4月第1週から全国で桜の開花が始まります
青春18きっぷは4月10日まで
少し遠くに出かけてみてはいかがでしょうか
草薙龍瞬(出家・著述家)の言葉をお届けするブログです。著作・講座・講演等から ‶生き方として役立つ言葉” を抜粋してお届けしています。*毎週日曜の更新です。*講座最新スケジュールは公式サイト kusanagiryushun.blogspot.com へ
しかし「苦しみを増やさない」という大原則に反する報道、政策、医療・看護のあり方が続いている印象が、個人的には強くあります。
多くの人が、自分が正しいと思う見解・意見の中に閉じこもるようになってしまった。異なる可能性、もっと他にあるかもしれない選択肢を考えなくなった――。
さまざまな見解に分かれるのは仕方ない。けれども、そうした多様な見解を、一定の視点をもって整理して、誰もが納得のいく「考え方の道筋」を示そうという態度が不可欠です。
特に医療・看護の専門家・プロフェッショナルには、そうした態度が期待されています。
案外、ベテランの看護師であっても、こうした現実や、看護の世界固有の問題が見えていないことは、少なくありません。
使命感が強くて頑張りすぎたり、忙しすぎて看護の世界を冷静に眺めることができなかったり・・・確かに偉いし尊敬できるのだけど、お人好しすぎるのでは?と思うこともなくはありません。患者目線の脱線ですが(^^;)。
◇
講義の中で皆さんにお伝えしていたのは、「患者目線で」レポートを評価しますよということ。晴れて卒業した皆さんに、私が患者目線で期待するのは、
まずは、現場で確実に人を救える技術と知識と経験を身に着けること。
(初歩を固めるのに3年、習熟に7年、主戦力になるのに10年? 一般論としてですが)。
そのうえで、看護が抱えるさまざまな問題を、正しく理解して、改善の方法を提言できる「新しい看護」を創れる人材になってくれること(時間はかかるし、難しい使命だけれど)。
苦しむ人を助けると同時に、自分自身も苦しみを越えて、
「納得のいく職業人生」――私は生涯をかけてこの仕事(看護)をやってきた、その人生に納得している、誇りに思う、生きてきた価値があったと思えること――
そこまでたどり着いてほしいな、と個人的には願っています。
そのためには、現実を正しく理解する技法が必要です。「ただ従う」ことが正しいとは限りません。
とはいえ「倫理的に間違っています」と言えるには、自分が相当なレベルのプロになる必要があるのだけど。
「本来の(=苦しみを増やさない)看護のあり方」を言語化して、
「倫理に反する」現場の慣行や人間関係に苦しめられない「強い看護師」になってもらえたら、と願っています。
強く、優しい看護師 をめざしてくださいね――というのが、患者目線からの希望です。
改めて
卒業、おめでとうございます
2024年3月下旬
「老害」という最近よく聞く言葉は、マクロの「制度論」と、ミクロの「人間関係論」に分けて、その意味を考える必要があります。
いずれの視点においても意味がない――というのが、仏教に基づく結論にはなります。もっと建設的なテーマ・表現に置き換えることが可能だからです。追って言葉にしていきたいと思っています。
ただ、こうした考察は、自戒しないと、まさに「私はこう思う」という我見(妄想)の延長にすぎなくなる危険があって、
その危険に気づかないままでいると、自分もまた「自分の意見以外は見えていない」独り善がりに陥ってしまいかねないので、
なるべく目線を低く、心を開いて、素朴な疑問を、素直な言葉で紡ぐ必要があります。(※本に書く時は、そのうえで知識や情報をつけ足します。この場所では、そこまではできませんがw)
◇
「心が歳を取らない」ことが大事ということです--その練習はといえば、私の場合は、
外の景色を子供のように、というかまさに子供と同じ目線で見ること をしています^^。たとえば、
まだ寒い日が続いていますが、日差しはもう立派に春。透明で、あたたかくて。
外を歩いて、その光を、一切の自意識なく見つめます。
