屋にこもって、スマホやゲームで気を紛らわせても、そんな自分を自分で肯定できないし、かといって外に出れば、相変わらずしょうもないことしかやっていない大人や学校や社会を見ることになる。

「どうせこうなる」ということが見える気がするから、何もヤル気が起こらない。


大きな書店の参考書コーナーに足を運んだだけで、そんな感想が出てきた。「そりゃ、病むやろ・・」という納得の言葉。

小学、中学、高校、大学受験で「病む」子供は、かなりの数に及ぶはずだ。そりゃ病むのも道理である。目標も、方法も、自分の胸の内にも、何ひとつ意味が見えないのだから。



こんな閉ざされた檻のような環境で、子供たちは生きているのか。キレてしまう子が出てきたって、おかしくない。

その一方で、元気で、素直で、前向きな子も多い。環境に恵まれているのか、持ち前の生命力か、幸運にも病むことを回避できている子も少なくはない。それは「救い」ではある。

とはいえ、学ぶ以外に費やす時間が、動画、音楽、ゲームというエンドレスなデジタル微反応でしかない(そういう子供が劇的に増えていることも事実)というのなら、健全とはいいがたい。体も脳も生き方も育たないであろうから。


時代・社会が変われども、どのような環境の変化にも適用して生き延びていくための、最低限の知力を育てる必要はある。

怠ることを容認してはいけない。スマホやゲームに浸りきった毎日を絶対に肯定してはいけない(社会の風潮がどのようであろうとも)。怠惰とほぼ変わらない「微反応モード」だけで、貴重な十代を終わらせてしまうのは、もったいないし、危険だし、取り返しがつかない。

どのような正当化を試みようと、こうした時間だけでは育たない能力がある。理解力、思考力、集中力、持続力、人間関係を作る力、役割を見つける力、働く力、稼ぐ力――。

自分が幸せになるために最低限守るべき生き方と、社会の中で生き抜くための知力と気力というのは、それなりの「体験」をふまえて学んで(勝ち得て)いくものだ。

だが、体験を潰してしまうのが、スマホやゲームやSNSといったデジタル・ツールなのである。単に崩れているだけ、流されているだけ。抜け出せない最大の理由は「ラクだから」。

その本音があるかぎりは、結局は、大事な能力は育っていないということだ。生き物として弱化・劣化しているという事実は否定できない。



知力を育てるための学びは、時代を超えて必要だ。

だが今の世の中が不幸なのは、学びと異なる、意味の見えない教育・勉強・試験・学校制度が、あまりに強固に確立されてしまって、

そうしたものに積極的に飛び込む理由もモチベーションも湧かなくなってしまって、

かといって代わりにできることは、デジタル機器への依存(ダラダラ時間)だけという状況だ。

その姿を外から見れば、狭い檻の中に閉じ込められていることに変わりはない。

つまらない勉強しか知らない子供は、「なんで勉強しなければいけないの?」と自然に思うだろうし、

そうした勉強しか自分も知らない大人・親・教師たちは、その問いに説得力をもって答えるだけの言葉を持っていないだろうし、

運よく適応して勉強ができるようになった子供も、結局は、見栄やプライドという妄想を満たして終わる、つまりはしょうもない世間の価値観に身の丈を合わせて満足してしまう大人になる可能性が高いし、

ならば勉強しないとどうなるかといえば、今の時代なら、スマホ、ゲーム、動画、SNS、音楽にエンドレスに時間を使って、脳内の微反応だけで生きていく――いや、生きているようで生きていないかもしれない人生に、いつのまにか落ち着いて(堕ちて)しまっている。そんな圧倒的多数の「微反応に支配された人間」の一人になってしまうくらいしか、選択肢がなくなりつつある。




いうなれば、ゆりかごから墓場まで、見栄のための形だけの勉強か、微反応にしか時間を使えなくなりつつある今の時代にあって、

「いや、他にも生き方がある。本当の学びというものがある」と声を挙げて、実際に形にして見せて、わかってもらうというのは、

かなり至難の業であり、無謀な試みではないかと思えてきたりもした。

学ぶための教材は、今の時代、出尽くした感がある。さらに付け足せるものなど、あるのか?

自分に見えている学びのイメージを形にするには、どれほどの実践が必要か。その時間・体力は残されているのか?

