〒987-2215 宮城県栗原市築館高田2丁目1−10
・中高校生の保護者・教職員に伝えたいこと。
・現代の高校生を取り巻く状況に対して、どのように対処すればいいか。
・不登校・引きこもり・自死・薬物・ネット依存・ブラックバイトなどの諸問題への対処について ほか。
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
翌朝は歩いて駅まで。夜とは表情が一変するさわやかな朝の風情も楽しい。
清張は40を過ぎてデビューして、82歳になるまで人間を抉りぬく営みを続けた。鬼神とも喩えうる熱量。
原動力は本人いわく「疑い」であり「底辺から見上げること」だそうだ。出家のひねくれ根性とも似たところはあるかもしれない。
杉並・高井戸に一軒家を構えて、膨大な資料を所蔵していた。その書斎の一部が復元されていたが、途方もない蔵書量。
自分と同等の熱量を編集者にも求めたとか。編集者としては戦々恐々だったろうが、稀代の知の巨人とまみえることができる僥倖も感じていたことに間違いない。
清張の人生の前半40年にわたる貧困と下積み時代は、本人にとっては「濁った暗い半生」だったという。その暗い蓄積があったからこそ、後半生の鬼のような執筆活動が可能になった。自身が体験した混沌を言葉によって濾過していったのだ。
見知らぬ夜道を妖しい恍惚を感じながら歩き続ける。踏切を渡り、国道沿いをひたすら歩いて、はて道を間違えたかと思ったあたりで、ようやく到着。
宿は駅近がよいかと思っていたが、そうではなかった。むしろかなり歩く距離のほうが、途中の景色を楽しめると今回学んだ。
「誰もいないところに自分一人」というシチュエーションに胸が躍るのは、やはりこの身は夜行性ということなのだろう。
いよいよ2025年も師走に突入。
来年の展望は、改めてお知らせしますが、大まかな方針を言葉にしてみると、
子供たち向けの寺子屋活動を軸にして教育系の本を書いていくとか、
講座をペースメーカーにして仏教研究(原始仏典のアップデート)を進めるとか、
子供向けに漫画で仏教や生き方を解説するとか、
絵本を描くとか?
いずれにせよ、生産性をもっと上げないと。しかも新しい方向性に向けて。
◇
そもそもこの場所は、自我や欲望の真逆を突き進もうという変わった場所。
ときおり、オンライン・サロンを開きませんか的な提案や、露出を促すWEBメディアからお声をいただくのですが(とてもありがたいことだと思ってはおりますが=人=)、
そうした場所をのぞいてみると、顔、顔、顔、顔、顔・・・みんな晴れやかでにこやかで、ワタシ頑張ってます(キラキラ☆)感全開で・・
ああ、それだけで気疲れしてしまいます(笑)。
今の時代は、SNSも含めて、どこも「見て見て」意識で作られていて、そうした自意識がお金になっていて。
自意識からの自由をめざすこの場所とは、根底にある価値観にズレがあるような気がします。
この場所は日陰が好き。裏道が好き。石の下にうじゃうじゃと身を寄せるダンゴ虫的な世界を好むのです(笑)。
この場所は、時代からも、世間からも遊離した場所。
「入った途端に違う世界を感じる」ような、それくらいの場所をめざしてもよいのかもしれません。
この世にあって、この世を越えた場所、
この世にあって、この世に見つからない場所。
寺子屋の跡地を尋ねて昔を想うように、
「昔はこんな場所もあったのかもしれないね~~」的に遠い目をして想像してもらえるような、
今の時代にあって稀有な、ある意味実在感のない不思議な、人里から遊離したような場所であってくれたらとも思います。
2025年12月
社会から長く離れて過ごしていた人から、
社会復帰したいという希望や、実家を離れたいという思いをお寄せいただくことがあります。
状況は人それぞれに違うので、簡単なことは言えないのですが、大まかな方向だけ言葉にしてみると、
社会に出ていくというのは、長く入院していた人が日常に帰っていくことに似ている気がします。
入院していた間に筋力はものすごく衰えているから、リハビリが必要です。
「自分の力でリハビリしよう」とはあまり考えないのではないかな。たいていはその道のプロの人に助けてもらうところから始めると思います。
