もはや古典~自分を見つめない親について


もはや古典といってもいいメッセージになるけれど、

親は子供のことを相談するよりも前に、自分自身のあり方を見つめないと始まりません。


人間というのは、自分のあり方を見つめて理解しているかどうかで、成熟度が決まります。

成熟していない人は自分自身を見つめていない。なんというか、すごく自己理解が浅い。というか、無い。

自分を見つめる代わりに、子供のことや周りの人間のことばかり考えて、そんな自分がいっぱしのことを考えているように思い込んでいる。

子供が問題だとか、子供が変わらなければとか、〇〇についてわかってもらいたいとか・・。

いや、わかっていないのは、親のほう。それがわかっていないことが、悲劇的。


子のあり方は、親のあり方次第でいくらでも変わる。というか、親の姿を見て素直に反応しているだけ。

そういう部分もわかってない・・。

親であるという特権的立場にあぐらをかいて、子のほうにばかり目を向けるというぬるま湯にどっぷり浸かっている。

まずは自分自身のあり方を深く反省できないと始まらないんじゃないのかな。


自分に甘い。子にとっては、ずるい。

そういう親が無自覚のうちに立ちはだかっているから、こちらとしてはその子のために何もできない。


「どいてくれる?」


そう伝えたくもなる。自分の姿をちゃんと見なさいよ、と言いたくなる。

 

*夏の日本全国行脚スタートです。生き方・学び方について一緒に考えたい十代と親の方々はお声がけください。



東京で個人相談会を開きます

 

夏の日本全国行脚、まもなく告知します。

 

6月21日(日)東京で個人相談会を開催します。

相談ご希望の方は、公式カレンダーの告知をご覧のうえでご連絡ください。

 

 


 

 

 

緑茶と看護学生のみなさん


5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。

ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。

3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。


仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。

ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。

そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。

看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。

看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。

みんな頑張ってほしいと心から思う。


『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。


また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。



2026年5月1日


枠を崩さずってどういう意味?

こんなおたよりをいただきました:


(先日のブログについて)

「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。

ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。



わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。

たとえばこう表現してみましょうか:

仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。

私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、

社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。


「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。

形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。

歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。

ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。


こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。

もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。

ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、

外の世界はつねに変わり続けている。

生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。


ということです。

「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。

新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。

こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり

外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。

それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。

正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。

正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。


私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。

外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。

そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。

その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。

だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。

そういう生き方をしていこうということです。

つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。

伝わりますでしょうか笑。

 

 

新生活、始動


第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。

栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。


寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。

栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、

「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。

政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。

こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?

いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。



この先は、仏教が不動の軸ではあるが、仏教という枠にとらわれない働きを果たしていくことになる。

教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。

そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。

最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。

枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。




2026年4月下旬

 

平気で嘘をつく君へ

 

この事件はね、この先もっと大きな騒動になるかもしれない。

 

聞こえているかな……罪(不誠実)を犯してしまっている君に。

 

 例の AIブッダ禅 アプリ、「事業譲渡」先を募集しているそうじゃないか。

 

もともと原権利者の意向を無視し、連絡も交渉も何一つしていないのに、「連絡済み」とnoteで平然と嘘をつき、

 (嘘だよね、だってスジャト師本人が「ノー(連絡が来たことはない)」とはっきり言っているのだから)

 

「収益の75%を仏教関連団体に寄付している」と堂々と広告していたけれど、それも名前を挙げられた2団体は否定しているし、

 

あまりに明白な権利侵害が確認されたから、主要メディアは、君の事業に関する記事を急遽取り下げたわけだけれど、

 

君は、誰かの妨害行為のせいだ、圧力を受けたからだと、何も知らない人たちに訴えて、自分があたかも犠牲者であるかのような振る舞いを演じている。

 

「事業を託したい」「仏教を届けたい」と格好の良いことを言っているようだけれど、君はこうした事実を隠して、

君を信じて事業を譲り受けた人や企業が、君を信じたPR会社などと同じように、再び迷惑と損失を被るということを、

どうやら君は一切考えていないらしい。違うかい?

