4月5日(日)国語キャンプ in 奈良

 

きたる4月5日(日)に

小・中学生向けの体験授業を開催します。


場所は奈良県明日香村(京都・大阪から1時間)


午前に村を散策 → 午後に体験授業 

という充実プランもお勧め



4月5日(日)午後1時~4時

小5~中3

国語キャンプ~言葉を味方につければ毎日が楽しくなる!

(楽しくて役に立つ国語の体験授業)

後半はゆるめの座談会(おしゃべり会)
 
 
子どもたちへの静かな環境を確保するため、
 会場はご予約いただいた方にご案内さしあげます
(公共施設の会場を利用します)
  

参加者に応じた教材・課題を用意しますので、
学年を問わず参加できます(高校生も歓迎)
 

志望校が固まっている人は、
過去問や参考書をお持ちください。個別にアドバイスします。
※中学・高校・大学入試全般
※土曜午後1時から5時に個別対応可 



* 参加無料 *

友だち・お父さん・お母さん・ご家族と一緒もOK!

 

春到来 さあ、はじめるよ!
 
 
 参加申し込み・お問い合わせは

①お名前 ②参加人数 ③都道府県 
を 
welcome@koudounosato.com  まで
 
※地元の子どもたち&保護者は予約不要です
 

下記リンク先またはQRコードから入力フォームで
お送りいただくこともできます 
 

お問い合わせは 

興道乃里事務局

welcome@koudounosato.com  まで









『反応しない練習』海外翻訳版

 

 『反応しない練習』KADOKAWAの海外翻訳版が出ている国々一覧

※アルファベット順


    アメリカ (America / United States)

    中国 (China)

    フランス (France)

    ドイツ (Germany)

    ハンガリー (Hungary)

    イタリア (Italy)

    オランダ (Netherlands)

    ポーランド (Poland)

    ポルトガル (Portugal)

    ルーマニア (Romania)

    韓国 (South Korea)

    スペイン (Spain)

    台湾 (Taiwan)

    ウクライナ (Ukraine)

    イギリス (United Kingdom)
 
 
遠い国で見知らぬ誰かが手にとってくれている
 
すごく不思議な感じがします
 
ありがとう! よき日々を!
 
 

 
 

 

婦人公論2026年4月号に掲載

 婦人公論2026年4月号
表紙:羽田美智子さん

 

に取材記事が掲載されています:

 

あなたの“心のクセ”は何タイプ?
負の感情を手放す仏教的エクササイズ
草薙龍瞬

 


 

そろそろ新しい作品を出さないと・・。

 

 2026年3月12日

 

 

 

 

生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて

こちらはかなり真面目な話として――


最近、仏典を生成AIに読み込ませて質問・相談に答えさせようという、なんとも恥を知らぬというか、倫理というものを理解しない者たちの動きを耳にするようになった。

「やってはいけない(犯してはいけない)」一線を超えていることに、どうやら本人たちは気づかないらしい(気づくくらいなら、こうした罪は最初から犯さないであろうが)。


彼らがどの程度、倫理的・法的に問題となりうる点を吟味したかは、知らない。

自分たちは開発・研究だと思っているらしい。だがこれは、

あからさまな文化的窃盗であり、

俗な言い方をすれば宗教・思想への冒涜であり、

仮に著作権の対象に当たる文献・研究・翻訳をも無断で生成AIに読み込ませているとなれば、法を犯しているということになる。


最近、こうした試みを(企みといっていい行いでもあるのだが)繰り広げている一人から連絡が届いた。

いわく、私の著作である「反応しない練習」を実践する意図で生成AIを利用したところ、実在しない経典やブッダの言葉を言われたことがきっかけらしい。嘘をつかないブッダの教えをAIで作れると考えた様子である。

原始仏典の言葉を借用すれば、嘘がなくなると思うのか? 

自分自身に、真実と嘘を見分ける技量・資格・知見・責任はあるのか?

そもそもその言葉は、自身で学び、調べ、探った果てに生み出したものか?

「作っていい」と考えた時点で、論理の飛躍、いや破綻がある。しかも倫理と法を侵している。


これは、京都大学の研究チームについても、同じことがいえる。真っ当な研究といってよいものかも、学問的な議論と吟味が必要だ(京都大学は何をしている?)。AIに仏典を読み込ませるという所業は「開発」ではなく、文化的窃盗だ。倫理が壊れつつある今の世相を象徴するかのような動きである。


古い仏典を使うことは、著作権侵害には直接は当たらないだろう。

だが、翻訳には著作物としての保護が及ぶ。


そもそも翻訳というのは、その分野についての深い理解と高度な言語技術を必要とする。

パーリ語の原典をテクストだけでとらえて直訳すれば「ブッダの言葉になる」というわけではない。ありえない。

ブッダの言葉を理解するには、歴史的・言語学的な素養が欠かせないし、修行・瞑想体験をふまえた洞察をも必要になる。

しかもその意味を的確に別の言語に翻訳しようとすれば、高度な置き換えと表現の技術が求められる。

さらには、その言葉を受け取る人たちの思いや苦悩を想像して、どのような言葉であれば、その心の苦を癒やし、解き放つ効果が生じるかという点も、深く考えねばならない。

 

もし彼らが、パーリ語の原典に当たるのではなく、どこぞに掲載されている日本語訳・英語訳その他の情報を利用しているのだとしたら・・・そこには重大かつ深刻な倫理的問題が生じる。 

 

ちなみに私の作品は、上記の要素を踏まえて、まさに全人生と全人格を賭けて著したものだ。

一見わかりやすく聞こえるだろう。心に響くだろう。そう言ってくれる人たちは多い。

だがそれは、そうした効果を意図して翻訳しているからだ。深く理解し、思索を重ね、人々の苦しみを感じ取ろうと努力し、そのうえで高度な言語操作能力を駆使して生まれた作品だ。