そういう場所を開いたとしても、学校・受験のためのお勉強とデジタル機器への微反応に慣れきった子供たちが、本当に集まってくるのか?


なんだか、壮大な失敗をするような気がしてきた(笑)。


さながら、大和朝廷の大軍勢に立ち向かい、あえなく滅びていった地方の名もなき豪族のようなものか。

滅びを覚悟して闘いを挑む。挑んで散っていった勢力も無数にあろう。挑んで、滅んで、勝った者もまた滅んで。

諸行無常が人の世の常だとしたら、時代を超えて価値があることは、挑むことそのものであろう。

――なんていう膨大な妄想を繰り広げつつ、疑問と危機感と使命感と一緒に、十代向けの本を買って帰路についたのでありました。

『人生をスッキリ整えるノート』から



2025年8月中旬





やれることをやる


ここ一週間は、怒涛の忙しさ。生きるというのは、矛盾まみれの支離滅裂。

このブログも、全国行脚の続きとか、子育て論とか、さまざまな話題を用意しているのですが、まとまった時間が取れず。

音沙汰がないと心配する(?)人もいるかもしれないので、生きていますと報告する程度のおたよりをお送りしている次第です。



講座の本格的再開は、来春になるかな、と思っています。「ブッダの生涯」(原始仏教)をやるか、「大人の寺子屋~言葉で生きる(言葉で人生を作る)」講座(通信添削つき)をやるか、それとも両方やるか。

できることはやる。「やりたい(それを望む)」からではなくて、自分にできて、しかも価値がある(役に立つ)可能性があるなら、まずはやってみる。

与えられた時間は、可能性に挑戦する時間。いや、挑戦というより、やってみる程度の気楽さでいい。

できそうだから、やってみよう――その思いでやろうとしているのが、この先の活動です。


自分にとっては、命を使い切ることであり、

人にとっては、なにか役に立てることであり、

それは、苦悩を減らし、幸福を一つでも増やすことであり、

ある程度の年季を経た今となっては、「未来を育てる」という方向性に向かうことでもあります。


生きるというのは、必要なこともそうでないことも、価値あることもそうでないことも、バラバラに同時進行で背負うこと。整理しきれるものではないし、選び取れるものばかりでもない。もともとそういうものなのでしょう。

雑多な出来事を、それでも心のバランスを失わずにやっていけるのは、「この手を使ってできること」という確かな輪郭(限界)があるからです。


この手を使ってできることだけが、できること。

手を使ってもできないことは、現時点ではできないし、やらなくていい。


そういう線引きをはっきりさせていれば、外の物事が雑多かつ混乱しているとしても、心そのものは混乱しない。

この場所は、これからも、やれることを淡々粛々とやっていきます。


以上、近況報告でした。



2025・8・23

子は親をかばうもの


この場所には、いろんな親が来ます(子のほうが来ることは、ごくまれ)。

親にはもちろんいろんなタイプがあります。ただ、子供のことで悩んでいると語る親については、大きく2パターンに分かれるように思います。

ひとつは、子供の側に事情がある場合。学校生活につまずいたとか、勉強がうまくいかないとか。この場合の親は、子供の味方であり、理解者であろうとしている親ということができます(完全にそうだと言い切れない、怪しい部分もあることが多いものですが)。

もうひとつは、親自身が問題である場合です。案外、こっちのほうが圧倒的に多いものです。

親の側が、しようもない見栄やプライドや自己防衛を隠し持っていて、子供のことで「悩んでいるフリ」をしている狡猾な(小ずるい)親もいます。

親の側が、ネガティブな解釈に凝り固まっていて、端(はな)から子供を否定し、子供に問題がある、子供にはこれができないと勝手なダメ出しを、子が幼い頃から浴びせ続けている場合もあるし(仏教的には「疑(ぎ)の妄想」と表現します)、

さながら閻魔大王のような厳格な裁きの王様的な地位に君臨して、コレをしろ、コレはダメ、と異常なまでに細かく指図、命令、支配して、子供の自由を一切認めない場合もあります。

あるいは、親自身がしょうもないプライド(せいぜい学歴だとか職業だとかその程度の妄想なのですが)にしがみついて、プライドに振り回されて、尊大になったり卑屈になったり、感情的に上がったり下がったりして、子供がいい迷惑、というか激しく翻弄されて消耗して、怯えて、傷ついて、心の安定を体験できない場合もあるし、