社会復帰というのも、おそらく似たところがあります。自分の力だけで復帰しようにも、これまでは自分自身が重かったから、社会から離れて過ごしていたことになります。
だから、重たい自分の力で自分を動かそうとしても無理。すべてがしんどく面倒なことに感じて(打たれ弱くて)、結局元に戻ってしまう可能性が高いように思います(入院中のベッドに戻ってしまうようなもの)。
だから最初は、すぐに社会復帰しようと考えないで、自分以外の人たちがいる場所に「なじむ」ことから始めることではないかな。
地元の就労支援センターとか? 独り立ちするための支援をしてくれる行政プログラムをとりあえず体験してみるとか。
多少人に慣れてきたら、軽めの仕事でもいいし、職業訓練を受けてみるのもありかとも思うし。
最初は慣れること、体験してみること・・・何も考えずに。欲張らずに。小さいところから。
どんな体験もプラスにしかならない、とりあえずやってみる、そういう思いから始めるのです。
気をつけたいことは、最初が一番おっくうで、面倒で、つらいかもしれません。ただ、だからといって、戻っても、その時に見える景色はもう十分見てきているから、意味がない・・そう思えるかどうか。
もうひとつ気をつけたいことは、持ち前の欲張りが出てきてしまって、「すぐ復帰」「すぐ稼ぐ」「すぐ一人前」「できればもっと上の、ひそかに願っていた理想の自分」になろうとしてしまうこと。
そういう欲(求めすぎる心)に飛びついてしまうと、その欲をもって、目の前の人、場所、そして自分自身に反応してしまって、
不満を感じたり、失望したり、焦ったり、「うまくいかない」と思い込んで、結局元に戻ることを選んで(正当化)してしまいがちになります(理想の壁を自分で大きくしてしまうほど、障害が増えてしまう)。
リハビリは、脚を動かすところから。それができれば立ってみるところから。「ずっと入院して寝たきりだったのだから」と思えるなら、そういうチャレンジにも入っていけます。
社会復帰も同じことじゃないかな。少しずつ。まずは外へ。そして、人へ。外で人と過ごすこと。何かをやってみること。
まずは1日、そして3日、5日。半年くらいかけて、少しずつ。
やってみてほしいなと思います。
どの場所での法事も同じことだが、やはりその土地や一族の業というものを感じ取って、その業を断ち切るための理解というものを明らかにすることが、基本になる。
“見える”ものは、伝えることもあるし、
業の力が強いと、その影響は一代では終わらず、次の代、
だが救いでもあるのは、人間というのは凄まじく生命力が強くて、
つまりは、負と正、陰と陽、悪と善というのは、どの時代・
苦しみをもたらすものが悪の業だとしたら、
どうした場合に善の業が育っていくかといえば、
「子供にだけは苦しんでほしくない」
「この業を子に受け継がせたくない」
「この苦しみは私の代で終わらせる」
業とは心のクセ・反応パターン
いわゆる性格や慢性的気分です
つい繰り返してしまう、
自覚があまりない、
そして
親から子に受け継がれる
ことが特徴です
詳しくはこの本をぜひ読んでください(筑摩書房から)
門司から中津に向かう。車内で、通学途中の高校生たちと一緒になる。9割方はスマホ、1割は参考書。スマホは常習化した感がある。
スマホのない空白の時間を体験している世代としては、ほんとにこれでいいのかなという疑問もなくはないのだが、
片や参考書を眺めている殊勝な高校生たちの姿を見ると、中身のなさそうな勉強に時間を注いでも、あまり実のあることはアタマに残らないだろうし、未来の足しになるとも思えない。
要するに、スマホも参考書も、正直意味がないのではと思えてしまう。
とはいえ、スマホをダラダラ使っても、知能は育たないであろうから、こうした時間を延々と過ごして脳が溶けていった(思考力が劣化していった)先に、どんな人生が、そしてどんな社会が待っているのかは、今の時点ではわからない。せめて実のある時間の過ごし方について提案するくらいのところまでは、やってみたいものだと思う。
11月10日から日本全国行脚の秋バージョン。法事に呼ばれて九州・熊本へ。
