この国は「裸の王様」


10月といえば、例年は秋ですが、今年はまだ夏の暑さが続いています。

着実に気候が変わりつつあるのに、世界は別のことに忙しく、命運がかかっているかもしれない問題については、奇妙な無関心が続いています。

あと百年、千年経った時に、この国・この世界で今起きていることの意味が明らかになってくるのかもしれません。

基本は、自分にできる範囲で正しく生きること。生き貫くこと。それに尽きます。



この国は、いつの時代からか「裸の王様」がまかり通るようになってしまったのだろうと思います。

誰も「王様は裸だ」と言わない。いわゆる忖度。馴れ合い。

「王様は裸だ」と言えば波風が立つから、語らないほうが無難。

だけれど、裸は裸だと言わないと(別の視点を維持しないと)、裸そのものが装いだ(≒まがい物が真実だ)と思い込む人が増え、

ひいては本当の真実すら忘却される事態にもなりかねず、

「裸は裸」(≒真実は他にある)ということを言葉にしておかないと、結局、正しい物の見方が滅びてしまう。

結果的に、人間の強欲がのさばって、苦しみが増える。


日本は、いつの頃からか、そういう事態を繰り返してきたのかもしれません。特にこの百年。

「裸は裸だ」と言わない、その場しのぎ・現状維持・現実回避・先送り――それが、日本社会の歴史。

破綻するまで、露呈するまで、なかったことに、正しかったことにされてしまう。

変わる力がないからこそ、行き場のないエネルギーは自壊・自滅へと向かっていく。

それくらいしか、変わる方法がない。あの戦争はまさに一例。代わるのは天変地異か外からの圧力か。


私にできるのは、言葉を遺すこと。

残された時間の中で、言葉を遺す。

あとは見つけてくれた人が、自分の中で活かしてもらえれば。

そして、自分にできる範囲で、少しでいいから、周囲にいい変化を起こしてもらえたら。







2023年9月30日


親たる者の最後の目標

*あるお母さんから

(ブログ「親という名のノーコン投手」にちなんで)

(略)

情けなさばかりで前が見えなくなりそうになります。
自覚するとこんなにも苦しくなるのだと、

我が子にはこれ以上の苦しさを
長きにわたり感じさせていたのかと気づき愕然としています。

今やれることから逃げずに、自分の業と向き合います。
身体の感覚を付けていく練習をし
無駄な反応を減らすことを継続していきたいと思います。

(略)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


とても勇気づけられる正直な言葉です。

多くの親が、無自覚だった過去の自分を知るに至って、胸に痛みを感じます。

痛みを引き受けようとしない親は、幼く姑息。

痛みを引き受けようとする親は、大人です。

これだけのことを伝えられるお子さんも、奇跡に近いくらいに、大人になったのだと思います。

親としては尊敬と感謝を向けるしかない立派なお子さんです^^。

子に恥じない親にならねば、です。それこそが親たる者の最後の目標。

 


 

 

 

生きられる限りは(ハンディを持つ人に向けて)

*障害を抱えて生きている、ある人のおたよりにちなんで:

 

おたよりありがとうございます。

生きられる限りは、堂々と生きていく。

生きられる範囲で、無理を背負わず生きていく。

人間は、生きていける限りは生きていくだけです。

それが命の本然(本来の姿)。否定することは、誰にもできません。

本来、人が人の生きる意志を否定することなど、不可能なのです。


生産性とかなんだとかという概念をもって、命の価値を選別しようなどという妄想は、聞くに値しません。

そうやって他人の価値を選別し、排除しようとする人たちは、結局、自分自身がいずれ選別され排除される定めを作り出していることに、気づいていないのです。

たとえば、国民の安全を確保するために全力を尽くすことが、国の務め。

その務めを簡単に放棄したのが、小泉政権時代のイラク日本人人質事件(2003年)。

あの時、「自己責任論」という言葉が流行りましたね(言い出したのは当時の内閣にいた政治家です)。

危険な地に足を運んだのは自分だから、自分で責任を取れ、国は、自分たちは、何もしなくていい、むしろいい迷惑だという論調でした。


「人に迷惑をかけるな」という日本人が好きな言葉は、「自分が安全なら、利益があるなら、他人など知ったことではない」という無関心と排除と表裏一体です。一見、人を思いやっているように見せながら、その本音は、自分に都合の悪い他人を排除せよという利己的なもの