彼らが入手しうるブッダの言葉は、著作権が及ぶだけではない。倫理的な問題、つまり人間としてやっていいことと、してはならないことの線引きという問題にも抵触する。

なにより思想というものは、それ自体が尊重されなければならない。


最大限の尊重を求める資格があるのは、私だけではない。

2600年近い年月を、全人生を賭けてブッダの教えを学び、実践し、継承してきた出家者たち、長老たち、僧侶方がいる。

仏典に残る言葉を精緻に検証し、考古学的、言語学的、文献学的、歴史学的見地から、ブッダの言葉の真意を探り続けてきた学者・研究者たちがいる。

そうした人々の真摯な努力と格闘のうえに、仏教という思想がある。

彼らの言葉とその思いもまた、最大限尊重されねばならない。


思想と人格。その価値と尊さへの理解と敬意と尊重があるなら、

仏教の文字面(もじづら)を生成AIに読み込ませるなどという「破廉恥な」行いは、とてもではないができないだろうと思う。


しかも、こうしたことをする者たちは、仏教を学問として突き詰めたわけでも、瞑想をきわめたわけでもない。原典の言葉の意味さえわからない、仏教とはそもそもどんな思想なのかも知らない素人である。立場も、資格も、能力もない。

そうした者たちが、生成AIという技術を使って、仏教そのものを利用しようと発想する。

なんの億面・ためらいもなく、プロジェクト、事業、ビジネス、宣伝の材料にしてしまう。

 

そもそも彼らは、自分たちでパーリ語の原典を翻訳し直したわけではあるまい。つまりは誰かの言葉を盗んでいる可能性が高い。 

彼らに仏教を”盗む”資格などない。

 

いったいどのような立場、能力、理由、常識をもって、

自分たちに、仏教を利用し、盗む資格があるというのか。 


問題がないはずがなかろう。いくらでも問題を提起することは可能だ。


彼らは、自分たちが何をしているのか、どのように見られているのかを想像しないのだろうか。

首を傾げる者、呆れている者、仏教をさながらおもちゃ(玩具)のように弄(いら)えるその幼さに半分軽蔑に近い印象を持つ者も、少なくないはずだ。

だがこうした心ある、倫理・分別をわきまえた者たちは、いちいち声を挙げたりはしないから、今のところ、彼らの耳に届いていないだけだ。


つくづく驚くことに(あきれるというか、もはや言葉もないのだが)、私に「監修」してくれとか、私の著作をも利用するつもりでいるというようなことまで言ってきている。

正気を取り戻してもらいたい。

彼らがやっていることは、それ自体が「文化的窃盗」に当たる(こうした言葉も彼らは知らないのかもしれない。端的にいえば「盗み」だ)。

まして私の作品だけでなく、誰か学者や僧侶方の成果(翻訳・内容・表現)を、生成AIに読み込ませているとしたら、

その時点で完全にアウトだ。明白な犯罪である。


どの時点で声を挙げるか、挙げねばならないのか、慎重に観察しているが、決して容認しているわけではない。絶対に容認などしない。

世の中には、やっていいことと、悪いことがある。


そもそも仏教は、苦しむ人のためにある。

苦しみを知らぬ者、

自分たちの行いが、仏教という思想を甚だ愚弄していることにさえ気づけぬ者たちのために、

仏教が利用されることはない。あってはならない。


真摯な動機で仏教を求める市井の人たちの中にも、同じ疑念と憤りに近い感情を抱く人たちは必ずいるだろうと思う。どうかその思いを保ってほしい。仏教という知的遺産を守ってほしい。


いずれは声を挙げねばならないか。

声を挙げねば、わからぬか。



※この話題についての疑問・問題提起は、それぞれの場所で、それぞれの方法でしていただくことを期待します。このサイト内の情報を共有することも可とします。今回は、この場所および草薙龍瞬の立場を表明しておきます。


2026年3月

 

 


苦悩ある人・場所にこそ


この場所は、あくまで 苦しみ(課題)を越える という目的をめざすところだから、

苦悩している人、同じ目的を共有している人や場所にこそ、関わる意味(役割)があるのではないかと思っています。

どれくらい自分自身の苦しみ・悩み・課題を自覚しているか、
(自分以外の人・物事、たとえば自分の子供のあり方についてではなくてね)

どれくらい真摯に、素直に、自分自身を見つめることができるか、つつしみを保てるか。

苦しみを越えられる可能性があることが伝わってきたときには、この場所はすぐにでも動きます。


その一方で、苦しんでいない人、悩んでいない人、自身の課題に気づいていない人や、

見ているものが自分の利益(お金や名声や自己顕示欲や承認欲の満足)にある人については、

そうした生き方・あり方はその人の自由(それも価値あること)ではあるけれど、


この場所はお役に立てない可能性が高いので、すみません(お役に立てません)とお答えすることになります。


この場所は、純粋な(というのも気恥ずかしいのだけれど真実)動機に立って、

どれだけ人・場所・世の中の苦しみや課題を越えていけるかを探っていくところだから、

その目的に特化して、それ以上に輪郭(守備範囲・対応できる範囲)を広げることを善し(価値あること)としない場所なのです。


だから、お役に立てないことが少しでも見えた(予感した)ときには、

静かに退くことにしているのです。

というのも、前提(動機)あるいは方向性(目的)にズレがある、そうした関係性について踏み込む(あえて言葉にする・説明する)ことは、

無用のストレス(相手からしたら快く思わないかもしれない)を招きかねないので、

これもあえて言葉にしないことを選ぶことにしているのです。

仏教の世界では「無記」といいます。


単純に、お役に立てません(でも言葉にすることでもありません、言葉にするところまでは行きません、そのほうがいいと理解しています)ということなのです。


これは、仏教に古来から伝わっている、守るべき戒律でもあります。

ブッダ自身が、そうした姿を保っていました。

他の意図はありません。単純に、純粋に、「この命(この場所)はお役に立てません」という意味しかありません。

そうした形で、マイナス(苦しみ)を増やさない(人さまに不快な思いをさせない、傷つけない)関係性を探ってゆくのです。


それでも、仏教の外の世界では、それぞれの期待や思いを広げる傾向にあるので、そうした思いを受けることも起こります。

そんなときにも、仏教においては、無記を保ちます。


「お役に立てません」という思いだけに立つことで、

自分の輪郭を保ち、また外の世界のさまざまな人さまの思いをも尊重する(肯定する)ことをめざしているのです。


あえて語らないことにも、仏教の世界においては、さまざまな配慮があります。思いやりという言葉に近い思いです。尊重、愛情、肯定、応援、配慮ともいえる思い・・。


この場所は限りなく小さく、研ぎ澄まされた善(価値)だけを大事にするところです。理解していただけたらと思います。



みんなそれぞれの場所で生きています。

それぞれの目的を、それぞれの価値を成就できますように。


みんなが幸せ(誰も苦しめない価値を実現すること)であることを祈念しています。




2026年3月

 

 

小中学生向けの国語キャンプ開催(参加予約受付中)


きたる4月5日(日)に

小・中学生向けの体験授業を開催します。


会場は奈良県明日香村(京都・大阪から1時間)


午前に村を散策 → 午後に体験授業 

という充実プランもお勧め



4月5日(日)午後1時~4時

小5~中3

国語キャンプ~言葉を味方につければ毎日が楽しくなる!

