自己愛というガラクタを捨てなくちゃ

どんな人にも、苦しみを越える方法はあるものです。

ただし・・・一つだけ最初に降りてもらう必要があるものがあります。

それが自己愛――。

自分が可愛い、自分は特別、自分はこんなものではない、もっと違う自分を、という自意識。自分への愛着。正確には自分に都合のいい妄想です。


自分を愛する(肯定する)ことと、自分に愛着を持つことは、まったく異なります。

自分への愛着は、えてして自分が特別、自分がすごい、自分がキレイと思ってもらいたいという執着に結びつきます。


本人にとっては、それは意味を持つように見えます。自分一人の人生なら、誰も止められないし、本人がイイと思うなら、問題ありません。しかし決定的な危うさに転じることもあります。


それが、子供がいる場合です。


自分は特別、自分は輝いている、趣味に、仕事に、社交に頑張っているワタシ!という自己愛を間近で見せつけられる子供は、

それだけで、自分が二の次、いわば自己愛に満ちた親にとってのお飾りでしかないことに、やがて気づきます。

親が第一で、自分は第二、第三・・・という位置づけを見せつけられて、最初は不安と戸惑いを感じ、いずれ寂しさや疎外感を覚え、自分を信じることができず、やがて愛されないがゆえの憤りや怒りへと変わっていく――。


親が自分を第一に愛する姿は、子供にとっては、深い傷になります。

それでも親はなお、自分、自分、自分を生きようとします。あろうことか「子供ため」という大義名分をふりかざすことさえあります。

そうして自己愛に満ちた親が頑張れば頑張るほど、子供はますます置き去りにされてきます。

たとえば宗教にハマる親。そればかりではありません。お稽古、お仕事、お勉強、趣味や社交に張り切って「イキイキと輝く」親。子供の受験に過剰に入れ込む親も、根っこは共通しています。


自己愛と子供への愛情は、両立しません。


親になるということは、子供の可能性のために譲歩するということでもあります。

自分に都合のいい妄想を降ろすこと。

自分のことはさておいて、子供の成長と自立を願うこと。


それでも自己愛は強烈だから、なかなか捨てられません。

自己愛が強いと、自分をきれいに見せる小道具をやたらかき集めようとします。知識、物、肩書き、交友の広さやSNS上の記号――。

そうした小道具を抱え込めば抱え込むほど、自分の姿が見えなくなります。子供のためといいつつ子供を阻害し、深く傷つけていることにも、気づかなくなるのです。


そんなに自分が可愛いですか――?


最初にそんな問いが浮かびます。


もし親自身が苦しんでいるなら、あるいは子供が苦しんでいる・子供の様子がおかしい、だからなんとかしたいと思えるくらいに「殊勝な」親であるならば、

まず最初に、自分が特別でいたい、キレイに見せたいという自己愛(取るに足りない自意識)を捨ててもらう必要があります。


もう一度尋ねます――自分って、そんなに可愛いものですか?

捨ててみれば、ラクになれるのに。

子供も救われるのに。


すべての苦しみの根源には「業」(親の影響)が隠れています
掘り起こすことが第一歩