講座最新スケジュール11・12月

 
興道の里・最新スケジュールをお知らせします:

生き方として学ぶ仏教講座・最終期は全3回です。
 
11月に2コマ、12月に総括編1コマを開催します。

11月は種田山頭火を題材とします。原始仏教、禅の思想、業と執着など、仏教講座の締めくくりにふさわしい内容です。

専門的な内容も含みますが、生き方に役立つ合理的・実用的な内容です。参加者の質問・相談にもお答えします。
 
今の形での東京での講座は、これが最後です(おそらく)。
 
仏教という枠を越えた内容をお届けしています。初めての方も積極的にご参加ください。
 

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<講座スケジュール>

11月2日・30日(土)および12月(※12月は後日告知します)
18:00~21:00
生き方として学ぶ日本仏教・2024年後期(全3回)

<内容>
仏教を「生き方・考え方」として学んでいくシリーズ講座。原始仏教から大乗・日本仏教まで、仏教思想の全貌を明快に解説していきます。毎回オリジナル資料を使用。世間の話題をめぐる仏教的解説や質疑応答のコーナーも。1回の参加で多くのことを学べます。 一般的イメージと異なる斬新かつ実用的な内容です。
★2024年度は日本仏教編。後期は種田山頭火ほかを予定。全3回。


11月4日(月祝)13:00~16:30
座禅会(瞑想と法話の会)
東京・新宿区 


11月10日(日)18:00~22:00
個人相談会
東京・新宿 

<時間枠> 
➀18:00~18:45 ✕(予約済み) ②18:50~19:35 〇 ③19:40~20:25 ④20:30~21:15 ✕ ⑤21:20~22:05 〇
※ ✕(予約済み) 〇の時間枠のみ受付可能です
※ご希望の時間枠と相談内容を事務局までお送りください


10月15日・11月19日・12月17日(火)
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html



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スケジュールの詳細は、公式サイトカレンダーでご確認いただけます。

※参加には事前登録が必要です。初めての方は必ず 興道の里活用ガイド をお読みください。
 

<お願い>
たいへん小さな道場ですので、必ずご参加いただけるわけではありません。興道の里から返信差し上げるのは、ご参加いただける方のみとなります。あらかじめご了承のうえご連絡ください。

 

よき学びの機会となりますように
上記ご案内申し上げます
 
興道の里事務局
 

しあわせになるために学ぶんだよ



 

 

新聞連載から 19 輪廻

19  輪廻

寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。


早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
 

僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
 

こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
 

正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。


妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに? 



中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)

※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します



あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように座る時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心が若返る。かつてはこれくらいのテンポで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、30分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しく始めようとしていることは、十代までの子供たちに、未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は2本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい。理科・社会・国語という分類を越えた精緻なテーマで巧みに解説している。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある――はずであり、あるべきである。高度な学びにシームレスにつながっている内容こそが、本質だ。

本質を学べる子供向けの本が、けっこう出ていることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで学びの階梯をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。途端に内容が歪(いびつ)になる。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった「概念」のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるかもしれない。だからこそ「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。たとえば世界史--トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? おいおい。そんな単語を年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。世界を見通す手助けになるもの。

今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるか?

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり、概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的(マイ・テーマ)に沿って作り直して、本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。


近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・20代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながる空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月中旬

 

 


日本全国行脚2024 福岡・志賀島


日田を朝に出て、久留米経由で博多に向かう。天神近くの公共施設で勉強会。

どの場所も同じだが、地元で場所を用意してくれる人がいないと、全国行脚は成り立たない。今回も、動いてくださった人がいてようやく開催できた(ありがとう)。


ブログ以外に告知しなかったが、予想以上の数の参加者。最年少は小学3年生。大人たちが日常の苦悩やおどろおどろしい業の話をさっそく始める中で、はて小学生に聞かせてよいのか戸惑う部分もあったが、辛抱できたようだ。父親の圧力に負けてやむなくという雰囲気だったが笑。

ほんとは、子供向けの学びキャンプを別立てで開催すればよいのだ。親のほうで場所を見つけて声をかけてくれればいい。教材はこちらで用意しよう。


どの場所でも、参加者の関心・質問に応じて答えを組み立てるので、毎回内容が違う。板書する図も変わる。即興で答えることで、自分も思いつかなかった新しい理解(智慧)が生まれる。

内容を準備したことは一度もない。その場で思考を組み立てる。だからこそ生きた智慧が生まれる。

各地の講座・勉強会を書き起こしてテキスト化すれば、かなり面白い資料になるだろうが、作業する時間がない。今は前に進む(新しい体験を積み重ねる)ことに専念しよう。

終わった後も、近くの喫茶店で希望者向けの無料相談会。なるべく多くのものを持って帰ってもらえたらという思いで続けている。

終電で東京に帰る予定だったが、相談者が多くて間に合わなくなった。急きょ宿を調べて、近くのカプセルホテルに泊まることにした。




翌朝は、バスで博多港まで。玄界島や壱岐島へのフェリーが運航中。私が向かったのは志賀島。かの金印「漢委奴国王」が発掘された島。小学生の頃に聞いた知識と地理が、やっとつながった(笑)。

この地に来ると、大陸がとても近く感じる。釜山にも船で行ける。近畿や関東のほうが距離感としては遠い気もする。とはいえ出征するほどの距離でもない。秀吉も無謀な挑戦をしたものだと思ってしまう。


海から博多の街を眺めるのは初めてだ。世界が青い。



西戸崎駅前から市営バスで勝馬海水浴場まで。気ままな一人旅。どこで過ごすのも自由という今日がありがたい。


浴場から少し離れた旅館の裏側で、だれもいない浜辺を眺めてひと休み。



海岸沿いの旅館兼食堂に寄ってみた。アイドルらしき女子の写真やバナーが壁一面に貼ってあるので、誰かとたずねたら、○○坂46の○○○○さん(ファンの呼び名は「○○ちゃん」)だという。

この村出身で、すぐそばの小学校に通っていたとか。私が偶然立ち寄ったのは、彼女が高校時代にバイトしていた旅館・○○荘だった。

そうかあ、○○ちゃんはここで育ったんだ、オーディション受けに東京まで行って、以来、乃木坂で頑張っているんだ~♪と思うと、人の背後にある物語が見える気がして感慨深い。急に土地のありがたみが増した気がする(アホですか笑)。