(楽しくて役に立つ国語の体験授業)

後半はゆるめの座談会(おしゃべり会)
 
 
子どもたちへの静かな環境を確保するため、
 会場はご予約いただいた方にご案内さしあげます
(公共施設の会場を利用します)
  

参加者に応じた教材・課題を用意しますので、
学年を問わず参加できます(高校生も歓迎)
 

志望校が固まっている人は、
過去問や参考書をお持ちください。個別にアドバイスします。
※中学・高校・大学入試 全般に対応可



* 参加無料 *

友だち・お父さん・お母さん・ご家族と一緒もOK!

 

春到来 さあ、はじめるよ!
 
 
 ご予約は

お名前と参加予定人数 
を 
welcome@koudounosato.com  まで
 
または
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明日香村の子供たちは予約不要です 当日いらしてください

 

お問い合わせは 

興道乃里事務局

welcome@koudounosato.com  まで





絶対に失敗しないコツ


『ブッダを探して』の連載終了後に、新聞社宛そして興道の里に感想のおたよりが届くようになりました。

「壮絶な覚悟を感じた」というお声や、「疲れませんか」みたいなご心配を向けてくださる人もおられました。ありがとうございます。

そうかぁ、そう受け止めてくださっているんだなぁと少し新鮮に感じました。

 

考えてみたら、生きること・動くことをしんどいことだと感じていません。覚悟も疲労もなく・・自然に元気でいられています。

出家前までが苦しすぎたからかな・・とも思いましたが(『ブッダを探して』に書いた過去の体験が鍛えてくれたことは事実だろうと思います)、
 
なんでだろうと改めて考えてみると、今は、


「動く」ということが当たり前のこととして心に組み込まれているからかな、と感じました。

自分に動ける範囲で動く。思いついたことは「やってみる」。

結果的にかなり遠大な目標があるとしても、そこに飛びつくでもなく、また途中経過を人に見せたり認めてもらおうとすることなく(妄想ゾーンを広げず)、

とりあえずできることに手を着ける、ということを「やってみる」ように心ができているように感じます。

たとえば今回の連載のイラストは、「絵の勉強しよう」と思ってタブレットを買って、ちょこちょこいじってみるところからスタートして(十年ほど昔?)。

「やってみる」が重なって、結果的にできることが増えていて、

いざ連載のお話をいただいた頃に「できる」レベルに届いていた、という状況でした。




これから始める活動も、たぶんそういう展開になると思います。

まずは着想から。そして今できることをやってみる。

もともと仏教講座もそうでしたが、私の場合は、生活のためとか事業の成功とかそういう動機でやっていることは一つもなくて、

「一人でも求めてくる人がいるならば」という思いでやってきたことです。

一人でも足を運んでくるなら、それだけで自分にとって価値あることになります。

社会的には無に等しくても、自分の活動が誰に見つからなくても、自分の中で価値を感じられる。

だから、「やってみる」だけで、即自分にとっては「成功」というか「達成」になってしまうのです。

よく何かを成し遂げた人が、「とにかく続けること」を秘訣として語りますが、それに近いのかもしれません。

最初に自分にとっての価値が存在する――それはすごく小さい。なにしろ自分にとって「やってみようかな」と思える程度の思いでしかないから。

それを世間では「好き」(意欲)と表現するのでしょうが、私にとってはものすごく小さな「好き」。でもすぐ動くから、「好き」のエネルギー効率がものすごくいい。

で、やってみるときには「どうすればできるようになるのだろう?」という方法探求モードにすぐ切り替わるので、「できる」ことが増えていく。


失敗しないコツを整理してみると、

結果を求めずに、できることをやる。確実にやる。
動く。形にしてみる。
つねに方法を考える。

そのミニマムな動いたという事実が、いわゆる達成や成功を含む、望ましい未来につながっていくということなのかもしれません。




草薙龍瞬『消えない悩みのお片づけ』カバー.jpg
やりたい(小さな好き)→やろう(動く)→やってみた(体験)→できる(上達)というルートの解説が載っています




2026年3月


『ブッダを探して』連載完結


中日新聞・東京新聞で連載されてきた『ブッダを探して』は、

2026年3月1日(日)日曜朝刊 全105話で完結しました。


2024年2月から週1のペースで文章とイラストを書き上げてきました。初めての体験。

大変でしたが、面白かった。

15年にわたってブログやメール通信の記事、本の草稿などを書きためていたおかげで、ネタ切れせずにすみました。


言葉のほうは、思いとほぼ合致したものを紡ぎ出せます。言葉については思いのまま。

絵のほうは、難しい・・うまく描けたと感じることもあれば、下手すぎて恥ずかしい(申しわけない)と思うことも。


全編読み通してみると、これは自伝ではあるのですが、旅物語(精神遍歴)でもあり、仏教の解説でもあり、世の中に居場所がない場合の第3の生き方でもあり、

舞台もインド、ミャンマー、日本(過去と現代)にわたる壮大なもの。


最終章は、「ブッダを探して」というタイトルの意味が明らかになる、いくつかのエピソードで構成されています。

文字数に制約があるので、掘り下げて書き切ることができず、わかりにくいという感想を持った人もいるかもしれません※。

(※連載途中では伏線的な文章を入れて、最終章の<現代日本編>で真相を明かすという構成を取っています。もう一度最初から読むと、すべてのエピソードがつながるようになっています。)

言葉が足りない部分は、書籍化の時に解説的文章を加筆して対応すべきなのだろうと思います。


できれば誰かのSNSや本のレビューなどをきっかけに、この作品の存在を、まだ知らない人たちに知ってもらえたら、書籍化の可能性も増えていくのかな・・と思ったりします。
 