 

君の言葉の中に、どれだけの真実があるというのだろう?

 

君は正義のヒーローになりたかったのか? 

だが、人の気持ちは無視して、人を騙すことには平気でいられるというのか?

 

誰から見ても、それは無理だよ。


 

本当にいいんだね?

 

時間は十分あったはずだ。十分待った。

 

君からの中傷めいた言葉を浴びながらも、君の人生を想って、沈黙を保ってきた。

 

だけれど、さすがにこれ以上沈黙を続けたら、君はどうやらさらなる嘘を重ねて、もっと多くの人たちを傷つける恐れが見えてきた。

 

君の言葉を信じて、課金に応じたり寄付してきた人たちは、まだ真実を知らされてはいない。

 

君は、都合の悪いことは隠して、都合の良いことだけを、しかも明らかな嘘まで含めて、彼らに訴え、彼らの信頼と支持を集めてきたらしい。

 

だがそうしたあり方は、そもそも仏教に、いや社会の道理に反する。

人として、やってはいけないことだ。

 

君が自らの過ちを自覚して、静かに閉じるならば、私は慈悲をもってそれを受け止めようと考えてきた。

 

だが、最後まで、君は、自分のことしか考えず、平気で嘘を重ねて、人々の思いまで弄(もてあそ)ぶことを選ぶらしい。

 

私が、唯一、許容できないのは、人の悪によって、人が傷つくことを見る時だ。

 

自分にできることがあるのに、それをしない。

そのことで誰かが傷つく。新たな苦しみを背負う。

 

そうした事態だけは、私は人間として受け入れることができない。

 

本当にいいんだね?

 

きちんと真実を伝える努力を始めようか。

 

君も見届けてくれればいい。私は、君のように嘘はつかない。

 

君の嘘のすべてを、明白な証拠をもって覆し、 この社会にこれ以上の混乱が生じないように、

 

真実を伝え始めることにするよ。

 

P.S.

真実は、君が最後まで投稿し続けてきた note に掲載していくことにするよ。

君も自分が言ったこと、やったことを、鏡を見るように、noteの連載を通して確認するといいよ。

「一人の仏教徒」に妨害されたとか圧力を受けたとか、ずいぶんと都合のいい非難(事実の隠蔽と責任転嫁)を続けてきた様子だけれど、

そのことで一番被害を受けたのは、誰かわかるかい?

君の言葉を信じた人たちだよ。

 

平気で嘘をつくというのは、人を最大限に愚弄していることに等しい。

君を最後まで信じようとする人はいるかもしれない。

だが今回ばかりは、原権利者も、メディアも、名を騙られた仏教団体も、学会も、みんなが、君の嘘を知っている。

何が真実かを決めるのは、君じゃない。社会だ。

 

「一人の仏教徒」として、社会が何を真実として受け止めるかを、見届けることにしよう。

君も、その場所で、見届けてくれればいい。

 

始めるよ――。 


https://note.com/one_of_buddhists/n/n5c9b1ba26e91

 

 

 

