日本全国行脚2024 備前・閑谷学校

奈良を朝8時過ぎに出て、大阪から姫路経由で岡山・吉永駅へ。

駅前は想像以上に何もなかった。バスは2時間半に一本。駅前にタクシー会社があったので、背に腹は代えられぬと利用することにした。

このあたりも過疎が進んでいると運転手さん。兵庫や岡山の山間を縦走する列車に乗ると、駅前の家さえ廃屋と化している光景を見かける。かつては山中の駅もごったがえしていたというが、みんなどこに消えていったのだろう。

閑谷学校到着。快晴の日差しを、竹笠で避けて歩く。リュックを隠す場所を探したが、良くも悪くも隙のない造りで、見つけるのに難儀した(休業中の茶屋の裏に隠した)。


夏の日差しに輝く閑谷学校


<閑谷学校の特色>
閑谷学校は、17世紀後半(1670年)に藩主・池田光政が創設した教育機関。「山水清閑、読書講学にふさわしい土地だ」と見込んだ様子。

閑静な山間の学校だから、閑谷学校。現代人の感覚だと、交通に不便な山奥だが、当時の人たちは違う感覚で見ていたのだろう。思えば、徒歩2時間かけての学校通いも、朝から日が暮れるまで歩いて旅することも、当たり前の時代だった。

他に交通手段がなく、妄想する小道具もない。ひたすら歩く。おのずと考えない境地に。身を包むは、山水の音のみ。想像すると、少しは当時の時間感覚も見えてくる気もする。いや実際にやってみようか。東京から奈良まで歩いてみるとか(いややっぱり、せめて自転車で笑)。

光政は8歳で家督を継いで以来、どうやって藩を統治するか思い悩んで、「儒教による仁政」にたどり着いたという(当時は幼くして責任を負う社会だった。11歳で元服した時代もあったというし)。

幼少期から、成人後の参勤交代中も熱心に儒教を学び、武家の子には藩学校を、庶民の子には手習い所、集大成としての閑谷学校を作った。

光政の思想の基盤が儒教だったことは間違いないが、儒教の枠を越えた視野をも持ちあわせていた様子。光政が師と仰ぐ中江藤樹は陽明学者で、徹底した平等思想の持ち主だったというし、その弟子であり、光政に仕えた熊沢蕃山は、国が栄えるには、庶民の生活が向上せねば、そのために領民に仁政を及ぼさねばという経世済民思想の持ち主だ。光政は、彼らの影響を強く受けていたように映る。

領民救済を第一に考えて、藩政改革を推し進めようとした蕃山は、周囲の反発や嫉みを買い、幕府にも嫌われたとか(儒学・朱子学は幕府公認。為政者にとって都合がよかったからだろう)。

思想を持つ人間は、無思考な人間たちに忌み嫌われる。蕃山は、早めの隠退を余儀なくされ、遠く離れた茨城で軟禁中に亡くなるなど、不遇の人生だった。その弟・泉仲愛は、閑谷学校の建立・運営に兄の死後も関わっていたというから、彼らの絆は強かったのだろう。異質にして進取の思想性を持ったグループだ。

閑谷学校は、そうした思想に支えられた庶民・農民のための学校だ。これこそ、他の藩校と異なる特徴かもしれない(たとえば水戸・弘道館は、必要な出席日数などの条件が身分によって違っていたという。先取ではあったが封建的。先取にして平等志向だったのが、閑谷学校といってよいか)。

光政が閑谷学校と関われたのは、12年間のみ。だがその遺志を、家臣・津田永忠らが継いで、足かけ30年かけて、今に残る外観の校舎を完成したという。

7歳から20歳過ぎまで、30名から60名ほど。武家、医師、農家、商人の子供たち。遠方の子は学房に宿泊。


<閑谷学校の勉強生活>
午前7時から午後10時まで勉強。午後4時過ぎのたそがれ時に、2時間ほど休憩。4日学んで1日休み(掃除・洗濯・入浴など。風呂は5日に一度でよいということ)。筆や硯など文具は貸与。授業料は無料。

午前は共同授業で、午後は自習や教官について個人指導。複数の先生が常住。修学期間は1年が基本。メインは習字と素読。儒教の教科書『経書』を音読して丸暗記。そうすることで儒教思想が自分の言葉・考えとして出てくるようになるという発想らしい。