 
見知らぬ人から感想をお寄せいただくことがあります。
 
いろんな場所で読んでくださっているのだなと胸が熱くなるのを感じます。
 
 
2年にわたる連載におつきあいしてくださった皆様、本当にありがとう。
 


2026年3月1日



人生は本当に面白いもので、
歩いていると見える景色は変わっていきます。

それまで、この景色がずっと続くのだろうと思っていたものも、面白いくらいに劇的に根本的に変わることがあります。



この場所を開いて15年。こうして数字にしてみると、けっこう長い。

その間、つまり興道の里Season1と名づけうる期間の間に、

地味に講座を開き続けて、

本を出すという縁にめぐまれて、

『反応しない練習』という作品が生まれました。


中日新聞・東京新聞連載の『ブッダを探して』は、3月1日で連載完結。

Season1と、その前の長い流浪の歴史(いわば前史)を振り返った精神遍歴の物語。

ひとつの締めくくり。



『反応しない練習』がここまで長く続いてきたのは、多くの読者さんが求め続けてくれたから。

できることなら、末永く、著者である私がいなくなった遠い未来にも求められる作品であってほしい。

ならば、そうした方向性を共有できる人たちと一緒に今後の展開を探っていきたい。そう思っています。

これも、ひとつの締めくくり。



人生は、ほんとに、いろんな締めくくりでできています。

やむなく締めくくるものと、自分で選んで締めくくるものと。

少しでも未練や執着という名の妄想が残れば、締めくくりは遠ざかる。

先延ばしになって、その分、失うことが増えてしまう。


どこかで、惰性や未練と呼ばれているものをスッパリと切って、もう一度みずみずしい、新しい関係性を始めることこそが、

生きるということであり、希望を感じる未来へとつながっていくのだろうと思います。



私が求めるのは、純度100%の可能性です。いつもそう。

これこそが、出家たる本当の所以なのかもしれません。

締めくくって、前に進んでまいります。


2026年3月

 

 

 

人は思い込みの中を生きている


*十代、そしてこれから寺子屋に参加する中高生に向けて、この先、いろんな話題について書き起こしていこうと思います。

将来的には書籍にまとめたいと思っていますが、まずは日々の草稿の一部を紹介していきます。大人にとっても大事なことかもしれません:


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

外の現実と、自分のあり方を分けて考えてみよう。自分と外の現実は別物。だって、自分の心と体は、自分だけのものだから。君の友だちや周りの大人たちは、別の心と体を持っている。そもそも違うんだよ。



自分と違う外の人たちに対して、どう向き合うか。そう、まずは「そういうものだと理解する」だったね。さらに掘り下げて理解してみようか。周りの人たちは――友達であれ、先生であれ、親であれ、そうした人たちが作っている世の中であれ、こんなふうに理解できる。たとえば、

①人は思い込みの中を生きている

 たとえば、「勉強ができる→いい大学に行ける→いい仕事につける・周りに称賛される→社会で成功できる・有利になる」。そう思っている人がそばにいるとしよう。でも実際には、いい大学に行っても、中退したり、就職しなかったり、途中で転職したり、引きこもったり、まったく別の分野で生きている人もいる(具体例は挙げないけれど、興味があれば探してみればいい。いっぱいいるよ)。

 つまりは、ひとつの図式に当てはまる人もいるかもしれないけれど、当てはまらない人も大勢いるということ。むしろ当てはまらない人のほうが多いかもしれない(たぶんこっちが正解)。
 当てはまらない人のほうが多いのに、一つの図式が正しいと思っている――ということは、そう思っている人にとってはそう見えるというだけということ。それが「思い込んでいる」ということなんだ。



 大事なことは、そうした思い込みを通して外の世界を見るか、それとも「ひとつの思い込みに過ぎない」と理解して、「自分にとって最も自然に生きられるルートは何か」を考えることじゃないかな。
 あくまで自分を軸に考えるということ。今の自分を出発点にするということ。



 ひとつ言えることは、思い込みは、選択肢の幅を狭くしてしまうということ。「そうに決まっている、これしかない」と思い込めば、当然、他の可能性は見えなくなる。たとえば君が「勉強ができることがいいことだ→勉強できなければいけない」と思い込めば、「勉強ができなければ意味がない→死ぬしかない!」なんて思い詰めてしまうかもしれない(実際にそう思い詰めた人もいる)。

 でも、真実は違うよね。真実は、別の生き方もあるということ。勉強ができるというのは、本当にごく限られた思い込みにすぎなくて、その思い込みの外に、もっと違う生き方も、価値観もあるということ。
「(今の自分は)思い込みにとらわれていないかな?」と、自分を見つめるようにしたいと思うんだ。それができれば、もっとラクに生きられる。もっと自由になれるから。



 人はみんな思い込みの中で生きている。だからといって、君が他人の思い込みに合わせる必要はない。だって、彼らの思い込みは、彼らの頭の中に宿っている妄想にすぎないから。君は、彼らとはまったく別の体と心を持っているから。

 君は、自分の人生を生きていくしかないんだよ。他人の思い込みにいくら合わせようとしても、君は彼らにはなれないし、なる必要はないし、ならないほうがいい。だって、人に合わせようとすればするほど、自分らしさからは遠ざかってしまうから。自分を見失ってしまうから。



「自分と他人は違う」というのは、さみしく思うかもしれない。自分も人と同じようになりたいと願うかもしれないね。
 だけれど、それはどうしたって無理なこと。だって、生まれた場所も、持っている体も違うから。僕らは「人と自分は違う」という真実から始めるしかないんだ。

 人と自分は違うということは、さみしくも見えるかもしれないけれど、逆にいいことかもしれないんだ。だって、人に合わせず、自分を生きていけばいいのだから。
 自分を軸にして、今の自分を出発点にして、自分にとっていちばん自然で楽しいと思える生き方(時間の過ごし方)を考えていくだけでいいのだから。



 大事なことは、「その先がある」ということ。褒められたいから頑張る――でも、それも思い込みの一つに過ぎない。
 その先にある未来は、思い込みどおりにはならないかもしれないし、ならないほうがいいかもしれない。もしかしたら、褒められたい今の君とはまったく別の自分が将来にいて、その自分はまったく別の人生を生きて、まったく別の幸せを感じているかもしれないんだ。
 だからこそ覚えておきたいのが、変わらない真実(普遍的に正しいこと)だ。

 つまり、人それぞれに思い込みの中にいて、欲で動いているけれど、自分と彼らは別者であって、自分は自分の人生を生きていくしかないし、生きていけばいいということ。

 そして、人と自分は違うのだから、結局最後は、自分がイイと思えたら――今の自分に満足できたら、納得できたら、自分を受け入れることができたなら――それでいい(それだけでいい)ということ。
 誰がなんと言おうと。誰がどんな目を向けてこようと。だって彼らが見ているものは、彼らの思い込み(妄想)でしかないから。天地がひっくり返ったって、彼らは君とは違うのだから。