もう少し様子を見よう

 
いくつものメディアが、この事業に関する記事を取り下げたというのは、

圧力とか妨害とか、そんな理由ではなくて(そんな理由づけが社会に通用するはずもなかろう?)、

それだけ深刻な、取り下げなくてはいけない理由があったからです。


日本国内のメディア・団体、そして海の向こうの原権利者が、どれほど重い言葉で彼に「NO」を突きつけたかを、彼は一部しか知りません。

どうやら本人は、自分は正しいことをやっていて、自分は犠牲者なのだと訴えたいらしい。

が、事実を人々が知れば、彼の言葉の本当の意味が、つまり真相が、いやでもわかるだろうと思います。

彼が語る「寄付」や「仏教」が、どういう背景(事実)があっての言葉だったか。

それを知れば、彼から聞いていた言葉の意味が、この事業に人々が感じていた意義が、すべてひっくり返ります。


知りたいと思うかもしれないけれど、ここはもう少し待とうと思います。


いつでも決定的な証拠を出すことはできるけれど、

今はまだ、彼の人間性というものを見定めている段階です。


もし彼に、自分の不誠実さを受け入れる良心があったなら、

今彼が懸命に訴えていることは、真実ではないことをみずから受け入れて、

静かに幕を閉じるはずです。


本当の仏教というのは、最後まで慈悲を貫く。

あくまで真実に立って、言葉を選ぶ。

人を責めるよりも、おのれの過ちを恐れる。


この場所があえて明かさないことには、深い配慮があるのです。


やがて、このブログを追っている人たちも、すべての真実を知ることになります。

もう少し様子を見ていてください。


 

2026年4月17日



仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4


本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。

それは、あなたに向けても同じことだ。

 

私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、

ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。


あなたはわからないのか?

あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。

あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、

彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、

仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、

世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。


今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。


日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?

CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?


世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。

新聞社も、メディアも、学者の先生方も、

仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、

その点は同じだ。


あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?


どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。

そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。

世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。

そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。


あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。

仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。

だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。


あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。

あなたは、こうも伝えてきていますね

>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。

そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。

あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。

どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう? 


単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、

その具体的根拠のみです。


現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、

生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。

その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。


あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。

つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、

その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、

真実は、

現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして

彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。


私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。

世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、

今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。


世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。

あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。


あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。

だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。

私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。

あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。

ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。


伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。


あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、


自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。

倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。


この問題は、それほど難しいことではないのですよ。

あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。

与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。

そういう道理を守れるかということだけです。


道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。

あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。



どう思いますか?

 

慈悲にもとづいて 

2026年4月7日

 


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3


この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。


彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。


(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)


ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、

無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。


この事件の本質は、

利用された側がまったく知らされなかったこと、

今回の無断使用に異議を訴えていること、

仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている

ことです。


盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。

この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。

誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。

盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。


自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、

無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。


盗んだだけだ。


盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。


「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。

仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、

自分のやっていることの非道がわからないのか?


その事業内容、

インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして

この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、

今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。


聞こえているか? 

罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。

あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。


間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。

 

このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。

与えられていないものを受け取ってはならない。


もうしばらく時間という名の猶予はある。





2026年3月29日



生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2

はじめに

これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。

この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。

今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。

しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。

こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。

ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。

ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。

ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:

◇◇◇◇◇◇◇

拝復

この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公式の回答となります。

貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『反応しない練習』に基づくAIおよびアプリ開発の提案について、貴社の事業内容および貴殿のこれまでの発信内容を精査いたしました。

結論として、草薙龍瞬は貴社および貴殿が展開する事業への監修および今後の関与一切を固くお断りいたします。

また、仏教に対する貴社・貴殿の認識および扱いについて、深い懸念と憂慮を表明するとともに、今後貴社が展開する事業について、国内外の仏教団体とも連携のうえ、注意深く厳粛に観察していくことをお伝えいたします。

以下に、貴社及び貴殿の仏教AI事業を容認しない決定的な理由を記します


1. 仏教の生命線である人間対人間という大前提への無理解

貴殿は「経典を正しく引用すれば、嘘をつかないブッダの教えになる」と主張されているようですが、それは仏教の本質を著しく誤解するものです。

そもそも仏教という信仰・思想は、苦悩と真摯に向き合う人間に向けてのものであり、また同様の苦悩を知る人間が伝えることを前提としています。仏教を深く理解せず、信仰(敬意)を持ち合わせていない一般の人間が、その主観的判断をもって分類・加工・生成するようなあり方は、元来想定されておりません。

仏教に対する理解が及ばない人間が、苦悩を実感しないAIを利用することで、仏教徒にとってかけがえのない知的遺産である経典を一方的にデータ化し利用する。こうしたあり方は、仏教の思想性並びに伝統と、それを守り続けてきた仏教徒たちを甚だしく蹂躙するものです。た仏教に対する人々の誤解を増大させる極めて危険な行為に当たります。


