【出家、日本をゆく】宮崎清武 安井息軒記念館

宮崎初上陸。清武という土地に、安井息軒記念館という場所があることを知った。

江戸末期の儒家だという。清武が誇る当時の知識人。最も興味を引かれたのは、当時この地は(失礼に受け取られぬことを願いたいが)、今は想像できないほど”田舎”だったであろうということ。江戸や長崎、大坂とはまったく違う土地柄だったに違いない。

そうした地域で一心不乱に学問に励んで、江戸に上って名声を得たというなら、そのバイタリティだけで目を瞠るものがある。いったいどんな人物だったかと興味が湧いた。

JR清武駅で降りると、 記念館があるらしい場所は、夏の植物が鬱蒼と生い茂る小高い山の上だと判明。地図で見ると駅から近いが、遠回りして山を登らねばならない。猛暑だ。やむなくタクシーを使った。

山の坂道を上りつめて、記念館に到着。



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真夏の清武駅で下車
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入館無料  どんどん人が訪ねてくるようになればいいな


◇青年時代

安井息軒は、江戸末期(1799年)に清武(日向国清武郷、今の宮崎県宮崎市清武町)に生まれた。字(あざな)は忠平(ちゅうへい)。

忠平は幼い頃に天然痘にかかり、顔に痘痕(あばた)が残り、右目をほぼ失明。成人後も身の丈五尺に及ばぬ短躰だったという。「猿が本を読んでいる」とずいぶんからかわれたようだ。

身分も見た目も財力も、人に張り合えるだけのものはない。だが忠平には学問があった。江戸・京都に学んだ儒者である父親・滄州(そうしゅう)は自宅を開放して子弟の教育に当たっていた。父の手ほどきを受けて、幼い頃から漢学を修めた。

15歳にして、父の蔵書はすべて読破。学問で身を立てることを早々に決意したという。

18歳で寺(中山寺)にこもり、3年にわたり学問修行。途中19歳の時には長崎に遊学。21歳で大坂へ。近くの蔵書家(篠崎小竹)のもとに通って、読書と書写に勤めた。大豆を醤油と塩で煮たものをおかずとして食いつないだ。

ここでも他の学生たちに容姿をからかわれたという。片田舎出身の風貌の冴えないひときわ小柄な青年が、鬱屈と野心を胸に秘めて必死で学んでいた姿が目に浮かぶ。
 
25歳の時に江戸の昌平坂学問所へ。


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写真撮影OKでした 大坂で学問に励んでいた頃の忠平 
行灯に徳利をぶら下げて、就寝時に熱燗をすすって上気した頭を冷まして眠りについた様子


実に勉強ばかりだ。しかも資格や学歴のためという現代人の実利ではなく、生粋の知的探求心・向上心からだ。

ふと思うのだが、偉くなるためとか見栄を張るためといった世俗的動機を一切取り払った時に、それでもなお学ぼうと思える人間は、どれくらいいるのだろうか。

俗な動機がないほうが、純粋に知ること・考えることを喜びにできる気がする。ちなみに私自身はそうした部類の人間だ。

知の喜びは、知性が発達した人間にとって純粋な喜びではなかろうか。欲目を捨て、単純に知ること・考えることを喜びにした時のほうが、学ぶことが楽しくなる。プレッシャーも打算計算もないからこそ、自由になれる。自由だからこそ、やる気も出る。本来の学びとは、自由を本質とするのではなかろうか。


◇結婚

28歳で清武に帰郷。父・滄州が中心となって、地元・中野に学問所・明教堂(めいきょうどう)を建てることになった。そのタイミングで持ち上がったのが、忠平の見合い話。だが最初に縁談を持ちかけた相手の女性は、「あんなブ男は絶対にイヤ」とすげなく却下。

ところがその妹が、破談を聞いた直後に「わたしでよければ」と嫁入りを申し出た。佐代(さよ)という名の、忠平より13歳年下、まだ15歳の娘で、村人がみな嘆息するほどの器量良し(仏教になじまない形容だが、見とれるほどの美人)。

これだから男女の縁というのは、わからない。忠平のどこに惹かれたかは謎だ。尊敬すべき何かが見えたのかもしれない。

ちなみに見合いを断った姉(豊:とよ)のほうは、もし忠平が美男子だったら即応じていただろうが、見た目で判断するようなごく普通の女性と、学問に打ち込む忠平とは、まったく合わなかっただろう。

また、もし忠平が自分の風貌に負い目を感じ、屈折した人間になっていたら、佐代からも疎まれていたかもしれない。だが忠平には学問があった。努力も誰にも負けなかった。学問によって矜持を支えていたからこそ、佐代の目にも尊敬すべき男に映った。

面白い因縁だと思う。人間、何か一つ打ち込むことがあり、自分を偽らなければ、生涯に一人くらいは相愛の相手に巡りあえるということかもしれない。忠平のまっすぐな生き方こそが、その生涯にわたる幸運を招き寄せたということか。


◇教育家としての息軒

かくして28歳で所帯を持った忠平は、息軒という号のもと、父と一緒に明教堂で教え、32歳のときに飫肥城下に再建された藩校・振徳堂に移って、父とともに教鞭をとった。

当時の門生によれば、「滄州先生、人を教ゆるに厳ならず。門人これを敬すること厳父のごとし。清瀧(息軒)先生は厳確なれども、門人これを親(したし)うこと慈母のごとし」(若山甲藏『安井息軒先生』)

