ただいま、公式ブログは臨時休業中です。
2月第4週に更新する予定です。しばらくお待ちください。
興道乃里・草薙龍瞬
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。
前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。
(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)
性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。
この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。
動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。
仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。
おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。
たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。
役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。
経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。
ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。
動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。
本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。
2026年1月
※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:
(あるお母さんへの返信から)
学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。
合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。
特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、
誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。
このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。
◇
となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。
なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。
将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした
自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。
価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。
結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。
いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。
残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。
その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。
幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。
学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。
他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。
妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。
それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。
もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、
他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。
磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。
大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。
仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。
◇
だから、最終的に考えるべきは、
自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使うことだろうと思うのです。
その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。
それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。
本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、
行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。
難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。
同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、
学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは
将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、
それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。
どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。
自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。
3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。
これからです。
2026年1月
心はそもそも無常なもの、コロコロと変わるものです。
穏やかな時もあれば、イライラする時もある。それが心のノーマル。
大事なことは、その時々の心の状態を自覚することと、もし慢性的に続く(クセ・傾向がある)ようなら、その原因を考えることです。
たとえば、人と接することが本当は好きなはずなのに、時が変われば忌避モード(会いたくない・接したくないという気分)に変わることがあるとします。
その場合の原因は何なのか。単純に疲れている、最近嫌なことがあって引きずっている・・という比較的浅め(つまり放っておけば元に戻る)の場合もあれば、
もっと根が深くて、誰かのことが嫌い、会いたくないとずっと思っていて、でもその関係性が完全に過去になっていなくて、今なお刺激を受け続けている・・という場合もありえます。
嫌、会いたくないというのは、不快感(怒りの感情)が作動している時です。その原因は?
ただの妄想であることもあれば(つまり客観的状況には問題がない)、誰かとの関係で怒りが結生している(強く反応してその状態が続いている)こともありえます。
※「結生」というのは、私が本の中でよく使っている言葉なので、初めて聞く人は読んでみてくださいw)
最初の反応が結生すると、その反応が前提となって、次の類似の反応を引き起こします。
怒りが結生するとイライラが続いて、怒りっぽくなる。不運な出来事が記憶として結生すると、また悪いことが起こるのではないかと不安になる。「どうせ自分は」という判断が結生すると、自己否定をずっと引きずるようになる・・。
たとえば、本当は人と接することが好きなはずなのに、そいう感じない時期が長い、さらには他人の嫌な部分が目につく、みんな嫌い、世の中もイヤ、何もかもなってない!みたいな思いが強くなっていくこともあります。
ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。
「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、
◇
過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、
過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。
あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、
自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。
仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、
そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。
(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)
◇
もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。
形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。
けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。
◇
心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。
長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。
自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。
それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。
◇
職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。
その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。
本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。
しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。
それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。
◇
<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。
他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、
サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。
心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。
お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。
実際に「やる」「なる」ことです。
本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。
そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、
人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。
◇
まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。
そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。
どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。
理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。
2026年1月
この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。
生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、
いつでも扉を開いています。
この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、
一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。
この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、
