できることは残されている

 

かつて肉親であった人たちのこと、詳しくお聞かせいただきました。

◯親については、「それ以降会っていない」ということですから、すでに終わった人間です。もし今なお影響を受けているとしたら、自分自身の執着です。

本当は、妄想の残り滓だと割り切って、思い出さないくらいに遠い過去にしてしまうこと一択です。


なりたかった職業というのも、今となっては妄想に過ぎません。別の役割を果たしなさい、別の人生を生きなさいというメッセージなのです。

逃げグセなどの影響が残っていることは、よくあります。そうした「呪い」のような負の影響から全力で脱出することが、人生の第一の課題です。


いずれの親からの影響が強いかについては、

自分の執着がどちらの人間に対してより強いかによって決まります。

自分が覚えている人間の姿というのは、必ず影響を受けています(完全に忘れることが一番正しい方向性である所以=理由です)。

が、怒りであれ、わかり合いたいといった未練であれ、その人間を脳裏で追いかけているという状態そのものが、執着に当たるのです。

怒りといっても、もう「終わった」はずなのだから、それを引きずっているのは、自分自身の執着でしかありません。その執着を切除すれば、解決します。


喩えるなら、あなたは負の影響を受けて「風邪を引いている」状態なのかもしれません。

執着をすれば、伝播(感染)する。意味がありません。「意味がない」と自覚したところから、心に刷り込まれた負の影響との「闘い」が始まるのです。

人は気づかないうちに、親だった人間そのものになってしまっているものです。


抜け出すための努力だけを、どれだけ積み重ねるか。それだけが唯一、考える価値のあることです。


大抵の場合、「もっとまともな、マシな人生(を生きたかった)」というのは、貪欲、つまり都合の良い妄想だったりします。

正しい思考は、「本気で願うなら、まずは自分の足元を掘り起こせよ」ということになります。

人間はただでさえ欠落や弱さだらけなのだから、不満を感じた場合は、ほぼ百%の確率で、まだ自分の側でやっていないこと、まだできることがあるものです。

できることを数えれば百でも千でも見つかるだろうけど、それを追いかけるとまた都合の良い妄想(貪欲)になってしまうから、「まずは一つできることをやる」ことになります。小さなプラスを重ねて(増やして)いく。

まともな人生を生きようと願うなら、本当は、それしかないのです。


執着にとらわれた人(心の状態という意味ですが)は、とらわれた心を通して世界を見るから、出口が見えない。心が動かない。壊れているとも言えるし、固まっている、凍っているとも言えます。

ただ、それは執着にまみれた心を通してしか見えないから(ごく自然なこと)です。わかりますか? 

その心の中にある原因さえ取り除けば、壊れていたと感じていた心は治るし、動き出すものです。

「生まれ変わった」という実感は、単純に、心を支配していた過去などの執着がなくなった時に、自然な感想として出てくるものです。


仕事は変えてもいいのですが、心が変わらなければ、どこにいても、何をしても、感じることは同じままです。それは確か。

ただ、仕事をしない、何もしない、という選択は、正しい治療法(選択)にはなりません。原因は、仕事や外で出会う人たちではなく、自分の心の中にあるからです。


ひとつお勧めします。この手紙を読んだら、何も考えずに、理由を探さずに、財布だけ持って外に出てください(携帯は置いていくほうがよいです。財布は何か買いたくなったとき用w)。

「心の声に耳を貸さない」ことも、すごく大事な意味を持ちます。まずはいったん外を歩いてみること。

できるでしょうか。

 

 2025年6月

 

 

 親からの負の影響を脱出するには

 

 

 

「これまで何をして生きてきたのだろう」という人へ


おたよりありがとうございます。

全体に目を通した感想を最初にお伝えするなら、「十分に頑張ってきた(頑張らなくていいことまで頑張ってきた)ので、無理をする必要はありませんよ」というところになるかと思います。

生きるというのは、もともと単純素朴なものでよいのです。ただ働く、ただ生きる。それだけ。「事実としてとらえる(生きる)」ということかと思います。

人間以外の生き物は、おそらくそういう生き方をしています。命がかかっている過酷な環境にはあるけれども、悩んではいない。ただ生きる、ということを続けているだけです。

これは、一切の妄想から解放された仏教的な生き方とすごくよく似ています(違うのは、「仏教的な生き方」は、そうした「ただ生きる」を自覚的に選んでいるところです)。



そうした生きるの基本線に照らしてみると、本来ならいくつか理解を掘り下げてほしい部分が出てきます。

ひとつは、やはり親の影響。どういう親から、どんな影響を受けて、今の自分にどんな心のクセがあるのか。いわゆる業を自覚する(言語化する)ことです。

言語化できれば、そうした心のクセが出てくるたびに、「また出てきた」と気づくことが可能になります。気づいたうえで、妄想を切って捨てる実践に入ります。実践というのは、事実確認(ラベリング)とか、間隔を意識するとか、つつしみに帰るといった仏教的方法の基本をやることです。

※『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』筑摩書房




幸福とは何かが分からないということについて――幸福が分からないというより、「生きている実感がない」ということです。生きている実感を体験することが、めざすべきことです。

それには、業(心のクセ)を自覚し、妄想から抜ける実践をすることです。

つまりは、考えるよりもまずは外に出るということ。どこでもいいので「向かってみる(出かけてみる)」こと。『反応しない練習』の中では歩くだけ歩こうという話が出てきます。あのあたりの話です。

幸福というのは、本来は「ただ生きる」時間そのものを言うのです。何もしていなくても、考えなければ(妄想しなければ)その時間を幸福と表現することは可能です。というか、何もしない時間を当たり前のように過ごせることをめざすのです。

「それができないから悩んでいる」と思う人は多いと思いますが、今の自分の脳内言語(思考)の順序が真逆(あべこべ)になっていることに気づいてもらえたらと思います。

考えてもしようがないことは考えない。幸せという言葉で思考を組み立てることも、正しくない。

「幸福を感じられない」ということは、「生きている実感が持てない」という事実のことであり、そこには「心の動きを止めている原因がある」ということを理解して、「ならば本当の原因は何だろう?」と考えて、先ほど伝えた「実践」に戻る――。

それで、「考える」は完結です。それ以上に考えることは意味がありません。「これ以上考えるとしたら、それは妄想だ」と自覚する。そこまで(終了)です。
 



今の仕事が苦痛でこれ以上無理だというなら、無理する必要はないように思います。「ただ生きる」という生命線(前提)さえ確保できれば、仕事というのはなんでもよいはずなので。

「働かないとする事がない」というのは、働く理由として立派(正しい)です。人間というのは一般論として、それほど中味はなかったりするもの(それが真実)です。空っぽ。そもそも「無我」。

だからこそ、何かをして埋めていくことになります。生きるために糧を得る必要がある、だから働くというのが正解だし、それとは別に「他にすることがない」から働くというのも、立派な理由です。それでいいのです。

「それでいい」と思えないのは、妄想するからです。まだ何かを求めている(期待している)のかもしれません。

それは何なのでしょう? 誰かを見返したいのか、誰かからの期待にいまだ応えようとしているのか、それとも刷り込まれた自分の中の承認欲が働いているのか――。

そういうものは「もういい(必要ない)」と思えるようになるまで、きちんと自分の心のクセ・アタマの中(思考)をしっかり見つめて、書き出して(言語化して)、客観化するのです。

ほとんどの時間を妄想に使っているから、後になって「何をやってきたのだろう」と思うのです。ほとんどの妄想は残らないから。残る妄想は決まりきったパターン(もう何度も繰り返してきているもの)でしかないからです。



働き続けることは、正解です。場所・仕事内容は、なんでもいいのです。生きるため。あるいは、誰かの役に立つため。

役に立っているというのは、すごいこと(価値あること)なのですよ。それだけで人生を丸ごと肯定していいくらいの偉業です。

役に立てる限りは役に立って、それも難しくなったら、その時こそ自分のために、自分の時間だけを過ごす日々に入っていくのです。

生きるというのは、どんな段階にあっても価値がある、生きる意味があるものであって、それは仕事があってもなくても、身を引いた後でもまったく変わりません。不動です。

なぜなら、「ただ生きる」ということだけが、生きるという営みの本質(すべて)だからです。

だから、何歳になろうと、どんな状況にあろうと、生きること自体は肯定すべきもので、そのためにこそ無駄な妄想・負の妄想にとらわれないように心がけることが、「仏教的生き方」ということになります。

それはこれからもできるのではないでしょうか。


2026年6月


後悔しない選択を


人生の最終ゴールは、「これでよかった」「この人生が最良」と思えること。

それは完璧な人生を生きることではありません。生きることは不確実な出来事の連続だから、望まないことにも遭遇します。

望まない相手、たとえば人間や事故や病気にも出会います。

そのうえ自分自身もけっこう弱くて、危(あや)うかったりします。遭遇する出来事に過剰反応したり、引きずってしまったり、だらしなく過ごしてしまったり。

スイスイと順調に進むことのほうが少なくて、進み始めた途端に衝突したり故障したりと、まあほんとに「うまくいかない」ことのほうが多いものです。

生きるというのは、きっとこうしたつまずきや妨げに満ちているもの。ガラクタの中を進んでいくようなもので、進む自分もまた期待するほど上等ではなかったりします。不器用でどこか抜けてしまっているかのような。



