あたらしい青春


ただいま青春爆走中だ。病的に長引く猛暑もなんの暑(そ)のだ。

定期券が、これほど破格の力を持つとは想像していなかった。

自宅から1分の最寄り駅から電車に乗れば、冷房が効いた快適な空間にたどり着ける。

移動中は文庫本をチェックする。歩くときはズボンの後ろポケットに入れる。

スマホで眺める情報は、すぐに流れ去る程度のものだ。だが本は、自分のテーマがあって選んで読むものだ。まったく違う。

スキマ時間にスマホを眺めるのと、文庫本を読むのとでは、実は後者のほうがストレスが少なく、かつ価値が高いように思う。滋養として心に残ってくれるからだ。

今は電車の乗客のほぼ9割方がスマホをにらんでいる。あきらかに空席を探しているシニアの人が乗ってきても、若い人も子供でさえもスマホをらんで、気づこうともしない。

電車の中では、なるべく立つことにした。立っていられる体力があるなら、立ってバランスを取って下半身の筋肉を鍛えよう。

思い出したが、私は二十代前半の学生の頃も、電車の中では立つことを選んでいた。自分が座れば、座れなくなる人が一人出てしまうからだ。上京してきた両親が、そこまで頑張らなくてもいいんとちゃうかと言って、その時だけは空席があったので座った記憶を思いだした。

余談ついでだが、座ったままというのは、筋力を激しく衰えさせる。長時間座ったままでいると命を縮めるという説をよく聞くが、私のように書く時間が長い人間には、それが真実だとよくわかる。

座ると、足のつけ根から、ほとんど筋肉を使わないのだ。筋肉が死んだ状態。これがものすごく体に悪いことが実感できる。急速に筋力が衰えていく。足が死に近づいていく(笑)。

だからこの夏から、「座らない」実践を始めた。電車の中ではなるべく立つ。揺れる車内で立っているだけでも、足腰の筋肉を使っていることが伝わってくる。

移動中の階段は「一段飛ばし」をルールとした。これもかなり効く。足腰の筋肉だけでなく、心にもだ。昇るスピードやリズムが、一段ずつ上るのと違う。心も若返る。かつてはこれくらいのスピードで動いていた。その頃の心に戻れるのだ。50過ぎて一段飛ばしの男(笑)である。エスカレーターで昇る人たちにとっては、変わった人に見えるかもしれないが。

電車旅とはすごいもので、三十分も過ぎれば、非日常の場所に着いている。新しい商店街、新しいスーパー、新しい道。そして、お目当ての場所に着く。最近見つけた図書館だ。



出家前に日本を離れてから、本を読むことを意図的にも遠ざけてきたところがある。必要がないと。自分が身に着けた仏教ベースの知力で仕事はできると。実際、ここまでの作品は、基礎とする仏典・資料に材料を絞り込んで書いてきた。それでも足りた、のである。

だが今から書こうとしているのは、十代向けの生き方の本であり、また自身が新しい場所で始めようとしていることは、十代までの子供たちに未来につながる知力の本質を伝える活動だ。

だから、彼らにとってのリアル(その心に届きうる知識や表現)を学び直す必要がある。

今進んでいる大きめの企画は、二本。いずれも子供・十代が対象だ。ひとつはストーリーで、もうひとつは十代向けの生き方・学び方の本(自己啓発的な内容と勉強法的な内容を混ぜた本)だ。

そこで今重点的に読んでいるのは、児童文学と、十代向けのいろんなジャンルの本。

児童文学はすごい。絵本もすごい。子供向けの解説本もすごい(理科・社会・国語という分類以上に精緻な分類。今の時代はプログラミング言語まで)。「子供だまし」とは真逆で、「本質」を描いている。

その本質が複雑化・深化していった先に、大人たちにとって科目や専門分野がある。大人の世界とつながっている内容こそが、本質だ。本質を学べる子供向けの本が、実はけっこうあることを最近知った。

