今、勉強中の十代の人たちへ。

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

※中日新聞・東京新聞に連載中の記事から(毎週日曜朝刊掲載)

12 閑話休題

今、勉強中の十代の人たちへ。ここまで読んで「自分だってできるかも」と思ったかもしれない。できるかもしれないし、できなくてもいいかもしれない。建前(きれいごと)ではなく、勉強より大事なことは、確かにあります。

何をするにせよ〝気持ちが入る〟生き方を選びたい。趣味も部活も学びも友だちづきあいも。気持ち半分でぼんやり生きても、永久に楽しくないから。

気持ちを入れるには、三つ入り口がある。①「好き」から始める。②やってみる(とにかく体験する)→できるようになる→いっそう楽しくなる。③「このままではヤバい」という危機感で頑張る。

僕の場合は③だった。「あとで後悔だけはしたくない」と思い詰めていたから、自分にマイナスなことはしなかった。生き方を知るために、本や映画や新聞(特に文化欄)を活用した。決定的に影響を受けたのは、手塚治虫の漫画かも。人生の深さと世界の広さを教えてくれた。


人生は何事も方法(やり方)次第。やり方がわかればできるようになる。こればかりは先生も教えてくれない。自分で探す必要がある。数学なら段取り(展開の順序)をつかむ。国語なら理由づけや説明に当たる部分に印をつけて読む。英語なら文節ごとに区切って音読するなど。どんな手順で取り組むか。確立すれば強くなれる。


十代の頃は、周囲の目に敏感になるものだけど、ほどほどでいい。卒業したら、みんないなくなる。大人になったら、関わる相手も暮らす場所も自分で選べるようになる。そう、選べる大人になるために、今準備しているんだよ。


人生の着地点は、ひとつ居場所を見つけること。誰かの役に立つ(働く)ことだ。支えてほしい、助けてほしい、自分なりのやり方で。社会の幸福の総量を、君一人分増やしてほしい。


勉強ができるとか、褒めてもらえるとか、人が言うほど大したことじゃない。案外、みんなわかってないんだよ。自分のことも、生き方も。


自分らしくいられる場所を見つけよう。それだけでよかったんだ。(略)最後は出家してようやく答えがわかった、僕の体験に基づく結論です。



2024年7月21日掲載

 

※来年から寺子屋を始めるので、ときおりこのサイトで最新情報をチェックしてください。個別の感想・おたよりも受け付けています。



この命の使い方(日本全国行脚道中記)

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

8月11日(日)
18:00~21:30
これからの生き方・働き方を考える・仏教講座特別編(夏休みスペシャル)
東京・新宿区


<内容> さまざまな悩み・話題を持ち寄り、仏教的に解決していく仏教講座特別編。仕事・子育て・今後のことなど、多くの話題もとりあげます。お盆休みにふさわしくリラックスモードで開催。★悩み・質問・話題を募集しますので、ご予約時にお寄せください。※世間の話題もOKです。 
 
 

今回の講義には、東京、千葉、愛知の医師や医学生等が見学。地元の看護師さん(卒業生)も。

みなさん、その道のプロであり、プロになろうという人たちで、素人は私だけなのだが(笑)、プロといえども、見るべき点がすべて見えていることはほとんどないので、

この講義のように、医師、看護師、患者などすべての当事者に共通する「見えていなければいけない点」を技法に沿ってあぶりだすというアプローチは、確実に役に立つ。

医療・看護倫理は、まだまだ発達途上であって、いつ確立できるかわからない段階だ。かなうことなら、専門家の先生に活かしてもらって、「これだけは外せない、苦しみを増やさない最善の選択を導くための手順」を確立させ、普及させてほしいと思う。

3日目はグループワークを中心に進めて成功した。講師としては納得の一日。見学してくださった方々も、得たものは多かった様子。


そのあと奈良に入って、建築士さんと現地で打ち合わせ。ほんとに無事家屋が完成するのか素人にはわからないのだが、できます、と自信をもって言ってくださる。

完成すれば、今回の傷も癒されるだろう。最大の傷は、未来を育てるという教育活動が遅れを取ったことだ。

とにかく一日も早く形を作り、次の世代に生き方・学び方を伝える努力を始めたい。

 
夜に新幹線で東京へ。翌朝は早くに茨城に向かう。こちらは地元JA向けの講演会。

この一週間、徹夜続きで、看護学校での講義の合間に徹夜して新聞連載のイラストを仕上げるなど、かなりシュールな日常だった。器用な坊さんではある(笑)。いろんな分野でオリジナリティを発揮できている。

一度自分を捨てたことが、今につながっている。やりたいかやりたくないかという軛(くびき)を外して、求めに応じて、できることを謹んで確実にやる、という立場に立ってから、すべてが始まった。