それが出発点だとして、ではどんな心がまえで日々を過ごせば、最も望ましい未来にたどり着けるかと言えば、それは、

後悔しない選択をする――ことのような気がします。

「あとで後悔しない」ような過ごし方をすること。

後になって、「あの時もっとやっておけばよかったな」とか「もっとできたはずだよな」と思わないように過ごすこと。

「今を正しく過ごせているか」を自分に訊くようにすること。

もしあまりいい時間の過ごし方ができていなくて、過去に遭遇した相手や出来事を引きずっていたり、弱い自分に流されていたりした時は、

「今の自分をこのまま続けていたら、どうなる?」と想像してみること。

正しく過ごせていない今をそのまま繰り返しても、やっぱりその未来には正しく過ごせていない今がやってくる。

しかもずっと正しく過ごせていない自分が続いているのだから、どこまで行っても、自信が持てない。胸を張れない。「これでいい」という納得にはたどり着けない。

だから、今の自分はいい状態じゃない、今を正しく過ごせていないと感じるなら、どこかで必ず「今を断ち切る」必要が出てきます。

断ち切って、やり直す。もう一度イチから始める――というのが、唯一の正解。

その一本の道筋を邪魔してくるものが、外で遭遇する出来事(人間も含む)と自分自身の弱さ。

これらのつまずきは、きっとこれからも続く。まったく邪魔されずに万事がスイスイ快調に進むということは、そもそもない。

だから人生は、「やり直す」と「遭遇したくない出来事」とのせめぎあい。

負けることもある。でもやり直す。

負けが混む(続く)こともある。でもやり直す。

それが、あとで後悔しない自分を作る。

「あとで後悔しない自分」と「やり直す」は、イコール。

「あとで後悔しないか?」と自分に訊いて、「このままでは後悔しそうだ」と感じたら、「もう一度やり直す(やり直そう)」と考える。

こうした考え方を続けることで、次第に人生という名の道はまっすぐになっていく。つまずきが減っていく。後で後悔しない未来に近づいていける。


一歩踏み出す勇気


静謐平穏な日々が続いています。


その一方で、今の時代は、人間の狂気・野蛮にいつ遭遇するかわからないし、


時代はいつの間にか、個人の静謐平穏や志というものを、そのままにしておいてはくれなくて、つねに情報として利用し、晒して、評価や判断という名の暴力を押しつける社会に変わり果てているので、

そうした社会にあって、「世にあって世に染まらず」という一線をどのように保つのか、いやはたして保てるのかというところを、今切実に「悩んで」います^^;)。



これも一つのグローバリズム――アメリカ発の巨大テック産業が繰り出す商品・サービス・情報環境(SNSや生成AI含む)によって、

人間のすべてが数値化され商品化され評価され消費される暴力的な世界。

情報を取れれば、お金になれば、何をやっても、言ってもいいという暴論的な世界。

そういう世界に、いつの間にか包囲されてしまっていることに気づいてしまった今日この頃です。



本当は何もしないほうが安全でいられる。ひっそりと歳を重ねていくだけで十分だと思うのだけれど。

ただそれは、新たなものを創り出してきた自分の人生そのものを放擲することにほかならず、

もし取り巻く環境がもっとまとも・真っ当であれば、なんの心配もためらいもなく、新たな挑戦・創造に挑めるであろうにと思いつつ、

でもそんな真っ当な世界は未来永劫こない――もはや完全に失われてしまった(かつて一度でもあったのかどうかは知らないけれど)だろうから、

この殺伐とした暴力的な世界の中を泳いでいくほかなく、



泳ぎながら、自分の心がおもむくことは、やはりこの世界において価値あるものを、というところだから、

だからこそ、個人的な価値あるものの創造をという志と、真っ当さを失ったこの無節操で残酷で暴力的な世界とが真っ向からぶつかってしまって、

今のところ「泳ぎにくい」という心境にたどり着いています。


この先、このぬかるみのような状況をどのように潜(くぐ)っていくのか、そのあたりに答えを出せる智慧を発揮していくことになるのだろうけれど、

智慧といっても現実に妥協迎合することとあまり変わらないように思う(この命の本質はあくまで静謐と清澄にあるから)のだけれど、

それでもやはり泳いでいかねばならないだろうから(何もしないという静謐は、この命の根底にある慈悲がヨシとしない――苦労している人はいつの時代もいるだろうから)、

なんとか智慧を働かせて、泳ぎだすための心がまえみたいなものを確立せねばと思っています。


一歩踏み出す勇気、になってくれそうな智慧が必要です。


外は台風前夜の小降りの雨が続いています。こういう時間がいとおしい命です。



2026年6月初旬


つまずきを観る

<おしらせ>

6月22日(月)から東京です。相談をご希望の方は興道の里までご連絡ください。



そもそも快適・快調な一日というのは、

ストレスや雑念がなく、つまりは脳裏に引きずるものがなくて、ただ目の前のことを淡々と、とどこおりなくやり続けて終わる、そんな一日です。

「今日は何も引きずらなかった」
「立ち止まらなかった」

と思えれば、快適、快調、順調に一日が終わった、ということになります。

それができれば、生き方上手――自分ってすごい、と自賛していいはずです。


はて今週末は、どうだったか。快適、快調、順調に過ごせたか。

たいていは、どこかで「つまずいて」いるものです。

いつの間にか妄想の海の中で浮き沈みしていたり、

中途半端な怒りをくすぶらせていたり(中途半端というのは価値ある行動に移すところまで行かないから)、

後になって意味がなかったと思うようなことをダラダラとやってしまっていたり。

そういうつまずきの結果、見事に「転んで」しまった場合は、

「ああ、しまった、この週末もダラダラと無意味に過ごしてしまった」と感じ、

その自己嫌悪や焦りを明日以降に持ち越して、「ああ、また平日か」と憂鬱になってしまいます。

この憂鬱というのは、平日そのものが作り出す憂鬱というより、週末を快適に過ごせなかった後悔というか自己嫌悪というか焦燥みたいなもの、つまりひっくるめて怒りを持ち越してしまうがゆえに感じるものです。

今に怒りがあるから、未来にも怒りを感じる。さながら不運続きでストレスが溜まっていると、関係ない物事や他人にも苛立ってしまうことと似ています。いわば未来への八つ当たりみたいなもの。

できれば、今週末までに持ち越した怒りは、日曜が終わると同時にいったんリセットして、もう一度まっさらな気持ちで一週間を迎えるほうがよいのです。



この週末、さらに広げていえば過去に招いてしまった怒りというのは、外から来る(外が原因)であることもありますが、けっこうな割合で自分のクセや生活習慣から来ていることがあります。

同じパターンを長年繰り返している人は、案外多いものです。

今が不完全燃焼 → その焦燥(怒り)を未来に持ち込む → でその未来もまた「今の不完全燃焼」に使ってしまって、その怒りをさらなる未来に持ち込む・・という。

こうなると負の連鎖が止まらなくなります。



この負の連鎖を止めるにはどうすればいいかといえば、やっぱり”反省する”ことです。

具体的には、「いつから、何がきっかけで、その不完全燃焼状態に入ったか」を、過去を振り返って突き止めるのです。

まずは今日を振り返る。あるいは過去一週間を振り返る。

いずれかの時点で、「つまずいた」はずなのです。つまずくというのは、漏れた(反応した)ということ。

心の漏れ(妄想や怒り)か、言葉の漏れ(言わなくていいことを言ってしまった・・誰かに。あるいは自分自身に)。

人によっては、ついスマホに手を伸ばしたとか、延々とショート動画を見続けてしまったとか(これ、かなり多い様子です。現代病?)。

そうして不完全燃焼にハマってしまった・・・その「しまった」きっかけを突き止めるのです。「それまでは快適だったのに、アレに漏らしてしまって、つまずいた」という出来事(自分の行動、言葉、そしてアタマの中)を振り返る。

