里のアーカイブ 公園の猫

<おしらせ>
★東京の講座は、12月15日の働き方講座、22日の坐禅会、28日の仏教講座・総集編で締めくくりです。

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※昔のブログ記事を”発掘”したのでおすそ分けします:


2016年10月2日

今朝起きたら、すっかり秋の気配が。肌寒くなってきました。

気になるのは、近所の公園に一週間ほど前に現われた、白地に雉模様の若い猫。

最初は怖がって近づいてこない。だから、エサを遠くから放る。チョッチョッチョッと舌を鳴らして音を覚えさせる。雪駄の音もわざと大きめに鳴らして、〝この音が聞こえたら、エサくれる人〟というのを覚えさせる。

2、3日そうすると、音を鳴らすだけでミャアと草むらの中から声がするように。近くでエサを食べるようになった。それでも恐る恐る。近づくと逃げる。食べながらも周囲をうかがうことは忘れない(一度、近所の黒の飼い猫がいやがらせにやってきて、走って逃げて行ったことがあった。人間に対しても相当警戒心が強い)。

私はそのそばでじっとして、気配を消す。視線も合わせない。でもチョッチョッと舌を鳴らして、敵じゃないということに馴染んでもらう。

二日ほどすると、食べた後に、思いきり背筋を伸ばしてみせるようになった。「ごちそうさま」という合図らしい。その場で尻尾を丸めて、じっとうずくまって見せる。

それでもまだ警戒心が強くて気が休まらないのか、近くのやぶの中に入っていく。逃げるわけじゃなく、やぶの中でこちらの気配をうかがっている。それに対して、「大丈夫だよ」という思いを送る。

誰かに捕まったら殺処分? この界隈に野良猫はほとんどいない。それは可哀そうだからこちらで保護しようかと思ったが、しかしそれは仏教じゃないなぁと思う。気持ちを送って、相手が近づきたいと思うようになるのが、自然な成り行き。とりあえず、近づき方、距離の取り方、すべて猫のリアクションをみてから決める。これが仏教流、つまり正しい理解(笑)。

今朝は、いよいよ、エサを食べた後に、道の途中まで私についてくるようになった。公園を出ていく私を追いかけて、やぶを抜け柵の下を潜り抜けて、道の真ん中でミャアと鳴く。「ウチにおいで」と言ってみるが、まだそこまで決心がつかないらしい。結局、向かいのマンションの生垣の下に隠れて、部屋に入った私の様子をうかがっている。今のところ、こんな感じ(笑)。


相手が動物であれ、人間であれ、こちらに一方的な(あるいは最初に)思惑や「かくあるべき」という判断や、「こうあってほしい」という要求があっては、もうそれだけで〝心の通じ合い〟は遮られてしまう。

一定の判断や、明確な働きかけが必要な時、功を奏する時もあろうが、それはえてしてこちら側のエゴや勝手な思惑であることが多い。「相手のことがよくわからない」と悩む人が多いけれども、そういう場合はたいてい「私はこう思う(こう考える)」というところが最初にあって、その思いにしがみついていることが多い。

「私はこう思う」というのは、極端にいえば、「どうでもいい」(笑)。それよりも、相手を、今の状況をよく見透せていること(理解できていること)のほうが圧倒的に大事。というか、心の向け方としては、「理解すること」が最初なのだ。

解釈するのでもなく、良し悪しを判断するのでもなく。妄想するのではなく、反応するのでもなく、ただ理解する。相手の心をよく理解できたときには、びっくりするくらい、いろんなことが見えてくる。たぶんアレコレと妄想して悩んでいた人にとっては、「え、こんなにラクでいいの?」と戸惑うくらいに、物事が見えるようになる。わかりあえない苦悩やストレスからも、無縁になれるかもしれない。

もちろん、本当の理解というのは、限りなく難しく、「妄想」との境界線はかぎりなく曖昧だ(だからこそ「わかっている」と思うこと自体が、慢であったり妄想だったりする可能性はかなり高い。だから、仏教では「わかっている」とは最後まで判断しない)。

だが、妄想を捨てて「ひたすら理解する」という心がけに立ち続けることで、妄想が作り出す悩みや、人間関係をめぐる誤解や感情的ストレスは、大幅にカットされるものである。

「理解する」ためには、つつしみ(謙虚さ)も欠かせない。ゆめゆめ、「わかっている」と思ってはいけないのだ。そう思ってしまった時点で、その理解は「正しい理解」ではなくなってしまう。


はて、私はこの猫――サラと呼んでいる(沙羅双樹のサラ)――の心をどれくらい理解しているか。一度は飼われた猫らしい。去勢手術も受けて、まだ生後半年くらい? なんの因果か、夏の終わりに、公園でひとり生きることになってしまった。

完全な野良なら懐かぬ可能性もあろうが、一度飼われたことがある猫なら、人に期待をかける部分はまだ残っているかもしれない。寒くなる前に、「ウチにきていいよ」というところまで伝わってほしいものだと思っている。


8年後(現在)のサラ
猫ハウスより古新聞の中にやすらぎを感じるらしい
このあたりも飼い主に似ている