※大人目線と思われては困るのだけど、文体については今後検討を重ねていきます

 

2026年2月


思いについて


※このスレッドで紹介する文章は、幼い子供から中高生までに向けた言葉に当たります。


書籍化を予定した未公開原稿の一部ですが、たとえば、親や学校や塾の先生などが印字して、草薙龍瞬という名前をつけて、


子供に手渡したり教室に掲示してもらうことは、フリーです(個人として大切にしてもらえるのであれば、もちろん大人でも)。



よい言葉だと感じてもらえたときの話ですけれど。たとえば――



◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇




思いについて



そのときの気持ちにフタをする必要はないし、本当は何を話してもいいんだよ。


そのときの思いは、今の自分にとっての真実だからね。


だって、心の中にちゃんと”ある”んだから。その思いが。



もしその思いが明日も続くなら、それもやっぱり今ある思いなのだから、


君にとっては真実なんだよ。やっぱり大切な思い。



でも今日の思いが明日は変わるかもしれないし。


もし変わったとしたら、

過去の思いはもうなくなったっていうことだから、


もうこだわらなくていいし、思い出さなくていいのかもしれない。



大事なことは、今、自分の中にどんな思いがあるか、ということ。


もしその思いが、誰かと関わっていること(誰かに向けての思い)であれば、


その相手に伝えることも大事なこと。



もう少し自分の中に取っておこう、とか、


もう流してしまおう(流してあげよう)と思えるなら、流してもいいし。



もし自分 一人でその思いを抱えることが、自分にとってつらいと感じるようなら、


その思いはどこかで「選ぶ」必要があるかもしれないね。



もう少し待ってみよう、と思えることも、選ぶということ。



相手に伝えよう、と思えることも、選ぶということ。



もういいや、忘れてしまおう、と思うことも、選ぶということ。



君が今思っていることは、大事な真実。


こんな思いがあるんだ、と気づいて、


あとは、自分で選べばいいんだな、と思えることが、


もしかしたら大切なのかもしれないね。

 

 

 

 2026年2月

 

 

 

Season2はいっそうの創造の年に


草薙龍瞬から


今年はクリエイション(創造)の年。活動をSeason1(2011年~2025年の15年間)以上に積極的に、ターゲットを広く、いわばブーストをかけなくてはいけないと思っています。

仏教の本質を伝えるというコア部分は、そのまま末永く継続していくとして(貫くことも大事)、

今年は関わる範囲を十代にも広げていこうという年なので、それにあわせて時間の使い方も、伝えるための方法も、工夫をしていこうと思っています。

特に、伝えるための手段については、過去は真面目に文章一徹だったのですが、もともとある創造者魂みたいなものが、今回の北海道体験ともあいまってかなり刺激されたので、

ここは心の戒律(俗世にいうメンタル・ブロックの一種)を大幅にゆるめて、

伝えられるなら、手段を問わず、やってみよう(内容も手段も)

という思いのモードになっています。


これまでは、出版社のほう(編集者の方)からお話(企画)を持ってきていただく形が主流だったのですが、待つことに特化する必然的理由はないので、

この先は、出会う人・関わる相手にあわせて、最も適した内容と方法をもって、新しいコンテンツをいわばフリーハンドで創り出していこうとも思っています。


この先お送りしていくのは、子どもたちに向けて――

生き方・学び方についての本にするのか、絵本にするのか、イラストをつけるのか、そのあたりは考えていきますが、

たとえば、『反応しない練習』や『怒る技法』の中身は、こんなふうにも表現できるという例として紹介していきます※

 

※書籍化を予定した未公開原稿の一部に当たります。でもたとえば、親や塾の先生などが、草薙龍瞬という名前をつけて、印字して、子供に渡したり教室に掲示してもらうことはフリーです。よい言葉だと感じてもらえればの話ですけれど。



つづく
2026年2月


そろそろ始動します


興道の里(草薙龍瞬)から:


2026年の活動をそろそろ始動します。

 

3月の名古屋での講座は2コマとも満席だそうですので、オンライン受講のほうをご利用ください(公式カレンダー内にスクールの情報が載っています)。

 

今年の目標は、

◇仏教講座のオンライン講座用の仕組みを整える(オンライン中継と録画:講座はアーカイブ化していく予定)

◇3月28・29日(土・日)にさっそく無料の国語キャンプを〇〇村で開催(公民館を予定)

◇5月連休までに、夏の国語キャンプ用の教材を用意(目標は小5から中3または高3までを想定して教材総計50本を準備)

◇4月以降は、月に一度のペースで名古屋で講座。態勢が整い次第、オンライン仏教講座も開始。

◇7月から日本全国行脚および十代のみんなに向けての出張授業(国語キャンプ)をスタート。

◇原始仏教を解説した単行本、および十代向けの生き方&学び方をまとめた本を準備

◇できれば ◯◯◯◯◯◯◯◯にチャレンジ(※今勉強中なのでまだお伝えできずw)



課題としては、さまざまな情報をどんな形で発信していくか・・。

ずっと同じことをお伝えしていますが、SNS型プラットフォームを今後活用するかどうか。

草薙龍瞬としての活動とは切り離した形での公式サイトも本当は作るほうがよいし。

やるならいさぎよく、積極的に発信することが筋かもしれないとは思うし。

このあたりは、もう少し悩もうと思います(ずっと悩んでいますが笑)。


今年は、日本での活動を始めて15年目。どう抵抗したって変わらなければいけない時期ではあります。

だから、いろんなものからの「卒業」(変化)もよいとは思うのだけれど、
 
それでもこれまでの流儀(世にあって世に見つからず)を貫くことにも、それなりの大義があるように思うので・・(いっそひっそりと消えていくのもオツなもの)。
 

 できることを無理なくやりつつ、自然に広がる範囲で広げていければと思います。

今年はよい春を迎えたいと思います。


草薙龍瞬




仕事を見つけたいという人へ

 

前提(条件設定: うまくいかない原因と正しい心の持ち方)がそろわないと、頑張ってもなかなか前に進めないものかと思います。

前提というのは、たとえば自身の性格(繰り返している反応のパターン)や動機の部分です。
 

性格については、親の影響(業)を正確に把握する作業が最初に来ます。そのためには、親がどういう性格か、どのような関係のパターンを繰り返してきたのかを、客観的に理解する必要があります。