バスに乗って西戸崎駅へ。そこから陸路で博多に戻って新幹線で一路東京へ。

夏の全国行脚、これにて(ほぼ)終了。いや、夏風情を満喫した旅だった。



志賀島の海





2024年8月下旬



日本全国行脚2024 大分日田・咸宜園


羽犬塚から久留米乗り換えで日田に向かった。筑後川が造ったであろう沖積平野に広がる緑を見渡しながら、列車はゆっくりと標高を上げていく。

日田は、山岳のくぼ地に合流する複数の川が造った盆地だ。『進撃の巨人』の作者出身の町だそうで、駅前には「進撃の日田」と銘打った幟やポスターが目立った。物語冒頭に巨人が出現した巨大な壁(ウォール・マリア)に見立てたダムやミュージアムが近くにあるらしい。ファンには楽しい街かもしれない。




駅前で自転車を借りて、咸宜園(かんぎえん)へ。日田は、夏は全国最高気温を記録するほどに暑く、冬は氷点下になるほど寒い土地らしい。この日も日差しが烈しかった。






創立者は廣瀬淡窓(ひろせたんそう)という江戸中期(1782年~)の豪商の長男。病弱ゆえに家督をあきらめ、学問と教育を生涯のテーマにしようと決意して、24歳の時に寺の学寮内に最初の塾を開いた。

その土台は、勉強好きの叔父夫妻(6歳まで叔父が建てた秋風庵で育っている)と、6歳以降に漢学(孝経・四書・詩経ほか)を教えてくれた父や寺の内外の大人たち。福岡の私塾に寄宿したこともあるという(16歳から2年弱)。学びの文化は江戸期には定着していたのだろう。

咸宜園は、藩主や幕府の後ろ盾がない純然たる私塾だ。豪商ゆえに可能だったであろう事業。咸宜とは、詩経から引いた言葉で、「ことごとくがよろしい」(≒入門に身分・条件を問わず)という意味だと説明されることが定番だが、淡窓には独自の解釈(思い)があったような気もする。

入門に身分・学歴・年齢を問わない(三奪法)。学ぶ意欲さえあればいい。入門規約や塾則を設け、当番を割り振って、会計、食事から清掃、図書の管理まで、学生たちにさせたという。

明治30年に閉じるまで、約90年にわたり、延べ5千人近くの門下生を育てた。多いときは1年に2百名を越える門下生がいた。豊後高田に分校を開いてもいる(淡窓47歳)。

咸宜園が盛況だった理由は、どこにあったのか。足利学校や弘道館と違って塾費を集めての経営だった。廣瀬家は商人だったから、商人階級の子供たちも多かった。経営面は順調だった可能性があるが、続かなかった。今は国指定の史跡と化している。

特徴的なのは、試験を毎月実施して、席次を決めたこと(月旦評)。最上級から最下級まで19等級に分かれて、各級にも上下があった。

筆記(書・詩・文・句読)と平常点と口頭試問で成績を評価。全員の名前と順位を掲示。入った時は横一線だが、ひと月経てば誰が優秀かはすぐわかる仕組みだ。このあたりは進学塾の先駆け的匂いも感じる。

順位をつけることは、モチベーションにつながる部分もあろうが、度を越すと順位を上げることが目的化するおそれがある。成績上位の学生に歪んだ優越感や尊大さが育つ可能性もなくはない。咸宜園は、他の教育遺産と比べても、競争原理を採用することに躊躇いがなかった印象を受ける。

さらに目を引いたのは、多くの政治家や官僚を輩出していること。

大村益次郎は、戊辰戦争で官軍側の参謀を務め、明治維新後は日本陸軍の基礎を築いた。

長三州(ちょうさんしゅう)は、勤皇の志士として大村とともに戊辰戦争の参謀を務め、明治維新後は太政官(立法・行政・司法の全機能を担う最高機関)の官僚に。文部省局長として近代学制を主導した。伊藤博文や山形有朋は「門人」とも。

長三州は大正デモクラシーに反対したとも聞く。

咸宜園には他にも、枢密院議長から内閣総理大臣になった清浦奎吾、検事総長・大審院長を務めた横田国臣、海軍軍医総監の河村豊洲、尊皇攘夷活動家で三菱・三井の両財閥を渡り歩いた実業家の朝吹英二、東京女子師範学校長をへて貴族院議員になった秋月新太郎など、明治期の公権力の一端を担う要人を輩出している。

咸宜園が是とした競争原理、上昇欲の肯定が、卒業生の生き方に影響した可能性はないか。少なくとも倒幕から近代化、中央への権力の集中という時代的潮流と整合するような塾風はなかったか。

最も特徴的だったのは、松田道之についての記述だ。滋賀県令、東京府知事などを歴任し、明治政府による琉球処分に「活躍」と記されている。

あきらかに官軍目線(^w^;)。琉球処分とは琉球王国が滅ぼされた出来事だが、それを活躍と言ってしまうのは、さすがに今の時代にそぐわない。

勉強に励み、成績を上げ、塾内トップをめざし、卒業後は立身出世というわかりやすい人生街道。それを礼賛する空気は、かの時代に強かったし、咸宜園の校風だった可能性がある。
 
ということを仮説として考えながら見ていたら、なんと、仮説をそのまま裏づけるといっていい史料があった。「咸宜園の出にして世に名をなせし人々」の名を並べた当時の掲示物があったのだ。
 

この夏日本遺産をまわって見えてきたことは、礼節と人生訓という儒教ベースの教育は共通している半面、それぞれに個性があるということ。あまり語られない点だが、創立者の身分・目線・教育観、さらには時代背景や土地柄が、けっこうな度合いで影響している。
 
だがその影響は、遺産として残る校舎ほどには、明瞭な姿で残っていないのだ。この場所でかつてどんな教育をしていたか、どんな空気が流れていたかを推し量るのが難しい。だからこそ「遺産」なのか。もはや現代に活かせる内容を取り出すのは、難しくなってしまったか。

古い寺を廻った時に感じることだが、今に遺(のこ)る建物は箱でしかない。かつては箱の中に中身があった。生きていた。なぜかといえば、教える者、学ぶ者が、つまりは人間がいたからだ。

人間が消えた箱は、ただの箱でしかない。かつてこんな教育をしていましたという記録が残ったとしても、現在進行形で続く教育がなければ、箱そのものにさしたる価値があるように思えない自分がいる。
 