息軒(忠平)は、風貌こそ厳めしいが、愛嬌も漂わせていたらしい。なるほどそうした目で肖像画(※このページ末尾にあります)を見直せば、想像できなくもない。すごい人でもあり、愛される人でもあったかもしれない。

ちなみにある漁師の男が、息軒に面会した時に、佐代の姿を見て感心し、「先生のような器量よろしくない男に嫁ぐとは、先生以上に学のある方なのですね」というようなことを言ったら、息軒は手を叩いて笑ったという(平部嶠南『日向纂記』)。

息軒は自身の容姿を受け入れていた。だから笑えたし、『岡の小町」と噂されるほどの美女とも気後れすることなく添い遂げることができた。息軒は剛情だが、素直なところもあった。本当の人柄が見える気がする。

ちなみに外交官の小村寿太郎は、この振徳堂にて、 息軒の弟子・小倉処平に学んでいる。学問という種は実に面白いもので、意外なところに実を結ぶ。学ぶ者の心が土であり、教える者の心が種ということなのだ。

だが父・滄州が亡くなった翌年に、息軒は江戸に上がっている。38歳の時だ。そもそも息軒の博識と先取性、および父・滄州に遺言代わりに気をつけるようにと諫められたその頑固一徹の気性が、保守的な藩政と相容れるはずもなかった。

父の死は、早く江戸に出よという合図に聞こえたのかもしれない。


◇私塾の開設

江戸に上がって始めたのが、私塾「三計塾」だ (1841年)。

三計とは「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮(若い頃)にあり」。若いうちにこそ将来にわたる志(計画)を立て、無駄なく過ごすなという意味らしい。

師に当たる松崎慊堂(まつざきこうどう)が息軒を高く評価していたこともあり、儒者界隈で息軒はたちまち知られる存在となった。水戸斉昭のブレーンである藤田東湖とも交流し、政治に意見する機会も増えてきた。

黒船来航(1853年)に動揺した幕府は、朱子学以外にも智慧を求め、古い漢学(漢・唐代の古典)に立つ息軒に白羽の矢を立てた。最高学府・昌平坂学問所の「幕府儒官」に任命したのだ(息軒63歳の時)。塩谷宕陰(しおのやとういん)・芳野金陵(よしのきんりょう)と並ぶ「文久三博士」。在野の儒者として上り詰めうる頂点に達したといってよい。

三計塾も盛況だったようだ。開塾してすぐ江戸の儒者界隈で知られるところとなり、有志の若者たちが続々と集まってきた。借家から通う地方の学生も多く、最終的には二千人を超える若者を送り出したという。

知られるところでは、外交官の陸奥宗光、政治家の谷干城、井上毅など。息軒は、たしかに時代に影響を与えていたのだ。

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陸奥宗光(むつ むねみつ)は、紀州藩を脱藩したほどの反骨の若者だったが、江戸に上って三計塾に入門。そのプライドの高さは、周囲の門弟からは嫌われていたそうだが、息軒の博識と真剣さに感服して、生涯恩師として敬い続けたという。のちにカミソリ大臣と呼ばれ、欧米列強との不平等条約を改正する先陣を切った。

なお、関税自主権の完全回復を成し遂げ、日露戦争の終結や日英同盟締結を果たした外務大臣・小村寿太郎が、息軒の教え子から学んだことは、先に出てきたとおりだ。息軒の影響力はたしかに深大だったのだ。

谷干城(たに たてき)は、西南戦争の際に、熊本城司令官として西郷隆盛率いる薩摩軍と対峙した。息軒を生涯の師と仰ぎ、塾卒後も息軒にしばしば手紙を送り指導を乞うた。のちに政府の要人(農商務大臣 )となった谷は、晩年の息軒の生活支援や著作の出版・復刻に力を注いだという。

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息軒の思想は、観念的な議論とは真逆で、徹底した実用・実学を志向していた。歴史や経書を学ぶのは「現実の社会問題を解決し、民を救うため(経世済民)」 。江戸から郷里・飫肥(おび)藩へ、養蚕技術や牛痘(天然痘の予防接種)をいち早く紹介し、導入させもした。

頭でっかちな若者には、厳しく叱責した。ある門弟(幕臣にして大政奉還を推進した佐々木高行)は、息軒先生に叱られて腹が立って仕方なかったと回顧している。「口下手で短気、𠮟りつけるような講義だった」と語る者もいる(東大教授をつとめた明治期の漢学者・重野安つぐ)。

息軒の気性の激しさは、父親・滄州に気をつけなさいと臨終間際で戒められたほどだというから、青年にとって相当おっかない先生だっただろう。その一方で愛情豊かで、地方から出てきた若者たちを、三計塾の寮に迎え入れて面倒を見たともいう。

塾生同士で教材を読み解いて議論する「会読(かいどく)」を勧めた。塾生の意見を頭ごなしに否定せずに、その思索と議論を歓迎したという。厳しくはあったが、冷淡ではなかった。