これまたプライドの亜種だけれど、自分が人間として空っぽ(価値観の点で空っぽ――つまり何が本当に価値あることか、確かな人生観を持たずに、周りの目を気にして、世間体に合わせるだけで親になってしまったこと)をごまかし隠す、その反動で、

子供の話を一切聞かない、あるいは聞く前に結論を出して、わかったフリをして、本当の対話を遮断してしまう(逃げてしまう)場合もあります。

こうした段階にある親(段階とあえて言うのは、今後、親の側が変わる可能性もあるからです)は、総じて、無理解という暴力を振るう絶大な権力を握った暴君、あるいは操縦不能なブルドーザーみたいなもので、

自分の感情や思惑や見栄やプライドや世間体や自己防衛を、分厚い鎧としてまとって、子供を圧倒し、その心を踏みつぶしていくので、

子供の心は育たないままになってしまいます(「育たない」とあえて大まかな表現をしていますが、その内容は実に様々です。そして根深い)。


親が、そのまま、無理解という暴力をぶん回し続けるのか、多少なりとも、自分自身の危うさ・やばさを自覚して、気をつけて、過去を謝罪して、子供の側が「少しはわかってくれるようになってきたか」と思えるようになっていくか。

道は大きく、この二つに分かれます。おそらく前者が圧倒的多数(つまり子供が心理的暴力を振るわれ、傷つき、病んでいく場合)。

後者は決して多くありません。ただ、この場所にたどり着いて、ある程度この場所での「対話」を重ねた人の中には、後者の可能性が育っていくことはあります。


ときおり親の側から「その後の報告」を受けることがありますが、「よくここまで来ましたね(正しい理解ができるようになりましたね)」と素直に肯定できることもあるけれど、

逆に、親のほうが、本当はまだ真相(正しい理解)に到達していないのに、「わかった(変わった)気になっている」ことが見えることもあります。

この場合は、過去の無理解という暴力を、親が気づいていなかったりします。自分のプライド、自己美化、自己正当化、いわば自分に都合のいい解釈はそのまま守り続けて、「きっとこういうことなのだろう」という理解(実は勘違い)に留まってしまうことも、なくはありません。

このケース、実は子供の側も加担してしまうこともよくあります。親をついかばってしまう。「あなた(お父さん・お母さん)は悪くないよ、他に原因があるんだよ」と言ってしまう。

子供としては、自分が親を苦しめてきたのかと感じてしまうのかもしれない。そんな親がかわいそう、自分にも悪いところがあった、だから自分(親)を責めないで、とつい言いたくなってしまうのかもしれない。

子は、親をかばうもの。「そのとおり。やっとわかった?」と言い放てない。

子供は優しい生き物。やはり親は親のままでいてほしい。謝ってほしくない。そんなことをされたら、苦しんできた過去が無意味だったことを認めてしまうことになりそう、親が親でなくなってしまいそう・・・

過去の関係性があまりに長く続いたがゆえに、一つの関係性が固定されていて、その関係性を変えていくことへの怖さやためらいも、心の中には作動する。

なにより子にとって親は親。やっぱり嫌いたくはない。いい関係でいたい。褒めてもらいたいし、愛されたい。そういう子供の心が残っている限り、親を悪者にすることは、どうしても、できない。

そうした子供の優しさに触れて、親は、「そうだよね、そっちが本当の原因だよね」と内心感じて、安堵を覚えることもある。かりそめの、あやうい安堵。

心と心の関わりは、本当に微妙、繊細で、複雑。


別に、すべてを理解しつくさねばならないというわけではありません。だいたい、およそ、なんとなく、で続いていけるのなら、それで十分。特に親と子であるならば、どうしたって離れるための斥力よりも、近づく引力のほうが強いものだから、分かり合えないまま、でもなんとなく続く、という状態で進んでいくことは可能です。そのことは、悪いことでもありません。

だけれど、中途半端に子が親をかばい、親が自分自身を見つめる厳しさという“切っ先”を鈍らせてしまうと、

子供の側の傷や、怯えや、不安グセや、その他なんとなくモヤがかかったような精神状態が、長く続く可能性はあります。

親をかばってすませたとしても、子供の側の人生は、長い期間にわたって負の影響を受け続ける。どこか軌道に乗り切れない、勢いが出ない、終始モヤがかかったかのような心であり、日々の繰り返し――。