立派な箱を持った学校・塾・予備校は、今の時代に溢れている。そうした場所が将来に滅びたとして、箱だけをありがたがるだろうか。ありがたい(価値がある)のは、箱ではなく、箱の中身であるに違いない。

教育は、あくまで伝える側と学ぶ側との生きた関係によって成り立つ。学ぶ側は生まれてくる。伝える側の個体はやがて死ぬ。

死んでなお残る、残せる教育とは、どんなものだろう。どうすれば可能になるか。やはり言葉か。いや、言葉だけでは足りないように思う。

最も残さねばならないものは、未来につなぐシステムのようなものだろうと思える。智慧、意志、生き方を継承する仕組み。未来の心に残りうる力を持ったもの。

それが実現すれば、未来にも教育を通して過去の人が生きることが、可能になる。未来に残せるようになる。

システムを残す――という主題をもって、教育を進めていくことにしようか。

  ◇

翌朝に周囲を散歩した。三隈川の清流が勢いよく流れている。水流豊かな支流の間に中洲があって、公園になっている。これが水郷・日田と呼ばれるゆえんか。

あの種田山頭火も、道中に立ち寄った場所。分け入れば水音 とは、日田近くでの一句だそうだ。

山頭火は九州を好んで旅した。たしかに土地の陰影が深く、地熱というか山の霊力というか、どこをめぐっても本州とは異質の神秘とダイナミズムが足元から伝わってくる気がする。

分け入っても分け入っても青い山(山頭火)。

山頭火のように一族の業に翻弄され彷徨い続けた人間には、九州の地は、心の闇を忘れさせてくれる力があったのだろう。


濃緑の葉を茂らせたイチョウの大木に出会った。石碑には“特攻イチョウの木”とある。日田から飛び立った特攻隊の青年が、この木の上空を旋回して故郷に別れを告げて、帰らぬ人となった。

日本人は、あの戦争を、遠い過去の特殊な出来事としてとらえている。もう二度と繰り返さないだろうと、それくらいに日本人は賢くなったはずだと、少なくない人が思い込んでいる。

だが、人間の業は、そう簡単に変わるものではない。事なかれ主義、周りに合わせて安心してしまう臆病と無思考の業は、今も変わることなく続いている。
 
その顔をのぞかせる出来事は今も起きているのだが、あの戦争と、今の日本社会に起こる出来事は別物だと思い込んでいる。だが実はそうではないのだ。

どうしようもなく根の深い無思考という病。この病が伝播しないように、自立して思考できる人間を育てる努力を始めるしかないではないか。


特攻イチョウの木
日本人は走り出したら聞く耳を持たない


ハグロトンボのつがいがくっつきながら飛んでいた 
生命は今を生き、未来につなげることだけにひたむきだ 
二か月ほどの命というが、短いという思いさえないだろう 
つまりは永遠を生きている

 

水郷の朝 今回の旅で最も絵画的な一枚



2024年8月末



日本全国行脚2024 岩国・錦帯橋の清流


朝の電車(錦川清流線)で川西駅へ。宇野千代記念館に足を運んだ。

宇野千代さんのことは、正直よく知らなかった。覚えているのは、「わたし、死なない気がするんです」とテレビで語っていた姿くらい。ちなみに、死なない気がすると言い出した人は、たいてい“おむかえ”が近いと思うほうが正しいのかもしれないとも思う。享年97歳。

16歳で文学に興味をもって雑誌に投稿を始めて、二十歳で上京。出版社の事務、家庭教師(もと岩国で代表教員をやっていたそうな)、ウェイトレスなどを勤めながら、24歳で懸賞小説で一等当選。

八十代まで精力的に作品を発表。自伝小説『生きていく私』ほか、多くのベストセラーも。みずから出版社を作ってファッション誌や文芸誌を刊行し、着物のデザインも手がけた。自身の感性と時代がうまく嚙み合った印象。打てばヒット。楽しい人生だったように見えなくもない(深層はわからないけれど)。

羨ましいのは、家自体の佇まいだ。古い木造の平屋で、広い庭には楓などの広葉樹が、よく手入れされている。みずみずしい苔が全面を覆って、土や砂利を見せない。季節感が豊かで、全体の色が明るいのだ。

人はどこまでも業が深いが、自然はどこまでも自然だ。見せる姿そのままだ。雨が降れば潤い、日照りがくれば枯れる。条件整えば再生する。あるがままだ。水、色、光、そのすべてが愛おしい。

宇野千代生家の庭 手入れがたいへんらしい 
今日も朝から掃き掃除と水やり 苔が日焼けしてしまうからという


この私の生(本質)は、本来なら自然を愛する。それこそ人間の世界を忘れて、森の中に隠棲して、嵐のざわめきに身を震わせ、雨の滴に息を合わせ、静謐に同化して、無であることをしみじみと味わいたい。

だがそれは、人間の世界にとっては無(存在しない)でしかない。たとえ人間の世界が限りなく業が深く、愚かで、醜く、殺伐としていて、やがては滅びるだけの定めにあるとしても、それでもまだ人は生き、世界は続いている以上、その中で何かを形にすることには、意味があるだろうとは思う。そう思う人生を選んでいる。

関わることで初めて生まれる意味がある。関わりの中でしか成り立たない価値がある。たとえ関わりそのものは無常であり、時に傷つき、いずれ消えるものだとしても、つかの間の関わりの中で何かをなし、何かを作ることは、刹那この瞬間においては、やはり意味を持つように思う。

滅びの中で生きるのだ。それこそが今を生きるということなのだろうと思う。無へと帰ることを織り込んで、虚無にすぎないことを当たり前として、今を作る関わりの中で有を創り出す。それでいい、と思えることが、諦念を越えた生き方ではないか。



錦川沿いを歩いて、吉香(きっこう)公園へ。大噴水は水溜まりに入れるようになっている。小さな女の子と母親が水の中を歩いて遊んでいる。私も噴水の飛沫がかかるところまで行ってみた。これぞ夏の快。



旧目加田家住宅という武家屋敷を通ったら、ガイドのシニア男性が声をかけてくださって敷地に入れてもらった。家の裏側には二階に窓があるが、表側にないのは、身分が上の人を見下さないためなのだとか。家はかなり古い。一度バラして移築して国の重要文化財として保存しているという。