息軒の若者に対する姿勢は、一貫していた。身分・外見などの体裁を問わない。世間の栄誉をみずからは好まない。

三計塾で学んだ者は、自分の利益ではなく故郷や国家に還元しなければならない。自分の学と才を、どのように天下・民のために使うつもりかと問い続けたという。

このあたりの高い志と一流の知識と影響力が、息軒という器の中に併存していた。
 
息軒は別格だとしても、こうした「全身教育家」みたいな人間が各地で私塾・寺子屋を開いて、若い世代の薫陶に当たっていたのが、江戸末期という時代だった。


◇息軒の不遇

だが、息軒の年譜をたどって見えてくるのは、どうにも時代の波に乗り切れない不器用さだ。そもそも生まれる時期が少し早すぎたかと思うほどの不遇さである。

江戸の知識人にも知られるようになり、ようやく幕府に一目置かれるところまで進みながら、飫肥潘以上に石高が大きな土地(奥州塙)の代官に任じられたことを、高齢(65歳)を理由に辞退。 

幕府の儒官に上り詰めた途端に、黒船来航を受けて幕府の権威が揺らぎ、戊辰戦争(1868年)に巻き込まれないようにと、三計塾をたたんで、一時期、江戸から疎開。

明治に入って、勝海舟・山岡鉄舟が直接訪れ、天皇の侍講に推挙したが、これも病気を理由に断っている。なお地べたを張って生きてきた息軒だ。その目には、明治政府に仕える者たちに、器用と打算を感じ取っていた可能性はある。

明治政府が、支配者としての面目を露わにし始めたのは、そのあとだ。廃藩置県、廃仏毀釈、学制公布(1872年)。せっかく彦根藩主の求めに応じて、江戸に戻って三計塾を再開したのに、藩は廃止され、官費学生が私塾に通うことを禁じられた。学生たちは潮が引くようにいなくなった。

老いとともに身も縮み、左目の視力もほぼ失い、足腰も立たなくなった最晩年の息軒。

この時すでに妻・佐代は亡くなっていた。長男・棟蔵(とうぞう) は、息軒が手塩にかけて学問を仕込んだが、22歳で病死。次男の 謙助(けんすけ)は、28歳で自殺していた。

息軒の目に見えたものは、何だったか。虚無の闇であったか。ほぼ死んだも同然の闇。自分は何のために生きている? 自分はなんのために生きてきた?

瓦全(がぜん)――当時の正月に、息軒が書き初めた言葉だ。瓦礫のようにただ息をしている骸(むくろ)。実感だったかもしれない。

なんともせつない。息軒はたしかに生きていた。江戸から明治への端境期に、大きな影響を与えていたのだ。
 
だが今はほとんどその名を聞かない。息軒のように哀しくだが偉大な生きざまが見えなくなった今こそが、何かこの国がとてつもなく大きなものを見落としていることの証左のような気がしてならない。


◇息軒が無名の理由

息軒の学者・思想家・教育家としての業績は、どのように評価されるべきだろう。あまり現代に知られていない理由は、その著書がほぼすべて難解な漢文で書かれているからなのか、評価できるものが乏しいからなのか、それ以外に理由があるのか。

息軒の著した論考(いわゆる考証学)を読んだ清(中国)の学者(張之洞ら) は、その内容の緻密さを称え、「日本随一の儒者」と評したという。息軒の論文(『左伝輯釋(さでんしゅうせき)』や『論語集説』などの経書研究)は、現地で翻刻(出版) されたともいう。

当時の中国の学術界は世辞を好まず、矛盾や欠落を厳しく突く文献批判を基本としていた。まして中国古典の考証において遅れているはずの日本の儒家を、根拠もなく褒める理由もなかった。また、息軒のキリスト教への批判的分析を書いた『弁妄』は、イギリスで翻訳出版されてもいる。

つまり評価されるべきことは多くあった様子である。だが無名。いったいどうした理由からだろうか。

ひとつは、その著作のほぼすべてが、漢文で書かれており、いまだに現代語訳が進んでいないことが挙げられる。単純に、まだ理解されていないのである。あくまで在野の思想家・教育家であり、歴史ドラマの表舞台に出てくるような役回りではなかったことも挙げられようか。


対照的なのが、息軒に36年後(おく)れて生まれた福澤諭吉だ。同じ九州の出身で、貧しい藩士のもとに生まれたことは、共通している。だが諭吉は緒方洪庵の適塾に学び、オランダ語・英語に通じて、アメリカ、ヨーロッパを視察。帰国後に著わした『学問ノススメ』は300万部を超えるベストセラーに。のちに慶應義塾大学を創設した。

経歴の華やかさだけではない。若い頃には剣術を収め、当時の日本人の平均身長を15センチ上回る長身に、彫りの深い顔立ちだった。今でいう超イケメンのハイスペック男子にして時代の寵児。すくすくと伸びた明るい大樹のような存在感。息軒とは対照的だ。

