手ひどく「裏切られた」思うことは、ありますよね。
考えれば考えるほど、くやしいもの。
裏切られたと感じた時に、次に出てくる問いは、はて、この思いをどう解消するか。
解消しないと、自分が苦しむから――自分が怒りに焼かれて、その怒りが周囲に伝わって、結局は自分が独りになってしまうから。
裏切られた時はつらいし、自分にとっては、それが百パーセントの真実・・・かもしれない。
ただ、自分にとって真実だからこそ、その真実から「次の一歩」をどこに向かって踏み出すかが、一番大事な問いになるのでは・・・と思います。
仏教を活かすなら、「裏切られた」という思いを作っている、さらなる思いの数々を整理していくことになります。
相手への期待があった。その期待がかなわなかった。
期待がかなわない理由があったのです。その理由は、本当にさまざま。
ほんの少しのすれ違いだったこともあるし、相手の考え方、価値観、方向性が違っていた可能性もあります。
受け容れたくないかもしれないけれど、自分の側にも見えていない部分も、あったかもしれません。
こちら側に見えていない部分というのは、他の人や世の中そのものには見えるものだったりします――みな思いは違うし、見えるものも違う。
違うことは、当たり前であり、「お互いさま」なのです。
人の心も、世の中のありようも、こちらが期待する通りにはならないもの。
自分と、人の心、この世界というのは、まったく違うものだから。
もともと交わっていないのです。まったく接点のない別宇宙みたいなもので。
ときに交わっていたような、通じ合っていたかのような、期待や夢が通じるような相手であり、社会であり、そういう状況だと思うこともあったかもしれないし、これからもあるだろうし、本当にそうである可能性もなくはないけれど、
それもまた、自分と相手と、この世界と、一人一人には見えないし、手が届かないさまざまな事情や原因があって、一時的に成り立っているものなのだろう、と仏教では理解します。
かろうじて、信頼が成り立つこともあるかもしれないし、期待が届く可能性もあるかもしれない。でもそれも、一時的なものなのです。決して続かないもの。
なぜなら、自分の思いや自分に見えているものは、自分の中にしか存在しないから。
そもそも、自分以外のすべての人は、他人なのですよ。自分ではない。
自分の心とも体とも違う。心に見るものも、過去も、この先転がる方向性も違う。
まったく違うのです。それが真実。
だから「裏切られた」というのは、本当は当たり前だったりします。そのこと自体が問題ではないということ。
裏切られたというより、相手が裏切ったというより――「期待が通じない」状況に変わっただけ。
「そうか、たまたま関わることができていたというだけで、状況は変わったんだな」ということ。
あるいは、自分が思い描いていた展開が、まるごと一方的な期待、つまりは妄想であって、そのことが今になって見えてきたということ。
状況が変わったか、相手が変わったか、最初から自分の妄想だったのか。
いずれもありえます。いずれでもよいのです。現実は、いくつもの要素の関わり合いによって成り立つものでしかないから。
状況が変わることは、避けられません。世界は、自分の外にあるものだから、当然に変わります。
変わることに罪はありません。
相手が変わった・・・としても責めることはできません。その人は、こちら側のために生きているわけではないのだから。
自分の側から見れば、裏切った、変わったように見えるかもしれないけれども、それは相手の選択。
人には選択の自由がある。人は自分の人生を生きる自由がある。
その人の選択を止めることは、他人にはできない。自分にはできません。何もできないのです。
唯一、できるかもしれないことは、自分の思いを伝えること――理解を求めることです。
ただ、理解が届くかどうかも、これは相手次第です。
もし相手に届かないことがわかったら?――それが、最終的な理解(答え)ということになります。
相手に理解を求めたが、伝わらない。
その時に最終的に見えるのは、その相手は自分とは違う存在なのだということ。
違う存在だとわかった――その時点で、答えは出ます。「そうだったんだな」ということ。
わかったら、それで落着です。「そうだったか」で終わりです。
◇
あとは、自分の命の使い方だけが残ります。
「裏切られた」と思ったかもしれないけれど、本当のところ何を失ったのかは、冷静に考えてもいいかもしれません。
期待をかけて、期待した時間が続いたということは、その間は、期待できたということ。
その間は自分なりに得るものがあった可能性が高いのです。
なぜ関わったか、なぜ期待できたのか。「自分のため」になると考えていたから。それが自立した大人の受け止め方です。
自分のために、相手と関わって、自分のために、時間を過ごした。
その期間は、自分のために、自分が納得したからそうしていた。
だとしたら、何も失ったことにはなりません。「自分のため」だと納得していたから、時間、労力、思い、言葉、おカネ、その他のものを捧げた・提供したというだけです。
自分にとって価値あることを、相手のためにもなると思ってやった。
その時点では、相手のためでもあるけれど、自分のためでもあった。自分も価値を得ていた。
互いに得ていたのだから、本当は、何も失っていないのです。
だとしたら、いいんじゃないのかな。状況が変わったとしても。また自分一人で生きることになっても。
人は人(その人)のために生きている。
自分は自分のために生きている。
自分が誰か(他人)のために何かをしたのは、自分が選んだから。
自分のために、自分が納得したからそうしたんだ――というのが、基本です。
だから、「裏切られた」という言葉は、正しくありません。
関わったのは自分の選択であり、関われなくなった、関わりたくなくなった、関わる目的を失ったという事実が生まれた。ならば、自分はどうするか? 新たに進んでいくのみです。
自分がいかに生きるか、だけが問い。
相手は関係ないのです。
「裏切られた」と感じた後に、気をつけるべきこと:
➀「理解を求める」は善し。ただし、当事者である相手に向けてのみ。必要のない人を巻き込まない。
②「理解を求める」とは、自分にとっての事実。気持ち(感情)。相手への希望。それだけ。
③それを越える悪口や人格批判はしない。
人には、みな心があるから・・・誰も傷つけられたくはない。罵られたり、蔑まれたりされたくない。
人を一方的に傷つける言葉を言い放つことは、もはや一方的な虐め・辱め・公開リンチと同じ。その時点で自分が「悪人」ということになる。
④人がどんな人間かを決めるのは、行動である。
実際に何をしているか。何に時間を使っているか。価値あることに時間を使っているなら、その人は価値ある人になる。
裏切られたと言い募る言葉も含めて、他人への悪口は、世の中の悪意を単純に増やす。
その点で価値がない。自分が価値のない人間になる。
関わらない人のことは、放っておけばいい。自分の人生を生きればいい。
それで、みんなが価値ある人間になれる。
あらためて・・・人それぞれの思い・生き方を尊重すること。
それが社会の中で生きる人のルール。
そのルールを破れば、社会を壊すことにみずから加担することになる。
傷つく人が増える一方の世界は、何ももたらさない。まさに分断と破壊と、、、絶望に至る。
人はだれしも、いいところを持っている。もし自分の良心を、体験を、知識を、時間を、もう一度自分のため、人のため、社会のために、プラスの価値を生み出すために使うなら、まだまだできることはある。
あなたは、何も失っていないよ。
2023・11・27