大人もまた、学びの道を見失ったときは、子供が手に取る本からスタートすればよいのだ。「わかる」本がたくさんある。

ところが、子供から大人まで、学びの道をつなぐ本の間に障害物として入ってくるものがある。それが中高生向けの教科書であり、大学入試に縛られたいわゆる「勉強」だ。

図書館には中高生も来ているが、その教科書や参考書を遠めに眺めると、なんともわかりにくい。本質から遠く離れてしまった概念のオンパレード。実感も持てず、記憶にも残らない、知識の死骸みたいなものに見える。

中高生も、教師も、大人たちも、勉強とはそんなものだと思い込んでいるのかもしれない。だから「干物にもならない干物」を噛んでも、それなりにやっていられるのだろうと思う。本当の干物ならまだ味があるが、彼らが勉強と思っているものは、さしたる味もない概念の羅列でしかなかったりする。世界史? トルコ・マンチャーイ条約? セポイの乱? そんなものを年号と一緒にきれいにノートに取って、はて頭に何が残るのか。

本当の学び・教養というのは、たとえば日本を離れた時に、いろんな文化背景を持った人たちとコミュニケーションを取るための話題・材料になりうるものだ。今の学校で学ばせているものが、はてどれくらい使えるのか。

中高生が机にかじりついてやっている勉強の中味は、世界・国際には役に立たない「オワコン」であり概念の死骸かもしれないと思う。

これは海外の教科書や勉強事情を少し調べてみなければならないが、東大を初めとする難関大学卒の優秀とされる官僚が(←世俗の価値観に沿って語ってみる)、海外の大学に留学すると、低くない確率で留年・退学になったりすることの一因かもしれない(※恥ずかしくて公表していないだけで、実態はけっこう深刻だとも聞く)。

数学もできず、歴史も語れない、文学・芸術をどう論じるかもわからない。完全に大学入試で止まっている頭では、海の向こうには渡れない(通用しない)し、国内においても前例踏襲のほか何もできない。

日本の教育は、形は多少変われども、中身はまったく変わっていない気配が濃厚だ。気づいていないのは自分たちだけ。これもガラパゴス。大学の先生方でさえ、それでいいと思っている可能性も案外高い。




本題に戻すと、十代向けの本を書くために、いろんな本を読んで調査・研究・思索せねばということだ。その最適の環境が、最近見つけた図書館だ。

定期券を買えば、元を取るべく休まず通おうという気にもなる(貧乏性ゆえ)。入れば快適な冷気に包まれる。そして静かで清潔な環境の中で、豊饒な本の世界に遊ぶことができる。

いや、本がこれほどたくさんあるとは、しかも良書がこれほど多いとは。いくらでも学ぶことがある。それを自分の目的に照らして作り直して、自分の本と活動に活かしていく。その作業を進めている。脳を、未来を、耕している。

近くのアパートの下見に行った。今すぐ動けはしないが、引っ越せば新しい生活が始まることを実感できた。まるで学生時代に戻ったかのような気分が味わえた。

つくづく楽しい毎日だ。充実感が半端ではない。心はバック・トゥ・二十代。手つかずの未来が見える気がしてしまうのだ。まさに青春である。



帰りはバスに乗った。東京の街を眺めていた。

もし上京したばかりだとしたら? 

手つかずの未来につながった空が目に映ることだろう。

もうごくわずかしか時間が残されていない末期だとしたら?

今見ている夕暮れどきの空は、人生で最後に見る空になるかもしれないと思いながら見つめるだろう。

そう、現実の私は、きっと近い将来に、東京を離れてしまうのだ。

今見ている明日の夢は、夢のまま終わる。きっと。

「あの頃の桜は、もうどこにもない」と、ある映画の中で登場人物が語っていたけれど、

たしかにあの頃の夢は、もうどこにもないし、

今見ている夢も、たぶんどこにもなくて、

ただ、これが最後かもしれないと思うこの心にだけ見えている、

せつない幻影かもしれないとも思う。


人生はいつか終わるけれど、青春はそれより早く終わる。

でも奇跡的に、まだ青春の中を生きている。

もうしばらく、この新しく始まった青春を楽しませてもらおうと思っている。



2024年9月下旬