子は親をかばうもの。親は親をかばうもの。子供をかばうのではなく、自身をかばう。

そういうずるさ、あやうさが伝わってくることは、よくあります。ただ親の側は、それが正しい理解だと思っている様子。

そういう時は、この場所は何も伝えません。自分でわかったことにしてしまう――その「自分可愛さ」(自己愛)の姿を見れば、

伝えられる言葉は今のところない、とわかるからです。


ひとつだけそうした親に伝える言葉があるとしたら、「わかった気になってはいけないよ」ということ。「親というのは(つまりあなたという人間は)、本当にずるい生き物だから」。


本当にわかったかどうかは、親の側ではわからない。わかったかどうかは、生涯わからないかもしれない。

それくらいに、親が子を理解して、子が親を越えて自由になるということは、ときに難しいテーマなのです。




2025年8月中旬


日本全国行脚2025 博多から下関へ


船旅2日目は、船上でゆっくり過ごす。

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テレビでは刑事ドラマの再放送・・岡江久美子さんが主演。

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どこで見ても美しい夕日


門司港に朝5時半に到着。ゆっくりと船着場に入っていく船の看板に上がると、ほの明るむ東雲の空が見えた。

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船旅は悪くない。時間の余白が多い。気が赴くままに仕事したり、デッキに上がって海原を眺めたり。恋愛中のカップルにもお勧めだし、失恋した後の傷心旅行にも最適・・というまったく縁のない妄想を勝手にしちゃったりした。

今回のフェリーの弱点は、送迎バスがないこと。相乗りタクシーで門司駅まで。予約券一人440円。でも同乗客は私も含めて3人しかおらず、メーターは駅についた頃には3000円近くに(けっこう距離があった)。

運転手さん、朝5時すぎにユニフォーム着て、タクシーで来て(もう一台には一人だけ乗っていった)、正規運賃を下回る額。なんだか申しわけない。このせつなさも、旅につきもの。


JR門司駅から博多まで。地下鉄で天神まで行って、じょいふるで朝食(船の中で一風呂浴びればよかった)。2階クーラーが故障中とかで一階だけ。徹夜明けらしき若い男女が上機嫌で歌を歌い始めて、店員の老婦人に叱られている。いや、元気だ、頼もしい(笑)。

昼過ぎまでお世話になって、歩いて会場施設へ。

はて何人来てくれるか、でも一人でも来る人がいるなら続けなければという思いで、東京ではやってきた。東京から博多まで足を運んで参加者数名というのはいささか残念と思っていたが、予想以上に多くの人が来てくれた。普通の規模の勉強会になった。


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毎回話題が変わるのも面白いところ


終了後は、希望者一人ずつ面談。オーディブルを聞き始めたばかりという女性も、今日は方に向かう途中でイベント検索したらたまたま出て来て、予定変更してやってきたという女性も。今年もやってよかった、と思う。

終わって、再び一人に戻る。とたんに街の景色が“凡庸”になる不思議。物欲がないので、豪華なビルも賑やかしい店の装いにも、ぜんぜん関心が湧かないのだ。ひとまず博多駅に戻って、JRで西の方に行けるところまで行く。

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西へと急ぐ


夜9時半過ぎに下関に到着。下松(くだまつ)行きの接続列車があった。昔バイトで教えていた美術学校の学生が下松出身だったと、この駅に来るたびに思い出す。結局地元の下松に戻ったのだが、もう三十年近く経っている。どんな大人になっているのだろう。探しに行きたくなる。

前回の旅でもいただいた定食屋がギリギリ開いていたので、鯨汁定食をいただく。最後の客だが、ちゃんと調理して熱々にしてくれた。

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すきっ腹には熱い鯨汁が沁みます


この一帯も、かつては不夜城と言われた港町だったそうだが、人も減って、すっかり寂しくなってしまったそうだ。店の周りには、色を失って久しい商業施設が、夜の帳の中に音もなく沈んでいる。鮮やかな色が褪せて行って、陰の色が増えていく。日本中どこに行っても同じ。今のうちに目に焼きつけておきたい。

