高蔵寺の黄昏空

8月28日(日)愛知・高蔵寺

高蔵寺は今回初めて訪れた。名古屋から快速で30分弱、さらにバス。「これはみなさん、よく来てくれるなあ」とすぐ思った。

教室は満席でオンライン参加も。今回初めてという人が大多数。ご近所の人たちが14名。遠方の人のほうが多かった。初参加者が多いので、栄とは雰囲気が違った。反応しない生き方についてガイダンス的な話から始めたつもりだが、はて伝わったか(やはり継続して学んでいる人であれば、ある程度耳と心が慣れているので、難しい話でもついてきてくれる)。

こんなに遠くから来てくださったのだから、もっとお話しできたらと思うのだが、2時間で終了。


終了後は個人相談会。予約9名プラス1名。一人15分ほどの予定だが、みなさんどうしても思いがあふれて、私もなるべくすべての言葉を受け止めようとするので、20分、30分と経ってしまう。

休憩入れずにやっても9名が終わったのは19時すぎ。残るお一方とは外でお話しした。黄昏空がとてもきれい。こうした景色を目の当たりにできるだけで足を運んだ価値があったというもの。電車の中でも話しながら名古屋まで。


今日の相談者の多くは初対面だったが、やはり家のことで悩んでいる人が多かった。壊れた親たちを捨てきれずに気づけば自分の人生が始まらずに半世紀生きた人、あるいは自分自身が非道な親で子供の人生を潰してしまった、しかしいまだにどう接すればいいかわからないという親。

壊れた家を子供としてかいがいしく支えて生きてきた人には、その苦労をねぎらいつつも、きっぱり捨てていい、人生は自分のために生きるものですと励まし、

子供の人生を潰した親には、「自分たちの罪を思い知ること」と容赦なく事実を伝えて、何が根本的に間違っていたか、過去どれほど子供を傷つけてきたかがわかるように学び始めてくださいと促す。

親が子供の人生を潰してしまった場合(たいていは親の世間体や見栄が理由だ。しかも父親の方が病的だ。男親というのはどうしても慢が先に立って、子供の心の傷をわかろうという発想、というか感性そのものが欠落していることが多いらしい)、子供は実家の奥深くにひっそり引きこもって生きざるを得なくなっている。


「どうしたらよいでしょう」と言っても、そんな親の心配してるフリが届くような段階にはもはやない。潰したのは自分たち、身動き取れなくなったのは、大きくなったわが子供。80代と50代。死なばもろとも、しかないではないか。親としては罪人として死ぬまで罪を背負うしかなかろう。

親が子供に対して鬼になって自立を迫る。それは早ければ早いほうがいい。遅ければ手遅れになる。タイミングを失ってズルズル歳月を無意味に過ごせば、「80・50問題」は、すぐそこである。「人生あっという間」「時間が経つのは早い」というのは、親と子供にとっても真実である。あっという間だぞ。

50をすぎて今さら社会復帰といっても、計り知れずやはり難しい。もちろん開き直って判断を捨てれば、別に仕事がある・なしで人の価値が決まるものではなく、堂々と生きればよい(ブディズムはそうした「心の出家」を生きる世界だ)。だが、その堂々というのも簡単ではないのである。カネは尽き、家の時間はますます止まっていくからだ。

それでも家の中のだれか一人が「目覚める」ことが最初に来る。それは普遍である。こうして足を運んできた母親には、まだ可能性がなくはない。これから学んでくださいと厳しめに伝える。「あなたたちは罪人です」。子供の心情を思いやると、そんな言葉が感情を伴って自然に出てくる(私は親を前にして、子供の側で話を聞き、そこにいない子供の心情や日々見ている日常に思いをはせる。すると子供の側の絶望ややり場のない怒り、憎しみといった感情が見えてくる気がすることがある)。

自分は罪人なのだという事実は一生背負っていくことになる。だがみずからの罪を心底自覚して詫びることを始めなければ、 何も始まらない。罪の自覚は、可能性の萌芽でもある。

詫びるとは、自分が罪びとであること、子供がどれほど傷つき可能性を潰されてきたかを理解して、その理解を言葉を尽くして伝えることだ。と同時に、もちろん無駄を語らずひたすら謙虚に耳を傾けることも必須である。



実り多き日だった。今日の価値ある時間は、相手一人と私だけが知るもので、社会的にはまったく見えないものだ。だがたしかにあったのだ。せめてこうして誠意をもって向き合う時間を体験した人は、希望を見出せるかもしれないし、世の中、人生、捨てたものではないとも思えるかもしれない。とにかく誠心誠意向き合うこと。その人が苦しみ、謙虚と意欲を保っている限り。それがこの命の作法であり流儀である。最高の納得の源泉である。


急いで宿を探して予約して、名古屋市内に一泊。昨日から徹夜で寝ることなく愛知に来て、しかし今日は一切眠気・疲れとは無縁に一日を過ごせた。今日の日や善し(納得)。




 

高蔵寺の黄昏空
こんな景色を見られるだけで生きている価値はある