今年二度目の船の旅。陸路より安いし、宿泊費も節約できる。しかも一度乗れば、目的地に着くまで、何もする必要がない。WIFIも届かないから連絡もつかないし、食事は自販機で盛りだくさんのメニューから選べるし、大きな浴場もある。周りは見知らぬ人ばかりで、気兼ねする必要もない。いうなれば
"おこもり"の時間。出家の性分に合っている。
PHP 2025年12月号
特集「捨てる」と人生が好転する
月刊PHPは、まだ自分の本が広く届く前に原稿の依頼をいただいて(2013年?)、
その記事がきっかけになって、『反応しない練習』につながっていったという恩人的な雑誌です。
この号も、他の記事が充実しています。これで300円(なんて良心的w)。
月に一度、こうした読み物が届く暮らしは、なかなかのものだと感じます。
目に触れる文章や写真・絵は、ノートに抜き書きしたり切り貼りしたりして、自分のモノにする作業が大事なのだろうと思います。
雑誌の場合、元の本をもう一度すべてたどることは、ほぼないでしょう。
「この時はこれに反応した(目が留まった)んだな」という履歴を刻む作業こそが、価値として残るのだろうと思います。
(子供を受験塾に通わせているお母さんのおたよりをふまえて)
某大学をめざせ系のカルチャーを支えているのは、
たかだか大学でしかないものに過剰な価値を見出し、まるでその価値を手に入れれば人生が挽回するとか、成功という社会的記号が手に入るとか、そういう単純な、もっとはっきりいえば貧しい価値観です。
どこぞの大学に進んだからといっても、それ自体に社会的な価値があるわけじゃない。
社会的な価値というのは、経済学的には付加価値を創り出すこと。
仏教的には、人の苦しみを減らし、社会における快適さを増やすこと。
そのための手段として、さまざまな仕事・役割があるわけで、どこぞの大学に行った・出た程度のことは、こうした価値に直接の関係がない。
社会的な価値に至らない、つまり価値未満の記号でしかない。
にもかかわらず、そうした分別、成熟、すなわち「社会にとっての価値とはどのようなものか?」という視野がまったく欠落している大人たちが、
どこぞの大学に行けば人生が変わるとか、社会的に有利だとかという思い込み(視野狭窄)に捕らわれていて、
その捕らわれている自分自身のダサさ・痛さをまったく自覚していない(いい歳をして)というところが、「絶句」なのです(間違っているというしかない)。
こうした価値観にとらわれた、視野の狭い、無思考な(疑ったうえで本当の価値を考えるということをしない)大人たちが、
特定の大学礼賛とか、偏差値とか、成績とか、ランクづけとか、そういう姑息な下位記号を次々に作り出して、売り物にして、
その記号を物差しにして、勝手に学校や子供たちの価値を判断して(これも一つのハラスメントですよ?)、
その判断を刷り込んで、自分自身の価値を判断させるように、また周りの人や仕事や学歴や社会のありようというものも判断させるように感化してしまう。
煽りであり、刷り込みであり、中身のない物差し(成績・学歴・大学名)で自分の承認欲を満たしたり、人をバカにしたりという「イヤな性格」を育ててしまう。
「イヤな性格」とはっきり言っていいのは、人というのは判断されたくないし、見下されたくもないから。
いちいち値踏みしてほしくない。なのに値踏みしてきやがる(笑)。それは、イヤな性格であり、イヤな人生観であり、イヤな価値観。
そういう価値観が蔓延してしまえば、見下されたくない子供たちは、その価値観という椅子取りゲームに興じざるを得なくなってしまう。
だって、親が必死だから、期待してくるから、塾がそうだから、入った学校が、友人がそうだから、予備校がそうだから、大人たちの視線がそうだから、耳に入ってくる話題がそうだから――。
学習して、いつの間にか、自分自身が同じ価値観に染まっている。承認という椅子取りゲームに血眼になってぐるぐると回っている自分がいる。周りの友だちも、大人たちも、社会も回っている。ぐるぐるぐるぐるぐる・・。
こういう無意味な椅子取りゲームを、疑いもしない、考えるアタマを持たない大人たちが世の中には蔓延していて、