何度も振り返ります。すると「同じことを繰り返している」ことが自覚できるようになります。

自覚できたら、「その原因を取り除く」作業に取りかかります(これができない人が、軽度の依存症です。やがて重度の依存症、中毒になっていきます)。

取り除くというのは、漏れてつまずいたきっかけとなった行動や言葉を控えるということです。

今度は言わないようにする。やらないようにする。



言うのもやってしまうのも、きっかけは思い(妄想)からです。

妄想が一番収まっているのが、朝起きた時です。

だから朝起きたその時から、過去に反省した「言ってしまった、やってしまった」ことをやらないように心がけること。

一番いいのは、やはり体を動かすことのような気がします。別のことに心を使って、漏れの原因となる妄想をよみがえらせないようにすること。

もし何度もつまずいて、繰り返し漏らし続けている人がいたら、

明日の朝は、言わない、やらない状態で、新しい何かを実際にやってみることを勧めます。

部屋の掃除でも朝の散歩でもカフェで過ごすことでも、なんでもよいので、動いてみるのです。

実践については『これも修行のうち。』がお勧めです



心を見る習慣を



あらためて(言うまでもないかなと思ったのですが案外大多数の人たちが忘れているかもしれないことを念のため^^;)

心を見る習慣をつけてくださいね。1日15分。

自分の心の状態を、”クリアかつニュートラル”(妄想と感情がない状態)を基準にすえて、

どれくらい妄想の量が多いか、不快感情が残っているかを確認することです。

「見る(確認する・観察する)」という意識(心がけ)を持った瞬間に、クリアかつニュートラルにリセットできる人は、

サティの力(心の使い方)が身についてきている証拠です。

そもそも反応に根拠(必要性)はなかったりするので・・気づいた瞬間に消えてしまう、ということは、ごく自然に起こります。心とはそういうもの。

「自分のことが自分でよくわかっている」とは、そういうことです。心の状態が見えているということ。


ちなみに、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』208ページに書かれている

「サティを突き詰めていくと、ある瞬間、想像さえしなかった”至福感”に包まれることがあります」

というくだりがありますが、これは「涅槃」とはまったく関係ありません。

瞑想の途中で体験するものです。詳しく解説はできますが、別の機会に。

ほとんどの人が実践している瞑想というのは、あくまで心を自覚し、心の状態を変える力を育てる訓練であって、ガチ瞑想とは違うものです。

ガチ瞑想というのは、一日十時間以上を最低でも2週間くらい継続するものです(それで出発点に立てる)。結果を狙って(特別な体験を期待して)やると、まったく前に進めなくなるという、心の不条理性をイヤというほど体験するものです。

こればかりは、体験しないとわからない話です。自分が前に進んでいるのか、何か特別な体験ができるのかといった思惑や判断を持ち込めるような世界ではありません。

単純に、心を見る(観察する)という一点だけを心がけて、時間を作って実践する。

ただそれだけです。やるだけ。考えない。期待しない。

ごく単純な話です。

やるだけで「間違いのない生き方をしている」と理解してください^^。




仏道ご一緒あれ.jpg






親を引き算できるか


子供の心というのは、まずは親との関係から影響を受けます。それがすべての前提になります。

親の姿や価値観や心の癖を模倣すること。親への反発や不満に心を取られてしまうこと。

親の期待や要求に応えようとすると、自分の意志で選択するという基本が崩れるので、モチベーションが続かなくなるし、

逆に親に反発すると、そのストレスに心が囚われてしまうので、自分の将来を考えられなくなる、「自分のために勉強する」という素直な前提を保てなくなる、気を紛らわせるために娯楽に走ってしまうという事態に陥ってしまいます。

総じて「自分の人生を生きられなくなる」のです。

親の影響は、プラスに働くならいいけれど、マイナスなら有害です。「親の影響さえなければ、自分はもっと努力できるのに、勉強もするのに、将来のことを考えられるのに」という状況の子供は、たくさんいるはずです。

つまりは、親のマイナスの影響がなければ――という視点が必要になります。端的に言えば「親がいなければ」という引き算ができるかどうかが大事ということです。

「親がいなければ」という引き算ができるか。

「親への反発・反抗」は、引き算の第一歩。でも延々と反発ばかりしていては、自分の人生が始まらない。

反発するなら、「これは自分の問題なのだ。自分の人生がかかっているのだ」と思えるところまで反発する必要があります。中途半端な反発は、結局は現実逃避の理由になってしまいかねない。一番まずい展開は、親に反発しつつ、その不満を理由に部屋に閉じこもってスマホやネットでアヤシイ時間を過ごすだけ・・という状態になることです。

親の引き算というのは、子供が、自分の人生を考えること、将来を考えること、そして親とは別のところにある社会・世界・世間のほうを見るということでもあります。

「こんなところで、こんなことばかりしていられない」と思えるかどうか。それこそが精神の自立であり、成熟。

いわゆる反抗期とは、こうした成熟にたどり着くための通過儀礼です。というか、成熟にたどり着く必要があるのです。

となると、親には、ひとつの受け止め方があるのかもしれません。

「反発する(言う)のは、親として受け止めるよ、でもあなたの人生はどうするの? それは親を引いて考えてね」という受け止め方です。

「親はあなたより先に死ぬよ。この家だってなくなるよ」という現実を、どのタイミング化で伝えること。

いつまでも親を足し算に使ってはいられない。いつの間にか足し算に使ってない?――親が永遠に元気でお金もあって言いたいことを言える人間として生きているわけじゃないからね、という立場に立つことです。



付け足しておくと、興道の里の寺子屋には、親を最初から引き算して、一人で来させることがベストです。「交通費は出すから、自分のために一度行っておいで」と働きかけてみるとか。

ここでも、本人の意識の中で「親の引き算」ができているかどうかが、選択の分かれ目になります。

ただ見ていると、親や兄弟姉妹が「足し算」になっている子がものすごく多い。強烈な影響を受けて、振り回されて、自分を育てる時間が不足している。「心が育っていない」ことが多いのです。心の栄養失調。虚弱体質。

だから私はよく「今度は一人でおいで」と伝えています。

親の側でも「一人で」行かせるように働きかける必要があるのだろうと思います(もちろん時期・状況によりますが)。

特に兄弟姉妹の数が多いとか、親の存在が反発や阻害(心の成長における)の要因担っている場合は、なおさらそうです。

「引き算」という前提に立てるようにしてください。子供の心を育てるために欠かせない発想です。


2026年5月



独学でも勉強はできる


 独学には意志工夫がいる。きちんと自己管理して、正しい勉強法を工夫して。

 僕自身の強みは何かと考えてみると、独学で大学に進んだことかと思う。もちろん最初からできたわけではないし、最後まで自分に負けっぱなしだった部分もなくはないけれども、トータルで見て「自分に勝つ」ことはできた(だからこうして君と出会えている)。

 なぜ勝てたかといえば、意志と方法の2つがあったから。この2つを君には伝えていきたいんだ。

 最初に“方法”について少し聞いてもらえたらと思う。方法とは、学び方、勉強法のことだ。どう読むか、どんな手順で進めるか、1日の時間割をどのように組み立てるか、といったこと。

 今の時代こそ勉強法を語る本はたくさん出ているけれど、僕が十代の頃は少なかった。
 「あとで後悔したくない」という思いが強かったから、つねに将来を考えて、今をどう生きるかを思い詰めていた(苦労性だったんだw)。
 時間はあったから、大量の本を読んでいた。独りの時間が多かったから、深く考える時間があった。
 そんな時間の中で、本の読み方・考え方・書き方などを自分で工夫して確立していった。

 僕が手に入れた”方法”の核のようなもの(最も大切な要素)は、次の2つだ(具体的な中身は追って伝えていくから、まずはさわりだけ)。

  “本質”をつかむこと――本質とは、その分野・科目に必要とされるアタマの使い方だ。これさえわかっていれば、問題を解ける。しかも試験が終わっても、それこそ一生使えるアタマの使い方。

 たとえば数学における“手順”。語学における音や単語の“組み立て方”。現代文(論理国語)における抽象的文章を“読み解く技術”(論理的読解術)。歴史を物語として記憶するための“視点”といったものだ。
 
 こうした本質がわかると、どんな分野・科目であれ抜群に“見える”ようになる。覚えられるし、思い出せるし、問題を解ける。しかも生涯使える。
 逆に目先の試験に囚われた小手先のテクニックだと、試験が終わった途端に忘れてしまう。「覚え込む」(暗記する)ことに走って、別の場面で使えない。こうなると、せっかくの知識が上滑りして定着しない。
 君の周りに「勉強しなさい」としか言えず、肝心の「勉強のしかた」を教えられない大人がいるとしたら、こういうマズイ勉強をした(本質を学び損ねた)人だと思っていいかもしれない。

 僕が君にこれから伝えようとしているのは“本質”だ。
 本質がわかれば、勉強ができるようになる。人生が変わる。

 勉強ができること自体を目的にしてほしくはないけれど(見栄や虚栄心の満足につながっていきかねないからね)、学校の勉強や受験にも余裕で通用する本物の知力が身につく。

 その本質のいくつかを伝えていこう。


※注記: 本の草稿に当たるので、話の続きを書いていくとは限りません(すみません)。

 一緒に考えていきたいことは、「勉強観」とでも呼ぶべきもの。人生観、価値観、それと並ぶ勉強観――学びとは、勉強とは、どういうものかをめぐる認識の枠組みについてです。