息軒は、時代の波に乗れなかった。ちょうど古い波と新たな波の谷間を泳いだ印象がなくはない。

そもそも息軒の思想を支えた古学そのものが、幕府が重用した朱子学と相反するものだった。断髪した門弟との面会を謝絶するほどの西欧嫌いでもあったという。

ことごとく主流から外れていた。息軒はアウトローとして生きる宿命みたいなものを背負わされていたかもしれない。
 
これでは、よほど努力して発掘しない限り、市井の人々の視界に入ることはないだろう。まずは息軒の言葉が現代語で読めるようなればと思う。


◇息軒の魅力

もうひとつ個人的にもったいないと思うことは、安井息軒の業績、その人生の社会的意味を探るうえで、息軒の ”表” から見た業績・著作にどうしても目が行ってしまうことだ。

これは、平賀源内や福澤諭吉の記念館を訪ねた時にも感じたことだが、「地元の先生」として持ち上げ「歴史に名を遺した偉人」として見上げてしまう。結果的に、本人の凄み、哀しみなどの人間的魅力が見えなくなってしまう。

息軒の魅力と凄みは、儒学者としての歴史的評価ではなく、その生きざま自体を通して見るべきような気がする。清武という土地に生まれ育ちながら、学問をを積み重ね、都に出て私塾を営み、その知識・見識が世間にも幕府にも認められた――その上昇ぶりと野生の生き方そのものが、最大に魅力的であり、評価されるべき点なのだ。

完全な自立自尊。これほど自力で学び、人生を切り拓き、人に伝える、人を育てるという活動を、己自身の自然な発露として形にして見せた人というのは、稀少な存在だ。

そのあたりを掘り下げれば、息軒の人間としての魅力が、もっと伝わってくるように思える。


◇息軒の家族

息軒の家族が、これまた興味深かった。15歳で息軒に嫁いだ佐代は、26歳の若さで故郷・清武を去り、小さな子供たちを抱えて江戸へ。夫は朝から晩まで難解な書籍を読み込み、執筆に励み、客人をもてなし、三計塾創立後は、押し寄せる若者たちの面倒を見た。そのすべてを、息軒のすぐそばで、陰から支え続けたのが、佐代夫人だった。

長女・須磨子が父母について江戸に出てきたのは、まだ11歳の頃。言葉が通じず、何も変えずにとぼとぼと帰った須磨子に、母・佐代は「父上、ご出世は疑いなし」と言ったという(若山甲蔵『安井息軒先生』)。

佐代にとって、夫・息軒は世に認められるに違いない「先生」でもあったのだろう。終生、息軒を仰ぎ見てけなげに尽くした佐代は、苦労が祟ったか、50歳を迎えた正月明けに息を引き取った。

長男、次男、そして妻の佐代が亡くなった時の息軒の落胆ぶりは、凄まじいものだったという。父として、夫として、もう少しいたわりを向けていたらと悔やんだかどうか。

ちなみに佐代が亡くなって3年後に、息軒は子連れの女性(槇子・47歳)と再婚している。よくできた妻だと褒める手紙を、清武の地に戻っていた長女・須磨子に送っている。だが、佐代についての言及はほとんど残されていない。

佐代を失って、多少は妻のありがたみがわかるようになったのかもしれない。遅きに失した感があるが。


◇遠い星のような

佐代については、息軒の出世を誰よりも強く望みながら、報われないうちに亡くなったと見る人もいる(息軒が昌平坂学問所の儒官に任命されたのは、佐代が正月に死んだ年の暮れだった)。

他方、森鴎外や芥川龍之介のように、夫にひたすら尽くして人生を全うした女性として、格別の思慕(思い入れ)をもって振り返る人もいる。ただこれは、男に都合のいい面だけを見ている気配がぬぐえない。

夫に尽くして消えていった女性というのは、当時おそらく大勢いたのである。そういう時代だった。嫁いだ先に、愚痴もこぼさず仕え続ける。そうした女性は、佐代に限らずたくさんいた。

佐代がひときわ魅力的に映るのは、そうした時代における妻の役目を果たしながら、その内心に、夫への尊敬や愛情といった、人間らしい動機がほの見えることだ。
 
みずから望んで息軒と結婚したという事実が、決定的な輝きを放っている。これこそが佐代という存在が今なお印象に残る一番の理由のような気がする。

実際には、その苦労が報われることはなかったし、生涯なんの贅沢も余裕も許されなかった。だが佐代はおそらく、そうした苦労を感じ取ることが、ほとんどなかったのではあるまいか。

質素な暮らしの中で、はたから見れば苦労ばかりを背負いながらも、心は満たされている。そうした人が備えうる最高の美徳を持っていた。それは学によるものではなく、その人がその人であるがゆえの等身大の高潔さと聡明さだ。そうした自然の輝きこそが、佐代の魅力だったような気がする。

この記念館を訪ねて佐代のことが印象に残ったと語る人は少なくない様子だ。たしかにそのとおりだ。
 
なんだか遠い星のように見える。目に見えるが、手は届かない。佐代という女性は、もはや遠い時の彼方にあって、どれほど想像を尽くしても、その姿を間近に見ることはできない。直に話を聞くこともできない。
 
だがその絶望的に遠い距離を隔てながら、それでもなお伝わってくる美しさこそが、佐代の本質のような気がする。


安井息軒という人が、この宮崎清武の地にいた。その生きざまも、身の回りの人たちも、つい引き込まれざるをえないほどの魅力を放っていた。いや、これほど引き込まれるとは。