2. 〇〇〇〇および仏教の伝統に対する敬意の欠落

貴社が流用した〇〇〇〇のデータベースは、長年にわたり僧および在家の仏教徒が献身的な奉仕を重ねて築き上げた神聖な知的財産です。彼らは公式に、AIによる利用を容認しない旨の倫理的要請(Ethical Request)を表明しています。○○○○が提供するデータをかくも大規模に流用しながら、彼らの倫理的要請は知らなかったということは、到底通用するものではありません。

上記の声明が彼らの公式サイトに記されていることを知りながら、気づかれないものと高をくくって今回の事業を立ち上げたということであれば、貴社および貴殿の倫理的罪およびその反社会性は決定的なものとなります。

そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨は、ブッダの教えを商業目的で独占することなく、あくまで救いを求める人間のために広く提供しようとするものです。企業・個人に都合よく利用されるためではありません。

彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、その人道的動機を平然と無視して自らの事業に流用した貴社の姿勢は、仏教徒たちが重んじる「不偸盗(与えられていないものを奪ってはならない)」という戒めに真っ向から抵触するものであり、また地道に仏教を守り続けてきた仏教徒たちの努力を甚だ愚弄するものです。


3. 拙著および私個人の道具化への異議(発想への警告)

拙著『反応しない練習』は、読者である一人ひとりが自らの心を見つめ実践するために、私がいわば命を削って紡ぎ出した大切な作品です。それをAIボット化し効率的に提供しよう(提供していい)という発想は、個人の思索とその成果を嘲弄するに等しい極めて傲慢なものです。これを機に自覚していただくことを求めます。 

貴殿はSNS型メディアにおいて (略) を発信している様子です。こうした発想は、一個人の感想としては自由ではあるものの、そのような認識で仏教を生成AIに利用すること、またなんら資格も正当性もない立場で仏教を編集・加工しアプリ等に利用することは、社会通念をも逸脱するものです。

仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、そしてすべての著者には、尊厳というものがあります。貴社および貴殿がやっていること、およびその発想は、こうした尊厳を甚だ傷つけ、かつ愚弄するものです。

もし私の言葉が未だに届かない場合、そして今後も貴社および貴殿が、仏教という尊い思想を生成AIおよびアプリ開発に利用する動きを止めないというのであれば、その時は、あなた方がやっていることの法的・倫理的当否、特に〇〇〇〇のデータベースを大規模に流用して事業化したという事実を、貴方方に直接訴えるのではなく、社会および世界に向けて発信せざるをえません。


最終警告および要請

この連絡をもって、私と貴社および貴殿との接触は完全に終了したものといたします。今後、以下の行為が確認された場合には、法的措置を含めた厳正な対応を検討いたします。

1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、投資家向け資料等において、某僧侶に監修を依頼している、相談中である、「反応しない」プログラムを開発中といった、私および私の作品との関わりをほのめかすような一切の記述を禁じます。

2.著作権・商標権への配慮:
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」という核心的概念を含む独自のコンセプト・方法論を、貴社のAIサービスの名称、機能、宣伝文句等に流用することを厳に禁じます(もともと貴社および貴殿に仏教を扱う正当性は一切ありません)。

3.誤認情報の流布禁止
私の思想ひいては仏教の精神を、貴社のAI技術によって「再現可能である」かのような誤解を招く一切の表現を禁じます。これはあきらかに信仰・思想としての仏教が許容する範囲を逸脱する、非倫理的かつ反社会的なものです。

4.仏教という知的遺産への敬意と尊重の要請
仏教は、ブッダの教えに基づいて真摯に生きる仏教徒たちのものです。何人たりとも、仏教を一企業の事業としてまた商用目的で利用することは、許されるものではありません。


貴社および貴殿が擁する技術的卓越性は、法的・倫理的見地に抵触しない範囲および態様で社会に還元することが求められています。

この件は、貴方方が対処を間違えば、日本国内だけでなく世界的な議論と批判を招きかねない重大かつ深刻な問題を含んでいます。本件に潜む倫理的危うさが周知の事実となれば、貴殿がどのように弁明しようとも、確実に貴社および貴殿の社会的信用性に致命的かつ半永久的な負の影響を及ぼします。

