学歴には意味はない、けれど

学歴という言葉が、偏差値で測られる学校の履歴という意味だとしたら、それはあくまで観念でしかない。意味がない。

人は結局、自分の力で生きていける大人になることが、目標であって、

その次に価値があるのは、世の中の幸福を増やすか、苦しみを減らす働きができること。

 
こうした目標が「実質」(中味がある目標)であって、これを基準とした場合は、偏差値が高い・低い、入ることが易しい・難しいという意味での、学校名や学歴というのは、実質とは関係がないという点で、意味がない。

ただし、観念でしかない学歴・学校名であっても、それを手に入れるために何を体験したかという点では、意味を持つこともありうる。

一般論として、ひとつの目標をめざす場合には、

「いったい何をすれば、手に入れることができるか」を考えることになる。方法を探る。

方法というのは、いつ、どこで、だれから、何を使って、どんなやり方で進めるのかということ。

特定の大学・高校に行くことをめざすなら、いったい何を(科目および勉強の素材)をどのように進めていけば合格できるのかを考える。

考えるというのは、我流で考えることではない。調べること、聞くことだ。


世の中には、自分より知的能力(理解力・思考力)がある人、行動力がある人、体力がある人、意志が強い人が大勢いる。

そうした人たちが日々どんな努力をしているのか、アタマの中で何を考えているのか、日々体験することをどのように受け止めているのかは、他の人にとってはブラックボックス(未知の領域)。

だからこそ、そうした努力や、アタマの中の考え方や受け止め方を学べる機会があれば、最大限の注意力をもって聞いて、理解して、自分も行動に移すことになる。

それが、目標をめざして考えるということ。


これは、別の言い方をすれば、

自分の思い込みにとらわれず、謙虚に耳を澄ませること。虚心坦懐にともいう。想像力を働かせてともいう。

この時に、自分の思い(思い込み)、こだわり、好き嫌いでいちいち反応していたら、考えることが阻害される。学べなくなる。


えてして、プライドが高かったり、世界の広さ(自分を越える人たちは大勢いるという現実)をまだ知らなかったりすると、

自分の小ささを自覚しないまま、我流で取捨選択するようになり、また日常の小さなことに反発したり落ち込んだりと負の感情に呑まれて、何も学べなくなる。



学ぶというのは、とても難しいことなのだ。自分の器の大きさに左右されるから。

器の大きさというのは、自我のなさ(少なさ)と置き換えることもできる。

自意識が希薄であること。

無意味なプライドにこだわらないこと。つまり方法を知らない段階で自分の価値や正しさにこだわること。


「これはこうではないか」「これは違う」といちいち判断しないこと。

多少うまくいったと思えることがあっても、調子に乗らないこと。

 

結果的に、なんでも素直に、はい、わかりました、やってみます、という反応になっていく。「理解するだけ」になる。


あとは、自分がどれだけ頑張れるか、つまり自分が学んだ方法を実践できるかという領域に入っていく。


洗練された正しい方法は、たしかにある。結果を出す人、目標を確実に達成する人というのは、そうした方法を知ることに長けている。

ところが、その方法を学べないことがある。自意識が邪魔するときだ。

自意識というのは、厄介な心のクセだ。承認欲をこじらせて、今の自分を基準に物事を判断するようになってしまった心の状態のことだといっていい。

単純に勝利を積み重ねて、プライドという名の妄想を肥大させてしまった状態も、そのひとつだし、

逆に失敗を重ねて、どうせ自分なんてという自己否定を固めていった状態も、そのひとつだ。

プライドもコンプレックスも、根っこは同じ。承認欲。
 

だが、承認欲が作り出していった妄想の中身が違う。前者は自分に都合がいい妄想で、後者は自分をかばうための妄想だ。

自分をかばう妄想というのは、けっこう複雑。都合が悪いことが起こると、自分を守るために人のせいにする。あるいは、「きっとこうすればいいのだ」と、自分を基準に考えてしまって、正しい方法を冷静に学ぶことができなくなる。

人に向けてはやっかみや鬱屈(相手に向けられない怒り)を抱えて、「どうせ自分なんて」と自分を否定して見せることで、自己防衛を図る。


これが親であれば、子供は、そのまま自己否定を刷り込まれるか、「そんなことないよ」とかばう役割を背負わされて、親のご機嫌をうかがう(自分の感情に素直になれない)性格になっていくこともある。


学歴そのものに意味があるわけではないが、①ひとつの目標をめざして、②正しい方法を素直に学び、③どれだけ行動に移せるか をもって、自分がどれだけその分野について努力できるかを知るひとつの機会にはなる。

もし、ひとつの目標に真っ直ぐに進めなかった、

方法を学べなかった(学ぶチャンスがなかったという外部要因のこともあるし、素直に聞けなかったという自己要因の場合もある)

行動に移せなかった(継続できなかった、集中できなかった、体力が続かなかったetc.)、

というなら、

どの分野については自分は努力できなかった、しなかったということが確認できる。

それは自分の価値とは直接関係がないことではあるけれど(最終的な目標は、自分の力で生きていくこと一点だから)、

努力できなかったということが確認できたのなら、その点については納得していいし、納得することが筋というものだ。


こうしたことを考えてみると、学歴とか特定の大学・高校に進むということは、そのこと自体は最終的には意味がないかもしれないけれど、

それでも自分が、ひとつの目標に向かって何ができるかを体験する、いい機会にはなる。

ひとつの目標に向かって、多くの人たちがめざして努力するーーそうした分野・領域においては、正しい方法と、その方法を行動に移す努力とが欠かせない。

自分よりも方法を知っている人もいるだろうし、行動に移せる人も、確実にいる。大勢いる。

自分よりはるかに素直で、理解力があり、記憶力があり、努力ができ、意志の力も体力もある人がいるというなら、

やはり世界は広い――ということになる。

そうした世界の広さと、等身大(現実)の自分を知って、

小さなプライドにとらわれず、人に敬意を払い、自分にできるかぎりの努力をし、

自分にできなかったことができ、自分にないものを持っている人に対して素直に称賛できる大人になれるのなら、

ひとつの目標をめざした結果がどのようなものであれ、「めざした価値はあった」ということになる。


建前に聞こえるかもしれないけれど、こうした筋の通った思考を、建前ではなく、貫くことが、本当の教育ではないかと思う。

つまり、成績を上げるとか、どの高校・大学をめざすとか、そんなことは、子供の選択に任せればよく、

ただ、本人がひとつの目標をめざすというなら、正しい方法を提示し、実際にどう行動に移すかも示して、

あとはその道の途中で、何を、どのように、どれだけできたかを客観的に観察して、

本人にとってプラスの価値をちゃんと言語化してみせることだ。



正しい方法と努力には、意志と、素直さ(理解力)と、行動力と、体力とが必要だ。

結果そのものは、運(めぐりあわせ)によって左右される不確実なところもあるが、

意志と素直さと行動力と体力とは、自分の中に備わるもの、育まれるものだ。そして本人を作り、人生を作っていく。

こうした要素(資質といってもいい)を育てるきっかけになるのになら、勉強・受験も意味がある。


教える側としては、学力や成績という観念ではなく、

正しい方法(学び方)と、心のあり方とを伝えて、

本人の努力を観察して、褒めるべきは褒め、「足りない」ところは「足りない」と伝える。


そうしたやり取りの中で、「将来、自分の力で生きていく」ための能力・資質を育てていけるなら、

特定の大学・高校をめざして勉強することにも、意味がある。


教えることも、学ぶことも、本来はシンプルなものだという思いが湧いてくる。