今年の全国行脚、ある場所で参加者がこんなことを言っていた。世の中はこんな状況で、この先もっと悪くなるかもしれない。こういう現実の中で子供を産んで育てることに意味があるのか、ふと考えることがあると。
気持ちは痛いほどわかる気がする。実際に、世界がこんな状況だから、子供を持たないほうがいい、社会がこんなに生きづらいのだから結婚しないほうがいい、という人はいる。
だが人間として何が正しい生き方か。まずは命をまっとうすることだ。その上にどれほどの満足を載せることができるかという問いが来る。人間もまた生命である以上は、誰かと結ばれて、子供を育てて、未来へとつなげていくことが、普遍的に価値あることだ。その前提が維持されて初めて、個人の選択(自由と多様性)が可能になる。
今は、多様性の時代だと言われる。結婚するか、子を持つかは、個人の自由。性差さえ主観によって選んでいい。いわば自分の心が選ぶことこそが正解だという、そんな価値観の変動が起きている。
それは一面では価値あることだし、社会における正解としてよい部分もあるとは思う。だが、未来がどうなるかわからないから、現実にこれだけの悲観すべき理由があるから、結婚しない、子も持たないと考えるのは、少し違う気がする。
命の本来の姿は、時代や社会のあり方に関わりなく、人が人を信じ、子を育てて、未来につなげていくことにあると思えてくるからだ。
多様性をいうなら、結婚してもしなくても生き方として尊重されるべきだし、結婚しないカップルが子を持つこと、あるいは人の子を養うことも、同じように認められていい。そういう「親」を社会がサポートする体制があってもいい。
変化を拒む社会・価値観が硬直した社会が、結婚しづらい、子育てしづらい環境を作っているだけであって、だからといって結婚しない、子を持たないことが、時代の趨勢だとか、多様性がもたらすライフスタイルだと考えることは、若干筋が違うように思う。
結婚することを、そんなに難しくしては本来いけないはず。子を育てることも、さほど難しいことではないはずなのだ。生き物なら、みな当たり前のようにやっている。
子供には衣食住を親または社会が保証して、最低限の教育を与えて、その後は何かひとつ仕事をしてもらって、生涯生きていけるだけのサポートを国が受け持つ。これがそんなにも難しいことなのだろうか。
難しくしている理由は、結婚や子育てという営みそのものにあるのではなく、人間が必要以上に難しくしている部分があるような気がする。みずから難しく考え、また人にも難しさを強いている。
難しくしているのは、人間の意識(心の持ちよう)だ。人と結ばれ、子を育てるという本来シンプルな営みが難しくしているわけではない。何が本当の原因かが見えてない可能性はないか。これもこの国を覆う思考放棄の産物ではなかろうか。
特に子育てに決まった答えがあるはずもない。人は時間が過ぎれば大人になる。その時に、この世界でひとつ働きを果たして生きていくだけである。
それができるなら、教育さえそこそこでよい。小中を義務教育と定めるなら、それ以降は、それこそ、いつの時点で仕事を引き受けるか、世の中のどこでどんな役割を果たすかは、個人の選択の問題だ。まさに自由であり多様であるべきもの。
本当はそれくらいに子育てに求めるものを緩く、ハードルを低くしてもよいはずなのである。
重くしているのは何か、誰か。この社会に生きる人間に他ならない。
親がどんな人間であれ、とりあえず独り立ちするまでなんとか面倒を見ることで、親の務めは果たしたことになる。あとは本人次第。親が過ちを犯したからとて、子供がいつまでも責めることは反則というものだし、親もまたいつまでも子供を追いかけることは、間違いである。
親たる仕事は、期間限定のお務めだ。これもまた命本来の姿。普遍的な生命界のルールである。
人は大人になり、働いて、生きられるだけ生きていく。それだけで十分だ。その中で命としての務めを果たす。結婚できるならしてみる、育てられるなら育ててみる。
体験すること自体に価値がある。成功せねばと思いつめる必要があるだろうか。思いつめていないか。
育つ、働く、生きる、結ばれる、育てる――そうした当たり前の営みを、当たり前のこととして続けていくのが、命本来の姿ではないか。社会の状況がどうだとか、未来がどうなるかといったことは、こうした命本来の姿の「次」の問題だ。
たしかに困難はあるし、危機は急速に増えているのかもしれないが、「命として自然になすべきこと」を左右するものではない。命本来の営みを、外の世界のあり方を理由に左右させること自体が、本末転倒なのかもしれない。
こうしたことを言うと、個人の選択を尊重しないのかとか、結婚できない人・子供を持てない人もいるではないかと考える人もいるだろう。無論そういうことではない。
人それぞれにどう生きるかは自由に選べばよいことだとしても、命としてごく自然な営みをまっとうできる人は、臆せずに、未来を恐れずに、堂々と生きて、めぐり会った人と生きて、子を育て、未来へと送り出す。それは議論無用の価値あることだというまでである。
結婚しない、子を持たない人生を生きる人は、その人生をまっとうすればいい。人と同じ生き方をせねばと考える必要はなく、また自分と同じ生き方を他人に期待する(同調を求める)ことも間違いだ。
生きることの中身は、同じでなくていい。いかなる生き方も正しいのである。
他人の生き方を否定することも、羨むことも、また自分の人生を否定したり卑下したりすることも、しなくていい。堂々とおのれの人生を生きればいいのである。
さまざまに生きる人々の中で、もし自分がほんの少しでも「未来につなぐ」という意識を持てるなら、自分にできる範囲で、未来につなぐ営みに参加すればいい。
「子供・子育てに寛容になる」ことは、最初の一歩。ボランティアで子供たちに関わることも一つだろうし、ほんの少し財産を提供することも、自分亡き後に寄付することもありだ。
ちなみに仏教では、物に限らず、言葉やふるまいや、それこそ微笑みだけでも、「与える」ことに含まれる。与えることが荷が重いと感じる人は、「未来につなぐ」という価値を知っているだけでもいい。
自分の人生に並べて、「この世界の未来」というもう一つの価値を理解することだろうと思う。
自分が生きることは、この世界を支えること。仕事のあるなしに関わらず、生きるという事実が世界を作る。生きるだけでこの世界を支えているという真実は忘れないようにしたい。
自分が生き抜くことで世界を支え、その事実が未来へとつながっていく。未来につなぐという意識を持って、人を苦しめることなく、生きられる限りは生きていく。
それだけで十分に意味がある。人はその事実を「人間の尊厳」と呼んでいる。
世の中にはいろんな考え方があるが、考えすぎるには及ばない。真実はシンプルなものだ。
世界がどんな状況であれ、未来がどのようになるにせよ、自分自身が精一杯生きること。
正しい(≒苦しみを増やさない)生き方を貫くこと。
未来につなげようという意識を持つ。
できる範囲で役割を果たす(生き抜くだけで役割を果たしているという真実も含む)。
それが、一人一人が選び取るべき最終的な答えということになる。
人は生きるだけであり、未来を育てるだけだ。
生きるという営みに、ためらいも否定も迷いもいらない。
まっすぐに生きて、育てて、命を完遂するのみである。
日本全国行脚2023完遂
草薙龍瞬
世界はまだ輝いているぞ
2023・9・5