貴社および貴殿は、さまざまな媒体を通して〇〇事業を宣伝しているようですが、今後はそのすべてが、あなた方への批判・非難の的に転じる危険があることをご自覚ください (略)。


仏教は、仏教を信仰する者たちによってのみ語り継がれ、また守られるべきものです。

貴殿もまた縁あって仏教という思想にたどり着いた身の上です。物事の道理というものを理解しうる知性と良心の持ち主であると信じます。

どうか物事の道理を正しく理解し、本来のご使命に立ち返ることを願ってやみません。


僧侶・草薙 龍瞬

 

2026年3月下旬

 

追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。

 

 

 

 

 

『反応しない練習』海外翻訳版

 

 『反応しない練習』KADOKAWAの海外翻訳版が出ている国々一覧

※アルファベット順


    アメリカ (America / United States)

    中国 (China)

    フランス (France)

    ドイツ (Germany)

    ハンガリー (Hungary)

    イタリア (Italy)

    オランダ (Netherlands)

    ポーランド (Poland)

    ポルトガル (Portugal)

    ルーマニア (Romania)

    韓国 (South Korea)

    スペイン (Spain)

    台湾 (Taiwan)

    ウクライナ (Ukraine)

    イギリス (United Kingdom)
 
 
遠い国で見知らぬ誰かが手にとってくれている
 
すごく不思議な感じがします
 
ありがとう! よき日々を!
 
 

 
 

 

婦人公論2026年4月号に掲載

 婦人公論2026年4月号
表紙:羽田美智子さん

 

に取材記事が掲載されています:

 

あなたの“心のクセ”は何タイプ?
負の感情を手放す仏教的エクササイズ
草薙龍瞬

 


 

そろそろ新しい作品を出さないと・・。

 

 2026年3月12日

 

 

 

 

生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて

追記: 

ここにお伝えする言葉は、ある深刻な事態を知ることになったからです。

生成AIによる著作物・創造物の無断利用、その規模からして”収奪”とも言える事態は、

最近になって急浮上してきた深刻な事態です。


これを放置すれば、地道に何かを作り出し、また社会に発信しようというすべての人たちが、

その努力の証である創造物を、いとも簡単に奪われ、別の誰かに利用されるという

暗澹たる社会を招いてしまいかねません。


AIというのは、使いようによって、光にもなれば陰にもなります。

前者になるのは、使う人間に”倫理”(配慮)があるときであり、

後者になるのは、使う人間に”倫理”が欠落したときです。


現時点では、まだAIを使う人間の側に倫理が確立しているとは言えません(そう思いませんか?)。

だからこそ、慎重に、AIという新しい技術がもたらす影響について、全面的に肯定するのではなく、見届けていく必要があるものと思います。

今回の出来事は、倫理が欠落した時に、AIという情報処理技術が、どのような事態をもたらすかを示す、1つのモデルケースになるかもしれません。

真実は、見る人によって変わる多面的なものではありますが、

この先ゆっくりと時間をかけて、真実を明らかにしていきますので、

どうかあなたの最も純粋な心の眼で、この件を最後まで見届けてほしいと願っています。

2026年4月17日

 

こちらはかなり真面目な話として――


最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。

「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。


彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。

自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、

あからさまな文化的窃盗であり、

俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、

仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。


最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。

いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。

原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか? 

自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?

そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?