なお、息軒の孫(長女・須磨子の息子)であり安井家の家名を継いだ安井小太郎氏の子孫は、現代に生きておられるそうだ。少し救われるというか、息軒先生が報われた気がするのは不思議な感慨だ。

さまざまなことを考えさせられた。記念館を出て、息軒の生家でいっときを過ごして、余韻にひたりながら、かつて息軒たちも下(くだ)ったであろう清武中野の山道を降りていった。



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安井息軒の生家

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安井息軒の肖像画 


2026年8月16日




すべては君の人生、君の選択


全国行脚の後半に入るため、寺子屋は一週間ほどの空白に入る。

この夏、寺子屋の子供たちに彼らに伝えたことは、

〇正しい学び方(勉強法)を実践すれば、確実にできるようになる。

〇中学までは、地元の友たちばかりで世界が狭いが、高校になるといろんな生徒が集まってくる。精神的にも落ち着いて大人になってくる。だから中学より高校のほうが楽しかったという大人が多い。行く高校で人生が変わる。

〇成績を上げなければということではない。それは本人の志望・選択次第だが、できることはやることが当然。どこまでできるかやってみて、体験して初めて、向き・不向きも見えてくる。体験しなければ、自分は何が好きか、何ができるかもわからない。つまり体験しないと、努力してみないと、人生が始まらない。

〇つまらない時間の過ごし方をすれば、つまらない大人になる。

この場所で頑張って見せても、家でダラダラ過ごしていたら、本格的に勉強し始める子たちには絶対に追いつけない。だらしなく過ごして損するのは、将来の自分。

〇だから、家でも自分から勉強する時間を作ること。自分が後悔しないために。やらねばならないことは真剣にやる。当たり前。


最後の日に伝えたことは、

「親もあと十数年で定年になる、いずれ働けなくなる、やがて君たちより確実に早く死ぬ。それが人生の順番というものだ。

いつまでも子供のままのつもりで、お小遣いもらって暮らし続けるわけにはいかない。君たちが30過ぎて、今と同じことをやっていたら・・どう思う?」

 

言葉が話せるなら、どれだけ年が離れていても、十分に伝わるものだ。大人が想う以上に、小・中学生は、考える頭は持っている。

現実を伝える。何をどのように学ぶか、考えるかを、緻密に言語化して聞かせる。大人の妄想を押しつけない限り、このあたりの年齢になった子には、ちゃんと届くものだ。

教え下手というのは、自分に都合のいい妄想しか見えなくなった時に生じる。こちらが心を開いて、伝えるべきことを一人の人間の思いとして伝えて、

「すべては君の人生だから、君が何を選んでも、何をしても正解だけれど」という前提に立って(線を引いて)向き合えば、自分で理解し、自分の頭で考えるようになる。

あとは信頼することだーー教えることにおける信頼とは、伝えられる時間の中で人として伝えなければと心から思うことを伝えて、あとは本人の選択だとして、それ以上に追いかけないことである。尊重でもあるし、いい意味での突き放し(放任)だ。このあたりの線引きをすることが、「信頼する」ということである。

大人の目に見えないところで何をしていても、それは本人の選択であり、本人の人生だから、問題はない。そもそも「見えていない」範囲を大人がコントロールしようとすること自体が、妄想の押しつけである。

今のところ、教える人間としての役回りは果たせているように思える。成長を目の当たりにできる面白さもある。よき時間である。




2026年8月中旬



十代の過ごし方~ほとんどの峠は越えている


十代(中高生)の過ごし方について、最近の私信(和尚先生から)の抜粋:

◇◇◇◇◇

十代、とくに中学時代は「体験」することが大事で、誰とどこで何をするか(習い事)は、、楽しいからやる、行きたいから行く、で十分です。場所にこだわる必要はまったくありません。