そうした大人たちがしたり顔して、どこぞの大学をめざせとか、こういう勉強法があるぞとか、そういう自分にとってはもう終わったこと(こういう大人たちって何歳?)を得々と語って、カッコがついているように思い込んでいる。
そういう姿がカッコ悪い。
この椅子取りゲームのぐるぐる、いつ終わるのか。
終わらない可能性もある。それくらい、考えない大人が増えているかもしれないから。
◇
不登校については、学校という箱を相対化する(学校だけが学びの場所ではない)という意味はあるかもしれない。学校に執着しない大人も子供も増えている。
学校の価値が相対化されつつあるのは、社会の、つまりは大人たちの認識が少しは変わってきている証拠。少しは子供たちも自由になりつつあるのかもしれない。
同じように、どこぞの大学名が価値を持つという価値観もまた、そうした価値観を相対化できる、「そんなことに価値があるのではない」と思える大人たちが増えてくれば、
某大学をめざせ的なカルチャーは、ダサい、痛い、「いまだにそんなことを言っているの?」と白々と思うほかないオワコンになっていくかもしれない。
オワコンにすべきだと思う。終わらせないと、社会全体の可能性が尻すぼみになる。
自分らしく、つまり心に苦しみなく生きること。
世の中の殺伐・ストレスが増えないように、人の痛みや苦しみを思いやり、社会の問題に関心を持ち、
どうすれば、人・自分・社会の苦しみを減らせるか、快適を増やせるかという大きな価値をめざして、生きて、働く。
そうした生き方、社会のあり方のほうが、確実に、圧倒的に、価値がある。違うといえるかな?
◇
椅子取りゲームのぐるぐるを繰り返しても、せいぜい特定の椅子(大学・学歴)にしがみつくだけ。そんな自分に価値があると思う?
座れない人だって出てくる。座れる人と座れない人と――その区別そのものに、意味があると思うかい?
たかが小さな椅子でしかない。何も生み出さない貧相な椅子。
本当に価値あることは、その周りに、向こうに広がっているのだから。
◇
自分のプライドを守ることだけで精一杯、そんな余裕のない子供と、そのまま大人になった人たちと、そんな価値観しかない社会が、延々と繰り返される――
そうしたあり方に、心の底から「くだらない」と思える人間が、どれだけ出てくるか。
一人一人の生き方と、社会のあり方と--広がるか、ますます狭まるか。
狭まるなら、人の”心の首”はますます締めつけられて、窒息していくことになる。人生も、社会も。「生きづらさ」が増すばかり。
本当にくだらない。そう思えないとね。
2025年11月
この場所とご縁いただいてまだ日が浅い人もいると思うので、あらためてお伝えしておくと、
・この場所は宗教を語る場所ではない。
・「仏教」と便宜的に呼んでいるが、本当は仏教でもない。
・人それぞれのテーマを解決する頭の使い方(若干おおげさに言えば知力)を育てる場所である。
そういう場所です。
付け足すなら、貪欲(過剰を求めること)が嫌い、自己愛も嫌い(自己愛とは承認欲が作り出す自己の正当化・美化)、
つまりは、虚飾も虚栄も我欲も自己演出も自己顕示も、すべてが嫌い(なんとひねくれた場所・・^◇^;)。
嫌いというのは「判断」になっちゃいますが、あえてそういう言い方をしておきます(笑)。俗世用の表現。
出家(仏教)の世界では「関わらず」ということです。
◇
宗教とは、他人に見えないもの(理屈でもイメージでも)を信じることをいいます。つまりは、妄想を信じる(在るとみなす)ということ。
本人には「在る(見える)」のかもしれません。だからありがたいと思うし、信じることに快を感じます。
自分にとっての快・やすらぎ・満足を得るというだけなら、自分の輪郭内のことなので、第三者は関係ありません。「そのままでいい(その人にとっては正しいこと)」のです。
でも、「在ると信じる(見える)」ということは、それ(信仰)以外のものは見えなくなるということです。
周りの信じない(無いように見える)人たちとの間に、その時点で距離が生じます。
その距離は、無関心・無理解・勘違いを作り出します。
◇
さらに利欲(信じること・信じさせることに利益がある)が絡むと、自分が信じるものを他人にも信じさせようという圧力や攻撃につながっていきます。