茨城の講演会は、終活セミナー。歳を取るほど幸せになれる生き方について。農業を支える地元の女性たちがメインの対象。

日本の農業は実はピンチ。日本の社会そのものが、かなりの危機に直面している。それでも日本全国を旅すると、どの土地にもそれなりに人がいて、経済はまだ回っている。

巷間叫ばれている人口激減や継承者不足、食糧自給の危機などは、本当は夢なのではないか、まだこの社会は無事に回っていくのではないかと思いたくなるのだが、

だが、肉体の老いが刻々と目立たない速度で確実に進むように、社会の劣化・危殆化も、じわりじわりと進んでいるのだろう、と現実に目を覚ます。
 

まだ見えない危機を先取りしてシステムを変えていくことが、本来の社会的イノベーション・リノベーションであって、それが常態と化すことが理想なのだろうが、現実は程遠い。日本社会の時間は止まったままだ。いや、世界全体が、人類そのものが、か。

人間の心は、第一に己の妄想を見て、第二に執着することを選ぶ。見えない危機も未来も、他にありうる可能性も想像できないくらいに、小さな知力しか持ち合わせていないのだ。


日本社会の分断・萎縮・劣化・衰退は、自業自得と言えなくはない。だが、せめてその中で、新たな可能性を育む側に立たねばならぬという思いは、つねにある。


怒涛の一週間がやっと終わった。こんな日々をずっと続けたら、さすがに過労死するであろうと実感できるレベルの一週間だった。

実際に過労死する人たちも、この世の中には存在する。ひとり自死する人も、身投げする人も。忘れたことはない。

目の前で人が滅びつつあるのに、人間は現実を見ずして、まだおのれの欲と妄想にしがみつき、快楽と執着の中に留まっている。


世界は残酷だ。現実の苦しみを見ようとしない、その無知こそが、残酷な世界を作る最大の理由なのだ。

現実をよく見て、その中で己(おのれ)の命の使い方を見きわめる。

現実を見て感じる痛みを、熱量に変えて、この時代・この社会において、自分にできることをなす。

その道をどこまでも突き進むことが答えなのだと、今は知っている。ゆけ。



2024年7月20日
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「人のせい」にする人間と遭遇した時は

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

ある人への返信から抜粋:

すぐ人のせい――相手が悪い、自分は悪くない――にする人間と遭遇した時の心がまえ:

人のせいにする人間は、 自分をかばって相手を責めようと考える。最初の動機。

それは幼く「終わっている」レベルだが、本人は「人のせい」で目一杯。

こうした人間は、相手を悪くいい、嘘をつき、都合がいいことを言い募って、都合が悪いことはなかったと言い張る、すぐに逃げ出す。


正攻法は、そんな相手に理解を求めることだが、

人のせいにする人間は、自分をかばって、相手を理解しようとしない。自分のあり方を見つめようという成熟を持たない。

そうした相手に対しては、法的措置に訴えることになる。つまりは、理解を求める相手を、「第三者」に切り替える。離婚訴訟も、建築紛争も、刑事告訴も、原理は同じ。


第三者に伝えるときの心がまえは、

「私にとって」という線引きを明確にして、自分にとっての事実と思いを素直に言葉にすること。自分を崩さないこと。

他責する人間に「自分にとって」という分別はない。すべて相手のせい。

そのような人間の本性は、語るに落ちるというか、言い分や態度を見れば、第三者には伝わるもの。馬脚は第三者がいる場所で露わになる。


もっとも、第三者に伝わるかどうかは、未知の要素がある。他人や世間が思うことが真実も限らない。

だからどんな結末になろうとも、「事実」を崩さないこと。

ひとえに「自分にとってはこうでした」ということを、堂々と伝えて、人さまの理解を求めるという方針で進むのみかと思います。

2024年7月

 









医療倫理としてのブディズム2

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  ※2024年7月24日改訂

 

看護学校3年生とは、2年ぶりの再会だ。

2年前に比べると、やはり大人になった印象はある。これは毎年感じること。

本当の知識は、覚えられる、思い出せる、使える ものでなければならない(学習3原則)。最初から心がけて知識を学ぶことだ。

でないと、すぐ忘れる、出てこない、試験・現場で使えないことになる。下手な勉強とは、そういうものだ。

2年前にやった事例や話題を振ってみたが、やはり忘れていた学生も少なくなかった(^^;)。覚えている人も、2年前のレポートを持参してきた人も。こうした人たちは、2年前の学びと今がつながっている。ありがたい話(笑)。


これも毎年のことだが、「業」の話をすると、とたんに元気を失う学生もいる。高い確率で、親との関係が「心の荷物」(負荷)になっている人たちだ。

親から「自立」することは容易ではない。

①経済・生活において自立すること(つまり働けるようになること)、

②精神的に自立すること――
「あなた(親)の思い通りにはなりません、まずは自分の人生をしっかり生きます」といえること、

業の深い親に向けては、①親がどんな業の持ち主かを正しく理解し、②距離を置き(反応せずにすむだけの距離を確保し)、③自分自身の業(心のクセ)を自覚して、④少しずつ別の生き方・考え方に置き換えていく必要がある。