楽しくやれない、大切に扱ってもらえないなら、別の場所でまったくかまわないのです。

「続けることが大事(今さら変えられない・変えるべきではない)」という理由づけ(ためらい)は、気持ちはわかりますが、思い込みでしかありません。

〇〇(習い事)も勉強も、そのこと自体は続けているのだから、すでに「続けることが大事」という条件は満たしているのです。

体験できるなら、どこに行ってもよし。不満が残るようなら、そこは正しい場所ではない。私ならそう考えます。

停滞よりも、動いて得られる体験を選ぶ。そのほうが、十代のうちは大事です。


◇◇◇◇◇

十代のうちに越えておくべきステップはいくつかありますが、本人(子供)はそのステップをちゃんと越えているように映ります。

中学時代の体験は、この先の過ごし方次第で、本人にとっては財産になりえます。

大学への進学・勉強だけなら、なんとでもなる(つまり越えておくべきステップには入らない、あるいは入れるにしても小さい)ものです。

本人が体験して、何かを感じて考えること自体が大切かと思います。

高校に通えば、見える景色も友だちの姿も日々変わります。そうした外の世界に触れることで、心は自然に育っていきます。

とにかく子供の先を走ってしまわないように自制しながら、後方支援かせめて隣で伴走するくらいの気持ちでいるのが、ちょうどよいのだろうと思います。

十代のうちはなんとでもなるし、ほとんどの子はちゃんと生きていける力を持っている生き物です。大丈夫。信じて(楽観して)よいのです。



2026年8月下旬


就活・婚活の満願成就


就職活動やお見合いや試験について、うまくいく仏教的秘訣は、

結果はひとさま次第

というところに立つことです。

自分を選んでくれるかは、相手(ひとさま)次第。どちらでもかまいません。

という立場に立ってしまうこと。

相手が完全に自由なのだと、相手に伝わることが大事になります。

そのうえで、

働く機会を与えてくれたら、がんばりますよ、

一緒に生きていくことを選んでくれたら、大切にしますよ、

これまでの努力と成長を認めてくれたら、合格後も努力しますよ

という思いを向けること。

いずれにせよ、成るも成らぬも、ひとさま次第――というところに立つことです。

そうして、相手も自分も自由になること。

まだなんの関係性も成り立っていない以上は、互いに完全自由という状態こそが、本来の姿なのです。



そこに執着・思惑が入ってくると、本来の姿に歪みが生じ始めます。

特に、選ぶのが相手方(ひとさま)にある場合は、その歪みというのは、圧力や過剰な期待として伝わってしまいます。

こちらの不安、焦り、ああではないか、こうなるのではないかという妄想もまた、不穏な圧力めいた雰囲気として伝わってしまう。

その雰囲気を察知した時点で、相手は逃げてしまいます。



ちなみに、お見合いや男女間において、持ち込まないほうがいい筆頭が、宗教です。

「お仕事以外はどんな過ごし方をされているのですか?」と聞くのは、相手を知るため、日常会話の範囲内ですが、

「どんな信仰をお持ちですか?」
「どの占い師が好きですか?」
「スピリチュアルに興味ありますか?」

といった質問をするのは、自爆行為です(そんなことを聞く人もめったにいないと思いますがw)。

一人で生きていた時代に見つけたものは、一緒に生きていく誰かを見つけたときには、本当は「卒業」すべきものです。

あるいは、最初から、そうしたことが共通している人を探すかです。

自分にとってこだわりがある、大事にしたいものなら、最初から正直に伝えるべきだろうし、

それほどでもない、卒業していいと思えるものならば、誰かと生きていくと決めたときには手放してよいものです。

手放せるものであれば、最初から伝えなくてもいいのではと思います。昔付き合っていた彼女・彼氏と同じようなものかもしれません。いちいち言いませんよね(笑)。

新たな関係に必要ないものは、持ち込まない。静かに手放す。

新しい場所・新たな関わりに必要なもの、価値を持つものだけを持っていく。

ということです。


ともあれ、人と人との関係は、互いに自由、ひとさま次第というのが、自然です。思惑を持ち込むと、あまりいい展開にはなりません。

もちろんいったん生じた関係については、理解を求めての努力が必要にはなってきます。

そのときには、伝え合うこと、交渉すること、さらには駆け引きや、ときには揉め事・争い事にまで至る可能性もなくはなく、それはそれで仕方がないこと(関わったことにもとづくコスト)として引き受ける必要があります。

ただ、人間同士の本来のあり方は、

自分も自由だし、相手も自由。

受け入れてくれるかは、ひとさま次第。

という境地でいることなのです。


よき展開を祈っています。



2026年8月11日

To My Readers Overseas

To My Readers Overseas,

As my books have begun to be introduced to readers overseas, I have increasingly received invitations from various communities and online platforms to introduce my books—or, to be more precise, to promote them.

I understand that this is a common practice in the Western world.

To those who have found my work, I would like to say: thank you.

I also sincerely respect the efforts of those who have built communities and platforms around books, and the contributions they have made to society through those activities.

At the same time, whenever I receive such invitations, I find myself asking this question, with the self-reflection that comes from being a Buddhist practitioner:
 

What is my work as an author?


For me, creating and sharing my work is not exactly about gaining people's attention or making myself known to as many people as possible.

Buddhism begins with a certain principle:

Step back from oneself. Do not place oneself at the center.

What remains after one steps back from oneself—this is what I would like to describe metaphorically as clear water.

Clear water is something that brings relief to those who are thirsty.

In this world, there are many people walking long journeys while carrying a deep thirst within themselves. My wish is simply that such travelers may drink this clear water.

With that wish, I dug a channel for clear water to flow.

I would be grateful if you could think of my books as that river.

The river—my books—does not exist because I wish to sell them aggressively or because I want as many people as possible to discover them.

Rather, my wish is that the water reaches those who truly need it, and that it can ease their thirst.


With that single purpose, I will keep watching over the flow so that it remains pure and clear.

I understand this to be my role.


The Buddha was the one who discovered the water.

The water has always been there.

In truth, it is right before our eyes.

Yet unless we reach out our own hands, we cannot touch it. Unless we lift it to our own lips, we cannot drink it.


That water is what the Buddha called Dhamma.

It is something we must seek for ourselves. If we drink it without making it impure, it will surely heal the heart. 

The water is not mine.
Nor did I create it.

I am, in a sense, someone who digs new channels.

Across time, across languages, across cultures and ways of life, there are still people today who continue to live with thirsty hearts.