古い屋敷を残すことで、岩国は風情を保っている。ここで思い出すのは久留米だが、かの地は戦後どんどん古い家を壊して商業ビルと住宅を建ててしまった。後悔先に立たず。保っていれば観光資源になっただろうにと、前の旅で地元の老婦人と話したことを思い出した。



いざ、岩国シロヘビの館へ(入館料二百円)。岩国には、シロヘビにまつわる伝承や古文書の記録が、少なからず残っているとか(古文書と言っても江戸期だそうだが)。たしかに姿が印象的。手足のない白い体に、表情のない赤い目。姿が非日常なのだ。

生きたシロヘビを見ることができます!ということで入ってみたが、実物はまったく動かない。置物と変わらない。ハムスターのようにもつれ合って固まっている。「楽しいの?」と聞いても、答えない(笑)。


子供のシロヘビだけは、ときどき舌をちょろちょろと出して見せる。でも動きといえばそれくらい。

もとはトカゲ類で、次第に手足がなくなった。アオダイショウの突然変異で、体が白くなった。蔵の米をネズミから守ってくれるということで、岩国では家の守り神として大事にされてきたという。

いや不思議な生態だ。目は明るさを感じる程度で、音はほとんど聞こえない。ネズミを丸のみするが、味覚がない(おいしいともまずいとも感じない・・それはさすがに真似したくない笑)。

匂いは舌で感じる(だからちょろちょろ舌を出す)。音は耳の代わりに骨で感じるという(骨伝導)。体長180センチ、胴回り15センチ(けっこう大きい)。寿命は15年ほど。29年も生きたシロヘビも。「なんのために?」と考えるのは、欲深な人間の野暮というものか(笑)。

アゴを上下に開き、下あごを左右に開いて、自分の頭より大きな獲物を丸ごと飲み込む。肋骨を大きく広げて、獲物を消化していく(人間の姿で想像すると恐怖でしかない)。

最初は突然変異。その後は交配した異性ヘビの遺伝子と自分の遺伝子(白くなるアルビノ遺伝子)が、半分ずつ子供に受け継がれる。子供はアオダイショウかシロヘビか。

人間の業はどうなのだろう。二人の親の業を半分ずつ受け継ぐ? むしろ生まれた後の距離と時間による気がする。親の側、子の側の執着の度合いによっても、業の遺伝度合い(影響力)は変わるように思える。

ほぼ確実なことは、親の業から無関係ではいられないということだ。いい面も悪い面も、親の業は確実に子の心に遺伝する。

業について興味がある人はこの本を


人間の場合は、自覚と実践によって、人生の色を変えることは、ある程度可能だ。遺伝による輪廻を越えるには、やはり悟り(理解)が必要だし、それしかない。他の生き物なら突然変異するしかないが、人間の場合は理解するという知能によって、変わることが可能である。人間だけの特権ともいえる。

シロヘビは性格温厚。目は赤ルビーのようで、全身は高貴な白に輝いている――といえば愛着も湧くから、言葉って不思議。今も金運・福運の神のつかい。

蔵、石垣、水路などの環境が整っていないと生きていけない。次第に数が減っているのだそうだ。シロヘビ、かわいそう。

近くに鵜の里という飼育センターも。近くで見ると、鵜は体が大きくてなかなかの迫力。魚を捕まえても、人間に吐き出させられてしまう定めにある。でも自覚がないから虚しい(こんな人生イヤだ)とは思わないのだろう。

子供のシロヘビは恋愛の神様でもあるらしい 
飼うの?と思ったが、拝むのだそうだ

  ◇

堤を上がったところに、巨大な銅像が。政治家だった。自分が見た限りでの印象に過ぎないが、中国地方から九州にかけては、政治家・軍人系の巨象が多い気がする。昔は(今もかもしれないが)、出世といえば、政治・経済・軍部内で昇進することだったのだろう。

「おらが村のエライ先生」という認識。本当の世界はさらに広くて、こんなに小さな島国の、さらに小さな田舎から出世したところで大した価値はないかもしれないのだが、要は井戸端会議レベルで、「○○さんチの○○さんは東京に出て○○になったらしい、すごいわねえ」という話題に上がることが出世の証、みたいなことなのかもしれない。

国会に出てきたセンセイたちは、それぞれの田舎を背負って永田町にいる。地元にイイ顔ができることが自慢であり、政策選択の目印。そして、おらが村のセンセイを支援する人たち。

この田舎者気質(とあえて言ってしまいます)、変わる日が来るのだろうか。いや、野暮な脱線をした――。



堤通りの「岩国石人形資料館」。シニア男性に「無料ですからどうぞ」と促されて入ってみた。中に入って驚いた。人形(ひとがた)の小さな石が陳列されている。石を細工して人形にしたのではなく、川中の石にくっついているのだそうだ。ニンギョウトビケラという昆虫が、川底の小石や砂を集めて作るのだという。

今も錦川に探しに来る人がいるそうだが、コツがあって、一般の人には見つけるのが難しいそうだ。

拾い集めた石人形を、大きな石に接着剤でくっつけて並べると、七福神とか大名行列とか、ひとつの場面を表現できる。石人形作家もいる。盆栽に似た世界。ひとつ庭に置いてみようかと思った。

写真も撮ってよいと言ってくださる 
これは七福神 なかなか楽しい造形だ

こちらは峠越えの大名行列 
立派なアートだが、なぜさほど知られていないのだろう?