自意識をゼロにできれば、それは幼子が見る景色と同じになります。
「自分」を作っている日常の妄想(自意識のかけら)を完全に消すのです。
この命には、それが可能です。で、心をツルツルのピカピカにする――。
これが、自分にとっての一番の健康法です。
すると歳を取りにくくなります――あくまで”心の年齢”についてですがw。
ストレスを溜めないことは可能です
インドにも深刻な問題は山積しているが、子供の数が減るというあからさまな可能性の喪失には、まだ直面していない。
次々に子供が生まれてくるから、歳を重ねる孤独を感じない。
人を信じる子供たちは向こうから飛び込んでくるし、勢いよく育っていく。
未来は、世界は、こうして続いていくのだろうなという安堵を、いつの間にか感じている自分に気づく。
◆
だが、この国に帰ってきた途端に、そうした安堵は音もなく消失してしまう。
子供たちはマイノリティであって、日常に目にするのは、大人たちだ。平均年齢49歳という老いた国。
しかも一人一人が孤立し、分断しているようにも見える。頼れるものが少ない。そう感じている人々が多いように見える。
頼れる人、頼れるお金、頼れる制度・・・自分を支えてくれていたものが、崩れつつある。
まるで海に浮かぶ筏が沈んでゆくかのように。
◆
そして耳に入ってきたこの国の現実――
能登半島地震から二か月が経ってなお、瓦礫の撤去は進まず、仮設住宅は申請数8000に対して完成した数はわずか300(4%未満)。
人手不足が理由の一つとも聞くが、当然の話だ。ただでさえ不足が叫ばれている建設業界の人材は、あの大阪・関西万博に取られているのだから。
その万博は、もはや工事が間に合わないことは確実だという。だが言い出しっぺの政治家たちはだんまりを決め込み、関西経済界のお偉い人は「成功させるつもりがないとは、けしからん」と息巻いているともいう。
彼らにどんな裏事情、打算計算があるのか知らないが、万博と、家を失い寒さに凍える人々の支援と、優先順位がどちらが上かといえば、明らかに後者だ。人々の生存・生活を越えて優先させるべきことなど、ほぼないに等しい。
予算、人材、資材、機材という有限のリソースをどこに使うかは、まさに優先順位の問題だ。
間に合わないことが確実な万博にリソースを注ぎ続け、被災地の支援・復旧は後回しにする。これが今起きている現実ではないのか。
資源の分配こそは政治の仕事だが、その政治が、優先順位を完全に間違えている。見捨てている。倒錯。機能不全。「まともな政治」と対比させるなら、狂気という形容さえ当てはまる事態が起きている。
残念なことに、万博への資源集中と、現地の復旧の遅れを結びつける報道・発言は、まだ私のもとには聞こえてこない。
見えていないのか。考えていないのか。なぜ優先順位を真っ先に検討すべき政治家が、議会・国会で取り上げないのか。
(※さらに聞こえてきたのは、裏金問題に続く某党青年局の過激ショー(?)の余興・・・言葉にするだけで心が汚れる。このどうしようもない現実をなんと言おうか。)
◆
東京の救急出動は、ここ二年、過去の記録を上回る多さともいう。たしかに救急車のサイレンが日夜響き続けている。
コロナ&インフルの同時流行も原因か、とピントのぼけた推測を新聞は報じているが、感染流行の規模は、実はそれほどの勢いはない。
あるように見えるのは、定点観測の数値を執拗に流し続けるからだ。本当にそれが事実なら救急出動数に占める感染症患者の割合を公表すればよいのに、それはしない。印象操作に近いところがある。
過去にも季節性インフルエンザの大流行はあったし、その規模は、最近の流行をはるかに上回っていたが、救急出動がこれほどの数値を記録することはなかった。
原因は他にある。その原因を追究することが、ジャーナリズムおよび行政・政治家の使命ではないのかとも思う。
◆
奈良・五條市では、県有地の利用計画を新知事が突如変更して、なんと25ヘクタールに及ぶ敷地内にメガソーラーを設置すると言い出したそうだ。
