看護という世界に生きる人へ(コロナと看護)


とある看護専門学校での講義(医療倫理)にて:
 

レポートを返却前に、講評します。今回は第3問「コロナ禍の3年間を振り返る」について――

感想をひとことでいうと、「考えていないな」です。厳しい指摘になりますが、みんなびっくりするくらい、考えていませんでした。

今回最も多かったのが、コロナ禍はしんどかったけど、その中でもこんなに楽しいことがあった、意味があったというポジティブな解釈。
 

完全黙食して、文化祭も中止になって、入試の機会さえ危うくなって、祖父母の死に目にも会えなかったのに、「今後も感染対策を徹底したい」みたいな意見もありました。

そうした見解が間違っているというわけではありません。しかし。

「検証」した人がゼロ。コロナ禍でいろんな我慢や苦痛を体験したなら、本当にこの3年間は正しかったのか?を考えてください。少なくともそういう疑問を感じたというところまでは、考えを進めることです。


たとえば「コロナ禍」といっても、➀新型ウィルス自体の客観的危険性(毒性と感染力)と、②社会の対策(コロナへの向き合い方)は、まったく違います。


客観的危険性がそれほどではないと判断したから、イギリスやオーストラリアをはじめ、海外のほとんどの国は「コロナは終わった」という認識です。完全に過去になっています。

しかし日本の場合は、まだ「第9派到来」と言っていますね。第六回目のワクチン接種も始まりました。今なお「コロナ禍」が完全に終わっていないのは、日本だけです。なぜ? 説明できますか?

つまりは、コロナ禍と一言で言っても、社会の対応、ひいては皆さん一人一人の認識(理解度)が作り出している部分があるのです。その場合の「コロナ禍」とは、ウィルスが起こしているものではなく、「社会が作っている騒動」です。

マスクをすることが感染防止になるのですか? マスクをしても、日本の場合は、陽性反応者数は減りませんでしたよね? 一般のマスクでは、飛沫感染は防止できるけど、空気感染は防げません。デルタ株までの糞口感染(排泄物経由の感染)も防げません。また「パーティション」や多少の距離を取るくらいでは、感染防止の効果は認められていません(このことは今年初めに厚労省分科会で結論を出しています)。

客観的危険性を冷静に吟味せずに、あいまいな理解のまま行動制限をしてしまえば、皆さんが体験したような、いやそれ以上の社会的な損失が生じます。社会活動の制約、経済の低迷、心への負の影響、ひいては未来の可能性の縮小--関わること自体に過剰な不安・警戒を持ち込めば、当然社会そのものにしわ寄せが来ます。その影響もあってか、結婚数も出生数も、危険ともいえるカーブを描いて激減中です。


しかし感染しても、やはり大多数の人は治癒するし、医療がきちんと発症者への初期治療に当たれば、重症化を防げるケースも多数です(デルタ株当時でさえ、日本人の98%以上は無症状または軽症でした。オミクロン株以降は、重症化率はその30分の1に減ったという指摘もあります)。

「PCR検査で陽性反応が出たら、症状の程度を問わず、即自宅隔離・待機。他の病気があっても、一般病院は対応しない」という方針が、本当に正しかったと思いますか? 実際、自宅療養を強いられている間に重症化して死んだ人も、少なくありません。そういう事実は見ていなかったのかな?


(講義で学んだ)「看護の技法」を思い出してください。ウィルスの客観的危険性を見誤ると(➀)、その後の「方法の選択」(②③)を、すべて間違えるのです。「感染しても無症状」「発症しても数日寝れば治る」という人にとっては、風邪の一つであるに違いない。それなのに、死亡報告事例が2000件を超えているワクチンを、年齢・健康状態を問わずに接種しようとする。

こうした選択は、個人を苦しみから救う医療として、正しいことだと思いますか?