言葉を音で覚えて、みずからの思考の土台とすることは、学習の本質の一つだろうとは思う。語学も同じ。音だけで覚えられるのは、幼い子供。成長するにつれて、その音が状況において持つ意味(いわゆる文脈)や、感情をもセットにしないと覚えられなくなる。
 
察するに、思考をつかさどる脳の器官が発達・肥大してしまって、音に集中することが難しくなるからだ。だからある程度歳を重ねた子供なら、演劇や小説・映画や演説など、文脈とセットで言葉を覚えるほうが、効果的ということになる。

5日おきに五経の講義(習芸斎:しゅうげいさい)。近所の農民も参加。

それにしても江戸期の藩校は、どこにおいても儒教を拠りどころににしていた印象が強い。圧倒的な影響力。足利学校、弘道館、そして閑谷学校も、孔子を祀っている。孔子祭り(釈菜:せきさい)も共通行事。閑谷学校の聖廟(孔子像を存置(の前には、2本の大きな楷の木が伸びている。これは、中国山東省・曲阜の地にある孔林から種を持ち帰って植えたものだそうだ。


聖廟の前にそびえる楷の木

こんな場所で学校を開けるなら終の棲家決定だ



今も子供たちが講堂に正座して、論語の講読をやっているのだそうな。

中国の孔子廟に倣ったためか、石塀や備前焼の石瓦、正門の上の鯱など、学校の外観はいささか特殊。近くに黄葉亭という茶室があって、頼山陽(代表作は『日本外史』。在野の歴史研究家という呼び方が最も近いか)も訪ねたというが、今日は時間がない・・次の機会に取っておこう。

(しかしこの時代に頻繁に出てくる儒学者とは不思議な人たちだ。儒学、朱子学、歴史や漢詩や俳句を嗜んだというが、どうやって生活していたのだろう。頼山陽は旅の途中で姿をくらまし脱藩、幽閉されるなど、かなりアウトローだった気配がある。いずれ調べてみよう。
 

磨き抜かれた講堂 
ここに丸いイ草の座布を敷いて勉強に励んだという

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<閑谷学校のその後>
閑谷学校は、明治期に入って閉校。その後も規模を縮小して、閑谷精舎(儒者・山田方谷を迎えて五年弱続いた) → 閑谷黌(英学・漢学・数学を週24時間。作家・正宗白鳥も学んだとか)として続いたとある。
 
だが、大多数の子供たちは学制下の尋常学校に通っただろうから、実質的に終わった感が否めない。

儒学・漢学が、明治期以降の欧米化にそぐわなかったことも、決定的に作用した。明治に滅びたのは、侍だけでなく、儒学者たちでもあったのだ。

今も漢詩作りや歴史の解説など、学校の由来にちなんだ教育活動は続いている。だが学校という箱の中味に何を詰めるか、何を伝えるかは、箱の外に出て、世界で今起きていることを感じ取って、みずからの体験と知識と思考力をもって考え抜くことでしか、出てこない。そうしないと箱が生きてこないのだ。

中身は現代に即したリアルなものもあっていいのだろうと思う。そのことで箱の魅力が生き続けることが可能になる。

近世の教育施設は、箱は残ったが、中身は滅びた。どの場所にも共通すること。日本の近代化という荒波は、各地の自主教育の箱を襲って、その中身を根こそぎ流し去ってしまった。

残った箱(学校という場所)に、新たな中身を充填し続けられればよい。そのためにできることは、ある。箱を託された人たちの志次第だ。

文科省による過剰な規制と、成績だけで評価され、最終的には入った大学名をもって、教育の成果が測られてしまう風潮。この二つが、今の学校教育が機能不全に陥っている二大原因か。

前者(国による過剰規制)は、制度を変えないといけないし、後者(成績・学歴をもって価値を測る風潮)は、日本人の価値観(妄想)が入れ替わらないと、終わらない。
 
根の深い問題だ。もう百五十年もの間、変わっていないのだ。どんな衝撃が来たら、法制度と価値観という二つの障壁が崩れ落ちるのだろう。


旅の荷物はミニリュックと竹笠のみ 
ひたすら西へ




2024年8月22日