そのような計画を、住民たちは承知していない。そんなことのために代々守ってきた土地を譲ったわけでもない。だが知事は「法令違反はない」と強弁していると聞く。
あの緑豊かな大和の大地を、無機質な黒の金属物が覆いつくすのか。
間近に見続けなければいけない住民たちの思い、住環境、未来はどうなるのか。
景観を破壊し、県民の信頼を平然と踏みにじり、住民たちに殺伐を強いて平気でいられる人間の感性とは、どういうものだろう。
ちなみにあまり聞こえてこないが、あの吉野山にもメガソーラーが造られている。目が傷む。
◆
この国は、明らかにおかしい。壊れているとさえ言っていいのかもしれない。
能登半島地震から13年さかのぼるこの日、東北であの大震災が起きた。2万2222人が命を失い(行方不明の方々も含む)、それを上回る数の人々(約3万人)が故郷を失った。
13年経って、何が変わったのだろう。希望は増えたのだろうか。
いや、答えは真逆だ。明らかに減っている。凄まじい勢いで壊されてきている。
今なお、野晒しにされる人々、景観を破壊される人、未来に希望を見出せない人が、数多く存在する。その数は増えている。
その最大の犯人は何かと言えば、”壊れた政治” であろうとやはり思う。
この国の政治は、まともではない。犯人は人間たちだ。
追記:
と語りながらも、では何を行動に移すかという話に移ると、正直に告白して、出家としての自らの立ち位置にぶち当たる。
あのブッダは、故郷が滅びゆくのを結局見届けることしかしなかった。
ならばこの命は?――出家に留まるのか、出家の線を越えるのか。行き着くのは、いつもこの葛藤だ。
追悼
2024年3月11日
いつしか日本に戻るたびに、奇妙な違和感を覚えるようになった。今回もだ。
最初は、日本に近づく機内でのアナウンス。税関と検疫の案内。「違反した場合は…」と細かい罰則の説明つき。添乗員が紙の束を持って機内を回っている。いまだに入国審査に紙を使っているのか。
そして成田空港。見晴らしの良いガラス窓は最初だけで、すぐ四方を壁が覆うようになる。そして「日本ではこんなことをしたら罰せられます」というイラストつきの「警告」が始まる。
見通しが悪く、照明は暗く、アレをしてはダメ、これをしては罰則と、ダメ出しの告知ばかりが目に入る。そして、ところどころに直立不動の制帽、メガネ、白マスクの職員が立っている。
ニンテンドーのキャラクターが「ようこそ日本へ」と通路の最後あたりにやっと出てくるのだが、日本にたどり着いた高揚感は、飛行機を降りて間もなく消沈して、歓迎されている気がまったくしない。
◆禁止文化のルーツ
気づく人は多くないのかもしれない。だが心は、言語情報をとらえると、瞬時に意味を読み取る。本人が気づかないだけ、あるいは見て生まれる反応が感情・思考レベルに至らないだけで、意識レベルでは、心は十分に意味を読み取り、また相応の反応をしているものだ。
成田空港って刑務所に雰囲気が似ていないか、とふと思った。入管庁によるビザ切れ外国人への不当な処遇(死者も出ている)がたびたび聞こえてくるが、何か根底でつながっているのか・・・。
思い当たったのは、入管庁も、空港を管轄する国土交通省も、ルーツはあの ”内務省” だということ。悪名高き特高も含め、警察・行政権力を牛耳っていた、戦前の”最強官庁”だ。その文化的遺伝子が残っているのかもしれない。
そういえば、かつての日本航空の機内アナウンスもそうだった(今はどうか知らないが)。十項目くらいの「機内でやってはいけないこと」を各席モニターで告知し、項目ごとに赤いバッテンマークと「ブブ―ッ」の警告音つき。「快適な空の旅をお楽しみください」がブラックジョークに聞こえてしまった。
成田空港とJALは、メンタルが共通しているのか。監督官庁は国土交通省で、そのルーツは旧内務省。いずれも、国土交通省キャリアの天下り先?(いちいち調べないが、その可能性は低くない)。
案の定、通路の壁に「首都高」(首都高速道路公団)のPRが(国土交通省の管轄下)! しかも「高速に徒歩や自転車で入ってはいけません、逆走は禁止です」という見事なダメ出し・・(外国人がわざわざ高速に歩いて入るかい?)。なんとわかりやすい上から目線の官僚的発想。
