鳥取境港・水木しげる記念館2


水木しげる記念館は、想像を超えた迫力とスケールだった。本人の人生が深く広すぎて、この場所はどちらかといえば大人向けであって、子供にとってはむしろ難物(理解が難しい)場所かもしれないと感じた。

水木しげる(先生)は、大正11年(1922年)生まれ。よく寝てよく食べて、伸び伸びと育った。近所の「のんのんばあ」に、迷信・伝承・死後の世界や妖怪の話など、いろんな話を聞いたとか。のんのんばあと遠出もして、いろんな場所に出かけたそうだ。

この頃の体験が決定的な影響を与えたらしい。子供特有の好奇心と観察力に加えて、伝承の物語をたっぷり聞かされて育った独特の自然観。尋常小学校時代に父に油彩絵具をもらったことがきっかけで、絵に描く技術を育てていった。

水木しげるの感性は、柳田國男や南方熊楠に似ているところがある(※)。共通するのは、自分を取り巻く外の世界への尋常でない好奇心だ。柳田は若干社会への興味が強かったために官僚を経て民俗学へ、南方は自然への興味にまかせての博覧強記(しいていうなら生物学)、水木の場合は絵による表現につながっていった。水木持ち前の観察力は、戦後の子供向け漫画よりむしろ戦争漫画や緻密な風景描写に生かされている。

※柳田と南方は生前交流があったらしい。

明治・大正の頃は、彼らのような知的野生児が大勢いた印象がある。まだ学校も親も大らかだった時代だ。今のように塾に通う必要もない。誰もが進学せねばという社会的圧力もなかった。端的に自由だったのだ。その自由さが、彼らの感性と知力を育んだ。

今の時代のように、優等生であるとか学歴を手に入れるとか近所に褒められるとか有利な職業に就くとか、そういう欲目本位の打算計算が世に蔓延する前の話だ。彼らのような知力と生命力と表現力の傑物は、今の時代には育ちにくいだろうと思う。



水木は絵の才能は早くから認められていたそうだが、勉強とコミュニケーションは、能力の欠落といってもいいすぎではないほどに、苦手だったようだ。

園芸高校も1人だけ不合格。大阪の印刷会社に入ったが、ヘマばかりですぐクビに。会社勤めも新聞配達もダメ。野生育ちの青年の脳は、他の人とは違う育ち方をしていたのだろう(今なら発達障害とレッテルを貼られたかもしれない※)。


※少し脱線するが、発達障害というレッテルを貼ったときに問題となるのは、ではどう生きていくのかという方針がどれほど見えるかという点だ。
 
水木の場合は、外の世界に適応しきれず、異物としての自分をつねに感じていながら、自分に唯一できることとして絵を選んで(しがみついて)、道を拓いた。「できないことは多々あれど、唯一できることをもってわが人生となす」という潔さがある。

もし水木やその家族が「勉強して進学して就職することが望ましく、それができなければ世間に顔向けできない」というような偏った価値観にこだわっていたら、水木は社会不適格者として引きこもるしかなかったろう。そして社会との接点を一度も見出せずに消えていったはずだ。

人というのは、何か一つできることを見つけて、どこか一か所に居場所を見つけて生きていれば十分だ。そうした生き方さえ低俗な見栄で潰しているのが、今の社会の風潮であり、一部の親の認識であるとしたら、凄まじくもったいなく、残酷で、発想が貧しいことをしていることになる。


水木が19歳の時に太平洋戦争が勃発(つくづく愚かしいことをこの国は始めてしまったものだ。戦争をしない世界線だってあっただろうに)。20歳になった水木青年も徴兵されて、南洋ラバウルへ。

爆撃を受けて左腕を切断。マラリアにかかって高熱で寝たきりに。熱帯ジャングルの中を移動する途中に、いつ死んでもおかしくない極限の状況を経験。もともと胃袋が丈夫だったことが功を奏した。よく寝てよく食べて育った幼少期が、水木の生命力を育ててくれた。

こういう部分が因縁というものだ。本人が選び取るだけでなく、時代が、環境が、人々が与えてくれるもの。のんのんばあとの出会いも、その一つ。水木の命は、見えない因縁が支えてくれていたように見えなくもない。

水木は漫画家とは別に、戦争作家としての側面も持っている。記念館の内部は、戦争に関する絵と言葉の展示が半分を占めていた。水木が遭遇した軍の上司たちがどれほど卑小な人間だったかを、水木は絵で伝えてくれている。

日本人の心性というのは、自分の中に軸がないのだ。言われたことに従う、周りがやっていることに合わせる。そうやって目立たないこと、上の立場におもねることをもって、身の安全(保身)を図る。

だからこそ、褒められれば満足してしまえるし、嫉妬して足を引っ張ろうとするし、人のミスを執拗に責め続けるし、立場を手に入れれば、我を張って、威張り散らして、立場が弱い人を追い詰めようとする。

他方、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す、人のせいにする、忘れたふりをする。反省しない。だから成長もない。形勢が不利だと見れば、反省しているフリはする。だが見せかけだけだ。実は「空っぽ」なのだ。

あの戦争末期の人間魚雷も、特攻隊も、片道だけの燃料を積ませての出航も、そうした中身のない人間が思いついた所業だ。空洞の人格。その心に動いているのは、小さな我欲と保身のための姑息な計算。そういうふうにできているのが、日本人の心性か。