「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。


これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。


古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。

だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。


そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。

パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。

ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。

しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。

さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。

 

もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。 

 

ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。

一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。

だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。


彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。

なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。


最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。

2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。

仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。

そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。

彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。


思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、

仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。


しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。

そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。

なんの臆面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。

 

そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。だが言うまでもなく、彼らに仏教を”盗む”資格などない。

 

いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、

自分たちに、仏教を利用し、収奪し、さらに自分たちの利益を上乗せする資格があるというのか。 


問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。


彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。

首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。

だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。


つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。

正気を取り戻してもらいたい。

彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。

まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、

その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。


どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。

世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。

苦しみを知らぬ者、

自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、

仏教が利用されることはない。あってはならない。


真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。


いずれは声を挙げねばならないか。

声を挙げねば、わからぬか。



※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。

2026年3月

 

※追記 

どうやら、真相はもっと深刻で、もっと多くの虚偽を含んでいたようです。これほどの嘘を堂々とみずからアピールしてしまうとは・・いずれ真実を知った人たちは驚くはずです。今は信じている人たちさえも。

こういうことは、なるべく早く知られるほうがよいのです。本人にとって幸いだったかもしれないことは、真相を知ったのがこの場所(私)だったということです。

世の中は、私のように優しくはないから・・見つかるのが遅ければ遅いほど、信じた人々の怒りは大きくなるものだから。

あやまちを改めるのは早いほうがいい。自覚しないよりも、自覚したほうがいい。

遅れるほどに、本人が最後に背負う罪の重石は重くなってしまう。

私はそれを望んでいない。

どうするつもりなんだろう・・。 

2026年4月11日

 

苦悩ある人・場所にこそ


この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、

苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。

どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)

どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。

苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。


その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、

見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、

そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、


この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。


この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、

どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、

その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。


だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、

静かに退くことにしているのです。

というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、

無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、

これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。

仏教の世界では「無記」といいます。


単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。


これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。

ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。

他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。

そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。


それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。

そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。


「お役に立てません」という思いだけに立つことで、

自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。


あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。


この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。



みんなそれぞれの場所で生きています。

それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。


みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。




2026年3月

 

 

絶対に失敗しないコツ


『ブッダを探して』の連載終了後に、新聞社宛そして興道の里に感想のおたよりが届くようになりました。

「壮絶な覚悟を感じた」というお声や、「疲れませんか」みたいなご心配を向けてくださる人もおられました。ありがとうございます。

そうかぁ、そう受け止めてくださっているんだなぁと少し新鮮に感じました。

 