実に成田空港らしい(?)「警告」
入国審査のフロア入口には、「世界のどこそこで〇〇熱や感染症が流行中」という警告が並ぶ。しかもよれよれの紙で。
税関申告は、いまだ紙。QRコード読み込みで携帯でも可能になったそうだが、それを知らせる掲示も、よれよれの紙。
なんというか、この空港は見た目が「しょぼい」。
これまでいくつかの国際空港を通ったが、これほど多くの警告は見た覚えがない。わざわざ紙に手書きして、係官に事細かに確認されて。今やインドでさえ、パスポートをスキャンして入国・出国手続き完了というのに(指紋と顔写真は撮られたが)。
しかも他国の国際空港は、私の限られた印象でしかないが、開放的で、斬新なオブジェや壮麗なモニュメントがしつらえてあって、歓迎と豊かさ(たとえ国の現実から離れているとしても)をアピールしようという工夫が見られた。
成田空港はそうではない。世界有数の「陰鬱な空港」かもしれないとさえ思う。 官僚目線の「入らせてやる」的な高圧感。目と耳に入ってくるのは、監視と禁止とお説教……無数のダメ出しだ。
◆日本人が縮んでゆく理由
ふと思ったが(帰国早々、こうした思考をめぐらせねばならぬところは哀しいが)、この“ダメ出しまくり”の成田空港こそは、日本社会の象徴かもしれないと思えてきた。
「あれをしちゃいけません、これもダメです。違反したら罰せられます」と、やたらと多い禁止令。統治者目線による監視と禁止。いわば官僚メンタルとも呼べる発想が、官庁や管轄下の組織に滲(にじ)み出てくるのかもしれない。
これを受け取る人間の心は、どんな影響を受けるか。心は本来「禁止」を予想していない。だからいきなり「ダメ」と言われたら、それだけで自分が否定されたかのような窮屈さ、戸惑いを覚える。
あまりに禁止が多いと、「これも禁止されているのでは?」と自分の発想や行動に自己検閲をかけるようになる。「どうせ叱られる・罰せられるなら、何も言わない、しないほうがいい」と考えるようにもなる。
消極策が安全策。目立つことより埋没すること、語ることより沈黙するほうが、安全だと思うようになる。かくして、つねに他人の目(監視と禁止)を先に見る性格が醸成されていく。
ちなみに、こうした環境の典型――監視と禁止の積み重ねによる、自己検閲・自己規制メンタルを摺り込んでいる場が、もうひとつある。学校だ。
全国には今も、これが本当に21世紀かと目を疑うほどに無意味な校則を敷く学校があると聞く(「下着の色は〇色に限る」みたいな)。自己決定権・人格権の侵害とさえ言えなくもない、やりすぎの監視と禁止。
そして文科省による全国一律の(過剰)規制。中央から都道府県さらに市町村の教育委員会へと下される上意下達の教育行政。
教育行政も、あの戦争が終わるまで、事実上、内務省が牛耳っていた。おお、見事なまでにルーツが同じだ。
となると「自己肯定感が低い」日本人が多いのは、明治期に由来する官僚メンタルに起因するということか。まさかと思ってみるが、可能性としては否めない。統治する側からされる側への禁止と規制。される側は、おのずと合わせて思考し、行動するようになる。
結果としての、出る杭を打つ、周囲の顔色・様子を見て同調する、目立つことより埋没を選ぶ行動様式だ。人々は自信を失い、社会全体が萎縮してゆく。
これは脈々と受け継がれてきた、しかも言語化されないまま再生産されるという(最もタチが悪いと言えなくもない)日本人の精神的風土であり、文化であり、伝統みたいなものかもしれない。
◆最後は「何も考えるな」
しかし、なぜここまで禁止しようとするのだろう。なぜいつまでも旧態依然としたやり方を繰り返して平気でいられるのだろう。
そうか、彼らは何も考えていないのだ。思考停止。前例踏襲。現状維持。
「言われたことはやってます」「やることはやってます」(だから自分は悪くありません)という自己保身。最もラクといえばラクな選択だ。