「自己責任論」は、 その後20年経って、働けない人は生産性が低いとか、老人は自ら命を断てばいいなどという(言葉にするのもおろかしい)排除論へとつながっていきました。ごく一部の人間だけが得をする社会に変わっていったように思います。


こうした排除論を語る人間は、なぜか自分は例外だと思っている様子です。自分は働けるぞ、若いぞ、少なくとも誰かよりもマシだぞといった優越感を隠し持っている様子。

「くだらない」とあえて言うのは、そうした理屈は、すぐさま自分への否定・排除に転じることが、見えていないから。自分は例外、自分は特別、自分は他人を見下し、排除する資格があると思っている。だがいずれ、自分自身が排除される側に回る。その現実が見えていない。

そのうえ、苦しみが増すことも見えていない。ごく少数の人間だけが得をして、残りの人間は排除される――それが当然だと言ってのけるような社会が、本当に幸福なのか、目指すべきあり方なのか、という全体に対する問いがない。

都合の悪い他人を見下して、蹴落として、自分の利益だけを確保できれば満足。富か学歴か名声なのか、何かを勝ち得たと勘違いした自分に陶酔して、排除された他人をフフンと鼻で笑うような人間たちが、社会にどんな価値を生み出せるのか。

そうした発想が拡散する先に、社会の幸福が増えるかといえば、絶対にない。


逆に、一人一人が生きて、できる範囲で役割を果たして、生産性とか労働力とか貢献の大小とかそういう社会的記号とは関係がなく、生まれてきた人がみんな等しく大事にされて、「生きたい」という意志を尊重してもらえる社会のほうが、

その中に生きる人たちは安心できるし、そういう社会を大事にしようとも思える。社会への信頼も持てる。だからこそ優しくなれる。社会も発展していゆける。

社会がめざす方向性は、後者でなければなりません。自分だけがよければいいという短絡は、利己と排除と分断に満ちたディストピアを招きます。それはもはや社会ではありません。

これは、歴史を通して人類が出した結論にしていい。それくらい自明の(議論する必要もない明らかな)価値です。



選別や排除という発想が持つ危険に思いが及ばない、そうした発想が自分の足元(社会)を掘り崩す最大の愚策だということがわからない。

そういう大人たちが、世の中には一定数いるらしい。自己都合の妄想に囚われた姿です。


心の性質を見れば、こうした姿へと化していく・増えていくのは、自然です。だが正しいはずはありません。


心ある人は、しっかり一つの前提に立ってください――


人が何を語ろうと、世界がいかに狂っていようとも、

人間は、生きられる限りは、生きていく。

 
ためらうことなく、迷うことなく、堂々と。

生き抜く。


それが答えです。上がり。




2023年9月25日

この国で起きていること

この場所は、世の中の苦しみを見据えて、

正しい理解と

慈悲にもとづいて

人の苦しみを増やさない最善の選択を探していく場所です。

だから、あくまでニュートラル(中立)。


もし世の中で起きていることが、「何か変だ」と感じたら、どこから始めるか。

まずは事実をよく見ること。理解すること。

「自分はこう思う」「これが正しいはず」という妄想ではなく。


そして「原因」を探ること。

これも、曇りなき心の眼で。

これまでの自分が正しく見ていたとは限らない。

もしかしたら事実を見逃していたかもしれない。


世界は欲と妄想に覆われているから、世界が、社会が信じていることが、正しいとも限らない。

たとえば、事実を重ね合わせると、こんな事実も浮かび上がってくる――。


感染者数・重症者数・死者数の増減(波)に影響を与えている「原因」は、何なのか。


人が語る言葉より、事実のほうが、真実を語ってくれていることもある。




看護専門学校の講義(医療倫理)の資料から

WHOおよびジョンズ・ホプキンス医科大学が公表していたグラフを時間軸で重ねたもの

接種回数と陽性反応者数・重症者数・死亡者数の増減の波が連動しているように見えます


幸せな生き方が、人それぞれに違うように、

苦しみを増やさないための医療も、

人それぞれに答えは違う。

それが真実ではないのかな?