(『大丈夫』の本を、まだ読んでいないようなら必ず読んでみてください)


性格は、親との影響から作られるものなので、もし今の性格が社会との接点・関係を作るうえでマイナスに働いているのなら、やはり精神的に自立する(親から適度な距離を取る)ことも検討する必要があります。

この点、親と一緒に生活しながら精神的に自立というのは、なかなか難しいものではあります。どうしても過去の延長を生きることになってしまうので。


動機についていえば、仕事というのは、こちらから条件をつけるとうまくいかないものです。

仕事はただの役割でしかないので、相手の求めに応えるだけです。体を使う作業を求められているなら、自分の体を使って役割を果たすだけです。

おそらくご自身の「努力」の中身が、仕事を見つけることに結びついていないことも少なくありません。たとえばその努力の中身が、過去の親からの期待や要求を反映したものである場合です。

たとえば資格・技能というのは、直接役割には結びつきません。本人は努力する価値があるものと思えるにもかかわらず(親の影響は、こうした場面で親の期待に応えることもできる、といった妄想を作りだすことに作用します)。

 

役割に結びつくものは、ほかには、なんでもやりますという意欲 あるいは 経験 というものがあります。

経験というのは、なんでもやりますという意欲によって得られるものなので、最終的に最も大事になってくるのは、なんでもやりますという意欲 ということになります。

ご自身が、意欲だけで動けているかどうか、意欲というものの上に他の雑念(条件)を載せてしまっていないか、確認してみてください。

 

動機が、社会においてきちんと意味を持つ時というのがあります。

本当に人生が動き出すのは、その時から ということになります。

 

 

2026年1月

 

 

 

 

 

インタビュー記事


朝日EduAのインタビュー記事が公開されました(2026年1月23日)


子育てと受験
受験本番を迎える親子の心構え──"妄想"を手放す技術と「転んでも損しない」考え方
 
いよいよ中学受験本番。多くの保護者が子ども以上にプレッシャーに悩み、合否の結果に一喜一憂するといいます。どんな心構えで向き合うべきか。ご自身も中学受験、大学進学の経験を持ち、多くの親子の相談に乗ってきたという僧侶・著述家の草薙龍瞬さんに聞きました。結果に振り回されることより、「転んでも損しない」ポジティブな考え方に切り替えることを、草薙さんは勧めます。受験を控えた親がラクになれる意外な方法とは?




学びは独立が大事~まず親が「考える」こと

※学校の宿題をタブレットでやるようになって、やる気を失ったという子供のお父さん・お母さんに向けたおたよりから抜粋:

 

「時代の流れ」なんて、ないも同然なのですよ。でたらめ。教育の現場でやっていることが正しい保証なんてありません。むしろ無思考・無体験の大人たちが考えることなんて、ろくでもないかもしれない。


ご自身のあり方に気づいてほしいことがあります。

お父さん・お母さんは、子供がやる気を失っているのに、子供に合わせてやり方を変えようという発想を持てないわけでしょう? そこが一番の問題じゃないのかな。

タブレットが嫌いというなら、紙でやらせればいいではないですか。なぜやらせないのでしょう?

学校が何と言おうと、学ぶのは子供であり、子供に適切な学習体験をさせる直接の義務を担っているのは、親自身なのだから。

親がちゃんと考える必要があります。何が子供にとって最善最適な選択なのか。
 
すでに子供の感情が置き去りにされている。「頭を使わない親」、つまりは子供の思いを理解しない親の姿になってしまっている。そう思いませんか?

ちゃんと「親であるという特権」を生かすことを勧めます。こういうことが、「考える」ということなのです。
 
 
 
 

学校に居場所がないという君へ

(あるお母さんへの返信から) 

 

学校という場所は、友達が見つかれば楽しい場所になりますが、そうでない時は、「自分と違う他者」の存在を見せつけられる場所になるので、いること自体がつらくなるものですよね。

合わないということは、自分がその場所にいる意味・価値がわからなくなるということ。

特に十代の頃のように、みんな自意識むき出しで、しかも世の中のあり方や大人たちの姿やSNSに飛び交う情報に(敏感すぎるほどに)感化されやすい年代の人たちと一緒にいることは、

誰にとっても実はかなりストレスフルな、強いて言えば残酷な環境なのだろうと思います。

このあたりは、同じような経験をした大人たちならわかるかもしれません。十代の頃が一番苦しかった、学校に通わなければいけない間が一番つらかった・・という人は少なくないと思います。




となると、どう考えるか。周りが合わない先生や同級生ばかりということになれば、それこそ「そういうもの」として受け止めることから始まるのかもしれません。

なにしろ自分は将来に備えなければいけないし、そのために今しなければいけないこと(やる価値があること)を頑張らなければいけない。

将来への準備というのは、それこそ今の世の中なら、やはり進学して、教育・学歴・資格を得ることから始まるから、そうした

自分にとって確かに価値あるもののために時間を使うことになります。

価値あるもののための時間というのは、どこで過ごしてもいいのだけど。図書館とか塾とか。それこそ公園や電車の中でも将来への準備(勉強)はできるし。


結局、未来に持っていけるのは、その時間を通して得た「自分にとって価値あるもの」だけ。

いったんその環境、つまり学校から離れてみれば、あるいは卒業してしまえば、周りにいた人たちは、みんなみごとに消えている。

残っているのは、自分ひとり。その手に持った価値あるものだけ。

その価値を活かして、社会に出ていく。仕事を見つける。自分の居場所を見つけ出す。


幸いに世の中というのは、学校とは違う仕組みでできている。

学校というのは、先生も同級生も選べない。丸ごとそういうパッケージとして受け入れるしかない。先生が合わない、理解してくれない。同級生も合わない、そうなると自分にとってはどう見たって、異物でしかない。

他方、社会というのは、自分が手にした価値を評価してくれる、認めてくれる人たちが、けっこうな割合で見つかる場所。

妙なたとえだけれど、世の中で問題発言ばかりして炎上しているような大人にだって支持する人たちはいたりする。逆に、無名であっても、ちゃんと見つけて応援してくれる人もいる。

