8月30日(火)は、名古屋に戻って栄中日文化センターのレギュラー講座。
ブッダの生涯も終盤に入った。80歳になったブッダが、軍事侵攻の是非について大臣に語ったり、自分がいなくなった後の生き方について再三伝えている描写が興味深い。人は旅立ちを予感した時に、自分が去りし後の未来や、その後も残る人々を想うのかもしれない。
葛藤していた頃は自分のことで無我夢中。だが抜けてしまえば、残るのは、この世界と人々の未来のことくらいになるのかもしれない。私個人の思いを投影して見ているだけかもしれないが、あながち離れてもいないように思う。
『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』新版(筑摩書房)を読み返して、あの老いた母と娘の関係性は、自分もそっくり同じだと今になってようやく気づいたという感想があった。あの壮絶なエピソードは、互いの執着が作り出す終わりなき修羅場を描いたものだ。
あの本のテーマである”業”――と、それに縛られる原因である”執着”。
二つを突き止めねば、苦しみの輪廻を越えられない。
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本当は「ある」もの(自分にも当てはまること)を「ない」と片づけてしまう(いわゆる否認)というのは、その程度によって、次の3つのパターンを取る。
①最初から完全に自分は無関係と決め込む。「私は関係ないし」で片づける。だから『大丈夫』も読まない。
②少し読むだけで、心が嫌悪・敬遠の反応を示す。知りたくないことを書いてあることを予感するのか、途中で放り出してしまう。中には、本は買っても読まずに本棚にしまっておく(しかも背表紙を奥にして笑)人もいる。
③いちおう読むが、アタマに入ってこない。「私は違う」「いや、親にも理由があった」「今さら言っても遅いし」「もう私も大人だし」といろいろと言葉を繰り出して、本当はあるものを「ない」と言い張ろうとする。
中にはわざわざ「私はもう親を許しているし」と言い出す人もいる。だが正しくは、許す・許さないの話ではなく、心にまだ苦しみが残っているか、引っかかっているものがあるかという事実だけである。
苦しみがあるという事実に、本当は嘘はつけない。いくら嘘を語っても、事実として「ある」苦しみはごまかせない。ごまかしきることは本当は不可能だ。苦しみがある事実を生きるか、苦しみが消えたという真実にたどり着くか。人生の行方は二択である。
本当は苦しみがまだ残っているのに、「ない」と言い張る。その無自覚レベルの否認が働いているから、言葉が入ってこない。まるで他人事のように読んで、「お気の毒」「世の中にはこんな家族もあるのですね」「私は違います、幸せです、よかったです」と片づける。読んでも「自分」は素通りして終わらせる。
否認ではなく中身を読んで理解した人のステップは二つある--
④しっかり読んで、自分の思いを言葉にする。そのことで自分の心を理解できる。自分がなぜこのような人生を歩んできたのか、なぜ今の自分にたどり着いたのか、なぜ自分が苦しんできたのかという真の理由がわかる。
⑤理由が分かったうえで、苦しみを越えてゆく道筋・新たな生き方をも、はっきり理解する。行動に移す。
⑤の行動にまで移した人が、道に立った人、そして勝利(苦しみからの解放・克服)の可能性を得た人である。
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①から⑤を見渡すと、はっきり生き方が分かれていることがわかる。①②③は、過去の人生を続けていくだけだ。生き方は人それぞれでよいのだが、苦しみ・過ちもそのまま続くことになる。
いくら「ない」と言い張っても、生きづらさはあるし、外の世界になじめない苦しみもあるし、親になった自分の過ちも続く。自分がいくら問題ないと言い張っても、そんな自分が子供や周囲を苦しめている事実は続く(自分が知らないだけで)。
なぜ自分が苦しむのか、なぜ家族を苦しませてしまうのか、その原因は何なのかを、いさぎよく理解するほかない。
理解しないまま始まるはずがない。繰り返すだけ。止まっているだけ。どこまでも自分、自分、自分だ。
それが業のなせるワザ。そんな自分を、問題ない、私は当てはまらないと思い込むことこそが、執着したがる(同じ自分に留まりたがる)心が繰り出す罠なのだ。
他方、「苦しみの原因」を理解した人が、前に進むきっかけを得た人だ。そして原因を克服するための道を実践するに至った人が、道に立った人である。
道に立った人こそが、人生が変わる可能性を手に入れる人だ。いわば彼岸--苦しみから抜けた境地――への岸辺、つまり可能性に立った人である。岸辺に立ち、新たな道へと踏み出した人たちは、確実に増えている。
この本との出会いがきっかけだったと語る人が、教室を訪れる。
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この場所は、妄想を語らず、欲望・虚栄・欺瞞(自分に対する嘘)と高慢を斥ける。
世にあって世に染まらずを地で行っている。
宗教と呼ばれる世界は、えてして我欲と妄想ゆえの虚栄と形骸に取り込まれてしまう。中身のない形を維持・拡大しようとするから、過剰な負担を人々に強いて、ときに家庭・人生を滅茶苦茶にしてしまう。
この場所は、正しい理解と慈悲に立って、一人の出家の身命(しんみょう)が届く範囲でのみ真実を語る。
この命が消えても、ダンマつまり方法・生き方が残るように、声と言葉を遺すように努力している。
だから一切無理が生じず、負担を強いず、みずから実践する者が、おのれの実践と体験によって、それぞれに心境の変化を経験していく。そういう関わりが自然に成り立っている。
おそらくこれが、最も純粋なダンマ(生き方)の実践であり体現なのだろう。この形でよい。
2022・8・30