スマホ漬けの茹でガエル


(今回はネガティブ&ダークな話題です。50代以上限定?)


外を歩くたびに、スマホを眺めてばかりの人々を見る。電車の中では、ほぼ全員がスマホ。異様だと感じずにはいられない。

外の世界に目を向けず、小さな画面に映る情報にしか心を向けない。このスマホ漬け、スマホ縛りによって、人々の心は、

・自分が興味を持つものにしか目を向けない
・「微反応」だけに脳を使い続ける
・外の人間・社会・未来に目を向けない(考えない)

という状態に引きずり込まれる。

心(意識)というリソースは有限だから、スマホ縛りによって、確実に目を向けなくなる対象が出てくる。

それが、人、社会、未来、そして自分にとって価値のあること、だ。

「自分に都合のいい」妄想が軸になって、自分に都合のいい人間・情報だけは歓迎する。

「自分に都合の悪い」人間や情報は、うざい、めんどくさい、だるいと感じて、遮断する。

「自分に都合のいい」ことを優先させて、社会のこと、自分や社会の未来のことを考えなくなる。

「自分に都合のいい」ことが、自分の将来にマイナスかもしれず、また社会や人類にとって有害かもしれないことには、思考力が及ばない。スマホに意識を奪われているからだ。


なお、スマホの使用時間を制限しようという動きは、今話題になっている自治体以前にもあったし、ルールに定めている学校も少なくないらしい。

「スマホは悪か」といった極端な発想ではなく、単純に「スマホ縛り」で奪われている・失われている現状をどう考えるのかという点が、根本的な問いである。

スマホの便利さや時代性など、そんな名分を繰り出したところで、スマホに縛られ、生活のリズムを崩され、頭の中が混乱している人間は、大人・子供を問わず、大勢いるはずだ。

そういう状況をどうするのか。放置しておいていいのか。多少はコントロールすること、時間のバランスを取ることも必要なのではないか。

特にさまざまな体験を通して心身を育てて、未来に向かう子供・十代にとっては、それはどう考えたって欠かせないことではないか。

そういう視点は必要なはずだ。でなければ、個人の選択の問題として片づけられてしまう。だが人間の心はそれほど強くはない。野放しにすれば、必ず「スマホ縛り」の沼に堕ちる人間が出る。確実に。

スマホの便利さと危うさ、いや猛毒かもしれない部分とを、切って分けて考えないといけない。だがスマホ自体が、便利さと危うさを一体化して、便利さだけでは終わらず、必ずラク、怠惰、無気力、依存、都合のいい妄想へと誘い込む形になっているのだから、

「スマホ自体の使用を制限する」という発想も、あっていいはずだろうとは思う。個人ではコントロールできず、スマホを持つこと自体が、心を崩しているのだから。

便利さだけを訴えたり、個人の選択として片づけたり、今さら制限なんてムリ(みんな当たり前のように使っている)といった理屈は、「スマホ縛り」を正当化するだけで、マイナスの解決策にはならない。

マイナスをどうするのか、という点を思考しないと、「考える」ことにはならない。


そう、「都合のいい」ことだけを一人一人が優先させてしまって、「考える」ところまで進まないところが、今の世の中の最も危うい部分かもしれない。

マイナスは考えない。社会のことを考えない。未来への影響を考えない。

今がよければいい。自分がよければいい。自分に都合のいい人・情報だけでいいという発想。

それでも生きていけるから、それでいいじゃないか――そんな発想が「当たり前」になってきているのではないか。



なお、人々がスマホを眺めている間に、刻一刻と大気の温暖化、いや沸騰化は進んでいる。炭素排出による温室効果ガス効果が、温暖化の最大の原因であることは、半世紀以上前(正確には1950年代)から言われていたことだ。

