この場所が大切にしていること

おしらせ

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人生50年の棚おろし~やり残したことの片づけ方&これからの心の持ち方

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この場所が大事にしているのは、最小限の普遍と、それゆえのオープンさ。

どういうことかというと、価値あるものというのは、本当に最小限のものでしかない。たとえば、水、日の光、大気、土、その他の自然。

それらは未来に遺す価値がある(というか、遺さないと続かない)。

人間の世界においては、第一にそれは ”智慧” ということになる。

生きていくための智慧、つまりは苦しみを減らす方法と、その実践・適用としての行動だ。

苦しみを減らす方法には、たとえば科学や医学や、自然を対象とする学問がある。それが適切に活用されて具体的に世の中に影響を与えるモノやシステムが、行動にあたる。

人の世(文明と呼ばれるもの)を発展させてきたのは、こうした方法だ。

こうした方法だけが、未来に遺す価値を持つ。

仏教という智慧もまた、そのすべてとはいわないが、一部については、未来に遺す価値がある。

逆を言えば、それ以外のもの――人の苦しみを増やすものは、価値がない。たとえば私欲や妄想は、人間が作り出す汚物のようなものであって、えてして苦しみにつながる。

そうしたものは、一代限り、その人限りのものであって、時期が過ぎれば、価値を見る人はいなくなって、やがて消えていく。

そうしたものは、普遍とは違う。



この場所が大事にしたいと願っているものは、普遍である。苦しみを減らす智慧だ。生き方であり、心の使い方だ。

ごくごく限られた狭い範囲の智慧でしかないけれど、

それを守るために、損なわれないために、この場所は、かなり神経を使っている。

たとえば、一部の人たちだけが熱心に通い詰めるような場所にはしない。それをやってしまうと、一部の人たちだけが満足する閉ざされたサークルになってしまうから。

場所が閉ざされると、入ってこられない人が出てくる。そして内部が歪んでいく。

さながら汚物を含んだ水が一か所に留まれば、やがて停滞し腐敗していくように、人間の心もまた、一定の範囲に囲い込んでしまうと、とたんに、その内部での思惑が影響しあって、人間の心にあったものが次第にその場の雰囲気、いわば水の色を染めていってしまう。

世にある宗教・思想系の団体は、ほぼ決まってこのパターンを突き進む。

そうした団体には、その真ん中に信望・信仰を集める特定の人間がいる。みずから意図して、自分を仰ぎ見させよう、依存させよう、利益を得ようともくろむ人間もいるし、

本人はまったく違う方向をめざしていたのに、集ってきた人たちが勝手に解釈して、停滞・腐敗を招く場合もある(※ちなみに原始仏教はこの系譜)。

どのような美しい思想や場所であれ、人間が集まって、固定され、滞留し始めると、必ずその人間たちの心にあったものが出てくる。

代表的なものとして、個人的野心(承認欲)がある。その団体の中で認められよう、利を図ろう自意識が、ポストや肩書を求めて競う・上をめざすという発想になっていく。

逆に思考停止に陥ることもある。考えることを放棄して、ラクを選んだ人間が、その中に見つけた言葉や形式をひたすら真面目に踏襲して、思考停止という安易な快楽に身をゆだねることもある。

いわゆる宗教や思想系の団体があやういのは、先導する人間が、自分に都合のいい妄想を、神や思想の名のもとに語って、自分が讃えられることに快楽を覚え、

他方、それを信奉する人間は、

先導する人間に自己投影して自分の価値が満たされたかのような錯覚を覚えたり、

外の世界で得られなかった上昇欲を満たそうとしたり、

思考する努力を放棄して、何も考えずに、先導する人間が語ることを鵜呑みにして、その通りに動くことに快楽を得たりする。

人間というのは、自立して思考することが苦手な生き物だ。そうした人たちは、考えずに、ただ信じる、ただ従うことを選ぶ。単純にラクだから。考えなくてすむから。

こうして、それぞれに蜜(利益)を得る閉ざされた共同体が出来上がる。


その中にいる人は、それぞれの欲と思考停止をもって完結している。得たいものを得ている。だから「理想の共同体」だと思い込むこともある。

だが、外から見れば、妙な違和感を覚えざるを得ない。

なぜなら欲を満たして得々としている人と、思考停止の人たちの姿を見ることになるから。

特に思考停止というのは、多くの宗教・思想団体に共通する傾向だ。内部にいる人たちが考えていない。外の世界が見えていない。自分たちがやっていることの奇妙さを自覚できない。