人はみな、自分のために生きることが基本だ。親に振り回されたり、荷物を背負わされ続けたりする必要はない。

自分の人生は自分で選ぶこと。

「今の自分に納得できている」ことが、正しく生きているかを測る基準になる。


3年生は、3日目もしっかりワークをしてくれた。

講義で取り上げる知識・情報は、リソースによって変わってくる。教科書、専門サイト、医師・専門家・看護師によって、さまざまに変わる。

だから決して鵜呑みにせず、しかし「技法」だけは守って、技法に沿って、必要な時はもう一度自分で調べて、自分で考えて、「覚えられる、思い出せる、使える」ように工夫して、学び、またレポートを作成してほしい。

3年生はよく頑張ってくれた。さすがに心の体力がついている。講師としても納得で終わった。感謝とリスペクト。


その一方で、これも数年に一度のことだが、「喝」を入れざるを得ないこともある。

多くは、やはり1年生のクラス。まだ高校生気分が抜けていない様子が見えることが、たまにある。

いろんな理由・事情があるのだろうという同情もあるが、自分の判断で、勝手に手を抜いたり、講義中に寝てみせたりする。

努力しても寝てしまう・・というなら同情するだけで終われるのだが、「これくらいやっても大丈夫」と判断している様子が伝わってくることがある。

疲れている、お昼を食べて消化に血液が取られている(頭に回らないw)、知識の解説が続いて苦痛、先生の説明の仕方が及んでいない・・いろんな可能性はある。

こうした時、おそらく多くの先生方は「大目に見る」ことを選んでいる。見ないフリをしてやり過ごす。雰囲気を壊したくないという思いもあるかもしれない。

だがこれは、人間と人間のサシの(直接の)関係性だ。自分のあり方と、相手のあり方の両方が問われる。

一方が真剣に話している場面で、あからさまに無視したり寝て見せたりしたときに、相手が何を感じるか。そのあたりの想像力は、持っていないと始まらない。

今回印象的だったのは、知識の解説で寝たのではなく(それならば心情は理解できるし、講師の側で工夫せねばと思うことも可能なのだが)、

体の感覚を意識しましょうという、マインドフルネス、瞑想と呼ばれる体験の時間を始めた時に、机に突っ伏して寝始めた学生が何人か出たことだ。

特に難しいことではない。だが体験することを、自分一人の判断で拒絶した(全員とはいわないが、そうした可能性を感じた生徒も何人かいた)。

さすがに、言わざるを得ないと判断した(何年振り?)。


そもそもこの場所に来たのは、誰の意志か。誰かに引きずられてやってきたわけではあるまい。

自分で看護師になろうと志し、自分の意志で学校まで歩いてきた。すべて自分の選択だ。

中高生と違って、「やらされている」ことはゼロである。自分の物事、自分の人生、自分の未来。

ところが、そうした自覚もまだ持てない、自覚を示せない人がいる。

そうした人を周りも許容してしまう。慣れてしまって「問題に気づかない、問題が見えなくなっている自分」そのものが問題だということに気づかない。


ちなみに、講義中にスマホやタブレットで芸能人やら漫画やらを覗き見ている学生も、たまにいる(※今年の3年生にもわずかだがいた。大目に見たけれどw)。

あえて何も言わないが、見えてはいる。

「ふとよそ見をしてしまう」(雑念が湧く)ことは、心の性質だが、その心に流されてしまう自分の弱さ、だらしなさを受け入れるかどうかは、自分のあり方の問題だ。

ほんの少し努力すれば強くなれるのに、簡単にラクに流される

その結果、弱くなる。弱くなるだけ、しんどいと感じる物事が増える。

自分を甘やかすことは、単純に、自分にとってマイナスなのだ。


幼い子供なら、成長の途上だからと大目に見ることはありうるが、この場所は、プロの看護師になろうという人たちが集まっている場所だ。当然、求められる最低限の態度というものがある。

この講義で毎年最初にお伝えするのは、「患者目線で見る」ということ。患者として、この人はちゃんと向き合っているか、最低限の礼儀や常識はあるかを見る。

苦しみを抱え、ときに命がかかっている。そんな人が病院で出会うのが、看護師だ。

その看護師が、別のことを妄想していたり、スマホを呆けて眺めていたり、目の前で寝たりして見せたら、当然、怒るか、絶望するか、その看護師を拒絶するか、

絶対に看てほしくない と思うだろう。


今回は、自分のため・自分の物事であるはずの場所において、至近距離にいる一人の人間が何を見て何を感じるかを想像もせずに、「寝ていい」という安易な選択をしたように見えた。