 


看護という世界に生きる人へ2

とある看護専門学校で講義を持たせていただいて、はや8年。

看護師さんは、私にとって、最大限の敬意を払うプロ中のプロの方々です。

本を読んでくださっている看護師さんもたくさんいるし、このブログをのぞきにきてくださっている看護師さんもいるようなので、前回に続けて、看護学生のみなさんにお話ししている内容を紹介します:

 

レポート課題 なぜ看護に感情は要らないといえるのか?
 
<講評>
看護=まず見えること=理解すべき点を正確に理解すること(「観察」はその一つ)
 
そこまで置き換えたうえで、何を理解すべきかをちゃんと書く。<視点>を使ってまとめてくださいとありましたね。

患者の心と体、特にその苦しみ+原因+方法+選択の基準を理解する 患者の苦しみを増やさない正確なケアを理解する。

こうした点を理解するうえで、感情は要らない。

と言うことを書けば加算しました。

<残念だった点>
「患者と同じ感情を持つ(共有する)こと」「看護師が感情を抑制して、患者を喜ばせてあげること」といういわゆる「感情労働」が必要だと書いている人がいました。大きな間違い。

「理解」と「共感」は違います。患者と同じ感情になって喜んだり悲しんだり怒ったりというのは、看護に必要ありません。状況によっては、そういう姿が、患者を喜ばせる・癒やすことはありえますが、そこまで求められては、看護師が疲弊してしまいます。考えてみてください。

「感情労働」「感情規則」というテーマは、今後も出てきます。看護の業界で最も誤解されているところ。もともとホックシールドというアメリカの学者が提唱したものですが、「キャビン・アテンダント(スチュワーデス)には感情労働が必要だ」と言いだしたのですよ。

乗客の理不尽な要求にも、平静に笑顔で対応しましょう、そうやって乗客の満足度を上げて、利益を上げましょう(そしたら給料も上げてあげます)という経営者目線で言い出したことなのです。組織のマネジメントとして採用されて、研修内容になって、あっという間に広まりました。

これが、スッチー(スチュワーデス)と似ている(と勝手に思われてしまった)看護師・介護士などにも当てはめられた(いい迷惑)。

相手の感情に寄り添うことが大事だ、こっちの感情はコントロールすべきだ、感情労働頑張れ、我慢しろ、いつだって明るくスマイル、看護師は白衣の天使、微笑みと慈愛をふりまく聖職者たれ――という話になっていくのです。
 
「患者の前で泣いてはいけない、泣くならトイレで泣きなさい」・・・おいおい。でも本気みたい。調べてみてください。

(※ちなみにここから、アンガー・マネジメントというストレス管理の発想につながっていきます。いかにも資本家に都合のいいアメリカ的発想かも。結局、ストレスを強いられる側が努力しろというのです。
 
いや、それはおかしい。コントロールやマネジメントだけでは片づかないよ、という理由で登場したのが、草薙龍瞬著『怒る技法』マガジンハウスですw。感情で怒るのはまずいけど、正しく怒れる技は必要という--19日に大阪で講演やります。)

なんで患者の感情にあわせなきゃいけないの? 理解してあげることは人として大事だけれど、理不尽な相手にも怒っちゃいけないとか、むしろ患者の感情を「操作(コントロール)せよ」・・・「やってられない」と思いませんか? 