   ◇

錦帯橋を渡る。かつて大雨に橋が流されることを防ぐため、人柱を入れることになった。貧しい武士が名乗りを上げたが、二人の姉妹が父の代わりに橋台に身を埋めた。その化身とされているのが、先ほど見た石人形だ。



錦川に身を浸してみる。水が冷たい。が、冷たすぎるわけでもない。ちょうどよい水温で、猛暑で火照った体を冷やしてくれる。おお、こんな嗜みがあったか。川で泳ぐなんて何十年ぶりかもしれない。

川を上がると、服はびしょ濡れ(そりゃそうだ)。作務衣からぽたぽたと水が落ちるのが止まるまで、日陰で一休み。乾いたところでバスに乗って、岩国駅へ。
 
いや、夏の風情に満ちた一日だった。


錦川の清流 よき夏



2024年8月下旬

 

 



日本全国行脚2024 備前・閑谷学校

奈良を朝8時過ぎに出て、大阪から姫路経由で岡山・吉永駅へ。

駅前は想像以上に何もなかった。バスは2時間半に一本。駅前にタクシー会社があったので、背に腹は代えられぬと利用することにした。

このあたりも過疎が進んでいると運転手さん。兵庫や岡山の山間を縦走する列車に乗ると、駅前の家さえ廃屋と化している光景を見かける。かつては山中の駅もごったがえしていたというが、みんなどこに消えていったのだろう。

閑谷学校到着。快晴の日差しを、竹笠で避けて歩く。リュックを隠す場所を探したが、良くも悪くも隙のない造りで、見つけるのに難儀した(休業中の茶屋の裏に隠した)。


夏の日差しに輝く閑谷学校


<閑谷学校の特色>
閑谷学校は、17世紀後半(1670年)に藩主・池田光政が創設した教育機関。「山水清閑、読書講学にふさわしい土地だ」と見込んだ様子。

閑静な山間の学校だから、閑谷学校。現代人の感覚だと、交通に不便な山奥だが、当時の人たちは違う感覚で見ていたのだろう。思えば、徒歩2時間かけての学校通いも、朝から日が暮れるまで歩いて旅することも、当たり前の時代だった。

他に交通手段がなく、妄想する小道具もない。ひたすら歩く。おのずと考えない境地に。身を包むは、山水の音のみ。想像すると、少しは当時の時間感覚も見えてくる気もする。いや実際にやってみようか。東京から奈良まで歩いてみるとか(いややっぱり、せめて自転車で笑)。

光政は8歳で家督を継いで以来、どうやって藩を統治するか思い悩んで、「儒教による仁政」にたどり着いたという(当時は幼くして責任を負う社会だった。11歳で元服した時代もあったというし)。

幼少期から、成人後の参勤交代中も熱心に儒教を学び、武家の子には藩学校を、庶民の子には手習い所、集大成としての閑谷学校を作った。

光政の思想の基盤が儒教だったことは間違いないが、儒教の枠を越えた視野をも持ちあわせていた様子。光政が師と仰ぐ中江藤樹は陽明学者で、徹底した平等思想の持ち主だったというし、その弟子であり、光政に仕えた熊沢蕃山は、国が栄えるには、庶民の生活が向上せねば、そのために領民に仁政を及ぼさねばという経世済民思想の持ち主だ。光政は、彼らの影響を強く受けていたように映る。

領民救済を第一に考えて、藩政改革を推し進めようとした蕃山は、周囲の反発や嫉みを買い、幕府にも嫌われたとか(儒学・朱子学は幕府公認。為政者にとって都合がよかったからだろう)。

思想を持つ人間は、無思考な人間たちに忌み嫌われる。蕃山は、早めの隠退を余儀なくされ、遠く離れた茨城で軟禁中に亡くなるなど、不遇の人生だった。その弟・泉仲愛は、閑谷学校の建立・運営に兄の死後も関わっていたというから、彼らの絆は強かったのだろう。異質にして進取の思想性を持ったグループだ。

閑谷学校は、そうした思想に支えられた庶民・農民のための学校だ。これこそ、他の藩校と異なる特徴かもしれない(たとえば水戸・弘道館は、必要な出席日数などの条件が身分によって違っていたという。先取ではあったが封建的。先取にして平等志向だったのが、閑谷学校といってよいか)。

光政が閑谷学校と関われたのは、12年間のみ。だがその遺志を、家臣・津田永忠らが継いで、足かけ30年かけて、今に残る外観の校舎を完成したという。

7歳から20歳過ぎまで、30名から60名ほど。武家、医師、農家、商人の子供たち。遠方の子は学房に宿泊。


<閑谷学校の勉強生活>
午前7時から午後10時まで勉強。午後4時過ぎのたそがれ時に、2時間ほど休憩。4日学んで1日休み(掃除・洗濯・入浴など。風呂は5日に一度でよいということ)。筆や硯など文具は貸与。授業料は無料。

午前は共同授業で、午後は自習や教官について個人指導。複数の先生が常住。修学期間は1年が基本。メインは習字と素読。儒教の教科書『経書』を音読して丸暗記。そうすることで儒教思想が自分の言葉・考えとして出てくるようになるという発想らしい。

言葉を音で覚えて、みずからの思考の土台とすることは、学習の本質の一つだろうとは思う。語学も同じ。音だけで覚えられるのは、幼い子供。成長するにつれて、その音が状況において持つ意味(いわゆる文脈)や、感情をもセットにしないと覚えられなくなる。
 
察するに、思考をつかさどる脳の器官が発達・肥大してしまって、音に集中することが難しくなるからだ。だからある程度歳を重ねた子供なら、演劇や小説・映画や演説など、文脈とセットで言葉を覚えるほうが、効果的ということになる。

5日おきに五経の講義(習芸斎:しゅうげいさい)。近所の農民も参加。

それにしても江戸期の藩校は、どこにおいても儒教を拠りどころににしていた印象が強い。圧倒的な影響力。足利学校、弘道館、そして閑谷学校も、孔子を祀っている。孔子祭り(釈菜:せきさい)も共通行事。閑谷学校の聖廟(孔子像を存置(の前には、2本の大きな楷の木が伸びている。これは、中国山東省・曲阜の地にある孔林から種を持ち帰って植えたものだそうだ。


聖廟の前にそびえる楷の木

こんな場所で学校を開けるなら終の棲家決定だ



今も子供たちが講堂に正座して、論語の講読をやっているのだそうな。

中国の孔子廟に倣ったためか、石塀や備前焼の石瓦、正門の上の鯱など、学校の外観はいささか特殊。近くに黄葉亭という茶室があって、頼山陽(代表作は『日本外史』。在野の歴史研究家という呼び方が最も近いか)も訪ねたというが、今日は時間がない・・次の機会に取っておこう。

(しかしこの時代に頻繁に出てくる儒学者とは不思議な人たちだ。儒学、朱子学、歴史や漢詩や俳句を嗜んだというが、どうやって生活していたのだろう。頼山陽は旅の途中で姿をくらまし脱藩、幽閉されるなど、かなりアウトローだった気配がある。いずれ調べてみよう。
 