だから「喝」を入れた。

いろんな理由・事情・思いもあるだろうし、先生はみな工夫を重ね続ける義務を持っている。この看護学校に手を抜く先生は、おそらくいない。先生方はみんな真剣だ。私だって毎回連日ほぼ徹夜だ(今回も、3年生2日目の講義を踏まえて3日目の追加資料を作るために徹夜した笑)。

つねに何が起きているのかを見つめて、理由を突き止め、改善すべき点を改善する。それが、先生側の義務であり、約束ではある。


だがさすがに、内容次第で寝たり起きたり、あるいは先生の様子を見て態度を使い分けたりというのは、

自分の物事・自分の仕事として引き受けようというプロの予備軍が許容すべきことではない。アウト。

今回はさすがに見過ごすべきではないと判断して、ド厳しい(かもしれない)喝を入れさせてもらった。


来年以降も、𠮟るべき時と判断した時は叱らせてもらう。

人間として伝わってきたもの、感じたことについては、正直に、素直に、伝えさせてもらう。

求めるのは、自分(講師)が相手(学生)を理解することであり、自分(講師)が相手(学生)に理解してもらうことだ。

理解しあえることは、人間関係の目標だ。学生たちが将来看護師として患者と向き合うときのゴールにもなる。患者を理解し、理解してもらうことが、信頼関係を作る。

もっとも、理解しあえる関係は、遠い夢のようなものでもあり、どんな場面でも、手探り状態で、永久に手応えが持てない理想でもある。

だが、だからこそ努力すべきは、自分が言葉を尽くして精一杯伝えることだ。


先生も然り。目に余った時は、怒って見せていい。ただし、生徒たちが言ってくる(言ってきてくれる)ことを、全身で受け止める覚悟が必要だ。ときに反省を迫られる指摘・批判であっても、誠実に受け止めて、「教師として自分にできること」につなげていく覚悟だ。

それだけの覚悟があるなら、失礼な態度や、本人にとってマイナスだと見えた時には、「人間として」本気で怒って見せていい。教師たるもの、真剣たれということだ。


特に職業専門学校というのは、すべての学校の中で、教員も学生も、最も真剣でなければならない場所だ(無論、楽しいところは楽しめばいいのだが)。

看護専門学校は、自分の意志で集う場所。目標は、学べるだけ学んで、知識と手技と体験を重ねて、国家試験に合格して、プロの看護師になること。

すべては自分のためであり、自分の物事。

ならば、今の自分のあり方が正しいか、自分で自分に納得できるかも、自分で判断できなければならない。

人のためではなく、人のせいにするのもアウト。すべて「自分が自分に納得できるか」だ。


この先も、看護師になろうという意欲をもって来たはずの人たちには、一人の人間として見て、是は是、否は否として向き合っていく。

それが、将来がかかっている学生たちへの、最大限の礼儀だと思っている。


坊さんの喝は(寺の修行とはそういうものだが)、逃げられない厳しさがある。

「汝、わかるか?」(あなたは理解できる人ですか?)

ということを突きつける(問う)ことだから。


わかってもらえればよし(その時は感謝と尊敬を)。

わからねば、わかるまで伝える努力をする。

わかろうという意欲がないとわかったときは、静かに身を引く(関わりを終える)。

人間関係とはシンプルなものだ。


2年後にどう変わっているか。楽しみに待つことも、毎年の恒例だ。


人々の苦しみを癒せる看護師として、この先の世界を支えてほしい。

そんな夢を見ながら、全力で向き合おうと思っている。




2024年7月19日
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医療倫理としてのブディズム


7月17日から3日連続で看護専門学校で講義。大阪のとある学校。

初日は、1年生向けの月イチ講義の最終日と3年生向けの初日。

1年生は平均年齢20歳未満という若いクラス。人は年を重ねるにつれて、年齢差・世代差が開いていく。そのことを気にする人たちもいる。

だが、伝えねばならないことに、年齢も世代も関係がない。

伝える価値があることは、①時代を越えて普遍的な内容と、②日々新しくなる知識や情報・技術をいかに見るかという「視点」である。

その部分を伝えることが、先生・講師の役割だ。その役割に、年齢は関係がない。伝えるべきものを選別する眼と、伝えようとする情熱と、どうすれば伝わるのかという工夫だ。

工夫はつねに新しくなる。その工夫を重ねることに情熱を持てるならば、先生役としては合格だ。他方、情熱が失せれば、その時点が引退すべき時だ。

前日夜は、大阪の宿に着いてレポートを採点する(またほぼ徹夜だ)。この講座の目的は、「技法に沿って目の前の患者に向き合ってもらう」こと。正しく理解し、方法を網羅し、明確な基準・根拠をもって選択してもらう。

すべてが漏れなく見えている(理解できている)ことが、看護、いやプロフェッショナルな仕事のすべてにおいて必要。

だから、技法を無視して、自分の考えだけを述べている答案は、失格とする。「私はこう思う」で終わるなら、勉強は要らないし、成長もしない。素人どまりだ。

つい「私はこう思う」で片づけがちな脳を、「技法に沿って」、つまりは、その仕事において絶対に欠かせない、「私」を超えて、「私」の前に置くべきいくつかのチェックリストに沿って考えを組み立てる。