それだけ世の中は広くて、自分の価値を認めてくれる人は、学校とは比べ物にならないくらいに(本当に比べ物にならない、まったく違う)大勢、わんさかいるということ。


もうひとつたとえるなら、自分がトランプのカードだとして、学校というのは、数字がことごとく違うカードに包囲されているようなもので、

他方、社会というのは、自分のカードに磁石がついていて、動けば、磁力でひきつけあって、同じ番号の、つまりは気が合う人ともくっつける場所かもしれないということ。


磁力というのは、自分が手にした価値ということになります。自分が進んだ大学や経験や資格。

大学は磁力になります。中学・高校は磁力にならない。閉ざされた場所の一つでしかない。

仮に大学に進むことがうまくいかなかったとしても、勤勉さや思いやりなど、人としてバランスが取れた性格であれば、その性格が磁石になって、必要としてくれる人や場所はかなりの確率で見つかるものです。やっぱり世の中は広い。




だから、最終的に考えるべきは、

自分にとっての価値を手に入れるために、貴重な時間を使う
ことだろうと思うのです。

その価値とは、将来につながるもの、将来に残るもの。


それは、学校ではないし、同級生でも先生でもないし、趣味や習い事でも、もちろんゲームやスマホ時間でも、実はなかったりします。

 

本当に価値が残るもの・・それはやっぱり、現実を見据えるなら、

行ってみたいと思える場所に進むための準備に専念する ということになるような気がします。

難しいものではあるけれど、準備のための努力をすれば、選べる進路の幅は広がることも真実のような気がします。


同級生も学校も、将来的には消えていくものだから(言い方はすっごく悪いけど、あの動物公園見に行ったな~くらいの感慨しか残らない、その程度の場所?)、

学校に居場所がないということは、現実が見えたということだから、現実の代わりに、普遍的な真実のほうを、つまりは

将来につながる価値あるものだけが最後に残る、という真実に目覚めて、

それこそ、自分のために、将来のために、自分だけのために、価値あることを努力する、という生き方に切り替えることなのかなと思えてきます。


どの時点かで「本気になれた」人から、人生は変わっていくものです。変わればいい。変えてみればいい。

自分が本気になってからの時間は、驚くほど濃密、つまり実質的に長くなるものです。

3か月でさえ奇跡を起こせるくらいに。


これからです。




2026年1月


心のモード・チェンジはなぜ起こる?


心はそもそも無常なもの、コロコロと変わるものです。

穏やかな時もあれば、イライラする時もある。それが心のノーマル。

大事なことは、その時々の心の状態を自覚することと、もし慢性的に続く(クセ・傾向がある)ようなら、その原因を考えることです。

たとえば、人と接することが本当は好きなはずなのに、時が変われば忌避モード(会いたくない・接したくないという気分)に変わることがあるとします。

その場合の原因は何なのか。単純に疲れている、最近嫌なことがあって引きずっている・・という比較的浅め(つまり放っておけば元に戻る)の場合もあれば、

もっと根が深くて、誰かのことが嫌い、会いたくないとずっと思っていて、でもその関係性が完全に過去になっていなくて、今なお刺激を受け続けている・・という場合もありえます。

嫌、会いたくないというのは、不快感(怒りの感情)が作動している時です。その原因は? 

ただの妄想であることもあれば(つまり客観的状況には問題がない)、誰かとの関係で怒りが結生している(強く反応してその状態が続いている)こともありえます。

※「結生」というのは、私が本の中でよく使っている言葉なので、初めて聞く人は読んでみてくださいw)

最初の反応が結生すると、その反応が前提となって、次の類似の反応を引き起こします。

怒りが結生するとイライラが続いて、怒りっぽくなる。不運な出来事が記憶として結生すると、また悪いことが起こるのではないかと不安になる。「どうせ自分は」という判断が結生すると、自己否定をずっと引きずるようになる・・。

たとえば、本当は人と接することが好きなはずなのに、そいう感じない時期が長い、さらには他人の嫌な部分が目につく、みんな嫌い、世の中もイヤ、何もかもなってない!みたいな思いが強くなっていくこともあります。


そうした場合は、最初の結生――最初に嫌だと感じたきっかけ・相手は誰かを思い出してみるとよいのです。もし引きずっていなければ、嫌だと思うはずもありません。嫌だという感情を引きずっているということは、まだ続いているのです。忘れていないということ。

いつのこと、誰のことを、忘れていないのか。冷静に振り返ることです。

もし現在進行形でその出来事・関係性が続いていない、つまりは完全に過去だというなら、その結生は妄想にあたるから、妄想を消す練習をすることになります(『反応しない練習』をどうぞ笑)。

まだ過去になっていない、その出来事・関係性が現在も続いている・・というなら、そこから抜け出すこと、距離を取ることが、必要になります。

たいていは、親との関係性が原因だったりします。しっかり続いている、続けてしまっているから、親と連絡を取ったり会ったりすることで、不快を感じ、「嫌」が結生し、その「嫌」を自分の生活・仕事に持ち込んで、周りを嫌に感じるのです。

「おかしいな、もともと仲がいいはずなのに、好きだったのに」という過去の検索はあまり意味がありません。というのは、その仲がいい・好きが、自分の思い込み(無理やりの解釈)であることもあるからです。

本当は、原因を自覚して、原因を解消して、ニュートラルな心の状態に立って初めて、相性がいいとか、好きとか、楽しいといった本当の感情が見えてくるものなのです。

原因を解消できていないと、そのうえにいろんな妄想(好き・離れてはいけない・嫌われたくない・仕事だから・家族だから・もともと私はこんな性格じゃなかった・こんな自分が嫌になるetc.)が重なっていって、自分の本心がわからなくなります。

小さなことでも嫌になる、その嫌が長く続く・・というのは、よほど「溜まっている」のです。人生のどこかで結生した「嫌」という感情が。

その原因は何なのか、しっかり見極めることです。正しく理解することが、最良の処方箋です。

ひきつづき


精神科に行くより、はるかに効きます 必読




2025年1月13日
・・・・・・・・・・・・

出家したいという人へ


ときおり、出家したい(出家を考えている)という方から連絡をいただくことがあります。

「出家」をどのように定義するかにもよりますが、思い浮かぶことを言葉にしてみると、



過去の自分を丸ごと捨てたい、人生をやり直したい-ーと願う人が、

過去の関わりを断ち、仕事を変え、人間関係も肉親も含めてリセットする(引っ越し先も連絡先も教えない)ということは、可能かと思います。


あるいは日常はそのままで、ただ仏教・瞑想についての理解を深めたい、そのことで自分の苦悩を解消したい、ということであれば、

自分なりのやり方で学び、実践していくことになるでしょう。


仏教の世界に触れて生き方が変わった、変えようと思ったという志ある人たちは、少なくないので、

そうした人たちは、それぞれの場所で、自分なりの仏道・自分流の出家道を頑張って進んでいくことになります。まさに”心の出家”です。

(私が本や個人的なやり取りを通して応援しているのは、こうした人たちです^^)