駅近くの宿に泊まる。野宿する予定だったが、5千円分の贅沢と堕落を選んでしまった。潮の匂いを嗅ぎながら夜を過ごせたであろうのに。出家たる私も弱くなってしまったものだ。


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夜の下関 前回来た時はバス停で腹痛に苦しむ20代の女性と遭遇して、救急車を呼んだのだった あの人もどこかで暮らしているのだろうか


2025年8月上旬

もし学校の先生だったら

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 

もし学校の先生だったら、この夏の”狂暑”をテーマに授業を組み立てます。

まず、関連する素材をピックアップ:

・夏の情景を素材にした小説系の入試問題(中学入試から大学入試まで)

・環境問題・気候変動をテーマにした論説問題

・上記テーマに関連する時事ネタ(記事・ニュース)

・石油産業・オイルマネー・気候変動の実態を描いた映画・ドキュメンタリー(いっぱいある)

・科学・産業の歴史(科学史・世界史・経済史)

・何もしなければどうなるか~近未来の地球環境を描いた映像や文章(SF含む)

・かつての夏はどんなものだったか(古典・俳句・短歌から「夏っぽいもの」)

・地球温暖化を防ぐ政策・企業活動・国際協調の枠組み、および現状

などなど。


文学、科学、政治、経済、歴史、未来予測など、関連する分野についての文字情報と映像を、ひととおり集めてワン・パッケージの授業(ワーク)にする。

科目でいうなら、国語(現代文)、古典、社会(政治・経済・現代社会)、理科(気象・物理学・海洋学・地質学)、数学も入ってくる。


小学生なら、体験・感覚レベルで理解できるものから――つまりは小説系の国語の問題と映像と。夏っぽいエモ系の文学・ライトノベル・映画・アニメ。大人も楽しめる。

中高生と年齢が上がるにつれて、評論・哲学・学術論文にも取り組む。英語も入ってくる。


ひととおり素材を集めて(毎年アップデート)、「何に、どのように取り組むか」を提示して(課題化して)、それぞれ興味を持ったところから取り組んでもらう。

・毎日の課題を決める~メイン課題とサブ課題 自分で選ぶ・組み立てる
 
・ひと夏のテーマを決める ~ 地球温暖化でも「あの戦争」でも

1日の終わりに報告、週のまとめ(シェア):

夏をテーマに、何を知ったか、何を考えたか、何を知りたいか、をシェアしてもらう(記述して提出してもらう)。


「このままならヤバいぞ」という問題意識を持ってもらう(持たないほうがおかしいのだから)。

「何ができるか」「なぜしないのか」も考える。

人類という種が続く保証はない、ということも自覚する。


「そんなこと子供に伝えていいの?」と思う大人もいるかもしれないが、そういう人は、現実から目を背けさせるズルい大人かもしれない。

生きるとは、現実と向き合うということだから、現実を知ることが欠かせない。正の部分も、負の側面も。

現実が危うさを増しているのなら、そのことをも知らなければいけない。親も子も。

 

もし私に子供がいたら、「ほんとに人類は滅びてしまうかもしれないよ」という話をちゃんとするだろうと思う。

「今すぐじゃないよ。君が生きている間に来るかもしれないし、来ないかもしれない」

「どんな現実も、ちゃんと見届けないとね。それが生きている人間の務め」

と伝えるかもしれない(考える力があることが前提だけれど)。



現実を見すえて、自分に何ができるかを考える。

それが、知力を育てるための土台になる。生き物の基本でもある。


小学校でも、中学校でも、高校でも、こういう授業はすぐできるはず。特に自我が肥大し始める中学に入りたて(12,3歳)の頃がいいかもしれない)。

というのも、この頃を過ぎると、大人の言うことは聞かなくなりがちだから(笑)。代わりに、心そのものの危うさ(甘え・怠惰・思い上がりなど)も増えていくことが少なくないから。

「このままでいいのだろうか」という問いは、人生のどこかで持つ必要がある。そうした思いが宿れば、大人(親)の言うことを聞かなくなっても、自分で道を見つけていけるかもしれないから。

現実からかけ離れた「しようもない」授業をやっている場合ではない。生きた、現実に直結した学びを提供しないと。でないと、先生だって面白くないのでは、と思う。


週に一度、一回4、5時間くらいの授業ができれば、これくらいの立体的・広角的な学びを創れる。やっぱり土曜の午後か。終わったらご飯を食べる?