それができて初めて「倫理的な」看護であり医療たりうるのだ。


仏教を専門とする私にこうした講義ができるのは、「技法」「倫理」「思考の道筋」は、普遍的なロジックであって、医学・看護の専門知識以前の常識であり、誰もが共有すべき知性そのものだからだ。

医師であれ、看護師であれ、患者であれ、立場の違いは関係ない。

立場を超えて共有せねばならない思考の道筋がある。それが「倫理」と呼ばれてきたものだが、その内容が過去あまりに漠然としていたため、

この講座では、徹底的にその中身を分析し、「これが倫理の本質だ」ということを言語化して伝えている。


医療倫理は、答えが出せない問いだという声もあるが、とんでもない勘違いであり、怠慢だ。目の前の人間の全人生がかかっているのに、答えを出せないなんてあってはいけない。

出せるように頭を鍛える。実際に出すための技法(論理)は、存在する。

その技法を伝えてきたのが、この講義だ。

すでに9年目か。医師、看護師、医学生など見学に来る人たちも毎年いる。ぜひ見学に来てほしい。

この講義では、徹底して「患者」の側に立って、最低限見えてほしい、考えてほしい問題点を問う。あえて突きつける。

プロとして明快に答えられないなら、そこに盲点がある。倫理の欠落だ。それが顕在化した時に、医療過誤や患者の悲しみや取り返しのつかない後悔が起きてしまうのだ。

日本の医療政策、ワクチンと言いつつ実はワクチンではない(遺伝子組み換え・改変剤)別物、その安全性と有効性、さらにはマイナス(副反応・副作用・後遺症・死に至るリスク)、一人一人において当然選択は違ってくるという医療の本質。

どれだけ事実を調べたか、データを把握しているか、現実に生じている苦しみを見て、何が原因か、防ぐためにどう理解すればいいか。

試しにいくつか問うてみるが、まともに答えられる医師や看護師は、実はほとんどいない。「そういわれているから、たぶんそうなのだろう」程度の浅い理解で簡単に選択してしまっている。

プロフェッショナルとは、素人に見えない部分まで、漏れなく見える者のことだ。

そして自分の思い込みや、思惑や、利権や打算計算や面子やプライドではなく、苦しむ人の苦しみをやわらげ、病んだ人を健康な日常へと戻し、できれば健康なまま長生きしてもらって、そのぶん、多くの幸せな体験をしてもらう。

そうした願いをもって、最も苦しみを増やさないですむ合理的な選択を促す。励ます。寄り添う。

それができる者をプロフェッショナルというのだ。


いわば当たり前の職業倫理だが、その倫理が急激に「別の何か」にすり替えられている印象も、なくはない。

プロであるべき医師や専門家たちが、合理的な選択のための思考の手順・基準を示すのではなく、

簡単に結論そのものを勝手に出してしまう。思考することなく、最初から選択肢を一つに決めつける。患者としては一番腹立たしい態度だ。

その結果、現実に苦しみが生じているのに、その苦しみを見ようとしないのだ。結論一択を押し通す。

こうした現実があるから、一般の人・犠牲になった人たちが苦しみの声を挙げているのだ。


今の時代ほど、医療への不信が高まった時はない。

その責任は、特に苦しみを背負った人たちを納得させられない者たち。いわば倫理が欠如したプロフェッショナルにある。


看護師は、医療の最前線に立つ人たちだが、看護師もまた見えていない人が多すぎる印象はある。みんな優秀で真面目。だが業務に追われて、「苦しみを増やさない選択」を導き出す時間がない。そもそも選択するための論理的な思考の手順を持っていない。

このままでは、患者の苦しみを救えない。それどころか、疲弊し辞めてしまったり、医療政策・病院・医師の側の思惑に振り回され、ときにいいように利用される「都合のいい医療従事者」になってしまう。

患者も、看護師も、もちろん医師も、現実を正しく見るための技法が必要だ。かつては「倫理」と呼ばれてきたもの。この学校では「技法」と呼んでいる。



(つづく)

2024年7月17日
 

宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
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歴史学としてのブディズム


7月15日は東京での仏教講座。今、明治から昭和初期(戦前)までの日本と仏教との関係について講義している。

日本における仏教が、いかに役に立っていなかったか、特に日本社会の凶暴化(明治維新、日清、日露、日中そして太平洋戦争)に加担までしていたことが、史実をたどると見えてくる。