磨き抜かれた講堂 
ここに丸いイ草の座布を敷いて勉強に励んだという

 ◇

<閑谷学校のその後>
閑谷学校は、明治期に入って閉校。その後も規模を縮小して、閑谷精舎(儒者・山田方谷を迎えて五年弱続いた) → 閑谷黌(英学・漢学・数学を週24時間。作家・正宗白鳥も学んだとか)として続いたとある。
 
だが、大多数の子供たちは学制下の尋常学校に通っただろうから、実質的に終わった感が否めない。

儒学・漢学が、明治期以降の欧米化にそぐわなかったことも、決定的に作用した。明治に滅びたのは、侍だけでなく、儒学者たちでもあったのだ。

今も漢詩作りや歴史の解説など、学校の由来にちなんだ教育活動は続いている。だが学校という箱の中味に何を詰めるか、何を伝えるかは、箱の外に出て、世界で今起きていることを感じ取って、みずからの体験と知識と思考力をもって考え抜くことでしか、出てこない。そうしないと箱が生きてこないのだ。

中身は現代に即したリアルなものもあっていいのだろうと思う。そのことで箱の魅力が生き続けることが可能になる。

近世の教育施設は、箱は残ったが、中身は滅びた。どの場所にも共通すること。日本の近代化という荒波は、各地の自主教育の箱を襲って、その中身を根こそぎ流し去ってしまった。

残った箱(学校という場所)に、新たな中身を充填し続けられればよい。そのためにできることは、ある。箱を託された人たちの志次第だ。

文科省による過剰な規制と、成績だけで評価され、最終的には入った大学名をもって、教育の成果が測られてしまう風潮。この二つが、今の学校教育が機能不全に陥っている二大原因か。

前者(国による過剰規制)は、制度を変えないといけないし、後者(成績・学歴をもって価値を測る風潮)は、日本人の価値観(妄想)が入れ替わらないと、終わらない。
 
根の深い問題だ。もう百五十年もの間、変わっていないのだ。どんな衝撃が来たら、法制度と価値観という二つの障壁が崩れ落ちるのだろう。


旅の荷物はミニリュックと竹笠のみ 
ひたすら西へ




2024年8月22日



日本全国行脚2024  水戸・弘道館


早朝に足利を出た。誰もいない大通り、駅員一人と地元の男性がおしゃべりしているだけの閑散とした駅舎。こうした風景にも懐かしさと慰めを感じる。JRで水戸に向かった。

水戸駅を出てすぐ感じたことだが、駅周辺は巨大な商業ビルが埋め尽くしており、視界が悪く無粋に過ぎる。歩いて何の風情も感じない。古地図を見れば、一帯に並んでいたのは平屋で、すぐそばまで湖(千波湖)が迫っている。

水戸は、その名が示す通り、水に恵まれた都だった。那珂川と千波湖に挟まれ、城下町には大きめの水路がめぐっていた。当時はこの坂道から、さぞ展望の良い景色が見渡せただろうし、偕楽園越しに眺める夕焼け空は、さぞせつない色を放っていただろう。

風景に美を感じるというのは、個人の素養にかかっている。それなりの景観美を経験値として持っていなければ、無機質で巨大な箱物を建てても、それが醜悪ということに気づかない(図画や美術という科目は、美意識を育てる目的も本当はあるはずだが、機能していないのだろう)。政治・行政に携わる人の多くは、美意識を持ち合わせていない。日本の風景が歳月を経るにつれて殺伐としてゆく所以でもあるだろう。



強い日差しの中、弘道館に到着。19世紀半ばに水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)が建てた藩校だ。日本最大の敷地面積(10ヘクタール以上)に、正庁(学校御殿)、至善堂を中心として、文・武・医・天文を教える専門棟、さらに神社や孔子廟、森羅万象を象徴する八卦堂、馬場や調練場もある。今の総合大学に匹敵する規模。国家に準ずる観さえあるスケールの大きさだ。


そう、斉昭は、国家を見ていたのだろうと思う。彼にとって藩校は、国づくりに直結していたに違いない。

斉昭は、実用と思想と学問を包括的にとらえていた。神儒、忠孝、文武、治教、そして学問と事業の一致。まさに統合だ。国とは、世界とはどうあるべきかを考える視野の広さがなければ、これほどの規模の藩校を作ろうとは思わなかっただろう。

その発想の基盤となったのが、幼少期からの英才教育、特に歴史を通じて日本という国をとらえる水戸学か。神道、儒学、国学、尊王攘夷。日本という国家の保全。そのための全方位的な教育を実現しようと立ち上げたのが、弘道館といってよいか。

斉昭の構想を形にした側近の一人が、藤田東湖だが、あの足利学校の創建者ともいわれる小野篁を遠い先祖に持つというのは、興味深い因縁だ(小野篁が足利学校を建てたというのも、東湖の先祖だというのも、根拠の乏しい仮説だとはいうが)。

東湖の知力は父譲りだが、父・幽谷も地元の私塾で学んだそうだ(教育とは本当に重要なのだ。土壌を分解して植物を育てる、土の中のバクテリアみたいなものか)。

弘道館に卒業はなかったそうだ。若者も年寄りも、同じ場所で学ぶ。学問は生涯通じて行うものという理由らしい。たしかに、世界を知り、世を作るにはどうするかを考える、自分はどんな生き方を貫くかを言葉にする、こうした知的営為は、生涯続けるべきものだろう。人間は考えねば、問わねば、知らねば、ならぬ。

斉昭は、大船・軍艦の建造や大砲や銃の製造など、富国強兵の先駆け的なことをしている。寺の仏像を供出させたことも、廃仏毀釈から太平洋戦争までの政府の動きと似ている。

進取の気性は水戸藩の文化みたいなものだが、斉昭の思想がその後も継承されていった場合、日本はどうなっていただろう。外国を排斥し続けることが、はたして可能だったか。実現できたとして、日本に何が残ったか。

おそらく閉塞だ。封建的な身分制社会。決して不平をこぼさない従順な農民。天皇という権威のもとに国を維持するという名分以外に、国を発展させうる思想性はないように見える。大きく見れば、儒教思想という呪縛の中に、日本も閉ざされていたのかもしれない。

当時の国際情勢からすれば、開国そして富国強兵は、避けられない道ではあったろう。保守と改革の抗争は弘道館内でも起きて(明治元年・弘道館の戦い)、文・武・医の建物は破壊された。学制施行で藩校そのものが廃止。その後は公舎等に使われたらしいが、もはや亡骸(なきがら)だ。斉昭の構想は、三十年も経たぬうちに滅びた。致し方ない面はある。