平日は、実利も大事なので、学校の勉強や受験用の時間を作る(車での送迎が必要)。

金・土は泊まってもらっていいのだが、男子と女子を分けねばならない。どちらかを誰か(保護者)の家に泊めてもらうか。

実利(学校・受験にも役立つこと)がはっきりしていれば、こうした構成でもついてくる十代はいるのではないか。

ただ、それだけの意欲・モチベーションを持った小中高生がどれだけいるか。スマホ・ゲームに流されずに、「生き抜くうえで大事なことを学ぶんだ」とわかる十代がどれだけいるか。いや、このあたりは、伝える側の人間力、つまりは働きかける力にもかかってくるだろう。

一番いいのは、デジタル機器にも学校のつまらない勉強にもスポイルされていない、まだ白紙かつ柔軟な心を持った小学生あたりから、ゆっくりと本当の学びを体験してもらうことなのだが。


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とりあえずこの映画から見てもらおうかな




2025年8月上旬



未来の世界 日本全国行脚2025

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。


今回の目的地は博多。東京からは新幹線が早いが、交通費がかさむ。飛行機は性に合わない。改悪された18切符だと、3日または5日の間に博多に着かねばならない。しかも移動中の車内では何もできない。バッテリーが切れたらPCもスマホも使えないし、本を読むのは目が疲れるし、運ぶのは重い。途中の宿泊に費用もかかる。

こうした事情を考慮して最後に選んだのは、フェリーの旅。東京有明から北九州・門司港へ。2泊3日の旅。船内なら電源の心配は不要。原稿を書くか、本を読むか。値段も陸路より安く浮く。

東京港フェリーターミナル行きのバスに乗る。八重洲、銀座、晴海を通って、有明ゾーンへ。途中、タワーマンションの群れ(広大な敷地はまだ造成中)やレインボーブリッジや東京ビックサイトや、その他何が入っているのかナゾの近未来的な建造物の数々を通り抜ける。都市工学の粋をきわめて設計したであろう道路とモノレールと地下鉄と高層ビルが華麗に交錯する街並み。

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これでも開発の初期段階にすぎないらしい


メタル色に輝くビルの一階がガラス張りのジムになっていて、マシンを使ってジョギングしているお金持ち(じゃないかな、たぶん)の姿が見える。うねるような湾曲形状の巨大なビルも。もうSFの世界だ。スターウォーズに出てくる惑星コルサントの実写版。
バスの窓から未来の世界を眺めながら考えるのは、「あの生垣の間なら野宿できそうだな」というようなこと(笑)。通勤する人たちを見上げるホームレスの目だ。

いやこんな世界もあるんだ~(すごい)という新鮮な感動。おのぼりさんと出家というダブルの目線で見上げる世界。フェリーに乗る前に元を取った気がして大満足(笑)。


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レインボーブリッジが見える 未来都市



いざ、乗船。一人で乗り込む人も、小さな子供連れの家族もいる。ペットと過ごせる個室もあるそうだ。

私が借りたのは、カプセルホテル的な共同スペース。小さなブース(寝床)があって、電源もあって。ラウンジには机も自販機もあるから、時間を過ごすのに不自由はない。浴場やシャワールームもあるし、トイレはウォシュレット付きの最新設備。かなり贅沢な造り。時代は進んだものだ。でも、ほんとの豪華客船は、この船の比ではないらしい。これまた別の世界。

舟はレインボーブリッジの下を潜って、海原を進む。有明、晴海、築地の明かりを一望できる。宝石を並べたかのような輝きぶり。


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さあ出航!