 認識の枠組み(パラダイムと呼ばれるもの)が変われば、「勉強」という言葉の意味も根底から変わります。

  変わったその「勉強観」に立てば、学ぶことは楽しくなるし、その後をラクに楽しく生きられるし、実利として成績も上がるし、入試も無事合格できるよ、という一つの道筋をお伝えしたいのです。



夏の日本全国行脚2026 訪問地募集


興道の里から

今年も夏の日本全国行脚を開催します。

北は北海道、南は沖縄まで――お声をかけていただけるところに、草薙龍瞬がうかがいます。

○仏教を学びたい(講座・勉強会・座禅会などを開きたい)
○法事をやってほしい
○個人的に相談したいことがある

など、お気軽にご応募ください。


夏の全国行脚は2013年から。今年で14年目に入ります。

よき夏の思い出作りに、
お一人では解決できない物事を解決するために、
止まっていた人生を前に進めるために、

ぜひご活用下さい。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇
<訪問スケジュール>

期間 2026年7月20(日)から9月27日まで

★下記は目安です。訪問地はご連絡を受けて追加していきますので、下記に含まれていない地域の方もお気軽にご連絡ください(北海道・東北・北陸・甲信越・沖縄など)
 
☆は確定済みの予定です

7月22日(水)~30日(月祝) 関東
☆7月26日(日)・30日(木) 千葉県野田市 国語キャンプ
 
7月31日(火)~8月7日(木) 北海道・東北・北陸 

8月9日(土)~17日(日) 九州・四国
☆8月17日(月)宮崎 
☆8月18日(火)愛知・栄
☆8月19・20日 奈良・中高生のための学び方教室(学習相談)

8月21~23日 鳥取・島根・山口
☆8月22日(土)鳥取


9月16~27日 西日本(山陽・山陰・四国)
☆9月26日(土)広島


◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 
<応募方法>

下記をメールでご連絡ください:
①お名前 
②自己紹介
③希望する内容(相談・勉強会・法事など)
④訪問を希望する日程・場所

送り先は  welcome@koudounosato.com  まで

<詳細>
※②:ご自身について(近況・仕事・日頃の課題など)。連絡先等は興道の里からの連絡の後で差し支えありません。 
※③:「大人のための勉強会を開きたいです」「〇〇について相談したいことがあります」「法事を執り行いたいです」等
※③:個人相談をご希望の場合は、相談内容をなるべく具体的にお知らせください。
※④:「〇月〇日から〇日までの間」「〇月〇日を希望します」など、希望する日程および訪問場所をお知らせください。
※④:勉強会や講演については公共施設などをお手配ください。告知については興道の里もお手伝いいたします)。

<お願い(応募条件)>
・お立場に敬意を保っていただくため、すでに信仰をお持ちの方、特定の思想・宗教団体にご所属の方、スピリチュアル・占い・自己啓発系の活動を等を主催している方は、ご応募をお控えください。
・調整のうえ最終決定しますので、必ずしもお応えできるわけではありません。お応えできる場合にかぎり個別にご連絡差し上げています。あらかじめご了承ください。


よき出会いと学びの機会となりましたら幸いです

興道の里





もはや古典~自分を見つめない親について


もはや古典といってもいいメッセージになるけれど、

親は子供のことを相談するよりも前に、自分自身のあり方を見つめないと始まりません。


人間というのは、自分のあり方を見つめて理解しているかどうかで、成熟度が決まります。

成熟していない人は自分自身を見つめていない。なんというか、すごく自己理解が浅い。というか、無い。

自分を見つめる代わりに、子供のことや周りの人間のことばかり考えて、そんな自分がいっぱしのことを考えているように思い込んでいる。

子供が問題だとか、子供が変わらなければとか、〇〇についてわかってもらいたいとか・・。

いや、わかっていないのは、親のほう。それがわかっていないことが、悲劇的。


子のあり方は、親のあり方次第でいくらでも変わる。というか、親の姿を見て素直に反応しているだけ。

そういう部分もわかってない・・。

親であるという特権的立場にあぐらをかいて、子のほうにばかり目を向けるというぬるま湯にどっぷり浸かっている。

まずは自分自身のあり方を深く反省できないと始まらないんじゃないのかな。


自分に甘い。子にとっては、ずるい。

そういう親が無自覚のうちに立ちはだかっているから、こちらとしてはその子のために何もできない。


「どいてくれる?」


そう伝えたくもなる。自分の姿をちゃんと見なさいよ、と言いたくなる。

 

*夏の日本全国行脚スタートです。生き方・学び方について一緒に考えたい十代と親の方々はお声がけください。



東京で個人相談会を開きます

 

夏の日本全国行脚、まもなく告知します。

 

6月21日(日)東京で個人相談会を開催します。

相談ご希望の方は、公式カレンダーの告知をご覧のうえでご連絡ください。

 

 


 

 

 

緑茶と看護学生のみなさん


5月1日は、静岡島田の看護専門学校で講演会。

ほぼ全員が看護師国家試験に合格し続けている、かなり教育力の高い学校。

3学年120名の看護学生さんと先生方十数名。質問も続いて熱心に聞いてくださった様子。


仏教と看護は親和性が高いように思う。「人のため」という思いから始まっている気がする。

ただ明らかに仏教のほうが「人のため」からは遠いような気もする。自分のため、自己満足のため。仏教と言いつつ、パフォーマンスでしかない。

そういう形だけの仏教(仏教もどきと言ってもいいかもしれない)が蔓延しているといえなくもない現状に対して、看護の仕事には嘘がない。「ケア」が看護という仕事の本質だからだ。

看護の世界に生きている人たちは、いろんな悩みを抱えながらも、やっぱり誠実なお人柄が多い。話をしていて、安堵する自分がいる。どこか懐かしい感じもする。

看護が滅びる時は、人類が滅びる時。世界を支える偉大な仕事。

みんな頑張ってほしいと心から思う。


『反応しない練習』を図書室用に進呈させてもらった。この先はもっとこうした出会いを増やしたいとも思う。エールを届けたい。


また会えたらと思います。緑茶と黒大奴(くろやっこ)がおいしゅうございましたw。



2026年5月1日


枠を崩さずってどういう意味?

こんなおたよりをいただきました:


(先日のブログについて)

「思考停止の罠を突き破り、枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性」の部分が言葉の意図する範囲が広すぎて分かりません。

ご迷惑でなければ、小・中学生にも理解できる様に教えて頂けるとありがたく存じます。ご多忙の中、お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。



わかりやすいご質問ありがとうございます笑。そうですね、たしかにわかりにくかったかと思います。

たとえばこう表現してみましょうか:

仏教の枠にはまるというのは、ひとことでいえば、多くの人が「仏教とはこういうもの」と思い込んでいる、そういうイメージの枠内で仏教を語るということです。

私の場合は、仏教という思想に立って考えるし、語るし、作品も書くし、活動も生活もやはり仏教という思想の中で作っていくという点は、この先も変わらないのだけれど、

社会における立ち位置としての僧侶とか、仏教の研究者・著述家といった形にはとらわれないで、自分自身の人間としての個性や性格や人生観や価値観にもとづいても発言・活動していきますよ、という意味です。


「形としての仏教」に留まってしまえば、「どこかの宗派・伝統に属して頭を丸めて袈裟を着てお経を唱える私はお坊さん」というアイデンティティに収まって自己満足してしまう。

形からも自分の内面からも「これが仏教」「これが自分」という枠の中に収まってしまえば、形は続くし、自己満足も続くだろうけれど、それは「考えない」ことにもつながっていく。

歳を重ねて、考えることが面倒臭くなって、体力も落ちてきて、それでも僧侶その他の肩書があって、それでもなんとなく通用してしまえる状況が続けば、「これでいい」と判断するようになってしまう。

ラクだから。困らないから。そうして「思考停止の罠」にハマる。つまりは、「これでいいのか?」「他にできることはないのか?」と考えることを止めてしまって、そうした状況に満足さえしてしまう。


こうした傾向は、誰にでも生じるものです。変わらない自分を選んで満足してしまうという。

もちろん、変わらなくていい部分もあるし、変わらなくてはいけないということではないし、満足すること、今の自分を肯定することも、すごく大切なこと。

ただ、その一方で、他にも考えなければいけないことがあって、それは、

外の世界はつねに変わり続けている。

生きる限り新しい可能性は生まれ続けている。


ということです。

「自分はこれでいい」という満足だけに留まってしまうと、変わり続ける外の世界との間に距離が生まれます。

新しい可能性は、生きる限りは必ず新たに生まれ続けるものだけれど、その可能性をどう活かすか、他にもできることがあるのではないか、と発想することが難しくなります。

こうなってしまうと、「自分はこれでいい」という思いは、ただの妄想と変わらないのかもしれない。つまり

外の世界と切り離され、新たな可能性とも切り離された「自分はこれでいい」という妄想。

それはそれで幸せな心境ではあるけれど、まだ外の世界に向けて、そして新たな可能性に向かってできることがある状況でそれを選ぶことは、正解なのか。

正解とするのは、本当に人生がそういう時期に入った時――たとえば部屋の中にやすらいで外の景色を眺めるだけになった時期。あるいは、かつての私のように外の世界から自分を隔絶させて「完全出家」として生きる時。