一見、人を救うためとか、誰かの役に立ちたいとか、それっぽい美徳・大義名分を作り出します。
しかしその動機の根底に、自分の信仰や正しさをわからせたい、もっと利益を上げたい、富、名声、権力を手に入れたいという(お決まりの)欲望が潜んでいると、
自分たちの信仰をもっと広めるため、信じさせるため、自分たちが求める利益を手にするために、さまざまな「戦略」を作り出していきます。
常識的にはありえないような利益(信じたことでこんな奇跡が!的な)や、
自分たちの信仰共同体の美しさや特別感をアピールするとか、
人の妄想(不安・心配・現実逃避願望)につけこんで、脅したり、いっそう不安がらせたりとか、
相手の妄想をぜんぶひっくるめて、自分たちの信仰にすげ替えることをもくろんだりとか(いわゆる洗脳)、
とにかくありとあらゆる無理--つまりは妄想の拡張、もっといえば侵略につながっていきます。
◇
客観的に存在しないもの、つまりは信じない人には見えないものというのは、
存在するとは言えない(言わない方がいい)し、
存在するものと思い込んでしまえば(信じてしまえば)、その分必ず、見てもらえない、つまり認めてくれない、愛されない、放置されたり無視されたりする人が出てきます。
その最たる犠牲者が、子供や家族です。
◇
信仰を持つというのは危うい面もあります。客観的に見れば、妄想に思考を委ねてしまって、考えない状態になるというかもしれない。現実逃避であり、思考停止。
「考えない」ことはラク。ただ言われるがままに、言われたことをやるだけでいい。
「自分は一生懸命にやっている」という自己満足が得られる。現実が見えなくなり、自分が信じているものしか見えないから、ますますこの信仰が絶対に正しい、自分は正しいことをやっていると思えてくる。
しかし客観的に見れば、周囲との距離はいっそう広がり、ちゃんと見てほしい相手(たとえば子供)を深く傷つけ、周りとの関わりを失い、
しかも信仰の実践という名目で、膨大な時間とお金と労力を奪われ続ける。
◇
儀式的なもの(いわゆる宗教行事、読経も含まれるかもしれない)は、ある程度までは、行いに意識を使うという点で、感情が落ち着いたり、心の状態が整うという効果はあるかもしれない。
でも過剰になれば、それはただ無思考を延長させるための手段、まさに「無思考の儀式」と化してしまう。
「瞑想」なんて、とんでもない間違いかもしれない(笑)。目をつむって、現実から目を背けて、都合のいい妄想に浸る状態なのであれば。
こういうのは、瞑想ではありません。というか、瞑想という言葉が本当は間違いなのです(仕方ないのでこの場所でも使ってしまったりしていますが)。
◇
信仰を持った親との関係で苦労している人であれば、
①自分自身の妄想グセを克服することと、
②焼きついた親の映像(姿)をも妄想として消してしまうこと
が、課題になります。
具体的にはどうすればいいか。日頃お伝えしている方法が役に立ちます。
あえて足すなら、「徹底して距離を取る」(物理的に最も遠い彼方に親を置く)ことが必要になるかと思います。
それが難しければ、自分にできる範囲で徹底して「妄想を退治する」こと。
まずは「方法」を実践することが、当面の方針です。
2025年10月末日
(ちょっとネガティブかもしれない話題:)
人に伝えるというのは、
特に、社会的な役割(職業)あるいは対価を得るプロフェッショナルとして伝えるというのは、
当たり前だけど、それだけの価値を自分が持っている必要があります。
知識、技術、ノウハウ(方法)、さらに決定的なものは、体験です。
体験がオリジナルであればあるほど、他人(人様)が聞く価値が出てきます。
たまに大丈夫かな?と思うのは、自分は伝える資格があるという装いをし、実際にプロとして活動していながら、
この場所にその分野について ‶教わりに‶ 来ようとする人がいることです^◇^;?
特に仏教、瞑想その他、心・生き方について、人に伝えるプロとして活動していながら、教わりに来るというのは、どういう状況なのでしょう?
すでに資格・立場を得たと自認しているわけでしょう?
