中学受験の成功が、将来の成功につながるとも限りません。その後伸びるとは限らないし、いわゆる頭がいい子・高学歴な大人が幸せな人生を送れるかといえば、現時点でもはやそうとは言えないし、今後ますます言えなくなる可能性もあります。
理想は、受験の結果に左右されない、「転んでも損しない」知識や知的能力を手に入れること。「いっそう高度な知識を後で広げていける基礎的な知識(基礎概念)」や「できないよりできるほうが面白い・役に立つと思える知的能力」を、一つでも二つでも身につけるきっかけとして、中学受験を利用することのような気がします。あえて「上から見る」のです。見上げないこと。
そして、受験はただの特殊な体験として割り切ってしまうこと。これもあえて「上から見る」のです。他の子たちと同じ条件・同じ環境で、未知の問題にどれだけ答えられるか。単なる経験でありチャレンジとして「受けてみる」くらいで良いのではと思います。「どれくらいできるだろう?」という気楽な発想で。
いくら受験を過大視して思いつめても、この年頃の子供は、格別に集中できるわけでもありません。「何が起きているかもわからない」うちに通り過ぎてしまうもの。受かる・落ちることにそれほど意味を感じられない子供も多いものです(大人ほど将来は見えていないし、大人ほどの見栄もない。落ち込む親の姿を見てはじめて落ち込んだりするのです笑)。それが中学受験というものではないかと思います。
合格できたとしても、行く中学が決まったというだけ。その先に何を学び、どう成長するかは、まったく別の話です。受かれば未来が開けるかと言えば、逆に狭まる・萎れることもある。不本意だった中学が意外と子供に合っていることもある。”未来はその後の頑張り次第&めぐりあわせ次第”という仏教の理解は、ここでも当てはまります。
もし受からなかったとしても、中学受験を機に身につけた勉強の仕方や知的能力を、次に活かせばいいのです(※逆をいえば、「次につながる・活かせる」勉強の仕方や知的能力が身につかなかったとしたら、中学受験は大して意味がなかったということにもなります)。
中学受験について大事なことは、
➀結果(合否)を過大視せず、
②大学および社会で求められる知的能力のほうを見据えて、
③中学受験を、その一部・プロセスとして “見下ろす” ことではないかと思います。
親にしても子供本人にしても、もし直前期に落ち着かなくなったら、受験を「小さく」見ることを勧めます。受験はただの通過儀礼。むしろ「受験が終わった後に何が残るか?(先に持っていける基礎概念や知的能力をどれくらい身につけたか)」を振り返るのです。
「振り返る」という視点を持つだけでも、自分を客観視できます。望ましいのは、「忘れてしまっても差し支えないもの」と「高校、大学、さらに社会にまで持っていける(役に立つ)知的能力」との振るい分けを、大人がしてあげることです。それくらいに「見えている大人」になることが理想です。大人たちもちゃんと学ぶのです。
※「基礎概念」や「知的能力」の「振るい分け」については、いずれ子供たちに伝えていく予定です。
2024年1月28日