正解になる時もたしかにあるけれど、まだ正解にしなくていい時もある。


私の場合は、どうやらまだ正解にしなくていい。どうやらまだ、外の世界にも関わっていかねばならないし、新たな可能性を追いかけることができる状況でもある。

外の世界に踏み出して、さまざまな可能性を探って、少しでも見えたら行動に移せないかを考えてみる。実際にやってみる。できなくても準備はしておく。

そうした自分を選ぶなら、その自分は、教条としての仏教(仏教とはこういうものという思い込み)にも、伝統や形式にも当てはまらないことになる。

その部分は、たしかに仏教の枠の外ではあるのだけれど、それでも身の内にある思いは、やっぱり仏教の根幹である慈悲と智慧に立っている。そのものである。

だから、世に出ていくけれども、世に染まらない。語る言葉と行動が、慈悲にもとづき、真実であり、必要であり、有益である(価値がある)という基準を外さない。

そういう生き方をしていこうということです。

つまりは、人々が仏教に対して持つイメージからは自由だけれど、やはり仏教という思想の枠内でいろいろやっていきますよ、ということなのです。

伝わりますでしょうか笑。

 

 

新生活、始動


第3火曜は◯◯から名古屋栄に初移動。

栄の講義はキャンセル待ちが続いている。それでも新しい人たちも大勢やってきた。


寺子屋(十代向けの生き方&学び方教室)は、高校生を指導することから始まった。

栄のジュンク堂で高校生の「公共」「情報」という科目を調べてみたが、

「ひどい」の一言。なんだこの「とりあえず全部詰め込んでみました」感は。

政治、経済、倫理、法学、国際関係、時事ネタ、行政・・すべてが原理も体系もなく並んでいるだけ。

こんなものを十代に読ませたら、言葉の暗記に走るに違いない。これ、高校の先生たちはどんな教え方をしているのだろう?

いや、高校生たちが本当に気の毒だ。こんな本を暗記したって、何も残らない。バラバラの知識が、いや知識にもならない単語が無秩序に頭にちらばるだけではないのか。



この先は、仏教が不動の軸ではあるが、仏教という枠にとらわれない働きを果たしていくことになる。

教条としての仏教の枠に留まることは、簡単ではあるが、観念へのとらわれをもたらしかねない。考えなくても、思考が衰えても、「枠の中にいる」という安心があるから、自分を正当化してしまえる。

そうした思考停止の罠は、歳を重ね、立場が確立すればするほど、はまりやすくなる。

最も大事なことは、そして仏教の真骨頂というのは、こうした思考停止の罠を突き破っていくことだ。

枠を崩さず、しかし枠にとらわれない。そうした本当の知性というものを保ち続けなければならない。




2026年4月下旬

 

平気で嘘をつく君へ

 

この事件はね、この先もっと大きな騒動になるかもしれない。

 

聞こえているかな……罪(不誠実)を犯してしまっている君に。

 

 例の AIブッダ禅 アプリ、「事業譲渡」先を募集しているそうじゃないか。

 

もともと原権利者の意向を無視し、連絡も交渉も何一つしていないのに、「連絡済み」とnoteで平然と嘘をつき、

 (嘘だよね、だってスジャト師本人が「ノー(連絡が来たことはない)」とはっきり言っているのだから)

 

「収益の75%を仏教関連団体に寄付している」と堂々と広告していたけれど、それも名前を挙げられた2団体は否定しているし、

 

あまりに明白な権利侵害が確認されたから、主要メディアは、君の事業に関する記事を急遽取り下げたわけだけれど、

 

君は、誰かの妨害行為のせいだ、圧力を受けたからだと、何も知らない人たちに訴えて、自分があたかも犠牲者であるかのような振る舞いを演じている。

 

「事業を託したい」「仏教を届けたい」と格好の良いことを言っているようだけれど、君はこうした事実を隠して、

君を信じて事業を譲り受けた人や企業が、君を信じたPR会社などと同じように、再び迷惑と損失を被るということを、

どうやら君は一切考えていないらしい。違うかい?

 

君の言葉の中に、どれだけの真実があるというのだろう?

 

君は正義のヒーローになりたかったのか? 

だが、人の気持ちは無視して、人を騙すことには平気でいられるというのか?

 

誰から見ても、それは無理だよ。


 

本当にいいんだね?

 

時間は十分あったはずだ。十分待った。

 

君からの中傷めいた言葉を浴びながらも、君の人生を想って、沈黙を保ってきた。

 

だけれど、さすがにこれ以上沈黙を続けたら、君はどうやらさらなる嘘を重ねて、もっと多くの人たちを傷つける恐れが見えてきた。

 

君の言葉を信じて、課金に応じたり寄付してきた人たちは、まだ真実を知らされてはいない。

 

君は、都合の悪いことは隠して、都合の良いことだけを、しかも明らかな嘘まで含めて、彼らに訴え、彼らの信頼と支持を集めてきたらしい。

 

だがそうしたあり方は、そもそも仏教に、いや社会の道理に反する。

人として、やってはいけないことだ。

 

君が自らの過ちを自覚して、静かに閉じるならば、私は慈悲をもってそれを受け止めようと考えてきた。

 

だが、最後まで、君は、自分のことしか考えず、平気で嘘を重ねて、人々の思いまで弄(もてあそ)ぶことを選ぶらしい。

 

私が、唯一、許容できないのは、人の悪によって、人が傷つくことを見る時だ。

 

自分にできることがあるのに、それをしない。

そのことで誰かが傷つく。新たな苦しみを背負う。

 

そうした事態だけは、私は人間として受け入れることができない。

 

本当にいいんだね?

 

きちんと真実を伝える努力を始めようか。

 

君も見届けてくれればいい。私は、君のように嘘はつかない。

 

君の嘘のすべてを、明白な証拠をもって覆し、 この社会にこれ以上の混乱が生じないように、

 

真実を伝え始めることにするよ。

 

P.S.

真実は、君が最後まで投稿し続けてきた note に掲載していくことにするよ。

君も自分が言ったこと、やったことを、鏡を見るように、noteの連載を通して確認するといいよ。

「一人の仏教徒」に妨害されたとか圧力を受けたとか、ずいぶんと都合のいい非難(事実の隠蔽と責任転嫁)を続けてきた様子だけれど、

そのことで一番被害を受けたのは、誰かわかるかい?

君の言葉を信じた人たちだよ。

 

平気で嘘をつくというのは、人を最大限に愚弄していることに等しい。

君を最後まで信じようとする人はいるかもしれない。

だが今回ばかりは、原権利者も、メディアも、名を騙られた仏教団体も、学会も、みんなが、君の嘘を知っている。

何が真実かを決めるのは、君じゃない。社会だ。

 

「一人の仏教徒」として、社会が何を真実として受け止めるかを、見届けることにしよう。

君も、その場所で、見届けてくれればいい。

 

始めるよ――。 


https://note.com/one_of_buddhists/n/n5c9b1ba26e91

 

 

 

もう少し様子を見よう

 
いくつものメディアが、この事業に関する記事を取り下げたというのは、

圧力とか妨害とか、そんな理由ではなくて(そんな理由づけが社会に通用するはずもなかろう?)、

それだけ深刻な、取り下げなくてはいけない理由があったからです。


日本国内のメディア・団体、そして海の向こうの原権利者が、どれほど重い言葉で彼に「NO」を突きつけたかを、彼は一部しか知りません。

どうやら本人は、自分は正しいことをやっていて、自分は犠牲者なのだと訴えたいらしい。

が、事実を人々が知れば、彼の言葉の本当の意味が、つまり真相が、いやでもわかるだろうと思います。

彼が語る「寄付」や「仏教」が、どういう背景(事実)があっての言葉だったか。

それを知れば、彼から聞いていた言葉の意味が、この事業に人々が感じていた意義が、すべてひっくり返ります。


知りたいと思うかもしれないけれど、ここはもう少し待とうと思います。


いつでも決定的な証拠を出すことはできるけれど、

今はまだ、彼の人間性というものを見定めている段階です。


もし彼に、自分の不誠実さを受け入れる良心があったなら、

今彼が懸命に訴えていることは、真実ではないことをみずから受け入れて、

静かに幕を閉じるはずです。


本当の仏教というのは、最後まで慈悲を貫く。

あくまで真実に立って、言葉を選ぶ。

人を責めるよりも、おのれの過ちを恐れる。


この場所があえて明かさないことには、深い配慮があるのです。


やがて、このブログを追っている人たちも、すべての真実を知ることになります。

もう少し様子を見ていてください。


 

2026年4月17日



仏教を盗んでしまっている君へ


仏教を盗んでしまっている(その自覚がないらしい)君へ


最初に伝えておきたいが、私は君の敵ではないよ。

むしろ君の未来のことを気にかけている。


君は、4月7日にプレスリリースを発信したみたいだね。

そこに明らかな嘘が含まれていること、君は自覚しているんだよね?