だったら自分の力でやっていかないとね。
厳しい言い方になってしまうけれど、
伝える資格がないと感じているなら、資格があるフリをしてはいけないし、
伝える資格があるという看板を掲げているなら、その姿に責任を持たないと。
でないと、自分が偽者(はりぼて)、嘘をついている可能性が出てきてしまう。
それはね、絶対にしてはいけないことなのですよ。
過剰な見栄や野心など、承認欲が暴走した時に、人はつい自分以上の自分であろうとしてしまう。
「これくらい盛っても、見せかけても、通用するだろう」と妄想してしまう。いうなれば、虚飾。
虚飾は、等身大の自分を見えなくする。社会に欠かせない本当の価値を枯らせてしまう。
世の中、「なんちゃって〇〇」という立場・肩書、名乗った者勝ちという風潮も少なくないようだけれど。
この場所は、真っ当であること、誠実であろう、本物であろうという意志を大事にするところなので、
自分のあり方について悩んでいるような、真っ当な心がある人については、人として相談に乗りたいと思っています。
本当の人生は、飾り・ごまかしを捨てた時に始まるものです。
本当の自分を見極めたいという思いでいる人に向けては、応援したいという思いでいます。
2025・10
明日(10月21日)は名古屋で講座です。
中日新聞・東京新聞連載中の『ブッダを探して』は、
インド帰郷編が終わり、いよいよ現代日本編に入ります。
毎回800字くらいにまとめないといけないので、掘り下げたり広げたりはできません。
書き手には膨大な記憶と感情があるので、そうした部分を振り返りながら、最終的に800字にエイヤと詰め込む作業をしています。
これは無執着じゃないとできないかも。無執着というのは、客観性でもあり、冷徹さでもあり。思いっきり突き放さないと、客観性のある文章は書けません。
とはいえ記憶は膨大――。書いていて、「長い話だなあ」と思います(笑)。
「どこまでこの人、苦労するねん?(まだ苦労続くの?)」と現代日本編を書きながら感じてしまいます。
最終編は「たどりついた未来」になる予定。ようやく皆さんにご一緒いただいている、今そして未来の話に入ります。
2026年2月末に連載終了予定。いや、長かった。よく頑張りました(まだ終わっていませんが笑)。
進行ペース(読者にとって冗長感が出ないように)を考えて掲載しなかった原稿がいくつかあります。その一本を特別に共有します:
◇◇◇◇◇◇◇
ブッダを探して
インド帰郷編〇 微笑み
ウダサ村で一人の女性が亡くなった。まだ四五歳だが、心臓発作で急死した。
この地では、人が亡くなると夜通し音楽を鳴らす。通夜用の歌手がやってきて、ひと晩中歌い続ける。
通夜の翌日、その家を訪れた。床に横たわる女性の亡骸があった。老いた母親が覆いかぶさるようにして泣いている。その周りを縁者の婦人たちが囲み、その外側に村の女性たちが座る。部屋は、弔いに来た村人で一杯だった。
娘に先立たれた母親は、むせび泣きながら歌っていた。
「あなたが微笑んでいるだけで、わたしは幸せだった」。
娘が生きていた頃の姿を思い浮かべているのか。ともにいた時間が、母としてどんなに幸せだったかを、娘に伝えようとしているのか。
歌いながら、母親はみずからの頬を流れる涙を何度もぬぐい、硬くなった娘の手を握り締め、その頬や額を掌で撫でていた。
母親の腕はか細く、飴色の肌は無数の皺を刻んでいた。村の女性の多くは、十代で嫁いで、子を産み育てている。早朝に起きて水を汲みに出かけ、家族の朝食を準備し、清掃し、農作業や村の共同行事に身を捧げる。
子供には優しい母親であり続け、婦人同士は快活に笑いあう。働きづめの生涯だ。これ以上に偉大な生き方があるだろうか。
私は、女性の亡骸のそばに座り、その体の上に置かれた二つの手をそっと握った。目を閉じて、穏やかな顔をしている。額に掌を当てると、優しい冷たさがあった。
