生きられる限りは(ハンディを持つ人に向けて)

*障害を抱えて生きている、ある人のおたよりにちなんで:

 

おたよりありがとうございます。

生きられる限りは、堂々と生きていく。

生きられる範囲で、無理を背負わず生きていく。

人間は、生きていける限りは生きていくだけです。

それが命の本然(本来の姿)。否定することは、誰にもできません。

本来、人が人の生きる意志を否定することなど、不可能なのです。


生産性とかなんだとかという概念をもって、命の価値を選別しようなどという妄想は、聞くに値しません。

そうやって他人の価値を選別し、排除しようとする人たちは、結局、自分自身がいずれ選別され排除される定めを作り出していることに、気づいていないのです。

たとえば、国民の安全を確保するために全力を尽くすことが、国の務め。

その務めを簡単に放棄したのが、小泉政権時代のイラク日本人人質事件(2003年)。

あの時、「自己責任論」という言葉が流行りましたね(言い出したのは当時の内閣にいた政治家です)。

危険な地に足を運んだのは自分だから、自分で責任を取れ、国は、自分たちは、何もしなくていい、むしろいい迷惑だという論調でした。


「人に迷惑をかけるな」という日本人が好きな言葉は、「自分が安全なら、利益があるなら、他人など知ったことではない」という無関心と排除と表裏一体です。一見、人を思いやっているように見せながら、その本音は、自分に都合の悪い他人を排除せよという利己的なもの

「自己責任論」は、 その後20年経って、働けない人は生産性が低いとか、老人は自ら命を断てばいいなどという(言葉にするのもおろかしい)排除論へとつながっていきました。ごく一部の人間だけが得をする社会に変わっていったように思います。


こうした排除論を語る人間は、なぜか自分は例外だと思っている様子です。自分は働けるぞ、若いぞ、少なくとも誰かよりもマシだぞといった優越感を隠し持っている様子。

「くだらない」とあえて言うのは、そうした理屈は、すぐさま自分への否定・排除に転じることが、見えていないから。自分は例外、自分は特別、自分は他人を見下し、排除する資格があると思っている。だがいずれ、自分自身が排除される側に回る。その現実が見えていない。

そのうえ、苦しみが増すことも見えていない。ごく少数の人間だけが得をして、残りの人間は排除される――それが当然だと言ってのけるような社会が、本当に幸福なのか、目指すべきあり方なのか、という全体に対する問いがない。

都合の悪い他人を見下して、蹴落として、自分の利益だけを確保できれば満足。富か学歴か名声なのか、何かを勝ち得たと勘違いした自分に陶酔して、排除された他人をフフンと鼻で笑うような人間たちが、社会にどんな価値を生み出せるのか。

そうした発想が拡散する先に、社会の幸福が増えるかといえば、絶対にない。


逆に、一人一人が生きて、できる範囲で役割を果たして、生産性とか労働力とか貢献の大小とかそういう社会的記号とは関係がなく、生まれてきた人がみんな等しく大事にされて、「生きたい」という意志を尊重してもらえる社会のほうが、

その中に生きる人たちは安心できるし、そういう社会を大事にしようとも思える。社会への信頼も持てる。だからこそ優しくなれる。社会も発展していゆける。

社会がめざす方向性は、後者でなければなりません。自分だけがよければいいという短絡は、利己と排除と分断に満ちたディストピアを招きます。それはもはや社会ではありません。

これは、歴史を通して人類が出した結論にしていい。それくらい自明の(議論する必要もない明らかな)価値です。



選別や排除という発想が持つ危険に思いが及ばない、そうした発想が自分の足元(社会)を掘り崩す最大の愚策だということがわからない。

そういう大人たちが、世の中には一定数いるらしい。自己都合の妄想に囚われた姿です。


心の性質を見れば、こうした姿へと化していく・増えていくのは、自然です。だが正しいはずはありません。


心ある人は、しっかり一つの前提に立ってください――


人が何を語ろうと、世界がいかに狂っていようとも、

人間は、生きられる限りは、生きていく。

 
ためらうことなく、迷うことなく、堂々と。

生き抜く。


それが答えです。上がり。




2023年9月25日