だからこそ、世間やお上に弱い。唯々諾々、付和雷同、阿諛追従を、なんの臆面もなくしてしまえる。あの戦争を、国が滅びる寸前まで続け、負けを知って本気で涙して、終戦後は駐留米軍のために女性をあてがう慰安施設を急ごしらえして“外から来たお上”に取り入るという、下品にして計算高い人間なのだ。

今の時代の同調と忖度も、同じ文化的遺伝子から来ている。日本人は考えない(すべての日本人がとは言わないが)。考える軸がない。自分さえ安全ならそれでいいという姑息さを隠し持って、表面的にはいい子・いい人を演じている。

社会が良い方向に向かおうと悪い方向に走ろうと、社会のあり方を問うことはない(空っぽだから)。代わりにどんな社会にも適応してしまう。それが日本人というものかもしれない。


ああ みんな こんな気持ちで 死んでいったんだなあ
誰に みられることもなく 誰に語ることもできず
……ただ忘れ去られるだけ……

(展示中の漫画内のセリフ)


水木が作品の中で語っていた「わけのわからない怒り」は、そうした中身のない姑息な日本人の心性に対するものではなかったか。見ているようで何も見ず、考えているようで何も考えていない。そのくせ立場や権威をかさに着て、理不尽以上の理不尽を平気で強いて、都合が悪くなると真っ先に逃げ出す。力弱き者は、そうした生き物に取り囲まれて抜け出せない。

なぜこんな目に遭っているのかまったくわからないままに、最悪の死に方を強いられ、蛆虫に食べられて、見知らぬ熱帯林の土と化した日本人が累々といた。
 
こうした不条理、いや狂気とさえいえる現実への憤り、つまりは中身のない日本人という生き物への怒りを、水木は描き出そうとした。

戦後の水木は、心に溜まった不条理の汚物を吐き出すかのように、執拗に戦争物の漫画を描いている。どの作品も絶望的に暗く、狂気かと思わせるほどの執着をもって緻密に描いている。もともと人並みはずれた観察力の持ち主だ。その眼に焼きついた戦争という名の極限は、生涯焼きついて離れなかっただろう。

救ってくれたのは、これまたのんのんばあが教えてくれた“見えない世界”だったのかもしれない。妖怪、心霊、死後の世界。その心に見ている世界が豊穣だったからこそ、狂った現実の世界でも正気を保てたのではあるまいか。


記念館の中には、小さな子供も大勢来ていた。何も記憶に残らないかもしれない。だが、映像の光や漫画の線など、何かひとつが記憶の片隅に残ってくれれば、それが将来、感性や思考へと育っていく可能性がなくはない。

無理につきあわせるのは幼い子供には酷なこともあろうが、この年頃の子供は、自分で選ぶこと以上に「体験する」ことのほうが、意味を持つ。むしろ大人が行きたい場所・見たい物に付き合ってもらう、それくらいの働きかけのほうがよい気がする。



水木の人生はさらに続く。日本に帰ってきて、残った右腕で絵を描いて、紙芝居作家から漫画家へ。最初は赤本(貸本)、読み切り、さらに月刊誌・週刊誌の連載へ――テレビと並んで紙の本が娯楽として求められていた時代だ(※)。

※今なら動画か。媒体が変わるだけで、その時代の需要に応じて自らの才を発揮するという生き方の原型みたいなものは、時代を超えて変わっていないのかもしれない。漫画が価値を持つなら、動画も価値を持つということか。動画の場合は、際限がなく、反応を連鎖させて結果的に中毒状態に陥らせるという仕掛けこそが、独特の難点なのだろうが。


39歳で見合い結婚。妻は29歳。漫画家という得体のしれない男と結婚生活を始めるとは、妻となった女性にもそれなりの因縁があったのかもしれない。夫婦円満の秘訣を聞かれて、「相手に何も要求しない 何も期待しない」と水木は語っていたそうだ。たしかに(笑)。

「テレビくん」で講談社児童まんが賞を受賞して、売れっ子漫画家に。水木プロを結成。妖怪を描き始めたのは、49歳。まもなく鬼太郎が登場する。思うに、50代に入ると現実の自分が安定してきて、過去に体験したことが“引き出し”として活かせるようになる(それだけ余裕が出てくる)のかもしれない。



もしアイデアで文化を創ることができるなら、私なら「幸せを増やす妖怪」(を考える)という文化を創るだろう。廃棄物を消化する妖怪とか、遺伝子を組み換えて病気を治す妖怪とか、養分をかきあつめて食べ物を作り出せる妖怪とか。神様となると、人は求めすぎてよくない。妖怪のような、一つのことしかできない、不器用で小回りが利く生き物のほうがよい。

どんな働きをする妖怪かを想像して、具体的な造形をもって表現する。そういう発想が身に着けば、「幸せを創る」ことを考えるようになるだろう。

学校の子供たちに取り組んでもらう。そういう妖怪が一堂に会する「妖怪フェス」をやる。どこかで実験的にやってみることはできないものか。
 

夕方に妖怪列車に飛び乗って、米子から新見を通って一気に山陽に出た。岡山、姫路を通って、京都で一泊。

この夏は、金子みすゞと水木しげるの人生に触れた旅だった。こうした出会いが一つずつ心に積み重なれば、生きることも悪くないと思える。


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空想というのは偉大な力を持っている これも生命なのだ



2025年8月4日