君は、自分の事業を求めている人たちが大勢いると言いたいようだけれど

その人たちは、君の言葉を信じている。信じることが、求めることの前提になっている。

だけれど、もし君の嘘が発覚してしまったら、

君は私を訴える前に、君自身が訴えられることになってしまう。


そのことはちゃんと考えていますか?


私は、君になんの感情もこだわりも持っていません。

ただ、君が犯したことは、私も、奪われた側のスジャト師たちも、全世界の仏教徒も、また良識ある個人も、企業も、決して良し(正しい)とはしないだろう。


CC0だから無断でどのように使っても法的責任は問われない? 

そんなことはないよ。法理というものを、君は学んだことがあるのかな?

そもそも人が創造した物を無断で、しかもどんな態様でも使っていいということにはならないんだよ。君がどんな理屈を重ねても。


もし君が、スジャト師らの長年にわたる努力と思索と研究と、

それを世界中の人たちに役立ててもらおうと慈悲の心で公開し続けてきた、


彼らの深さと人間としての尊厳というものがわかる人間であったなら、

今回のようなことは絶対にできない。してはいけないことなんだよ。


人の誠実から無断で奪っておいて、奪った側が「これは法施だ」なんて、よく言えたものだね。

誰が認めると思うんだい? 言われた側がどんな気持ちになるか、わからないのかな?



AIに反対しているわけではないんだよ。AIを使った人間の「悪」に反対しているんだ。

こんなことが野放しにされてしまったら、世界はやった者勝ち、言った者勝ちのメチャクチャな世界になってしまう。

君は、人々の努力と誠意によって築き上げられたこの世界を壊したいのか

壊れないよ。
君が居場所を失うだけだ。


君がいくつもの大きな嘘をついてしまっていることは、簡単に証明できてしまう。

でもそれは、最後まで控えておこうと思う。

君の未来が孤独と苦しみに再び戻る姿を、私は望んでいないからね。


君がプレスリリースやそのアプリやサイトの中で使っている人たちの名前――君に利用される側の気持ちを考えたことはあるのかな?

4月7日のプレスリリースでも、ずいぶん多くの人様・団体様の名前を使っている。

自分の正しさを分からせることに役立つと思ったかい?

真逆だよ。もし嘘の使われ方をしていることが発覚したら、君は確実に社会的信用をまた一つ失うことになってしまう。


私は、君の敵じゃない。君の未来を想って、こうして伝えている。


君は、PR TIMES を使って、嘘を含むリリースを出してしまったようだ。

PR TIMESも、別の広告会社も、社会に価値ある情報を提供しようと堅実に実績を積み上げてきた企業だ。

もちろん配信者の事業を応援しようという思いも、彼らにはある。彼らは依頼者である君を信頼した。最後まで。信頼したからこそ、ほぼ無審査で配信し続けた。


だけれど、君はリリース内で、多くの人や団体の名を都合よく使って、自分がさも正しい事業を展開しているかのような自己主張を繰り広げた。

君の言葉を信頼した PR TIMES は、君の言葉を信じたからこそ、さまざまな提携メディアに配信した。

いろんな場所で君の言葉を見た人たちがいる。君が期待した通り、信じた人もいるかもしれない。

でも明らかになりつつあることは、そのリリースの中にも巨大な嘘が潜んでいたということだ。

君は知っていたのではないのか? 自分の言葉が事実と異なることを。

君は想像しなかったのか? 嘘を配信させた彼らの看板に泥を塗ることになることを。


もし本気で自分が言っていること、やっていることが正しくて、「自分も仏教AIも嘘をつかない」と信じ込んでいるとしたら、

おそらく君は、あまりに長い時間を、孤独の中で生きてきたのかもしれないね。


気づいているかい?

君の言葉にも、その行動の中にも、他者がいないんだ。

心と体を持った人間が。

奪われたり、いいように使われたりしたら、傷つく心を持った人間が、いない。


君は仏教を語ることで、自分がいいことをしているように感じているかもしれないが、

人間というものがわからない人に、人間を助けることはできないよ。


もし君が、本当に仏教を人の幸せに役立てたいと思うなら、

嘘をつかず、

与えられていないものを受け取らず、

まずは都合のいい私欲と妄想をかなぐり捨て、

その証として頭を丸めて、家を出て、財産を捨て、「出家」してみればいい。


そして人様からの托鉢をもってその身を養い、

一日十二時間の瞑想をし、

パーリ語の原典と大量の仏教書と格闘して、

少なくとも十年は、自分を語らず、誇示せず、ひたすら人様の役に立てるようにと願いながら、

日々の小さな務めを果たしてみるがいい。


できるかい?


できないなら、君にスジャト師の言葉を使う資格はないんだよ。もちろん仏教を語る資格もない。仏教を使って人様からお金を受け取る資格もない。


もう一度言うよ。私は君の敵じゃない。


私は仏者だ。ブッダの教えによって救われ、ブッダの教えに立って生きる正真の仏教徒だ。

だからこそ、仏教を何も知らず、平気で嘘をつける程度の人間でしかない今の君が、

人の名を騙り、人の知的財産を事実上盗み出し、権利者の思いを一切無視して、

その仏教のようで仏教とはかけ離れた”何か”を築き上げようという、幼く邪悪な(すまない、でも現時点ではそう言わざるを得ない)企みには、反対せざるをえないんだよ。


これがもし私だけの思いであるなら、安心してほしい。世界は厳しい場所だ。私が何を訴えても、人々は聞く耳を持たないだろう。

だが、真実というのは、自分ではなく、最終的には人様が、世界が決めることだ。

もし世界が、私の言葉に耳を傾け、私の手元にある真実(証拠)を見て、これが真実だと受け止めてくれたなら、

その時は、私の言葉が真実であって、私を敵として攻撃している君自身の言葉が嘘ということになる。


私にとっては、どちらでもかまわない。この命には、「私」という思いさえないんだ。

あるのは、苦しみを増やしているのは誰か、苦しみの原因は何か、どうすれば苦しみを越えられるかという可能性だけだ。


苦しみを増やしているのは自分じゃない!――と君は思いたいかもしれない。

でも、おそらくそれは、孤独が長すぎた君が作り出した妄想だ。

私も、世の中も、君を信じた広告会社も、君に名を使われた団体も、みんな、真っ当に生きている。

嘘を恐れ、人を傷つけることを恐れ、人を欺くことを恐れ、

だからこそ人を信じ、自分の可能性を信じて、自分が置かれた場所で、自分にできることを精一杯頑張ろうとして生きている。


そうした人たちだけならば、この世界に苦しみは生まれたりしない。

苦しみが生まれるのは、誰かが、私欲や、嘘や、レトリック(言葉回し)や、権力をもってゴリ押ししようとした時だ。


君は世界の苦しみを増やしていないか?

君を信じたPR TIMESが、虚偽の情報を流し、配信先に迷惑をかけることになったこと、その築き上げた信用に傷がついたかもしれないことを、

君は想像しないのか?

だから苦しんでいるのは自分であって、苦しめているのは私だと本気で思えてしまうのか?


誰も君を苦しめようとなんてしていない。

苦しみを作り出しているのは、君自身なんだよ。



君の苦しみをほどく方法は、君への私信の中で伝えたよ。それしか方法はない。


そして君が自分がしたことを、された側に謝罪して、君本来の人間らしさを素直に見せることができたなら、

私も含めて、世界のみんなが君を歓迎するだろう。



伝わるかな。

伝わるまで伝え続けるよ。



草薙龍瞬


P.S. 君が言ってきた「魚拓を取った」という言葉。ぜんぜんかまわない。

私が最終的に伝えなければならないであろう相手は、世界だから。

だから伝えるのが、私であっても、君であっても、かまわない。


だが、嘘やいわれ(根拠)なき攻撃だけは、厳に控えてほしい。

自分の正義に囚われて他の人たちを巻き込むことも、しないほうがいい。

なぜならこの件を知る人が増えるほど、真実が世に知られることになる。

それもまた君を最後に孤独にしてしまう、君自身への刃(やいば)になってしまうからね。

私は、君に傷ついてほしくない。再び孤独に落ちてほしくないんだ。


敵じゃないんだよ。



2026年4月9日


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて4


本当のブディズムは、つねに慈悲と真実とを先に考える。

それは、あなたに向けても同じことだ。

 

私も、あなたが無断で流用した仏典データベースを長年かけて作り上げてきた人たちも、

ブッダの教えに立って生きる者たちは、どのような人間に向けても、いかなる場面においても、つねに慈悲と真実とを確かめるところからスタートする。


あなたはわからないのか?