もしこの空港に、改善・創造・歓迎というポジティブな価値が念頭にあれば、とっくの昔に入国手続はタッチパネル&デジタル化できたであろうし、掲示内容だって一変するはずだ。道路公団だって「さあ、高速道路網を使って
Discover Deep Japan!」的なポジティブなPRをするだろう。
ところが現実は禁止、警告、いまだに「よれよれの紙」と「手書き」。「やることやってます(だから私は悪くありません)」という自己保身で終わり。時代に遅れ、かつ無粋・粗雑に見られていることには、気づかない。
何も考えないからこそ「禁止」するのだ。禁止して、他者の行動を規制する。そうすることで、考えない自分との同化を求める。
「自分は考えないから、おまえも考えるな」
(おまえが考えると自分も考えないといけなくなる。それはしんどい、だから何も言うな、考えるな)という同調の強制だ。
考えない人間にとって、考える人間・モノ言う人間・行動する人間は、思考を強いられる面倒な存在だ。自分の権威と安全を脅かす存在――だから禁止しようとする。
そうか――禁止と思考停止(考えない心)は親和性を持つということか。
という仮説にたどり着いたところで、最後の目隠し扉を潜り抜けて、ようやく「出獄」した。
◆溜まっていく禁止令
さらに印象的だったこと――京成電車では「不審な物を見かけたら」のアナウンス。これは、あのオウム事件で全国が騒然となった時に始まった警告だ。騒動が収まったらやめればいいのに、三十年経ってなおやっているのだ。
「やめる」という判断には思考が要る。思考しない人間は、やめることができない。一度やってしまったことは、誰かに「やめろ」と命じられるまで、延々とやり続ける。
考えないからこそ、止められない。「引き算」ができない。
こうして無駄なもの、なくていいもの、人の心に負荷をかけ憂鬱にするダメ出し・干渉・禁止が、残像のように重なって増えていく。
思えば、「ご理解とご協力をお願いします」も間接的なダメ出しといえなくもないし、今なお続くコロナ注意報「先週比0.7倍」(減っている)も、根底にある発想は同じだ。まず禁止。その後は誰も引き算しない。
かくして無数のダメ出しを強いられる人々は、言語化できないレベルで、自由を失っていく。気が滅入るのも道理ではないか。
そうか、この国は「禁止の国」なのか。この国の人々は、総鬱状態に入りつつあるのかも――。
みな「うなだれて」見えた。同じ角度で下を向いている。スマホを眺めていた。誰とも話さない。目も合わせない。
その姿と蕭然(しょうぜん)と降る小雨とが重なって、なんだか物悲しい墨絵を見たかのような気分になった。みんな、何を見ているのだろう。どこに向かっているのだろう。
まるで違う星だ。昨日までいたあの星、つまりはインドのあの小さな村で見た光景は「圧倒的」だった。圧倒的にみんな元気で、幸せに満ちていた。
幸せを作り出しているのは、禁止が限りなく少ない日常と、その中でのびのびと遊んで育つ子供たちだ。あの村の”幸福密度”は、圧倒的だった。
自分があの地の良いところだけを良いように見ている可能性は否定しないが、しかし翻ってこの国の人たちが、幸せに生きている、幸せを増やしているようには見えない。
この国に入った途端に感じた「禁止令」だけでも、かなり幸せを阻害しているように思う。
禁止と思考停止と同調と・・・この国の人々は、みずから幸せを減らしているのだ。可能性を相当に殺している。
もし禁止を解除したら――もっとおおらかで、気軽で、寛容で、自由を認め合う社会であったら、見違えるほど気が晴れるのではなかろうか。
帰ってきた途端にこれだけの疑問と思考が・・・こんなに自分ってネガティブな性格だったかと思うくらいに、さまざまなことを考えてしまった帰国一日目だった。
◇
追記 後日ファミレスに入って日本の空気を久々に感じていたら、隣のテーブルに4人家族が座ってきた。小さな女の子が2人。
「シーッ、静かにしなさい、でないと帰るよ」と若いお母さん。
私に向けて「すみません」と謝ってきた・・。
お母さんに謝らせるような社会に、誰がした?