Wishing that the same clear water may reach them, I dig new channels, guide the water, and carefully protect the river so that its clarity is never lost.


To me, a book is like the flow of a small, clear river.

My role is simply to preserve the purity of that flow.

I do not raise my voice telling people they should drink from it.

Nor do I desire that as many people as possible should know where the river is.

My concern is something different.

I simply want the river to remain pure—to remain free from misunderstanding, and to ensure that it is never used for purposes that betray what it truly is.

To devote myself, without compromise, to preserving the river as a river—that is my work.


It flows quietly, away from the center of attention.

Many people may not be looking for such a river.

That is perfectly all right.


And yet, somewhere, someone may be exhausted.

Someone may be searching for healing.

Someone may be carrying a burden so heavy that they are beginning to lose the strength to continue walking.

If such a person happens to find this river, they may pause for a moment, cup their hands to drink, quench their thirst, and perhaps find hope again.

That small hope is enough for me.


My work is to protect the flow of this clear river.

In other words, it is simply to express the Buddha's wisdom in words that are meaningful and useful to people living today, and to shape it into works that truly benefit others.

That is where my work ends.

That is my responsibility as an author.

I create my works, but I do not do so in order to make myself better known, or to gain further profit or fame.

I do not place value on the things that the world considers valuable.

It is the same for me today.


What I hope for is that the true meaning of my books will be understood, and that the water of this river will reach those who genuinely need it.

For that, I will gladly make every effort.

But I do not make efforts to attract attention.

The moment I step into that territory, my work begins to change into something else—a desire to be seen, to be admired, to be praised.

As I mentioned earlier, the path of the Buddha begins by stepping back from oneself, by refusing to place oneself at the center.

For me, attracting public attention or promoting my books belongs outside my responsibility as the keeper of this river.

Such things may well have their own value in the world. I do not deny that.

They simply do not belong to the work that has been entrusted to me.


The river does not concern itself with how it is treated.

It can only continue to flow.

Whether someone drinks from the river, what they experience there, whether they find healing, whether they find nothing at all, or whether they pass by without even noticing it—

all of that belongs to each individual traveler and to the journey of their own life.


My hope goes only this far:

That there is a river where thirst may be quenched.

That it is here.
Nothing more.

My work is to create each book with all the care and strength I can give, and then to release it into the world.

After that, it belongs to you.
It belongs to your life.


A river remains a river.
It simply continues to flow.


As long as I am able, I will continue protecting this clear river.

Perhaps I will one day dig another small channel.

And I will continue doing everything I can to ensure that the water never ceases to flow, and that it is never polluted.

My only wish is that, if you find this river, you will choose with your own hands to lift its water to your lips and allow it to ease your thirst.

With that wish alone, I will devote myself to protecting the clarity of its flow.


To all my readers—

Please cherish the river that is yours.

How you use its water is entrusted entirely to your own will and your own conscience.

May your healing and happiness continue to grow.

That is the wish of the river.

 


In short:
If my time can help bring "water” to someone who truly needs it — someone facing hardship — I will gladly give my time.

But I will not spend it to sell myself, or to satisfy someone else’s worldly desires.

 

August 2026

Ryushun Kusanagi


 

海の向こうの読者のみなさんへ

私の作品が海外で紹介されるようになって、さまざまなコミュニティやオンラインのプラットフォームから、本の紹介、いや正確には宣伝をしませんかというお誘いをいただくことがあります。欧米では普通のことなのだそうですね。

私の作品に関心を持っていただけることは、ありがたく思います。

また、本をめぐるコミュニティやプラットフォームを築いてきた、その努力と、社会への貢献にも、心から敬意を表します。

と同時に、こうした声を聞くたびに、私は、仏教徒としての自戒の念とともに、こう自身に問いかけます。

自分にとって、著者としての仕事とは何だろうか?


私にとって、作品を送り出すことは、人の注目を集めるため、より多くの人に知られるためのものではありません。

仏教というのは、つねに「おのれを引いて(自分を中心に置かずに)考えよ」という前提に立つ思想です。

おのれを引いた後に何が残るか――それを「澄んだ水」と比喩的に表現することにします。

澄んだ水とは、渇いた人たちにとっての癒しとなるものです。

この世界には、渇いた人たちがたくさんその長い旅路を歩いているから、せめてそうした旅人に、澄んだ水を飲んでもらおうと願う。

その願いのもとに、きれいな水が流れる川を引いた――。

その川が、私の著作だと思ってもらえたら、ありがたく思います。


川、つまり私の作品は、ことさらに売ろうとか、より多くの人に見つけてもらおうという動機を持っていません。

そうではなく、渇いた人に確実に届くように、そしてその渇きを癒せるように、

なるべく清浄な水を流し続けたい――その一心で、溝を堀り、水を引き、さらさらと流れる澄明な水を見守り続ける。

それが、私の役割だと理解しています。


水を発見したのは、ブッダです。

水はそこにある。目の前にある。だが手を伸ばさねば届かない。みずから口元に運ばねば、飲むことはできない。

そうした水が、ブッダがダンマと呼んだものです。みずから求め、汚すことなく口に含めば、必ず心が癒される――そうした存在のことです。

水は、私のものではなく、私が作ったものでもありません。

私はいわば、新しい水路を掘る人です。時代を越え、言葉も文化も生活も違う、それでも心渇いたまま生きている現代の人たちに、澄んだ水が届くようにと願いながら水路を掘り、水を引き、その水が汚れないようにと気を配りながら、川を守る人間です。