だが奇妙なことに、メディアも政治家も国際機関も、何も言わなくなった(つい最近まで国連総長くらいは必死で訴えていたが)。

石油産業への巨大な忖度か。あるいは、もはや温暖化を防ぐことをあきらめて地球人口減少の一手段としてむしろ利用しようという国際的合意が密かに交わされてしまったのか。

こういう発想は「トンデモ」に聞こえるけれど、そんな妄想もしてしまうくらいの奇妙な沈黙ぶりだ。子供でも知っている(知っていた)はずのことが、まったく話題に上がらない。不気味な静けさだ。

結果としての灼熱と異常気象と、人々のスマホ縛り。二つは離れているようだが、同じ現象の表と裏だ。つまりは、人間が自分の都合だけ優先させて、考えなくなったという現象だ。


スマホ縛りの人々は、それでも生きていけると思っているのかもしれない。スマホ依存で将来の可能性を掘り崩しているかもしれない子供たちも、それでも生きていけると楽観しているのかもしれない。

だが、今の社会が続く保証はない。「働いて生きていく」という当たり前の選択肢さえ難しくなってくるかもしれない。現に仕事をAIに奪われる人たちが出てきている。近い将来、もっと多くの仕事がAIに取って代わられる日が来るだろう。絵空事ではなく、現実だ。

さらに大気の高温化が進んで、地上では生きていけなくなるかもしれない。夏の気温が50度超えという日々を想像してみよう。そのうち想像ではなく現実になるかもしれない。

いずれ、ごく一部の人間たちは、地上を捨てて、火星やスペースコロニー等に脱出するかもしれない。これもSF的だが、技術的には可能になりつつある。時間の問題だ。

宇宙空間に住居を作って、人工肉を培養して、人工灯で野菜を作って。すでに実用化された技術もあるという。

そこまで科学技術が進歩した時に、力ある者(超富裕層や一部の権力者だろうか)は、平気で大衆を見捨てるだろう。AI優先でエンジニアを切り捨てる企業はすでに出ているが、もっと大規模な「棄民」政策 mass abandonment が起こるかもしれないということだ。

人類の歴史を、特にこの十年に起きた出来事を振り返れば、力を持つ者は自分の都合と利益を優先させて、弱者を平気で切り捨てる思想の持主であることは、容易にわかる。

彼らは優しい人間たちではない。博愛とか民主とか人権とか、そんな理念が通用するようなお人好しではない。

自分だけがよければそれでいい。自分だけが助かればいい。そういう発想で、AI・軍事・経済・金融・医療と、あらゆる方面を容赦なく突き進んでいく者たちだ。


個人的には、これも人類という種の生存戦略の一つかもしれない、と妙な諦念をもって見るようにもなってきている。

つまりは、発達途上の段階では何十億もの群衆を手なずけ、労働・生産の手段として利用して、自分たちの利潤と技術開発を追求し、

科学技術が一定レベル以上に進化して、ごくわずかな人間だけが生き延びられる状況に達した時点で、群衆を捨てるという戦略だ。

その時期が来るまでは、世界がどれほど危うくなっているかは、あえて知らせない。いずれ「茹でガエル」となって大量熱死する時期が確実に来るであろうのに、そのことには触れない。

代わりに人々にスマホを与えて、デジタル漬けにしておく。ローマ帝国の「パンとサーカス」と似た位置づけだ。


人間の心は、自分の欲と痛みしか見えない。自分が生き延びられればそれでいいと思っている部分がある。それは力ある者も力なき者も同じだが、力ある者には、自分が生き延びるための戦略がある。実現する力を持っている。もうすぐ可能になる。

労働・生産に従事する人間に代わる条件がそろった時、生き延びる力を持った者たちにとって、地上の人々は「どうでもいい存在」になるはずだ。

すでにその端緒は見えているが、そのことにも人々は気づかない。


沸騰した 水瓶に 浮かぶは スマホと 茹でガエル


そんな時が来ないことをもちろん願うが、さて?


追記 
それでも人は生きていくのです。
世界が永遠に続くという前提を選んで、強く生きていくのです。



2025年8月下旬