水戸藩が二百年の大計として編纂した『大日本史』。その編纂の拠点となった彰考館は、維新の荒波を越えて生き延びたにもかかわらず、空襲で焼け落ち、保管していた史料の8割は焼失したのだとか。

あれほど情熱を込めて書き上げた大日本という物語をも、あの戦争は灰燼に帰(かえ)したのだ。光圀も斉昭も誰も想像しなかっただろう。ほんとに何を考えていたのだか。何も考えていなかったのだ。

理想や大義という名を借りて、人間は傲慢(妄想の一種)という快楽に突き進む。歯止めをかけるのが理知(合理的思考)というものだが、理を見るより隣人を見てしまう視野狭窄な日本人に、理知は育ちがたい。

つまりは、日本人の心性の最も根底に流れているのは、無思考という業なのかもしれない。何を志そうと、無思考が土台にあっては、必ず道を見誤る。さながら環境の変化に適応できずに滅びる種のように、だ。

日本に永劫続いているのは、無思考だ。沈滞するは必然。滅びの定めを背負うは、必定である。



弘道館・対試場  
武術の試験や対外試合が行われたそうな
 
かつて思想を形にした人物たちが全国にいた
日本人の思想は、どこに向かっているのだろう





2024年8月初旬




カピバラは悩まない?


いくつかの作品は翻訳されて海外へ

日本語版は著者がすみずみまで言葉を選んでいますが、外国語版となると、どんな表現になっているのか(ネイティブの人がどう受け止めているのか)、想像つかず。

でも、自分の言葉が見知らぬ人に届いているというのは、不思議な感じがします。

(把握しているのは、韓国、中国、台湾、スペイン、シンガポール、ベトナム、インドネシア・・・『怒る技法』はアメリカで翻訳出版される予定です)


こころを洗う技術 SBクリエイティブ
 
 
反応しない練習 KADOKAWA
 
では、次の本は?
 
カピバラは悩まない

原題は、
 
 
反応しない練習 だそうな(攻めてますw)
 
中国では、カピバラは煩悩ナシの生き物とみなされているそうな
 
 
 
 
 



日本全国行脚2024 栃木・足利学校

あの戦争の後は、コロナ騒動――戦後復興、バブル崩壊後の停滞を経て、日本はさらなる沈滞のフェーズに入った気がしなくもない。

変わることさえ想像できなくなった国。これがこの国のデフォルト(初期設定)と化してゆくのだろうか。体も心も、つまりは社会年齢(平均寿命)も人々の心のありようも、老化の一途をたどっていると言えなくもない。このまま終わるつもりか?

この夏の暑さは、さすがに病的である気がする。かつては体を水に濡らして扇風機に当てれば、クーラーなしでも過ごせた記憶がある(学生時代)。

だが、さすがにこの夏は忍び難い。部屋の中でも息を潜めているほかない。ちなみに猫のサラはあの毛むくじゃらで、よく平気でいられるものだと思う(とはいえ若干やつれたように見えなくもないが)。

 

実際のサラ(爆睡中)



室内でグダりつづけているわけにもいくまい。ということで、小旅行を敢行することにした。いざ、栃木・足利学校へ。

足利学校は 日本最古の学校。創建の由来は主に三説あるが、その校風にてらせば、平安時代の小野篁(おののたかむら)が原型を作った可能性が高い。仏教と陰陽道が混ざり合った場所ではなかったか。

足利市の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)は、12世紀の創建で、大日如来が本尊。真言密教だ。やはり平安期に礎が築かれた可能性が濃厚だ。

室町中期に地元の有力者(関東管領の上杉憲実:うえすぎかねざね)の支援を受けて、その運営内容が記録に残るようになった。戦に役立つ兵学と易学、そして医学を主に学んだという。学生は入学時に僧籍を取得。卒業時に僧籍を返還して、それぞれの故郷に帰っていったとか。

 


十六世紀半ばに延べ三千人が学んだともいわれるが、年単位でいえば百五十名前後。それくらいの規模なら敷地内の衆寮や寺に止宿できただろう。中には沖縄から来た学生もいたとか。どんな経路で足利まで? その道のりだけでも胸ときめくアドベンチャーだ。

学費は無料だったとか。学校側が食事と宿舎を提供。時の権力者の庇護(平安貴族、鎌倉・室町期の武家、さらに徳川幕府)と寺に寄せられた布施によって支えられていたのだろう。なるほど、それで入学した者は僧籍を得る決まりになっていたのかも。

時間割はなく、朝から自学自習。修学年限は特になし。漢籍(中国の古い書物)を書き写して、各自のペースで学んだ。質問があれば、先生に聞く。在学中は規則を守り、学問に励む。学びたいことを学び終えれば卒業する。無理がない。

学生のモチベーションが明確だったから可能だったのか。考えてみれば時間割を作って、全員が同じ教科書で同じペースで勉強せねばというスタイルは、特殊なのかもしれない。

管理教育は、明治政府主導の近代教育から始まった。今も続いている。「画一」という無理にしがみついているから、教科書も授業内容も刷新されずに、つまらないものになる。教師も生徒も、いわば無理強い教育の犠牲者ではないか。


江戸時期には1万7000点もの漢籍・書物を蔵する文庫(図書館)的側面も持つに至った。足利学校を訪ねた人物のリストを見ると、幕末には吉田松陰や高杉晋作も訪ねてきている。江戸期に記された名の多くは、儒学者だ。

儒教は、当時の日本人にかなりの影響力を持っていた。礼節が日本社会の秩序と安定を保っていた。今やすっかり希薄化した部分だ。

生き方を学ぶ機会がないのなら、欲に任せて言いたいことを言い、やりたいことをやり、そんな自分がなんで悪いのかと開き直る人間が出てくるのは、当然ともいえる。教育が成績をもって価値を測るだけの表層的なものと化し、かつ子供たちがネットやSNSを通じて欲と悪意に容易に触れるようになった今、社会の殺伐と不安定度が増すことは、必然とはいえないか。