あなたがやったことで、無断流用された人たちがどんな気持ちになるのかを。

あなたは何も創り出していない。他人が築き上げたものを偶然見つけて、CC0という彼らの慈悲にもとづくポリシーを都合よく解釈して、

彼らに連絡もせず、許可も取らず、大量のデータをスクレイピングして(かすめ取って)、

仏教徒でもなく、仏教を知らない身の上でありながら、仏教を活用できるアプリおよびサイトであるかのような装いを見せて、

世界初だとか国際標準をめざすと謳って、連日のようにWEB広告を打っている。


今回あなたが犯したことは、第三者の著作物・知的財産の無断使用に当たるものだ。しかも前例を見ない大規模にわたって。


日本だから、向こうが遠い海の向こうにいるから、わからないと高をくくったか?

CC0といっても、原権利者の権利は依然守られる。それは国を越えて全世界に共通するルールだ。それもわからないまま、「学術的研究に依拠している」とあたかも彼らが、あなたの事業を認めたかのような宣伝文句を発したのか?


世の中というのは、誠実に、地道に、新たな価値を創造しようと努める人たちによって支えられている。

新聞社も、メディアも、学者の先生方も、

仏教をただのデータとしてではなく、生き方として、人々を苦悩から救い出すかけがえのない思想として、2600年近い歳月に渡って受け継ぎ、守ってきた仏弟子たちも、

その点は同じだ。


あなたは、事業を立ち上げてまだ一年も経っていない。ひとつでも特許を取るなり、正当な方法で多くの人が喜ぶ事業を育てるなりして、本当の成長をめざすべきではないのか?


どの分野の大人たちも、みんな真剣に、真摯に、新たな価値を創造しようと日々闘っている。

そうした人たちの努力によって、この世界は成り立っている。

世の中は、そんなに甘い場所ではない。だが本当の貢献ができれば、多くの人が歓迎し、高く評価してくれるだろう。

そういう場所だ。壊れつつあるとはいえ、まだまだ健全で、わかりやすく、成熟した世界である。


あなたにとって仏教は、黙っていれば利用してもバレない都合のいい道具に見えたのかもしれない。

仏教を、真摯に築き上げてきた人たちの思いを無視して、利用して、広告を頻発すれば、すぐにでも称賛される地位に立てると思ったのかもしれない。

だけれど、世の中は、そうはなっていないのです。


あなたは、私の言葉を脅しだとか訴えるとか言ってきているけれども、私があなたに伝えたことは、すでにここに公開しています。

あなたは、こうも伝えてきていますね

>一度、原点に立ち返ってはいかがでしょうか。

そうだね、立ち返ろうか。まずは自分から。仏教の基本であり、世の道理だ。

あなたは「寺の関係者」だとも名乗っている。

どういう関係者なのかわからないけれども、それと今回あなたがしたことと、いったいどんな関係があるのだろう? 


単純に、あなたが伝えるべきは、自分がしていること、したことが、法的に、倫理的に、社会的に本当に正しいと言えるかどうか、

その具体的根拠のみです。


現時点で明らかなことは、あなたが無断で大規模に流用したCC0ライセンスのもと仏典を提供してきた団体・個人は、

生成AIによる利用を固く禁じ、またデジタル技術によるスクレイピングやアプリ開発に利用することを、明白に拒否し続けているという事実です。

その主張は”叫び”にも聞こえるくらいに切実なものです。ずっとそう訴えてきました。


あなたはそれを知っていると言っていましたね。みずから彼らに連絡を取り、「誠実に交渉する」と、私に伝えてきましたね。

つまり、あなたは、彼らのライセンス(使用条件)を知りながら無断流用していたことを自ら認め、

その事実を指摘されたことで、あわてて連絡を取ると言ってきたけれども、

真実は、

現時点に至るまで被害当事者に連絡していないということ、そして

彼らが、あなたの今回やったこと、あなたの事業に許可を与えることは絶対にないということです。


私を脅しても意味がないのです。これは単純に、社会に通用するかどうかということ。

世の中のルール・法律・道理にてらして、やっていいことと絶対にやってはいけないことがあって、

今回の件、つまりあなたがやっていることは、後者に属する可能性がきわめて高いということです。


世の人々・企業は、正しい手順と手段をもって、ちゃんと成果を上げ、社会的信頼を勝ち得ている。

あなたも、そうした正道に立って、もう一度やり直すことが、唯一の正解ではないのだろうか。


あなたは、私の著作を読んで、仏教を学び始めたという。

だけれどどうやら仏教というものを勘違いし、自分の私欲のために利用していいとどこかで勘違いしてしまったのかもしれない。

私は感情ではなく、道理をあなたに伝え続けています。

あなたが、私の著作を読んで感銘を受けたということは、あなたが、孤独と苦悩を知っているということを意味します。

ならば、その孤独と苦悩と向き合うことを始めてください。今回のように、自分の野心といつの間にかすり替えて、仏教という尊き思想や私が本で伝えている内容を、アプリだのAIを使った仏教サイトだのに利用しないことです。


伝えましたよね――仏教は、仏教徒によってのみ守られ、また伝えられるべき尊き思想だと。


あなたは再びわざわざ私に連絡を取ってきて、言うだけ言って、連絡(返信)はするなと言ってきている。だからここにこうして伝えるけれども、


自分が犯している法的・倫理的問題を是正することが求められているのに、それを指摘されると訴えるなどと「脅し」をかけてくることもまた、世の中には通用しない対応です。

倫理をわきまえた人と企業なら、こうした言葉は向けてこないのではないだろうか。


この問題は、それほど難しいことではないのですよ。

あなたがしたこと、していること、主張していることが、世の人々に受け入れてもらえるかどうか。あなたがアピールする宣伝ではなく、実際に起きている事実を、社会がどう受け止めるかです。

与えられていないものを取ってはならない。”盗んで”はならない。利用してはならない。

そういう道理を守れるかということだけです。


道理を守れる人たちが、この世界を支えていくのです。

あなたも、そうした一人になればいい。きっとなれるはずです。



どう思いますか?

 

慈悲にもとづいて 

2026年4月7日

 


生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて3


この件は、この重大な事件が世間の人々に広く知られるに至るまで、伝え続けることになります。


彼らが犯したことは、仏教という思想に対する大規模かつ悪質な「窃盗」に当たります。


(罪を犯した者よ、聞こえていますか?)


ある仏教団体が長年かけて地道に築き上げ、道を求める人たちのためにと無料で公開していた仏典のデータベースを、

無断・無許可のまま生成AIに学習させ、自前のアプリのテキストデータとして使用して配信・販売し、しかもその事業については著作権を主張し、課金するという恥を知らぬ行いを、今も続けている企業(特定の人物)がある。


この事件の本質は、

利用された側がまったく知らされなかったこと、

今回の無断使用に異議を訴えていること、

仏教という尊い信仰を、自分たちの勝手な思惑でデータとして無断流用し、自分たちの利益を貪るための”餌”にしている

ことです。


盗んだ者たちとは、事実上、特定の人物一人です。日本人。仏教、AI、禅、アプリ(App StoreおよびLINE)、そして「10,000以上の」仏典翻訳を使っていると自ら宣伝している人物。

この人物はその後、こちら側に、仏典の翻訳データベースを作成した仏教組織には、みずから連絡を取り「誠実に」交渉すると言ってきています。

誠実も何も、すでに”盗み”を犯している。

盗みが発覚したから、盗まれた被害者に連絡を取る? どういう神経なのか。


自分が勝手に作ったサイトおよびアプリについて、学術的データベースに依拠していると吹聴しているが、

無断流用された側は、生成AIによる利用も、WEBサイトやアプリへの流用も許可していない。


盗んだだけだ。


盗んだものを、自社サイトとスマホアプリというパッケージにくるんで、まるで自分が開発したかのような体裁を繕って、世界中に配信しようとしている(一部配信済み)。


「嘘をつかない」 仏教AIを作ったと宣伝している様子だが、自分があからさまな嘘をついているではないか。

仏教という尊い思想に対して、また仏教を守り、人々を救おうと地道に活動してきた者たちにどのような愚弄・嘲弄・冒涜を犯したか、

自分のやっていることの非道がわからないのか?


その事業内容、

インターネット上に彼らが上げた宣伝内容、そして

この人物・企業からの直接の回答内容および今後の対応をもって、

今回の事件が、絶対に許されてはならない犯罪(仏教という尊き思想に対する愚弄と窃盗)であることを、心ある市井の人々に伝えていくほかない。


聞こえているか? 