むせび泣く母親のほうにも手を伸ばし、その額に掌を当てた。小さな額は驚くほどに温かかった。どうか、その心に浮かぶ娘さんの姿がいつも笑顔でありますようにと願った。
掌を当てられた母親は、不思議なことを体験したかのように神妙そうな、驚いたようなまなざしで私を見つめて、泣くのを止めた。
静かになった部屋から私は離れた。
村の子供たちがほどけた笑みを浮かべて駆け寄ってきた。亡くなった人と、これからの子供たち。失う悲しみと未来に臨む喜び。
死すること、生まれることを、そばに見る。世界はこうして続いていく。せつなく美しい村人の中にいる。
2025・10・20
<おしらせ>
11月1日(土)18:00~21:30
座禅会
11月2日(日)18:00~21:30
特別講座 仏教で思い出そう「あの日の幸福」を
*詳しくは公式カレンダーをご覧ください。
*東京での講座は年内最後となる可能性があります。
◇◇◇◇◇◇
東京も急に寒くなりました。
サラ(猫)の家も冬仕様に(ボックス内に毛布を敷く。今年は素直に入ってくれました)。私も冬物を取り出しました。
そろそろ新しいものを買っていいかなと少し探しましたが、安いものは、ぜんぶ売り切れ。後はお金持ち、あるいは服にお金をかけていい人向けの、出家目線からすると見上げてしまうような値段の代物。
とはいえ実際の額を言えば、全然高くなくて笑われてしまうかも。
この貧乏性というかしみったれ根性は、育ちのせい。
考えてみたら、十代も貧乏。二十代も貧乏。三十代も貧乏(というか出家してからは無収入)。
四十代で日本に帰ってきて、貯金通帳見たら2万円しか残っておらず、転がり込んだ部屋に、段ボール箱で机作って、魚屋でもらった発泡スチロール箱に百均で買った氷入れて簡易冷蔵庫にして(冬は窓の外に吊るせば足りた。自然冷蔵庫w)。
当時の私に同情してくれたのか、ある人がチャージ入りのSuica(交通IC)をくださった。改札通るのもドキドキ(いよいよ妄想ワールドに突入した気がした)。
冬に毛糸の帽子をくれた人もいた。おおお!(あたたかくて感動)
冷蔵庫をくれた人もいた。これで夏もひと安心。
電子レンジをくれた人もいた。冷たかったものがチンすれば湯気を立てる。マジック(魔法)!
2度目か3度目かの冬に、灯油ストーブを買った。寒い冬の朝に「ボッ」と火がつくあの感動。
安いトースターを買った(安売りで2000円だったトースターを奮発)。みるみるこんがり焼けていく姿に感動(なぜか縄文時代の暮らしを連想した。それだけ感動したということらしい)。
一番ドキドキしたのは、百均でゼムクリップを買った時。どうせ全部使わない。なのに買う? 百円がものすごく贅沢に感じる・・「許される? 許されない? 許されるよね?」と自問自答してようやく購入。
いくつかのこんな鮮明な感動が記憶に残っています。いや、よく生き延びた――。
※ちなみに、なぜそこまで??と思われるかもしれない半生については、ただいま連載中の『ブッダを探して』で少し触れていく予定です(来年2月連載終了)。
貧乏性のDNAは入れ替わるわけではないので、この先も貧乏性で生きていくことになると思います。
なので、冬服も同じものを。まだまだ使えそう。どうせ春になるし。
「どうせ春になるし」は、冬を凌ぐための出家のキラーワード。2年前に札幌に行った時に、東京と違ってずいぶん寒く、古着屋に行ったら冬物ジャケットが1500円。
500円なら、あるいは1000円までだったら買っていたかもしれない・・でも1500円というビミョーな値段。こういう「ガラスの天井」が多い。ものすごく多い。
どうしようかな・・と思案した時に浮かんだのが、「どうせ春になるしな」という言葉。
で買わずにしのいで、結局、本当に春になったのでした! すごい!