「感染爆発」といいつつ、日本の場合は、最初の一年は、他国に比べるときわめて低い割合の陽性反応者数しか出ていませんでした。その後は日本だけ増え続けて、昨年秋から感染者数世界一が続いて、今なお「第9派到来」と言っている。

「波」が続いているのは、日本だけです。配布した資料をじっくり読んでみてください。あれは事実であって、誰かの意見をまとめたものではありません。


みなさんのレポートを見ると、この3年に起きた「コロナ禍」という現象を、自分のアタマで考えていないことが伝わってきました。「貴重な体験をした」という人が多かったけれど、同じことが起きたら、また同じことをするのですか? 始める根拠は? 効果は? いつまで? 終わらせる基準は? 「検証」したのかな?


2020年12月の時点で、全国の保健所を代表する会長さんが「早く5類に落としてくれ」と政府に要望書を出しています(教材p39)。事務処理量が尋常でない。データを冷静に見れば、5類相当の危険性しかない。むしろ医療の初期対応こそが大事だという主張です。同様の見解を支持する医師たちは、あるアンケートによれば7割近く。

でもメディアは大騒ぎをやめなかったし、多くの人々が皆さんと同じような認識で選んだがゆえに、この3年間の「コロナ騒動」が起きたのです。


こう言うと、「反〇〇」みたいなレッテルで議論を遮断してしまう人も、この世の中にはいます。しかしこれは「私はこう思う」という思い込みや、反対・賛成で片づく問題ではないのです。

倫理、すなわち議論を整理する技法が必要。きちんとデータを踏まえて、客観的危険性を把握して、とりうる方法をすべて網羅して、人それぞれに苦しみを増やさない選択をする。医療・看護とはそういうものでしょう?

みなさんが、コロナ禍でこんな体験をしたというのは事実です。でもコロナ禍そのものを、どう見るべきか、何が正しい選択だったのかを、少なくとも「問おう」(検証しよう)としなければ、どんなにポジティブに受け止めても、状況が変われば、また同じことを繰り返すでしょう。

 
ある20代前半の看護師さん(女性)は、高校時代の親友を失くしたそうです。原因は自殺です。みんながコロナを恐れて、陽性反応が出ただけでもクラスター発生(クラスターの意味を知っていますか? 「2名以上の陽性反応」が出れば、クラスターです)。自粛、隔離、休校。授業はオンライン。部活も試合も文化祭も卒業旅行も中止。外に出られず、友だちとも会えない。顔もわからない。精神的に追い詰められて、心が病んで、みずから命を絶ちました。

そういうことがこの3年間たくさん起こったのに、「いい体験だった」とだけ言って終わっていいのかな? 人の苦しみが見えない看護師になろうというのでしょうか。

みんなのレポートを読んでいて、「自分」のことしか見ていないことが、気にかかりました。


みなさんが見るべきは、「患者」です。自分じゃない。患者さんは人の数だけ違う苦しみを負っています。みんなが別の人生を生きています。わりと健康な人もいれば、孤独な人、癒えない苦しみを抱えている人もいます。そういう人たちに向き合って、自分にできることは何かを問い続ける。それが、みなさんが今後歩みだそうとしている看護の道です。違いますか?


コロナ禍の3年間についても、自分以外の人のことも考えてください。感染(正確にはPCR検査であぶりだす陽性反応)を恐れて、余命わずかな老人が孫にも会えない。家族が死んでも、死に目を見られない。そうした社会の対応が正しかったのか。

人それぞれの人生・生活の質(いわゆるQOL)に最大限配慮して、むしろなるべく会える機会を保証する。制限が過剰にならないか気をつける(それが社会への責任というものでは?)。人々が過剰な不安に駆られないように、客観的なデータをもとに、冷静に受け止めること、そして負担を増やさない選択を、その都度アップデートして告知する。もし感染したら、その時こそ医療がフル稼働して(指定病院だけでなく)迅速に対応する。そういう方法もありえたはずなのです。そうした可能性を見ようとしたのかな?