もし、こうした実践だけでは足りないと思うのであれば、寺か海外の寺院・道場に入ることになるかと思います。形の上でも出家をめざすということです。

形を変えないと、精神的に過去を断った、自分が変わった、というけじめがつかない(実感が持てない)人もいるだろうと思います。

けじめをつける意味でも、形のうえでの出家は有効。とにかく環境を変える。それだけの変化が必要だという人も必ずいるはずです。



心の出家をめざすか、形のうえでも出家をめざすか。後者の場合は、職業僧侶になるか、本格的な瞑想修行のために相応の環境に身を置く選択肢が浮かび上がってきます。

長期修行が可能なのは、やはりミャンマーかなとは思います(スリランカやタイにも瞑想道場や寺院はありますが、多くは比丘・長老つまり職業僧侶の住まいでしかなかったりするので、場所は慎重に探す必要があります)。

自分も職業僧侶になりたいというなら、それぞれの国に行って、あるいは日本にあるサンガに尋ねて、道筋をつけてもらうことになるでしょう。

それぞれの場所・組織に条件があり、踏まえなければいけないステップがあります。「公認」を得ないと、職業僧侶にはなれない。もっとも公認を得て職業僧侶になることが本当に解決策になるのかは、冷静に考える必要があります。



職業僧侶ではなく、自分は瞑想を極めたいんだという場合は、先にお伝えした通り、飛び込んでみることかと思います。

その場合に問われるのは、自分はどれくらい瞑想を極めたいのか?です。「キリ(終わり)はあるけど、キリがない(終わりが見えない)」のが、ガチな瞑想というものなので。

本気の瞑想というのは、俗世との連絡を断ち、自分の中からも消去して、ひたすら心という現象を見つめ続けて、この先はないというところまで突き進まねばなりません。

しかも順調に進むわけではなく、想像を超えた苦痛と混乱と迷走と葛藤と、その他あらゆる心が繰り出してくる魔と闘っていかねばなりません(本当の瞑想を極めようというレアケース限定の話ですが)。

それだけ挑んでも、何も得られないという事態もざらにあります。かなりリスクがあるのです(それでも賭けてみたいと思える人だけが、もしかしたらたどり着けるかもしれない世界というのが、存在します)。



<出家>という言葉は、<仏教>や<瞑想>という言葉と同じく、使う人によって意味がまったく変わってくるあいまいな言葉です。
 

本来の出家というのは、過去の一切を-ー家族・親・妻・子供との関わりを断ち、お金も家財も住居も手放し、いったん完全な無になる覚悟と行動が必要です。少しでも執着や妄想の残滓(雑念)が残っていると、心についての理解を極めることは不可能だからです。

他方、「なんちゃって出家」という生き方もあります。お金もある、家がある、いざとなれば逃げ場がある・・という環境をキープして、ただ頭を丸めて袈裟をまとうだけなら、

サンガの公認資格を得ていないなら職業僧侶ともいえず、仏教とも瞑想とも実はなんの関係もなく、ほんとに「何者?」と言われざるを得ないあやうい存在になってしまいかねません。


心の出家ならば、形は不要。他方、形としても出家として生きていきたいと願うなら、まずは職業僧侶として生きてみるか、本気の瞑想修行者になるか、いずれかかもしれません。

お勧めするのは、何をめざすかは自分の選択だけれども、選ぶなら行動に移すこと。

実際に「やる」「なる」ことです。

本気・本物の道をゆくことだろうと思うのです。

そして、最終的には、自分の苦悩のすべてを解消し、自分から自由になり、その後ももし社会の中で生きていく道を選ぶなら、ひたすら謙虚に、つつしみを保って、

人さまの苦しみや世の痛みを自分なりに感じ取って、ひとつでも人さまの幸せに役立つ働きを果たせる人間をめざすことかと思います。



まずは、それぞれの選択肢を掘り下げて、具体的にどのような行動を取ることになるのかを調べる。

そのなかで、「やっぱりこれしかない、これで行きたい」と感じる選択肢が見えてきたならば、最終ベット(賭けて動く)ことになるのかなと思います。


どのような生き方も、本人が選んで納得する限りは正解になるので、ここで紹介した選択肢だけが正解というわけではありません。


理解を深めつつ、自分が納得のいく答えを見つけ出すことかと思います。


2026年1月

自分の足で立って生きる場所

この場所は、気持ちでつながる場所でありたいと思っています。

生きよう、学ぼう、頑張ろう、新しい可能性を探していこう、という思いで暮らしている人であれば、

いつでも扉を開いています。


この場所とのつながりや、この場所からお届けする言葉が、

一人で生きているよりも、ほんの少し、元気の源や学びのきっかけになると感じる人であれば、いつでも受け入れています。


この場所が苦手とするのは、たとえば、承認欲旺盛で「自分をキラキラに見せたい」的なオーラというか気配が露骨に伝わってくる時とかw、

自分のあり方を見つめるよりも、まだ人のあり方のほうに目を向けてしまっている時などです。


この場所が大事にしているのは、

自分の人生・自分のあり方をどうやって改善していくか、できることはないかを、前向きに探していこうというあり方です。

出口の見えない、怒りの餌にしかならない愚痴とか不満とか批判とか、そうしたあやうい蜜に手を伸ばしてしまうのではなく(世の中にはそうしたあり方を快とする風潮も強いけれど)、

そうしたあり方については、自分の心を漏らしてしまっていると気づいて、あるいは指摘されたときには素直に受け入れて、

誰だって、完璧・完全な人間なんていないし、なれないのだから、

つまらないプライドや自負を捨てて、つまりは素直に、謙虚になって、

せめて、今の自分に何ができるかと考えて、

この日々を少しでも自分にとって納得のいく方向へ近づけていこう、

という明るい方角を見ていこうと思える人を応援する場所です。


この先の世界、本当にどうなるかわかりません。

だからこそ、一人一人が自分の足で立って生きていく必要があります。



2026年1月