19 輪廻
寺でめぐりあった雲水たちは、人として面白かった。まだ二十歳【はたち】過ぎなのに「世界で一番蔑まれる人になりたい」と語る青年や、「もっと自分を追い詰めたい」と裏山に穴を掘って、真冬に寝袋一つで夜を過ごす中年男がいた。
早朝に開静【かいじょう】(起床)して坐禅を組み、本堂で朝課【ちょうか】(読経)した後、和尚の法話を拝聴する。境内を掃除して粥座【しゅくざ】(朝食)をいただき、各自の日課に入る。出勤する人も、作務(寺の労働作業)に取り組む人もいた。僕は和尚の許可を得て、空いた時間に仏教書を片っ端から読むことにした。
僕には、どうしても捨てられない問いがあった。物心ついた最初に「これから一人で生きていかねば」と思い込み、どう生きるかを考え詰めて、世のありようを学ぶにつれて、この世界は問題が山積みで、いつ滅びるかわからない危機的状況にあると知った。一人の人生を見ても、生きていけないほどの苦悩を背負う人も無数にいる。
こんな現実を変えたい。闘いたい。だがどこに行っても、答えが見つからない。消去法で残ったのが、仏教だった。確信には至らないが、「何かがある」という予感があった。本を読む速度は、かなり速い。分厚い本を読み込みながら、要点をまとめ、疑問点を書き出し、わからない箇所に付箋を貼る。その結果、見えてきたものは?
正直に告白しよう。わからなかった。「それっぽいこと」は書いてある。だがたとえば、坐禅中に頭の中で何をすればいいか、悟りとは具体的にどういうことか。わかったと思える言葉が見つからない。「樽木が一気にバラけるようなものだ」といった曖昧な比喩か、理屈(知識)の解説か。しかも内容は本や著者によってバラバラだ。和尚に訊けば、「わからん。おまえ、わかったら教えてくれ」と言われる始末。公案(謎かけ)ではなく、本当に知らない様子だった。
妙な感覚を覚えるのに、そう時間はかからなかった。これじゃない、という思い。過去に何度も味わった、あの違和感と失望だ。まさか? もう仏教しか残されていないのに?
中日新聞・東京新聞連載中(毎週日曜朝刊)
※掲載イラストがモノクロの日だったので、カラー原画で公開します