言葉だけの慈悲であり、理屈でしかない「お釈迦様・ご開祖様の教え」だ。

現実を見据えて、人の苦を増やさない方法を考え抜く。その時代・社会における危うい風潮や妄想を見抜いて、新たな可能性を智慧(知力)をもって切り拓く。

本来のブディズムは、人間の心に救う迷妄(≒衝動に駆り立てられ、妄想に取り憑かれた心の状態)を突き破るもの。いわば「知」の最先端であり最強の方法だ。

だが、その方法としての真髄とは、はるかに遠い仏教の現実がある。

自分たちが世と同じレベルの欲と妄想に取り憑かれたままでは、決して妄想を越えられず、智慧を得ることはない。

「過ちを二度と繰り返しません」とか、「世界に平和を」と言ったところで、永久にかなわない。それどころか、世のため、人のためと言いつつ、平然と人に苦しみを強いることを犯してしまう。

戦争が終わるまでの日本仏教はまさにそうだったし、実は今も続いている。

そうした理解を得るために、文献を漁って教材にまとめる作業をひと月ほどやってきたが、最後にまとめるにも時間がかかって、結局徹夜になってしまった。


歴史から何を学ぶか。歴史は繰り返すというが、これも厳密にいえば少し浅い理解だ。

歴史を作るのは、人間の営みであり、社会を動かすいくつかの因子だが(因子の一つが、権力者の選択であり、メディアが醸成する社会の風潮であり、人間一人一人の選択であり、その他さまざまあるのだが)、

その因子は「変数」であって「定数」ではない。どんどん変わってゆくものだ。

変わりうる因子のことを計算に入れずに、「過去こんなことがあったから、未来にはこんなことが起こります」と予測することはできない。

表面的に「歴史は繰り返す」ように見えるとしても、それは繰り返しているように「見たいから見えている」のであって、「そのように見ようと思えば見える」レベルの繰り返しを見ているだけである可能性が高い。