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東京の夜景を楽しめる絶好の出航時刻(午後7時)

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東京ゲートブリッジを潜る

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宝石をちりばめたような東京湾岸の夜景


羽田空港に発着する飛行機が、夜の空にライトを明滅させながら行き来するのが、頭上に見える。海を走る風と、潮のにおいと、陸のきらめきと、夜空を飛ぶ未知の飛行船と。今が西暦3000年と言われても信じてしまうであろう未来の景色。あれは土星観光に向かう船で、あれは恒星間旅行に向かう宇宙船――そんな時代も、いずれやってくるのだろう。
 
平和と繁栄が続く未来。千年前の人類は戦争ばかりしていた。そんな歴史もあった。そう思えるような時代が、いつか来るのだろうか。

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宇宙飛行船といわれても信じてしまうであろう完璧な未来の光景
 


2025年7月末

 

 

 

溶けていくアタマ(学力低下問題)

<おしらせ> 十代の子を持つ親の育て方&生き方学習会 千葉県野田市

子育て&子供との関わり方について考えます。 

8月16日(土)13時から 参加希望の方は<申し込みフォーム>まで。

 


文科省が公表した「経年変化分析調査」。

小中学生の大幅な学力低下。最近のニュースで聞いた人も多いかも。

夏休みの図書館には、小中高生が大勢来ている。

参考書を形だけは開いている。が、大半の時間は、スマホ、タブレット、音楽。一人でも、友達同士でも、やっていることは同じ。


こんな状態でアタマに入るわけがない。テレビ中毒と同じ。コンパクトなテレビ(つまり無思考のままダラダラと眺めるだけ)を、どこにでも持ち込めるようになったというだけ。

かつては「テレビの見過ぎに注意しましょう」なんてことを大人たちも言っていた。「勉強とテレビは別」という線引きができていた時代。

今や、勉強に使うという名目で、スマホ&タブレットで音楽も動画もSNSも見放題。

彼らの姿を見ていると、スマホ&タブレットで遊んでいる時間のほうが圧倒的に多い。

というか、こんな状態では何も身につかないことを、自分でわからないのか・・。

勉強する時は、余計なものを持ち込まない。机に並べない。

それはあくまで自分自身のため。ちゃんとケジメをつけること・・・そんなことさえ通じなくなっている?


これは、時代や社会の変化のせいにしてはいけないことだ。自分の脳(頭)を考えれば、わかることだ。けっしていい状態ではない。

「ヤバい」と思う思考力さえないということ???

最低限の線引きさえできない。大人たちも言わない。

ダラダラと時間を消耗して、何も身につかない半ば溶けてしまったかのような脳の状態で過ごしているだけ。学力どころの問題ではない。

野放しになっていることが恐ろしい。社会全体が許容してしまっている。

なぜこんな状態を放置しているのだろう。本当は、勉強とスマホを並べていること自体が、脳には致命的に問題であるはずなのに。

こんな状態で何が育つというのか???
 

人生、何も始まらなくなるぞ。




子育て中の親のための学習会

草薙龍瞬の日本全国行脚2025~旅する寺子屋

大人向けの学習会のおしらせ 

  

8月16日(土)に千葉県野田市を訪問。

子を持つ親のための生き方&育て方をテーマに学習会を開催します。

対象は、十代(小・中・高生または不登校中)の子供を持つ親全般です。

親と子両方の側から見た「十代のうちにやっておきたいコレだけは」を整理します。

参加者の質問・悩みをテーマとする座談会もあります。

個人的に相談したい方は、学習会終了後に無料の面会時間を設けます。


子育てに後悔したくない親の方々は、この機会をお見逃しなく。

参加希望の方は<申し込みフォーム>にご記入ください。

 


 

 

 

『怒る技法』オーディオブック配信開始!

 

いよいよ『怒る技法』オーディオブックの配信が始まりました(2025年8月1日)。
 

『反応しない練習』『これも修行のうち。』『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』に続く、

著者・草薙龍瞬による朗読シリーズ、第4弾です。
 

いつものように、ついついサービス精神(←慈悲の心の世俗バージョン)で、笑える(←本人は後悔する)演出や、ボーナストークの特典もついています。楽しくて役に立つ、充実のトラック。

本とは違う臨場感が味わえるはず。活字だけでは読み取れない深いニュアンス(意味合い)も、声を通してなら伝わります(聴く側からすれば、「そうか、そういうところを伝えたかったのか」という)。


足かけ1年半以上・・ずいぶん時間がかかりました。手がけてくださった皆さま、ありがとう!

ここからアクセスできます(←クリックしてください: 試し聴きもできる様子です^^)

いざ発進(配信)!


怒っていい。でも正しく

今の時代に伝えなければいけないことを、
著者一杯の思い(応援)をこめて



2025・8・1