罪というのは、潔く認めて、みずからの行いを正すことによってのみ贖われる。

あなたは、まだその道理というものを拒否することに執着しているようだ。


間違った執着は、必ず本人が想像する以上の苦しみを引き起こす。因果応報と呼ぶ。

 

このメッセージは、仏教を守る側に立つ人間としての、当然の訴えである。

与えられていないものを受け取ってはならない。


もうしばらく時間という名の猶予はある。





2026年3月29日



生成AIに仏教を利用しようと目論む者たちに向けて2

はじめに

これは、仏教という思想が、生成AIおよび人間の強欲に収奪されつつある現状に対して、深い懸念と危機感をもって向き合わざるを得なくなった一僧侶の思いを、心ある皆さんに知っていただくためのものです。

この件は、段取りを踏まえて、慎重に進めていきます(先方企業および個人の将来にも配慮して)。

今後どこまでこの件を世に伝えていくかは、第一に彼ら次第ということになります。彼らが人間としての正しい道に回帰するならば、この件は静かに閉じることになるでしょう。

しかしその一方で、もし彼らがその悪行と無恥(とはっきり言います)を改めようとしないならば、この先、いずれ場所と発信の態様を変えて、広く長く訴え続けることになるだろうと思います。

こちらは、あくまで慈悲にもとづいて――しかし仏教というかけがえのない思想を守るために、必要ならば「闘い」をも引き受ける覚悟でいます。

ここに引用するのは、草薙龍瞬からの彼らへの最終通告です。社会(世界)に広く理解してもらわねばならない大事な内容を含んでいるので、返信した内容を掲載します。

ただ、相手の所在は今の時点では知ってもらう必要はない(順序としてまだそこまでは進んでいない)ので、一部の情報は伏せてあります(但しいずれは、企業名・人物名も含めて掲載する可能性があります。すべての事実は彼らが積極的に宣伝している公知のものであって、もともと配慮する必要がないためです)。

ここでは、仏教とはそもそもどういう思想(世界)か。なぜ生成AIに利用してはならないかを整理して記述してあります。ご理解と議論の一助としていただければありがたく存じます:

◇◇◇◇◇◇◇

拝復

この連絡は、過日に貴社代表・◯◯◯◯様から草薙龍瞬に寄せられた連絡内容に対する最終かつ公式の回答となります。

貴社が開発・展開中のサービス「◯◯◯◯」の事業内容、および貴社代表からの監修依頼、ならびに拙著『反応しない練習』に基づくAIおよびアプリ開発の提案について、貴社の事業内容および貴殿のこれまでの発信内容を精査いたしました。

結論として、草薙龍瞬は貴社および貴殿が展開する事業への監修および今後の関与一切を固くお断りいたします。

また、仏教に対する貴社・貴殿の認識および扱いについて、深い懸念と憂慮を表明するとともに、今後貴社が展開する事業について、国内外の仏教団体とも連携のうえ、注意深く厳粛に観察していくことをお伝えいたします。

以下に、貴社及び貴殿の仏教AI事業を容認しない決定的な理由を記します


1. 仏教の生命線である人間対人間という大前提への無理解

貴殿は「経典を正しく引用すれば、嘘をつかないブッダの教えになる」と主張されているようですが、それは仏教の本質を著しく誤解するものです。

そもそも仏教という信仰・思想は、苦悩と真摯に向き合う人間に向けてのものであり、また同様の苦悩を知る人間が伝えることを前提としています。仏教を深く理解せず、信仰(敬意)を持ち合わせていない一般の人間が、その主観的判断をもって分類・加工・生成するようなあり方は、元来想定されておりません。

仏教に対する理解が及ばない人間が、苦悩を実感しないAIを利用することで、仏教徒にとってかけがえのない知的遺産である経典を一方的にデータ化し利用する。こうしたあり方は、仏教の思想性並びに伝統と、それを守り続けてきた仏教徒たちを甚だしく蹂躙するものです。た仏教に対する人々の誤解を増大させる極めて危険な行為に当たります。


2. 〇〇〇〇および仏教の伝統に対する敬意の欠落

貴社が流用した〇〇〇〇のデータベースは、長年にわたり僧および在家の仏教徒が献身的な奉仕を重ねて築き上げた神聖な知的財産です。彼らは公式に、AIによる利用を容認しない旨の倫理的要請(Ethical Request)を表明しています。○○○○が提供するデータをかくも大規模に流用しながら、彼らの倫理的要請は知らなかったということは、到底通用するものではありません。

上記の声明が彼らの公式サイトに記されていることを知りながら、気づかれないものと高をくくって今回の事業を立ち上げたということであれば、貴社および貴殿の倫理的罪およびその反社会性は決定的なものとなります。

そもそも○○○○が原始仏典を公共財として無償で提供している趣旨は、ブッダの教えを商業目的で独占することなく、あくまで救いを求める人間のために広く提供しようとするものです。企業・個人に都合よく利用されるためではありません。

彼らの善良性および慈悲深さにつけ入り、その人道的動機を平然と無視して自らの事業に流用した貴社の姿勢は、仏教徒たちが重んじる「不偸盗(与えられていないものを奪ってはならない)」という戒めに真っ向から抵触するものであり、また地道に仏教を守り続けてきた仏教徒たちの努力を甚だ愚弄するものです。


3. 拙著および私個人の道具化への異議(発想への警告)

拙著『反応しない練習』は、読者である一人ひとりが自らの心を見つめ実践するために、私がいわば命を削って紡ぎ出した大切な作品です。それをAIボット化し効率的に提供しよう(提供していい)という発想は、個人の思索とその成果を嘲弄するに等しい極めて傲慢なものです。これを機に自覚していただくことを求めます。 

貴殿はSNS型メディアにおいて (略) を発信している様子です。こうした発想は、一個人の感想としては自由ではあるものの、そのような認識で仏教を生成AIに利用すること、またなんら資格も正当性もない立場で仏教を編集・加工しアプリ等に利用することは、社会通念をも逸脱するものです。

仏教という思想を守り抜いてきた僧侶方、在家信者、そしてすべての著者には、尊厳というものがあります。貴社および貴殿がやっていること、およびその発想は、こうした尊厳を甚だ傷つけ、かつ愚弄するものです。

もし私の言葉が未だに届かない場合、そして今後も貴社および貴殿が、仏教という尊い思想を生成AIおよびアプリ開発に利用する動きを止めないというのであれば、その時は、あなた方がやっていることの法的・倫理的当否、特に〇〇〇〇のデータベースを大規模に流用して事業化したという事実を、貴方方に直接訴えるのではなく、社会および世界に向けて発信せざるをえません。


最終警告および要請

この連絡をもって、私と貴社および貴殿との接触は完全に終了したものといたします。今後、以下の行為が確認された場合には、法的措置を含めた厳正な対応を検討いたします。

1.氏名および拙著の無断流用の禁止:
貴社のウェブサイト、SNS、プレスリリース、投資家向け資料等において、某僧侶に監修を依頼している、相談中である、「反応しない」プログラムを開発中といった、私および私の作品との関わりをほのめかすような一切の記述を禁じます。

2.著作権・商標権への配慮:
拙著のタイトル『反応しない練習』、および「反応しない」という核心的概念を含む独自のコンセプト・方法論を、貴社のAIサービスの名称、機能、宣伝文句等に流用することを厳に禁じます(もともと貴社および貴殿に仏教を扱う正当性は一切ありません)。

3.誤認情報の流布禁止
私の思想ひいては仏教の精神を、貴社のAI技術によって「再現可能である」かのような誤解を招く一切の表現を禁じます。これはあきらかに信仰・思想としての仏教が許容する範囲を逸脱する、非倫理的かつ反社会的なものです。

4.仏教という知的遺産への敬意と尊重の要請
仏教は、ブッダの教えに基づいて真摯に生きる仏教徒たちのものです。何人たりとも、仏教を一企業の事業としてまた商用目的で利用することは、許されるものではありません。


貴社および貴殿が擁する技術的卓越性は、法的・倫理的見地に抵触しない範囲および態様で社会に還元することが求められています。

この件は、貴方方が対処を間違えば、日本国内だけでなく世界的な議論と批判を招きかねない重大かつ深刻な問題を含んでいます。本件に潜む倫理的危うさが周知の事実となれば、貴殿がどのように弁明しようとも、確実に貴社および貴殿の社会的信用性に致命的かつ半永久的な負の影響を及ぼします。

貴社および貴殿は、さまざまな媒体を通して〇〇事業を宣伝しているようですが、今後はそのすべてが、あなた方への批判・非難の的に転じる危険があることをご自覚ください (略)。


仏教は、仏教を信仰する者たちによってのみ語り継がれ、また守られるべきものです。

貴殿もまた縁あって仏教という思想にたどり着いた身の上です。物事の道理というものを理解しうる知性と良心の持ち主であると信じます。

どうか物事の道理を正しく理解し、本来のご使命に立ち返ることを願ってやみません。


僧侶・草薙 龍瞬

 

2026年3月下旬

 

追記: 彼らの罪は、ここに記した内容に留まりません。決定的に非倫理的・反社会的な行いを彼らは意図的に犯しています。この点については、彼らが今の事業を止めない限りは、最終的に公表する予定です。