変わりうる因子は、どんどん新しくなっているし、その量も増えているのかもしれない。

だから未来は基本的に予測不能。

ただし、因子を作るのは、人間の心であり、心の動きは、実は有史以来それほど変わっていない。

その心の動きにまで深く掘り下げて、「なぜこうなったか?」を歴史上の事実を通じて振り返れば、どのような歴史上の惨禍にも「確かな理由があった」ことが見えてくる。

その本当の理由を掘り下げるには、「人間の心そのものを見る(歴史上の表面的な事実だけではなく)」という視点が欠かせない。


そうした視点に沿って、日本仏教の歴史を講義してきた。そろそろ終着地点に近づいてきた。

人間というもの、人間が作る社会、そしてその軌跡としての歴史は、決して美しいものではない。

価値あるものも無数に紡ぎ出されてきたが、やはり人間は人間だ。取り返しのつかない(未来が決定的に変わってしまう)過ちも多数犯してきている。

悲劇的なのは、その過ちの原因となった「心」そのものを、人間がまだ理解できていないことだ。

心を理解できれば、なぜ歴史上の過ちが起きたのか、今後、どのようなことが起こりうるのかという可能性が見えてくる。

ブディズムを活かして、歴史を理解し、未来を予測することも少しは可能になる。

ちなみに予測しうる未来というのは、いくつかの変数の組み合わせによるから、必然的に「複数」出てくる。

その複数ありうる未来のどれを選ぶか。最も望ましい(苦しみを増やさない)選択をするには、自分自身が、個人としてどのように理解して、どんな選択をするか、

自分自身のあり方を明瞭にすることに、最後は帰結する。


生き方として学ぶ日本仏教(この場所での講座)は、ごくわずかな人たちに向けての、限りなく自制された内容だ。広く知ってもらおうとは思わない。

ほぼ確実に、日本、いや世界でココだけ。本に著した内容もオリジナルだが、この場所で伝える仏教及び歴史も、さらに輪をかけてオリジナル。

偏った内容ではなく、「史実をいかに見るか」という点では、歴史学の定説・主流以上に「深く、鋭い」内容になっている。

この複雑な世界を正しく理解するための、仏教はその技法たりうる。歴史学としてのブディズムだ。



2024年7月15日
 

十代を生きている君へ

講座(坐禅会・仏教講座)の最新スケジュールは<公式サイト>  


ときおり十代を生きている人の母親・父親が訪ねてくることがあります。

学校に行かなくなった、

進学はしたい、

でも勉強は進んでいない、

という相談が多い印象があります。


進学はしたいという思いに至っていなければ、不登校の段階。

この段階で、本人に伝えられることは、ほとんどない。

今の自分を善しとするか。一度しかない人生を、この先どう作っていくのか。未来をどう生きるのか――

本人が考え始めて初めて、次の選択肢を、親や周りの人たちが一緒に考えることが可能になる。


この場所が相談に応じることができるのは、進学したいけれど勉強は進んでいないという状況にある十代に向けて。


もし君に、

進学したいという気持ちが少しでもあるなら、

心機一転して生活を立て直す

ことを勧めます。


心は弱いものだから、学校に行かない人は、崩れてしまっていることが多いもの。

ゲーム、スマホ、ネット、テレビ・・今は、流されるための道具はいくらでもあるから。


しかも、心は強くない。長々と寝て、起きて、ご飯食って、遊んでいるうちに、活動時間は終了。

僕自身も体験がなくはない。なんとなくダラダラと過ごしてしまう。

そのくせ、ネガティブな思いは弱くならない。過去を引きずるとか、親を責めるとか、要は、自分以外のことに理由を見つけて、腹を立てたり、サボる理由にしてしまったり。


結局、自分に甘い  ということなのだけど。


もし進学したいという願いがあるなら、どこかで弱い自分に区切りをつける必要がある。怠惰な自分に最大限の厳しさを向けることだ。


まずは、将来への計画を立てる。

進学したい大学や進路があるなら、はっきり見定めて、何が必要なのか、試験科目や手続きを調べる。

そこから逆算して、自分が使う参考書などをリストアップする。

一日の時間割を組み立てる。

家にいるとダラけるから、図書館、学習室、公園、喫茶店、電車の中など、勉強する場所を複数リストアップする。

そして実行に移す。

記録を取る。何時から何時まで、何をやったか。

何を学んだか。前に進んだか。自分は成長しているか。


こうしたことは、ぜんぶ自分の力でできる。工夫次第。意志の力次第。


本腰入れれば、怠惰な自分から、毎日を有意義に使うことに充実を感じる創造的な自分になれる。

ダラダラ過ごしていたら、こうした充実は味わえない。

どこかで怠惰な自分にケリをつけて、新しい自分を生き直す必要がある。


こういうのは、タイミング、気合次第。エイヤと起き上がれるかどうか。


なにしろ人生は一度きり。過ぎた時間は戻ってこない。

あとで後悔しても取り返しはつかない。

しかし逆に、気合を入れて、作戦を立てて、進学や勉強を目標にすえれば、学校に行かなくても、充実した毎日を過ごすことはできる。

過去は関係がない。親も関係がない。

純粋に、自分のためにやる。後悔しないために。後で不貞腐れないために。

本気で生きる人生のほうが、はるかに面白い。

しかももし進学できたら、やっぱり未来は変わる。視界が開けることは確か。


だから、進学したいという気持ちがあるなら、どれだけできるか、頑張ってみたら?と思う。

親の相談に乗ってもしようがない。本人の問題だから。

塾や学校の先生のように、勉強することが大事だとは言わない。大人にとっては、すでに乗り越えたことだから。


あくまで本人の人生の問題。


勉強したほうがいいなんて阿呆なことは言わないけれど、

でも本人に少しでも勉強してみたいと思う気持ちがあるなら、

どこまでできるか、体験してみればいいとは思う。

応援することはできる。

僕も似たような経験をしているし、勉強の仕方はしっかり考え抜いて、それなりの方法を知っているように思うから。


何より、前を向いて頑張ることを、応援したい。

勉強を応援するというより、人生を切り開くための努力そのものを応援したいと思っている。

だからもし、進学したい・勉強したいと思う十代の人がいたら、できれば親ではなく、自分で連絡してきてほしい。言葉を尽くして今の自分を語ってくれたなら、応援できるかもしれないから。

全国行脚中なら、近くまで足を運ぶことも可能だ。


頑張ることは楽しいこと。

どこまで頑張れるか、挑戦してみてほしい。


2024年日本全国行脚 開催中

本気になりたい十代の人のもとを訪問します

 