私にとって、本は、一本の小さな澄んだ川のようなものです。

水を引いて、澄んだ流れを維持することが、私の役割です。

誰かに水を飲んでごらんと大声を上げることはありません。

川がある場所を多くの人に知ってもらいたいと欲を張ることもありません。


ただ純粋に、汚されないように、つまり誤解されないように、間違った目的のために利用されないように、

どこまでも、川が川としてあり続けるために力を尽くす。それが、私という人間の仕事です。


ひっそりと、静かに、人目につかないところに、この川は流れています。

川を求めていない人たちも大勢います。それでいいのです。

けれどどこかで、誰かが疲れ果てているかもしれない。

誰かが癒しを探しているかもしれない。

重すぎる荷物を背負って歩けなくなりつつある人もいるかもしれない。

そんな人がもしこの川を見つけたなら、ふと足を止めて、両手で一杯の水をすくって渇きを癒し、生きる希望を取り戻せるかもしれない――。

その小さな願いだけで、私には十分なのです。


だから、作品は作りますが、自分のことをもっと知ってもらおうとか、さらなる利益や名声を得ようとか、

いわば、この世界において価値があるとされるものに、私は価値を見ないのです。


それは今も同じです。


私の務めは、澄んだ川の流れを守ること。

つまり、人々にとって価値ある作品を、ブッダの智慧を現代の人たちに役立つ言葉に置き換えて、伝えることのみです。

そこまでが、私の仕事。私の作家としての責任です。


私が求めることは、本の内容が正しく理解されること。


理解してもらうための努力はします。

しかし注目されるための努力はしません。そうした領域に踏み込んでしまうと、途端に「自分を見て、自分を褒めて」というあり方に変容してしまうからです。

しかし最初にお伝えした通り、私がよって立つブッダの道は、「まずは自分を引いて考える」ことから始まるのです。

私にとって、世の人々に注目されたり、本を宣伝したりということは、川を守る人間としての務めの外にあります。

そうしたことも、世の中では大事なことの一つかもしれませんが、

ただ単純に、私が引き受けるべき仕事・活動の中には含まれていないのです。


川は、どのように扱われるかに関心を向けることがありません。流れ続けることしかできません。

川の水を飲んで、何を感じるか。癒されたか、そうでもなかったか、何も感じなかったか、見えなかったか、

すべては、それぞれの人生を旅する一人一人次第です。


私の思いは、

渇きを癒せる水が流れる川がある

ここにあるよ――

というところまでです。


つまりは、本を精一杯の力で創り上げて、世に送り出すまで。

あとは、読者のみなさんの領域であり、人生です。


川は川のまま。

ただ、流れ続けるだけなのです。


私はこれからも、澄んだ川を守り続けることでしょう。

新しい小さな川を引くこともできるかもしれません。

そして、川の流れを絶やさぬように、汚されぬように、精一杯に自分の務めを果たします。


願うことは、あなたが川を見つけてくれること、そしてみずから口元に運んで、その渇きを癒してくれることです。

そのことだけを願って、私は本という川の流れを守り続けます。


読者のみなさんへ――どうかあなたにとっての川を大切に。

どのように川を使うかは、あなたの意志と良心に委ねられています。

願わくば、あなた1人分の癒しが、幸せが、この先も育ちますように。


川の願いです。


つまりは:

本当に必要としている人、つまり困難に直面している人に”水”を届けるためなら、自分の時間を使います。

自分を売るため、誰かの世俗的な欲の満足のためならば、使いません。 

 

 

2026年8月

草薙龍瞬 

撒いた種が実るのは

<おたよりから>

当然失敗も多く、私が得意だった自己否定が頭をよぎる機会はたくさんあるのですが、合言葉は「これも修行のうち」でなんとか乗り切っています。

学校時代は、「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」を聴いて乗り越えました。(書籍はもちろん持っていますが、行き帰りや家事をしながら聴くことがほとんどです)

今は「反応しない練習」と「これも修行のうち」を毎日聴いています。とくに「これも修行のうち」は新しい仕事を始めている私の心境にぴったりで、私に向けてお話しして下さってるように妄想してしまうほどです。

仕事内容は自分に合っていると思います。失敗はありますが、感謝されたり認められることもあり、自分の納得の道を歩んでいると感じます。

そして、こうやって仕事に揉まれながらも心は振り回されず、経験を積んでいくことが、私の1番の快なのかと思います。


<興道の里から>

撒いた種が実るのは、数年以上続けた後なので、収穫(出費より収入、負担より喜びのほうが増えていくこと)はしばらく後なのかもしれませんね。

着実に技(こういう場面ではこう対応する)を身に着けていけば、次第にラクに成果が出せるようになると思います。

続けるほど楽になっていく、実りは大きくなるというのは、間違いのない、自分らしい道を歩いている時に起こります。


とある方が送ってくださった写真
岐阜のとある場所 ちゃんと幸せを見ているではありませんか



2026年8月初旬