この3年間で、中高生の自殺数が、過去最多を記録しました。みなさんが「それでも楽しかったです」といえる3年の間に、別の場所では多くの人たちが追い詰められていたのです。死ななくていい人たちが死んだ。お店も潰れた。いろんな体験が奪われた。それが事実です。

こうした苦しみをも「自分の体験」として見つめた人は、本気で考え始めるはずなのです。「他に方法はなかったのか?」という問いを。

新型コロナ・ウィルスへの対応は、国によってみごとに違います。今なおコロナ禍が終わらず、国を挙げてのワクチン接種を推進しているのは、日本だけです。みなさんは、そういう特殊な社会に生きているのです。


「良質のメディアや官公庁の情報を見て判断する」と書いた人もいたけれど、情報の信憑性を判断する「基準」は、君の中にありますか? ワクチン接種後の死亡報告事例はすでに2000を越えているけれど、ほとんどのニュース番組は取り上げない。厚労省の情報がつねに正しいなら、過去の大規模薬害訴訟は起きていません(調べてごらん)。

どうやって情報の真偽を判断するのですか? ただ信じるだけなら、素人と同じ。でもみんなは、素人を救うプロになろうという人たちなのですよ。

「コロナ禍でも、大事なことを学べました」というだけなら、「戦争中でも、こんなにいいことがありました」というのと変わりません。当時について問うべきは「あの戦争は正しかったか」「始める必要があったのか」を検証することです。


「コロナ禍」という社会現象も同じです。人の命を救わねばならない皆さんは、「本当に正しかったのか」「他に方法はなかったか」という問いから始めなければならない。苦しみを見逃しては絶対にいけないのです。

それなのに、看護師になろうというほとんど全員が、この3年間の社会のあり方(医療・看護のあり方)は「これしかなかった(正しかった)」と思っているらしい。思考停止。

医療・看護は、人によって違うことが当然なのに。「みんな同じ」は、医療・看護には本来ありえない。また、苦しむ個人を差し置いて、社会がどうだった、学校の先生がどう言った、周りがこうしていたというのは、「素人」でしかない。みなさんは、命を救うために、素人である彼らとは違う「問い」から始めなければならないのに。


現実が見えない人は、余計な苦しみを背負うし、簡単に人を苦しめます。

見えない看護師、見ようとしない看護師が、人の命を救えるはずはない。と思います。


「見える」とは何か。「技法」を使って整理すること。

今回の「コロナ禍」という現象を、「苦しみを増やさない方法は? 正しい選び方は?」と検証できることです。


皆さんの先輩看護師さんたちも、「コロナ禍」に振り回され疲弊するほかなかった人たちもいれば、「視点」を持って冷静に分析して、疑問を発してきた人たちもいます。ワクチン接種後の後遺症に悩む人たちをケアする活動に全力を挙げている看護師さんたちもいます。
 
(※ちなみにコロナに感染して亡くなった看護師は、潜在看護師も含めた210万人のうちゼロです。しかしワクチン接種直後に死んだ看護師は複数名いるし、報道もされています。後遺症で苦しんでいる「元」看護師さんもいます。こうした事実は無視はできません。)


何が正しいか。それは、個人によって違う。しかし個人を越えて守らねばならない一線があります。それが苦しみを増やさない選択をする」ことです。倫理。

それは「信じる」だけでも「コロナ禍にも意味があった」と前向きに受け止めるだけでも足りない。それは「見えていない」ことと同じです。

いいですか――今後は必ず「問い」を持ってください。本当に正しいのか。自分は正しく見ているのか。現実を無批判に受け入れるのではなく、「苦しみが見えているか」「他に方法はないのか」と、疑問を持つから始めること。

そのことで、「これが正しい」という自己満足に歯止めをかけることができるのです。


今回は、みなさんが「体験」を書いてくれたので、全員満点です。体験したことそのものは嘘じゃないので。

ただ、加点できた人はいませんでした。「問い」をひねり出した人がいなかったからです。みんなが、まだ(目的意識のレベルで)素人さん。

でも、プロというのは、素人に見えないところまで見える人、素人が問えないことを問える人をいうのです。

 


これ以上、この国の人たちが苦しみ続けませんように


 
某看護専門学校にて
2023・9・7