あきれた患者にも感情を出さずに優しくケアしましょう--なんていう阿呆な勘違いがまかり通ってしまったから、看護師さんはみな苦労を強いられているのです。

看護師に真の尊厳と敬意を。皆さんはプロ中のプロ(高度な専門職)です。しなくていいことは、しなくていい。イヤな患者(暴言・八つ当たり・わがまま・セクハラetc.)には怒って当然。毅然と対処すべし。

感情は要らないのですよ。もっと大事なことがある。理解すること。心と体。苦しみとその原因。原因を取り除く方法――こういうところを正確に理解して、適切なケアを提供する。

それができれば十二分。看護師は天使じゃない。プロです。

見るべきものが見えるプロになれば、それで上がり(満点)です。違いますか?


 
某看護専門学校にて
2023年9月10日

日々是好日


今回はゆるやかモード^^。

インドの〇〇〇とオンラインで話をした。
息子の〇〇は7歳、娘の〇〇〇は9月〇日が誕生日なので、あと〇日で満1歳。

子供は大きくなっているけど、〇〇〇と妻の〇〇は変わってない。元気な様子。

来年インドに入ることに。現地の社会活動家たちが待っているとのこと。

日本に伝わることと、現地で起きていることは、かなり違う。よくある話。

インドの仏教は分裂状態。セクト同士で対立しあっている。坊さんたちは儀式か縄張り争いがメインで、社会へのメッセージを語らない。

衣だけもらって地元に帰り、出家のフリをして語ったり活動したりしている者もいる。

だが一般の人には区別がつかない。かなり問題になっている。

なんだかブッダが批判的に見ていたバラモンたちの姿と変わらなくなっている。


現地のことは、現地の人たちに聞かねばわからないものだ。

 

いくつかの場所から招待を受けているので、来年は必ず来てほしいとのこと。もちろん。

出家というものは、痛みからすべてを始めなければならない。

安逸と退廃というぬるま湯は、厳に慎まねば始まらない。




モンゴルの人からも連絡がきた。モンゴルからは今回が2度目。

『反応しない練習』に感銘を受けた。今、現地語に自主的に翻訳しているという。内容を考えながら翻訳するので、理解が深まるそうだ。自分のためにやっているという。

ただ、モンゴルはチベット密教の影響が強く、「反応」の元の言葉がわからない。中国語にたどり着けない。サンスクリット語は何か教えてほしいという(いろんな連絡がある^^)

中国語 有漏
パーリ語 āsava
サンスクリット語  āśrava/aasrava/
英語訳 leaking of mind

反応 reaction of mind は草薙龍瞬が選んだ比較的新しい訳語だ。ミャンマーで勉強していた時に使いだした。

『反応しない練習』のモンゴル語版の作成が今進んでいる。できあがったら進呈するとお伝えした。

台湾、韓国、中国、シンガポール、フランス、アメリカ、その他いろんな国の人たちが、便りをくださる。

 

 

この命は、場所を変え、人を変えて、いろんな役割を授かっている。

ただ、面白いのは、自分がいなくなった後のことをいつも想っているということだ。

自分はいずれ消える。自分はいなくてかまわない。自分を伝えようという意図はなく、自分の思いを形にしようという発想もない。

自分も、形も、あってもなくてもかまわない。

ただ、無色透明にして中立な「生き方」が、残るならば残ればいいと思っている。

空があり、川があるのと同じように、生き方もまた、普遍的なものだ。

ブッダがダンマと呼んだもの。ブッダ自身は虚空へと消えゆくことを善しとした。

この命もそれでよい。

人が幸せに生きられるなら、それ以外に必要なものは、この世界には存在しない。



2023・9・5

旅の終わりに想うこと


今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。

気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。

だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。

今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。

それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。

命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。

多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。

変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。

結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。

子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。

難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。

難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。

特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。

それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。

本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。

重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。

親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。

親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。

人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。

体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。

育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。

 

たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。

 

こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。

人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。

結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。

生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。

他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。

さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。

「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。

ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。

自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。

自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。

自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。

それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。


世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。

世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。

正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。

未来につなげようという意識を持つ。

できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。


それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。

人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。

生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。

 

まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。


日本全国行脚2023完遂

草薙龍瞬

世界はまだ輝いているぞ

 

2023・9・5