日本全国行脚2024 栃木・足利学校

あの戦争の後は、コロナ騒動――戦後復興、バブル崩壊後の停滞を経て、日本はさらなる沈滞のフェーズに入った気がしなくもない。

変わることさえ想像できなくなった国。これがこの国のデフォルト(初期設定)と化してゆくのだろうか。体も心も、つまりは社会年齢(平均寿命)も人々の心のありようも、老化の一途をたどっていると言えなくもない。このまま終わるつもりか?

この夏の暑さは、さすがに病的である気がする。かつては体を水に濡らして扇風機に当てれば、クーラーなしでも過ごせた記憶がある(学生時代)。

だが、さすがにこの夏は忍び難い。部屋の中でも息を潜めているほかない。ちなみに猫のサラはあの毛むくじゃらで、よく平気でいられるものだと思う(とはいえ若干やつれたように見えなくもないが)。

 

実際のサラ(爆睡中)



室内でグダりつづけているわけにもいくまい。ということで、小旅行を敢行することにした。いざ、栃木・足利学校へ。

足利学校は 日本最古の学校。創建の由来は主に三説あるが、その校風にてらせば、平安時代の小野篁(おののたかむら)が原型を作った可能性が高い。仏教と陰陽道が混ざり合った場所ではなかったか。

足利市の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)は、12世紀の創建で、大日如来が本尊。真言密教だ。やはり平安期に礎が築かれた可能性が濃厚だ。

室町中期に地元の有力者(関東管領の上杉憲実:うえすぎかねざね)の支援を受けて、その運営内容が記録に残るようになった。戦に役立つ兵学と易学、そして医学を主に学んだという。学生は入学時に僧籍を取得。卒業時に僧籍を返還して、それぞれの故郷に帰っていったとか。

 


十六世紀半ばに延べ三千人が学んだともいわれるが、年単位でいえば百五十名前後。それくらいの規模なら敷地内の衆寮や寺に止宿できただろう。中には沖縄から来た学生もいたとか。どんな経路で足利まで? その道のりだけでも胸ときめくアドベンチャーだ。

学費は無料だったとか。学校側が食事と宿舎を提供。時の権力者の庇護(平安貴族、鎌倉・室町期の武家、さらに徳川幕府)と寺に寄せられた布施によって支えられていたのだろう。なるほど、それで入学した者は僧籍を得る決まりになっていたのかも。

時間割はなく、朝から自学自習。修学年限は特になし。漢籍(中国の古い書物)を書き写して、各自のペースで学んだ。質問があれば、先生に聞く。在学中は規則を守り、学問に励む。学びたいことを学び終えれば卒業する。無理がない。

学生のモチベーションが明確だったから可能だったのか。考えてみれば時間割を作って、全員が同じ教科書で同じペースで勉強せねばというスタイルは、特殊なのかもしれない。

管理教育は、明治政府主導の近代教育から始まった。今も続いている。「画一」という無理にしがみついているから、教科書も授業内容も刷新されずに、つまらないものになる。教師も生徒も、いわば無理強い教育の犠牲者ではないか。


江戸時期には1万7000点もの漢籍・書物を蔵する文庫(図書館)的側面も持つに至った。足利学校を訪ねた人物のリストを見ると、幕末には吉田松陰や高杉晋作も訪ねてきている。江戸期に記された名の多くは、儒学者だ。

儒教は、当時の日本人にかなりの影響力を持っていた。礼節が日本社会の秩序と安定を保っていた。今やすっかり希薄化した部分だ。

生き方を学ぶ機会がないのなら、欲に任せて言いたいことを言い、やりたいことをやり、そんな自分がなんで悪いのかと開き直る人間が出てくるのは、当然ともいえる。教育が成績をもって価値を測るだけの表層的なものと化し、かつ子供たちがネットやSNSを通じて欲と悪意に容易に触れるようになった今、社会の殺伐と不安定度が増すことは、必然とはいえないか。

社会の劣化に対抗する力を持つ筆頭は、教育だ。教育が廃れれば、社会も荒廃化する。教育という器(制度)にどんな内容を盛り込むかで、社会は良くも悪くもなる。

当たり前と言えば当たり前の真実。日本の未来を育てようと思えば、どうしたって教育がその手段になるということだ。




足利学校の本堂では、アニメで小野篁(おののたかむら)が登場。一緒に論語を素読できるというもの。「子曰く」と読み上げる篁は、9等身の超絶イケメンだ。声もさわやか。足利出身の声優さんだとか。

歴代の校長(庠主:しょうしゅ)の墓が十七基ある。在任期間は短くて十五年。学生たちと起居をともにし、人生の最期も学校で迎えた。九州や中国地方から来た校長もいた。個性豊かな学生たちと、いろんな交流があったことだろう。最後の校長は、学校が終わる日はどんな面持ちだったのだろうか。

歴代庠主の墓 名前がわからない墓も 

墓も歴史も、その奥には生きていたリアルな人たちがいる 

想像力を働かせれば、歴史は無限に近い楽しみを与えてくれる




相田みつを氏が参禅していたという高福寺は、今も早朝の坐禅会を続けていた。当時とさほど変わっていないだろう質素な佇まい。力みがなく、自然な体(てい)で、人々に門戸を開いている。拝観料や土産物販売で寺を維持しようという発想とは、無縁な姿だ。