ここから秋、冬と旅が続きます。寒さを噛み締めることにも妙な至福を感じてしまう(>w<*)のが、出家の性分です。
どんな寒さに出会えるか、と想像すると胸がときめきます。
年々短くなるであろう日本の秋と冬を愛おしみましょう、みなさん(誰に呼びかけてんねん)。
2025年10月中旬
他人の評価(学校の先生の評価を含む)は、当てになりません。理不尽の最たるもの。建前としては「公平に」「客観的に」と言ってはいるものの、内心はどうしても分け隔て・選り好みはあるものです。
(親がわが子の兄弟姉妹を扱う時も同じはず。公平なんてありえない(笑)。)
だから得する人(世渡り上手な人)も、割を食う人(世の中の理不尽・不条理を体験しやすい)も、出てきます。
一番大事なことは、そうした現実は避けられないものと受け止めた上で、「トータルで得する」自分を作ることなのかなと思います。
先生の評価に疑問があっても、他の先生・科目・勉強・進路については、プラスを増やせるように努力する。どれかがイマイチでも、他がプラスなら、トータルで見れば得する可能性は出てきます。
最終的には「前に進めればいい」ので。中学生なら(納得のいく)高校に上がれればいいし、高校生なら(納得のいく)卒業後の進路にたどり着ければいい。
ひとつのマイナスについては、「世の中こういうものだ」と割り切って、それ以上は追いかけずに、プラスのほうを見て、プラスを増やすことを楽しむのです。
「しんどい部分」は、自分だけではなくて、他の人もみんな味わって(噛み締めて)いる部分だったりします。その意味では、独りではありません。
その部分はしばらく続くとしても、自分の全体を見れば、他の部分はプラスだったり、楽しかったり、有意義だったりするので、
トータルで見た時に「プラスなんだ」と思えることが大事なのかもしれません。
2025年10月中旬
とある場所で出てきた話題:
子供(自分)の側が親にいつの間にか執着してしまっていた、ということはよくあります。
自分自身がもっと昔に取り込んでしまった親のイメージに、自分自身が執着していて、その陰に怯えて、勝手に反応してしまっていたという場合です。
この場合は、自分の側の執着に気づいて、いざ意を決して親に話をすると、親の側はそれほど執着していなくて、あっけなく距離を取れたりすることがあります。
もっとも、親も自分も、心という狡猾なものを持っているので、現時点で見えるものが正しい理解とは最後までわかりません。気は抜けない(油断してはいけない)ということです。
◇
今回出てきた知人の女性については、いっそう要注意です。
母親というのは外面はすさまじくよいのです。名女優以上の演技ができてしまいます。
だから家の中で娘にどう接しているかは、外の人にはわかりません。とんでもない毒親・鬼親である可能性もあります。
思いやりや気遣いというのが、自分に有利になるようにという打算計算から来ていることもあります。「いい人(親切)」を演じることで、自己愛(承認欲)を満たしていることもよくあります。
こういう場合はたいてい、母親中心――母親にとっては自分自身が一番可愛くて、自分が輝いていなければいけないという前提に立っているので、
母親ファーストで、娘はつねに脇役という位置に置かれたりします。
そうすると、子供は自尊心を奪われ、自己肯定感が低く、外で人間関係を作ることが苦手というか苦痛にさえなってしまうこともあります。
こういう母親ファーストな母親というのは、いろんな類型があります。
完全に娘を支配している場合(はっきりと指示・命令・干渉している場合)、
娘を自己愛の餌にして、母親の凄さをことあるごとにアピールして、「母は偉いけど私はダメ」という自己否定を刷り込んで(いわば洗脳して)しまっている場合など、
いろんな場合があるものですが、共通するのは、
母親が病的に自己中(しかも自覚無し)であることです。
自分の思惑しか見えないので、心の境界線を簡単に越境・侵蝕して、娘の心を傷つけ続けるのです。
こうした母親は無反省のまま、娘の自尊心や生きようという意欲を奪い続けます。
その最果ての姿が”モンスター祖母”、通称”モンババ”です(通称と言っても勝手にここで名付けただけですが笑)。
モンババは、いろんな場所に棲息しています。一見優しげに見えるし、外では常識的な人、それどころか活躍している人に見せるすべてに長けているので、外の人には正体がわかりません。
それでも、娘の側から母親を突き放すことは、凄まじく勇気がいる、難しいことでもあるので(※)、
娘が関係性のおかしさに気づき始めるまで、かなりの時間を要します。
※「あなたのためよ」と優しい母を演じたり、自立の芽を摘んでおいて娘が持っていないものを突如突いて(攻撃して)反論を塞いだり、同情を引くようなことを言ってみたり、お金などのメリットで懐柔したり、あからさまに抑圧して異論を封じ込んだり・・ほんとにさまざまです。
人間の心というのは、本当に狡猾で計算高くて自己愛に満ちたおぞましいものだったりします。
家の中のホラーに早く気づいてもらえたら、と思います。