やっぱり今回の”発見”は正しいのかもしれない。
過剰な禁止令に埋(うず)もれる国――。
みんな、かわいそうすぎるよ、もっと優しくなろうよ、と義憤に駆られた小学生のような気分になってしまったのでありました。
ところで、今、紙の新聞が部数を減らしているのだとか。新聞で情報を取り、また様々な出来事について考えるという使い方をしない人が増えている・・・。
考えるのは、紙の新聞が縮小することで得られるプラスと、失うマイナス。
マイナスだってあるんじゃないのかな。ネットニュースとSNSだけでは、得られないプラスもあるのでは?
小学生の頃から、新聞を通して世の中のことを学んできた。そうした記憶がある身としては、新聞文化の衰退は、やはり淋しく思います。
その一方で、新聞・TVに代表されるマスメディアに物足りなさ、もっといえば不満を感じざるをえないことも事実。あればいいなと思うのは、
➀紙の新聞購読者は電子版もおまけで(無料で)利用できるとか、
②紙外第三者のサイト・ブログ・対談イベント等の話題・視点・情報を探して(キュレーションして)掲載するとか(:Newsweekが使っている手法/自発的に発信しているくらいだから原稿料はほぼ不要にできるかも?)、
③長期にわたって保存価値のある情報を整理したページとか(図鑑・資料的な/新聞の立ち位置にとらわれず総合的・立体的な視点で、課題・論点・情報を整理する)
・・・「紙&配達」以外の利点があれば、ということ。
現状、各新聞とも立場が固まっていて別の視点を拾えない(政治的立場で最初から分かれてしまっている)とか、即時情報はネットニュースで足りてしまうといった要素も不利に働いているのでは?とも考えます。
個人的には、整理された情報を、限られた範囲のみ(1日ごとに区切りがある)、落ち着いて読めることは、最大のメリット。あとは ”保存価値の高い情報” がもっと欲しい、というのが新聞一般への印象。
持続的に集めれば一冊の本になるくらいの保存価値ある情報・資料・知識・見解が一定量を越えれば、独自の商品価値を持ち始めるような気もしています。
「月数千円」が安いと思えるくらいの中身を、新聞社以外にリソースを見つけて充実させるということ。
帰国後最初に見た記事が、能登半島の仮設住宅が申請数8000に対して完成済みが300ほどしかなく、まだ瓦礫撤去も進んでいないという報道。
人も機材も大阪・関西万博に取られていることが背景にあるのでは? と素人目にもわかるのに、二か所に起きている現実をつなぐ報道がない???というのが印象的でした。このあたりが物足りない。
つなぐ「視点」があれば、世論形成にもつながるだろうのに、情報が分断されたままなので、読者はフーンで終わってしまう。
ジャーナリズム本来の使命・あり方が弱体化している印象が伝わってきます。総じてこの国には、中立・公平な視点で事実をつなげて考える(総合的)知性が、新聞、テレビ、アカデミズム(学者・専門家)全般にわたって、ない(弱い)気がしてきます。
帰国して、いろいろと日本社会の問題ばかり見えてきて、さっそく危機感を感じているこの頃です――。
2024年3月8日
2024年3月8日
試験直前に効く心がまえ:
自分で決めた日から「願掛け」してください。その日からは無駄なことに時間を使わないようにするのです:
●いつからでもよいですが(今日からでも)、一つの「誓い」を立てます。
「私は今日○月○日を最後に、余計なものに手を出しません」
「どんなに苦しくなっても、○年○月○日の本番まで必要なことだけに専念し続けます」