田舎を回ると(こうした表現が礼を失しないか気にかかるが)、寺も料理屋も、昔の佇まいを残していることに気づいて安堵する。勤勉と至誠(真心を尽くす心)を覚えている人々が生きている。

ただ足利も、映画館が潰れたり、空き店舗が目立つようになったりしている。いつまで今の景観や真心を保っていられるか。100年後に残っているか。


日本が縮小しつつあることは、多くの人が感じていることだ。私自身が歳を重ねて、ノスタルジーと、自分無き後の世界への憂いを覚えるようになったことも、こうしたことを思う一因としてあるだろう。

日本各地に流れる時間と、そこに息づく生活は、時代の波に呑まれて劇的に変わっていくか、つつましさを保ちながら静かに閉じゆくか。

できることなら、大切なものは変わらずに続いていくことが理想だろうが、そのために必要なものは、未来につなごうという意志と、未来につなぐ具体的な行動だ。こればかりは自覚してやらないと、簡単に滅びてしまう。




足利は、映画・ドラマのロケ地として重宝されているそうだ。ナンバMG5、乃木坂46『何度目の青空か』、ちはやふる3部作、今日から俺は! イチケイのカラス、アズミ・ハルコは行方不明、テセウスの船、湯を沸かすほどの熱い愛、今夜、ロマンス劇場で、銀魂2等々――

ちなみに、このうち押さえていないもの三つ。アンテナ感度高めの出家かもしれない(笑)。

足利めぐりの最後は、渡良瀬橋。あの森高千里(さん)の名曲『渡良瀬橋』の舞台。JRの駅メロになっていた。




渡良瀬橋は、実は今回が二度目。初めて訪ねたのは、学生だった頃だ。

JR足利駅近くの家をいきなり訪ねて、出てきたご婦人に自転車を借りた。自転車のお礼にアイスクリームを持って行った。下校途中の学生に交じって駅で列車を待っていたら、ご婦人がおにぎりを持ってきてくれた。

当時の記憶をたどって、その一帯を尋ねてみた。あの心優しいご婦人も、もうずいぶんお歳を重ねているだろう。近所には朽廃した家も目立つ。時間は流れてゆく。

いきなり家を訪ねて自転車を貸してもらえたのは、ご婦人の優しさもあるが、私も若かったからだろう。まだ二十代半ば。黒髪もふさふさで、肌はピチピチ(笑)。今の姿なら怪しまれるだけかもしれない(ほぼ確実にそうなるだろう)。

もう会えないか、会わないほうがいいか。旅の途中で出会った人たちは、優しい姿のまま胸に残っている。

ちなみに、今(中日新聞・東京新聞に)連載中の『ブッダを探して』に、その旅のことをほんの少し書いている。全国の花火大会を追いかけて旅したという程度の記述しかないが、その道中には数多くの愛おしむべき記憶がある。いつかもっと細やかに人生の旅を振り返る手記を著わすことができたらと思っている。

渡良瀬橋から夕焼けを眺めたかったが、夏の盛りで一日が長い。草雲美術館も次回に取っておこう。

『ブッダを探して』のイラスト 何者でもなかった頃

何者かになることを拒んでいた時代 今思えば幸せでもあった

駅のコンビニで、地元の婦人(九〇過ぎとおっしゃっていたか)と、しばらく雑談。趣味で作った革製のバッグを数十年使っているとか。刺繡も縫合もプロ並み。母に習ったそうだ。桐生の神官の一人娘で、神社の後を継ぐのが嫌で幼い頃に家出しようと駅まで行ったという話。人に歴史あり。もっと聞きたかった。
 
後で知識と婦人の話がつながったが、桐生(上州)は織物の町だ。養蚕・製紙・織物が盛んで、主な担い手は女性たちだった。「かかあ天下」という言葉が生まれた土地。よほど女性たちは元気だったのだろう。

あの老女の母は、そうした土地で身に着けた技を、娘だったあの老女に教えたのだろう。見せてくれたのは、趣味レベルの細工ではなかった。それだけ優れた技巧が、桐生の土地では自然に受け継がれていたということか。

学生時代のあの旅では、道中何人かの印象的な大人たちに出会った。隅田川の花火大会の後に乗り込んだ東上線の車内では、隣に座っていたおじさんに話を聞いた。

「ワシは人を殺したことがあるんやでえ」と自慢げに(とんでもない話ではあるが、そういう口ぶりだったのだ)言っていた。
 
「ワシの家に泊まるか?」とも。当時の私は(今もだが)、人の人生に興味があったから、行ってみようかと束の間考えなくはなかった。ついて行ったら、どうなっていただろうか。


 
暑さから脱出するために尋ねた土地だが、足利は愛おしい記憶を掘り起こしてくれたと同時に、大きなテーマを与えてくれた。

この夏は、いわゆる日本遺産、明治期までの教育施設を訪ねることにしよう。足利学校の次は、水戸・弘道館、そして岡山・閑谷学校、大分・咸宜園だ。そこで学んだことを、次に始める教育事業につなげることにしようか。


2024年8月初旬
 
 
 

※日本全国行脚2024の旅の記録を連載します