自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。
この場所が大事にしているのは、
自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。
出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、
そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、
誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、
つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、
せめて、今の自分に何ができるかと考えて、
この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、
という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。
この先の世界、本当にどうなるかわかりません。
だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。
2026年1月
『ブッダを探して』(中日新聞・東京新聞連載中)は、
2026年3月をもって連載終了。
仏教とは何か、出家という生き方とはどんなものか、
日本、インド、ミャンマーと舞台を変えて描き出す、異色の作品です。全編実体験。
単行本にまとめる作業が残っているので、どこかの編集者さん・出版社様との新たな出会いを待とう思います。
ノンフィクションであり、旅物語(紀行文)であり、文芸色も濃い作品なので(しかもイラストつき)、
そうした系統の作品への理解と思い入れが深い、編集者さんと出版社に託することができれば、と思います。
著者側から当たれる関係性(ツテ)はあるのですが、それでは面白くない気もするのでw、
今回はあえてオープンにしようと思います。
これから旅(物語)が始まる――
という予感に満ちた表紙にしたいと考えています。
2025・12・27
『反応しない練習』を最近読んだという方に向けて
「コレは!」と感じるものがあった人は、じっくり腰を据えて実践を続けることをお勧めします。
なるべく他の本もしっかり読んで、自分についての理解を深めてください。そして、「どうすればいいか」という具体的な方法を実践してください。半年、一年と。
多くの人は、自我(自分への執着)への誘惑に駆られた精神状態で生活しています。
だからこそ、そもそも本を読まない(学ぶ必要性を感じていない)人も世の中には多いものです。それは自然なこと。必要性を感じていないのだから、どのように生きるのも完全に自由だし、本人にとっては正解です。
他方、少しでも課題を感じている人、さらには明らかな悩みや苦痛がある人は、どこかに解決のヒントを探し始めるものです。
手っ取り早く動画やSNSやインターネット、生成AIに当たる人も多いはず。ただ、こうした世界は、お手軽な情報が手に入る便利さはあるけれども、やはり「それだけ(情報止まり)」で終わることがフツーです。
スマホやパソコンの画面を眺めて得られる情報には、自我への執着や妄想を突き破る力はありません。
それは本(活字を読むこと)でも同じですが、ただ、本の場合は、最初から最後まで一貫した書き手の視点で情報を追っていくという、それだけでも大きく違う作業が必要になります。
一貫して情報を追うというのは、それだけ能動的な知的作業が必要になる。しかも最後まで読み通すというのは、動画を断片的に眺めることでは得られない「視点をもって」、明確に限定された範囲内の情報に触れ続けることになる。
一定の知的作業、いわば心(脳)の姿勢みたいなものが一貫して必要になるので、得るもの・残るものも、それだけ(動画を眺めるだけに比べれば)深くなるのかもしれません。「頭を使う」ということでもあります。
そして、そこで得たものが自分にとって価値があると思ったら、しっかり言語化するか、行動に移して「習慣化」していくプロセスに入ることになります。
そのプロセスに入らないと、すぐに自我への執着・妄想モードに戻ってしまう。
自分のままに留まるか、自分を越える可能性へと踏み出すか、二者択一だということです。
だから、一冊の本を読んで「これはいい(価値がある)」と思ったら、まずは行動し続けること、実践を続けること。
そして、一冊の本には語られていない別の知識や情報や智慧(方法)があるかもしれないと考えて、同じ書き手の別の作品に手を伸ばす、という作業が必要になります。それこそが、深める、掘り下げるということです。
ですので、前向きな感想を送ってくださった方にお伝えできる次のステップは、「他の本も読んでみてください」ということになります。
相談に来る人たちに必ずお伝えしている、たとえば『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)を読んでみてください。
読まない人があまりに多いのです(それはそれでいいのだけれど^^)。
『反応しない練習』は入門編。たしかに読みやすい。でも自我への執着を突き破るところまでは進めない。
草薙龍瞬の作品は、同じことを書いていません(本質は共通しているけれど)。必ず新しい発見・学びが得られるように作っているので、一冊読んで「コレは!」と思える部分があったら、今こそ千載一遇のチャンスだと思って、ぜひ読んでもらえたらと思います。
(宣伝ではありませんよ、それだけ大事な、新しいことが書いてあるということです笑)。
2025年12月23日
翌朝は歩いて駅まで。夜とは表情が一変するさわやかな朝の風情も楽しい。
清張は40を過ぎてデビューして、82歳になるまで人間を抉りぬく営みを続けた。鬼神とも喩えうる熱量。
原動力は本人いわく「疑い」であり「底辺から見上げること」だそうだ。出家のひねくれ根性とも似たところはあるかもしれない。
杉並・高井戸に一軒家を構えて、膨大な資料を所蔵していた。その書斎の一部が復元されていたが、途方もない蔵書量。
自分と同等の熱量を編集者にも求めたとか。編集者としては戦々恐々だったろうが、稀代の知の巨人とまみえることができる僥倖も感じていたことに間違いない。
清張の人生の前半40年にわたる貧困と下積み時代は、本人にとっては「濁った暗い半生」だったという。その暗い蓄積があったからこそ、後半生の鬼のような執筆活動が可能になった。自身が体験した混沌を言葉によって濾過していったのだ。
見知らぬ夜道を妖しい恍惚を感じながら歩き続ける。踏切を渡り、国道沿いをひたすら歩いて、はて道を間違えたかと思ったあたりで、ようやく到着。
宿は駅近がよいかと思っていたが、そうではなかった。むしろかなり歩く距離のほうが、途中の景色を楽しめると今回学んだ。
「誰もいないところに自分一人」というシチュエーションに胸が躍るのは、やはりこの身は夜行性ということなのだろう。
いよいよ2025年も師走に突入。
来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、
子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、
講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、
子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、
絵本を描くとか?
いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。
◇
そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。
ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、
そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・
ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。
今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。
自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。
この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。
この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。
「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。
この世にあって、この世を越えた場所、
この世にあって、この世に見つからない場所。
寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、
「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、
今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。
2025年12月
社会から長く離れて過ごしていた人から、
社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。
状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、
社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。
入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。
「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。
社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。
だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。
だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。
地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。
多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。
最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。
どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。
気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。
もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。
そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、
不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。
リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。
社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。
まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。
やってみてほしいなと思います。
どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。
“見える”ものは、伝えることもあるし、
業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、
だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、
つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・
苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、
どうした場合に善の業が育っていくかといえば、
「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」
業とは心のクセ・反応パターン
いわゆる性格や慢性的気分です
つい繰り返してしまう、
自覚があまりない、
そして
親から子に受け継がれる
ことが特徴です
詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)
門司から中津に向かう。車内で、通学途中の高校生たちと一緒になる。9割方はスマホ、1割は参考書。スマホは常習化した感がある。
スマホのない空白の時間を体験している世代としては、ほんとにこれでいいのかなという疑問もなくはないのだが、
片や参考書を眺めている殊勝な高校生たちの姿を見ると、中身のなさそうな勉強に時間を注いでも、あまり実のあることはアタマに残らないだろうし、未来の足しになるとも思えない。
要するに、スマホも参考書も、正直意味がないのではと思えてしまう。
とはいえ、スマホをダラダラ使っても、知能は育たないであろうから、こうした時間を延々と過ごして脳が溶けていった(思考力が劣化していった)先に、どんな人生が、そしてどんな社会が待っているのかは、今の時点ではわからない。せめて実のある時間の過ごし方について提案するくらいのところまでは、やってみたいものだと思う。