考えてみたら、生きること・動くことをしんどいことだと感じていません。覚悟も疲労もなく・・自然に元気でいられています。

出家前までが苦しすぎたからかな・・とも思いましたが(『ブッダを探して』に書いた過去の体験が鍛えてくれたことは事実だろうと思います)、
 
なんでだろうと改めて考えてみると、今は、


「動く」ということが当たり前のこととして心に組み込まれているからかな、と感じました。

自分に動ける範囲で動く。思いついたことは「やってみる」。

結果的にかなり遠大な目標があるとしても、そこに飛びつくでもなく、また途中経過を人に見せたり認めてもらおうとすることなく(妄想ゾーンを広げず)、

とりあえずできることに手を着ける、ということを「やってみる」ように心ができているように感じます。

たとえば今回の連載のイラストは、「絵の勉強しよう」と思ってタブレットを買って、ちょこちょこいじってみるところからスタートして(十年ほど昔?)。

「やってみる」が重なって、結果的にできることが増えていて、

いざ連載のお話をいただいた頃に「できる」レベルに届いていた、という状況でした。




これから始める活動も、たぶんそういう展開になると思います。

まずは着想から。そして今できることをやってみる。

もともと仏教講座もそうでしたが、私の場合は、生活のためとか事業の成功とかそういう動機でやっていることは一つもなくて、

「一人でも求めてくる人がいるならば」という思いでやってきたことです。

一人でも足を運んでくるなら、それだけで自分にとって価値あることになります。

社会的には無に等しくても、自分の活動が誰に見つからなくても、自分の中で価値を感じられる。

だから、「やってみる」だけで、即自分にとっては「成功」というか「達成」になってしまうのです。

よく何かを成し遂げた人が、「とにかく続けること」を秘訣として語りますが、それに近いのかもしれません。

最初に自分にとっての価値が存在する――それはすごく小さい。なにしろ自分にとって「やってみようかな」と思える程度の思いでしかないから。

それを世間では「好き」(意欲)と表現するのでしょうが、私にとってはものすごく小さな「好き」。でもすぐ動くから、「好き」のエネルギー効率がものすごくいい。

で、やってみるときには「どうすればできるようになるのだろう?」という方法探求モードにすぐ切り替わるので、「できる」ことが増えていく。


失敗しないコツを整理してみると、

結果を求めずに、できることをやる。確実にやる。
動く。形にしてみる。
つねに方法を考える。

そのミニマムな動いたという事実が、いわゆる達成や成功を含む、望ましい未来につながっていくということなのかもしれません。




草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』カバー.jpg
やりたい(小さな好き)→やろう(動く)→やってみた(体験)→できる(上達)というルートの解説が載っています




2026年3月


『ブッダを探して』連載完結


中日新聞・東京新聞で連載されてきた『ブッダを探して』は、

2026年3月1日(日)日曜朝刊 全105話で完結しました。


2024年2月から週1のペースで文章とイラストを書き上げてきました。初めての体験。

大変でしたが、面白かった。

15年にわたってブログやメール通信の記事、本の草稿などを書きためていたおかげで、ネタ切れせずにすみました。


言葉のほうは、思いとほぼ合致したものを紡ぎ出せます。言葉については思いのまま。

絵のほうは、難しい・・うまく描けたと感じることもあれば、下手すぎて恥ずかしい(申しわけない)と思うことも。


全編読み通してみると、これは自伝ではあるのですが、旅物語(精神遍歴)でもあり、仏教の解説でもあり、世の中に居場所がない場合の第3の生き方でもあり、

舞台もインド、ミャンマー、日本(過去と現代)にわたる壮大なもの。


最終章は、「ブッダを探して」というタイトルの意味が明らかになる、いくつかのエピソードで構成されています。

文字数に制約があるので、掘り下げて書き切ることができず、わかりにくいという感想を持った人もいるかもしれません※。

(※連載途中では伏線的な文章を入れて、最終章の<現代日本編>で真相を明かすという構成を取っています。もう一度最初から読むと、すべてのエピソードがつながるようになっています。)

言葉が足りない部分は、書籍化の時に解説的文章を加筆して対応すべきなのだろうと思います。


できれば誰かのSNSや本のレビューなどをきっかけに、この作品の存在を、まだ知らない人たちに知ってもらえたら、書籍化の可能性も増えていくのかな・・と思ったりします。
 
 
見知らぬ人から感想をお寄せいただくことがあります。
 
いろんな場所で読んでくださっているのだなと胸が熱くなるのを感じます。
 
 
2年にわたる連載におつきあいしてくださった皆様、本当にありがとう。
 


2026年3月1日



人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。

それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。



この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。

その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、

地味に講座を開き続けて、

本を出すという縁にめぐまれて、

『反応しない練習』という作品が生まれました。


中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。

Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。

ひとつの締めくくり。



『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。

できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。

ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。

これも、ひとつの締めくくり。



人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。

やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。

少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。

先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。


どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、

生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。



私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。

これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。

締めくくって、前に進んでまいります。


2026年3月

 

 

 

人は思い込みの中を生きている


*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。

将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。



自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、

①人は思い込みの中を生きている

 たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。

 つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
 当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。



 大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
 あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。



 ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。

 でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。



 人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。

 君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。



「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
 だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。

 人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
 自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。



 大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
 その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
 だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。

 つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。

 そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
 誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。


※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます

 

2026年2月


思いについて


※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。


書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、


子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。



よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――



◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




思いについて



そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。


そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。


だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。



もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、


君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。



でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。


もし変わったとしたら、

過去の思いはもうなくなったっていうことだから、


もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。



大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。


もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、


その相手に伝えることも大事なこと。



もう少し自分の中に取っておこう、とか、


もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。



もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、


その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。



もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。



相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。



もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。



君が今思っていることは、大事な真実。


こんな思いがあるんだ、と気づいて、


あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、


もしかしたら大切なのかもしれないね。

 

 

 

 2026年2月