その思考停止ぶり――見えていない姿――が、外から見ると、奇怪な姿に見えるのだ。



哀しいことは、こうした閉ざされた共同体の中にいる人の眼には、自分の姿が客観的に見えなくなることだ。

閉ざされた企業なら、まだマシなのである。企業である以上は、利益を上げないといけない。だから。外の人にとって価値あるものを作り出さなければという形で客観性を維持できる。

もっとも、企業であっても、嘘や脚色や脅しをもって売りつければ、それは途端に怪しい、あやうい組織に代わる。一時的に外に売ることができたとしても、世に知られた途端に信用を失うか、犯罪として摘発されて頓挫する。

だが、外にモノを売るという企業ではなく、内部の人間だけで利益を上げ、あるいは活動らしい形を維持できるに至った団体となると、

そうした制約は通用せず、その内部だけで回せてしまう。客観性を失っても続けることができてしまう。

回ってはいる。だが閉ざされている。外から見れば、停滞している。偏っている。歪んでいる。腐敗している――。

こうした現象がたまに起こる。内輪の価値だけで固まってしまった「閉ざされた共同体」と化していく。いわゆるセクト化だ。

枚挙にいとまがない。宗教・思想に関する団体。経営者が集まる団体。独自の価値のもとに活動するサークル・ネットワーク商法などだ。



この場所が最も敬遠するのは、こうした内と外の”乖離”である。内側だけに通用する自己満足。客観的視点を失った姿。内側だけに通じる理屈とならわし――そうした不自然が少しでも混じることをよしとしない。

これは、この場所を預かる私という人間が、自我から自由であるから成り立つ姿だ。

見栄、欲望、思考停止という心の性質を、よく理解している。

どんな相手にも敬意を失うことはないが、そうした人間的な思いがこの場所に流れ込むことをよしとしない。抜群の感度をもって、そうした危うさを退ける。

自然を生きる生き物や植物が、その本来のあり方だけを維持し、その姿のまま命をまっとうするのと同じことだ。

みずからを歪めることも、本質を変えることも、汚すこともない。

明瞭な「違う」という一線を堅持する。



だからこそ、これまでも、これからも、外の世界との関わりにおいては、慎重を期する。


上昇欲や承認欲のために利用しようという思惑を捨てきれていない人や、閉ざされた共同体の中にいる人たちとは、関わらないことを選んでいる。

そうした人や団体が、どのような人生・活動をしていくかは、その ”人さま・団体さま” の自由である。この場所は、誰をも否定しない。あくまで敬意をもって接する。

だがだからこそ、関わらないことが正解になることもある。



この場所は、普遍だけを大事にする。

普遍だけを大事にしようと思えば、自分の足だけで立つ必要がある。

内輪の価値や形の中に安住するのではなく、

自分の身と心ひとつで、むき出しのまま、外の世界と対峙する必要がある。

それがオープンさを保つということだ。

自立していることと、オープンであることは、両立する。むしろ表裏一体といっていい。



私が出会い、関わるのは、欲や思考停止をよしとせず、そうした世俗のあり方にむしろ違和感を覚えるような市井の人たちだ。

みずからの足で立ち、自分自身に向き合い、自分の人生を最良のものにしようと人知れず努力できる人たち、努力しようと思える人たちだ。


それぞれが自立していること――。


そうした難しい挑戦をしているのが、この場所ということになる。

ご理解いただけると幸いです。

 


2026年8月末