そう決意した日から、無駄なものには手を伸ばさないようにします。たとえばスマホをダラダラ見てしまったりすること。連絡事項の確認など必要なことに使うぶんには仕方ないかもしれませんが、それ以外のムダは遮断します。それ以外の遊びも、なるべく入れないようにします。
※この「ムダなものに手を出さない」のは、妄想を増やさないためです。妄想は、「つい息抜き」「ダラダラスマホ」といった心のスキマに生まれます。
一度生まれると、妄想は強力なので、なかなか勝てません。その日をムダに過ごしたり、不安になったり、「試験に落ちる理由」まで考えだす人もいます。「妄想するスキを作らない」ことが、この<願掛け>の目的です。
●ついでに「儀式」も行うことをオススメします。
つまり、心のなかで「○月○日から試験勉強に専念するぞ」というXデーを決めて、その前日にマンガなどの娯楽品を遠ざけます。どこかお気に入りの場所に出かけて、自分の大好物を食べて(次回食べられるのは目標達成後)、
「私は今日から『全力一〇〇パーセントの毎日』を過ごします!」と誓いを立てて帰ってくるのです。
※「もう試験直前」という人は、なるべく短い時間でケリがつく儀式をしてください。食後のデザートを「試験前の最後の晩餐」として噛みしめながら食べるとか(笑)。
そこから先は、生活そのものを「願掛け」として過ごします。たとえば、朝は決めた時間に必ず起きる、食べ過ぎない、スマホ・動画を見ない、テレビやインターネットは絶対に封印する……といったことです。
この願掛け期間だけは「失敗の可能性を1%も増やさない」ように全力を尽くすのです。
●試験当日にベスト・パフォーマンスを発揮したければ、「この日から本番まで、「負けにつながる1%を作らない」ことに全力を尽くしてください。
「負けにつながる1%」を作らない期間(〇日間)を過ごせたら、その期間内は「勝ちにつながる100%」だけになります。不安という妄想も、その期間だけはシャットアウト。これが「絶対の自信」になります。
「勝負は下駄を履くまでわからない」と、よく言いますよね。試験はその典型です。だからこそ過去は関係ありません。過去の迷いもグズグズも無駄に過ごした時間も模試の成績も、願掛け期間に入ったら、ぜんぶ忘れます。ここからが勝負。
「この日から」と決めた日からは「勝ち100%」の一日を過ごす。それを、二日、三日・・・そして本番まで続けるのです。
●メンタルをコントロールするのは難しいものですが、期間限定なら勝てる確率は上がります。「この最後の期間だけは100%勝つ!」ことに挑むのです。
もしまた崩れたら、その日から<願掛け>をやり直す。開き直る。最後は強気で行く。「あと〇日」と決めた日から、コレを始めます。
特にラスト3日は、最後の願掛け期間です。何も考えないこと。それが自信です。
3,2,1日、そして当日。
●もうひとつは全体をよく見ることです。全員受かってもおかしくないし、実際に全員受かってきた試験です。準備したことをそのまま無心に(妄想なく)発揮すれば、ほぼ確実に結果が出るのですから、後はフツーに試験を受けてくればいいだけです。
健闘を祈ります。では<願掛け>始めましょう!
2024年1月下旬
ラケシュの車に乗って出発。みなが手を振って見送ってくれた。
空港では、ラケシュの兄と学生寮の生徒たちが待ってくれていた。
毎回、手を振って見送ってくれる。その姿をいつまでも覚えておきたいといつも思いつつ、空港の中に入っていく。
この地には、すべてがそろっているようにも思う。
この体が二つあれば、すべて解決するのだが――。