社会の劣化に対抗する力を持つ筆頭は、教育だ。教育が廃れれば、社会も荒廃化する。教育という器(制度)にどんな内容を盛り込むかで、社会は良くも悪くもなる。

当たり前と言えば当たり前の真実。日本の未来を育てようと思えば、どうしたって教育がその手段になるということだ。




足利学校の本堂では、アニメで小野篁(おののたかむら)が登場。一緒に論語を素読できるというもの。「子曰く」と読み上げる篁は、9等身の超絶イケメンだ。声もさわやか。足利出身の声優さんだとか。

歴代の校長(庠主:しょうしゅ)の墓が十七基ある。在任期間は短くて十五年。学生たちと起居をともにし、人生の最期も学校で迎えた。九州や中国地方から来た校長もいた。個性豊かな学生たちと、いろんな交流があったことだろう。最後の校長は、学校が終わる日はどんな面持ちだったのだろうか。

歴代庠主の墓 名前がわからない墓も 

墓も歴史も、その奥には生きていたリアルな人たちがいる 

想像力を働かせれば、歴史は無限に近い楽しみを与えてくれる




相田みつを氏が参禅していたという高福寺は、今も早朝の坐禅会を続けていた。当時とさほど変わっていないだろう質素な佇まい。力みがなく、自然な体(てい)で、人々に門戸を開いている。拝観料や土産物販売で寺を維持しようという発想とは、無縁な姿だ。

田舎を回ると(こうした表現が礼を失しないか気にかかるが)、寺も料理屋も、昔の佇まいを残していることに気づいて安堵する。勤勉と至誠(真心を尽くす心)を覚えている人々が生きている。

ただ足利も、映画館が潰れたり、空き店舗が目立つようになったりしている。いつまで今の景観や真心を保っていられるか。100年後に残っているか。


日本が縮小しつつあることは、多くの人が感じていることだ。私自身が歳を重ねて、ノスタルジーと、自分無き後の世界への憂いを覚えるようになったことも、こうしたことを思う一因としてあるだろう。

日本各地に流れる時間と、そこに息づく生活は、時代の波に呑まれて劇的に変わっていくか、つつましさを保ちながら静かに閉じゆくか。

できることなら、大切なものは変わらずに続いていくことが理想だろうが、そのために必要なものは、未来につなごうという意志と、未来につなぐ具体的な行動だ。こればかりは自覚してやらないと、簡単に滅びてしまう。




足利は、映画・ドラマのロケ地として重宝されているそうだ。ナンバMG5、乃木坂46『何度目の青空か』、ちはやふる3部作、今日から俺は! イチケイのカラス、アズミ・ハルコは行方不明、テセウスの船、湯を沸かすほどの熱い愛、今夜、ロマンス劇場で、銀魂2等々――

ちなみに、このうち押さえていないもの三つ。アンテナ感度高めの出家かもしれない(笑)。

足利めぐりの最後は、渡良瀬橋。あの森高千里(さん)の名曲『渡良瀬橋』の舞台。JRの駅メロになっていた。




渡良瀬橋は、実は今回が二度目。初めて訪ねたのは、学生だった頃だ。

JR足利駅近くの家をいきなり訪ねて、出てきたご婦人に自転車を借りた。自転車のお礼にアイスクリームを持って行った。下校途中の学生に交じって駅で列車を待っていたら、ご婦人がおにぎりを持ってきてくれた。

当時の記憶をたどって、その一帯を尋ねてみた。あの心優しいご婦人も、もうずいぶんお歳を重ねているだろう。近所には朽廃した家も目立つ。時間は流れてゆく。

いきなり家を訪ねて自転車を貸してもらえたのは、ご婦人の優しさもあるが、私も若かったからだろう。まだ二十代半ば。黒髪もふさふさで、肌はピチピチ(笑)。今の姿なら怪しまれるだけかもしれない(ほぼ確実にそうなるだろう)。

もう会えないか、会わないほうがいいか。旅の途中で出会った人たちは、優しい姿のまま胸に残っている。

ちなみに、今(中日新聞・東京新聞に)連載中の『ブッダを探して』に、その旅のことをほんの少し書いている。全国の花火大会を追いかけて旅したという程度の記述しかないが、その道中には数多くの愛おしむべき記憶がある。いつかもっと細やかに人生の旅を振り返る手記を著わすことができたらと思っている。

渡良瀬橋から夕焼けを眺めたかったが、夏の盛りで一日が長い。草雲美術館も次回に取っておこう。

『ブッダを探して』のイラスト 何者でもなかった頃

何者かになることを拒んでいた時代 今思えば幸せでもあった

駅のコンビニで、地元の婦人(九〇過ぎとおっしゃっていたか)と、しばらく雑談。趣味で作った革製のバッグを数十年使っているとか。刺繡も縫合もプロ並み。母に習ったそうだ。桐生の神官の一人娘で、神社の後を継ぐのが嫌で幼い頃に家出しようと駅まで行ったという話。人に歴史あり。もっと聞きたかった。
 
後で知識と婦人の話がつながったが、桐生(上州)は織物の町だ。養蚕・製紙・織物が盛んで、主な担い手は女性たちだった。「かかあ天下」という言葉が生まれた土地。よほど女性たちは元気だったのだろう。

あの老女の母は、そうした土地で身に着けた技を、娘だったあの老女に教えたのだろう。見せてくれたのは、趣味レベルの細工ではなかった。それだけ優れた技巧が、桐生の土地では自然に受け継がれていたということか。

学生時代のあの旅では、道中何人かの印象的な大人たちに出会った。隅田川の花火大会の後に乗り込んだ東上線の車内では、隣に座っていたおじさんに話を聞いた。

「ワシは人を殺したことがあるんやでえ」と自慢げに(とんでもない話ではあるが、そういう口ぶりだったのだ)言っていた。
 
「ワシの家に泊まるか?」とも。当時の私は(今もだが)、人の人生に興味があったから、行ってみようかと束の間考えなくはなかった。ついて行ったら、どうなっていただろうか。


 
暑さから脱出するために尋ねた土地だが、足利は愛おしい記憶を掘り起こしてくれたと同時に、大きなテーマを与えてくれた。

この夏は、いわゆる日本遺産、明治期までの教育施設を訪ねることにしよう。足利学校の次は、水戸・弘道館、そして岡山・閑谷学校、大分・咸宜園だ。そこで学んだことを、次に始める教育事業につなげることにしようか。


2024年8月初旬
 
 
 

※日本全国行脚2024の旅の記録を連載します