2024年7月


一人じゃないよ2


7月9日 岸和田での講演会。地元のNPOが主催してくださったもの。

200名ほどの方が足を運んでくださった。



僕がブッダに出会うまで~出家体験記 2年越しの第2弾。


前回は、2歳の時の体験から始まって、大学に入るまで(ブッダに会うには予想以上に時間がかかると判明(笑))。今回はその続き。

20代の頃の黒歴史(?)を初めてお話した。

10代は勢いで生きられる。

20代は勢いを制御できずに、失敗や脱線をしてしまう。

30代に入ると勢いが削がれて、次第に現実が見え始め、生きづらさや苦悩が増す人もいる。

ごまかしているうちに、あっという間に40代。仕事や子育てに忙しくて、自分の生き方を振り返る暇もない、そんな人も多い。

50代になると、人生には終わりがあることが見えてくる。


こうしてみると、人はなかなか自分が見えず、生き方をつかめないままに生きてしまう。そんな姿が見えてくる気がする。

私もその過程にいたことは確か。人生の途中で「出家」したことには、確かな理由がある。しかもよほどの理由がなければ、出家なんかしない。

ではどんな理由があったのか。そのあたりを、今回初めて、詳しくお話した。


本のプロフィールは、一見きれいにまとめている。でも実際の自分は、もっと不器用だし、失敗続き。さんざんさまよった。

何よりも愚かだった。生き方を知らなかった。

その愚かさ、未熟さは、ちゃんと心に取ってある。


愚かな自分というものに、正直でなければいけない。

出家というのは、そもそも生き方がわからないから選ぶものだ。

選ぶというより、愚かすぎるから、選ばざるを得なくなるのだ。


そうした過去をも、いずれは、伝えていかねばならないと思っている。自分にとっては黒歴史ではあるけれども、その部分に共通するものを見る人たちもいるだろうから。

自分に正直であることは、人との共通項を増やす。つながる部分が増える。


人は、違う人生を生きていても、同じような思いや体験をたくさんしているものだ。

その部分を、自分の中にあるものを、そのまま表に出す。

そのことで、「自分だけじゃないんだ」と思える人もいるだろうと思う。


私にとって言葉(本)は、自分をきれいに見せるためのものではなく、自分の中にある思いや体験を伝えて、それを接点にして、誰かとつながるためのものだと思っている。

あなただけではないよ、ということを伝えるためでもある。


終了後は、個人の相談を受ける。いつも同じ。講義や講演を引き受ける意味は、こうした機会を作るためでもある。

ふだんは直接やり取りできないが、こういう機会があれば、会って話ができる。

これも、あなた一人じゃないよ、という思いにもとづいている。


人と会うことは苦痛にならない。これは性分でもあるし、それだけ独りで生きた時間が長いからでもある(孤独な時間も覚えておこうと思う)。

だからどの場所においても、希望する人がいる限り、お話を聞くようにしている。

これからも同じ。どんなに忙しくても、人と向き合う時間を減らしてはなるまいと思う。

これも出家の流儀。





2024年7月9日


一人分の種


生き方は、大きく三つあるのかもしれない。

土を前に何もしない生き方、

土をいっそう荒廃させる生き方、

土に種をまく生き方。


種をまき、花を咲かせる  

その営みの価値が見える人は、世に少なくないが、多くもない。


花の美しさがわかるというのは、人生観による。どう生きてきたか、何に価値を見るか。

土に種をまき花を咲かせた体験がなければ、花の美しさはわからないかもしれない。

花の美しさがわかることは、世の中での成功や豊かさにはつながらないし、

そもそも花の美しさがわかる人たちばかりでもない。むしろまったく逆を好む人たちも多いのかもしれない。

だから自分一人分の土に種をまき、花を咲かせることは、人によっては価値のない、むしろ淋しい営みに見えるかもしれない。


だが、荒れ果てた土地や焼け野原が広がりつつあるように見える世界にあって、

自分一人分の土に種をまき、花を咲かせることは、

小さな営みではあるが、それでも価値あることに違いあるまい。


花の美しさが見える者たちが、種をまく。


そうした人々の数だけ、この世界に花が咲く。



花を咲かせようという試みだけは、生きるかぎり止(や)めてはならない。


自分一人分の土を持て。

まけるだけの種をまけ。

咲いた花をもって、わが喜びとするのだ。



2024年七夕


自分を越えるということ

<おしらせ>

栄中日文化センターの講座(夏学期)は、7月17日(火)から。

詳しくは、公式サイトのカレンダーをご覧ください。

または 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


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本は万人に開かれたもの。だから語り口はニュートラル。

このブログは、道(生き方)を求めて静かに訪れる人に向けて。

だから当たり障りのない話題よりも、多少難しくても有意義なことを。

かなりマニアックかもしれないけれど、いつか必要になる時が来るかもしれない、そんなごくわずかな人たちに向けて、価値あることを遺しておきます――

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<自分を越えるということ>

自分を越えることの難しさは、瞑想(心の観察)を続けることで初めて見えてくる。

裏を返せば、瞑想しないかぎり、自分を越える難しさはわからない。

心というのは、人間が想像する以上に、狡猾で、邪悪で、醜く、愚かで、怠惰で、強固だ。

よほどの智慧と意志がなければ、イチコロで執着の網の目に絡めとられてしまう。絡めとられたことにさえ気づけない。

はたからみれば、頑迷な巌が、まるで静止画のように存在しているだけ。本人は少しは巌の内から突き破ろう、打ち砕こうと闘ってみたつもりなのだが、なんのことはない、実は何も変わっていない。

瞬時に巌の内側に閉ざされてしまうから、外から見れば、ただ巌が存在し続けるだけ――それくらいの比喩が真相に近い。

それくらいに心の魔は、強いのだ。


心の苦しみを越えるには、その原因を突き止めるほかない。

原因を見つめることは、つらく、険しい。なぜなら自分の最も愚かな部分を直視せねばならないからだ。

しかも原因が見えると、心は激しく動揺し、反応する。全力で、原因から目を背けようとする。

目を背けるための理由が、まさに本人の心が作り出す都合のいいものだ。

たとえば現実から逃げたくてみずからを美化して生きてきた人は、自分を美化できるような理由を見つけて、そっちに走り出す。たとえば新たな仕事を始めるとか、別の活動に手を出すとか。

自分を変えるための行動だと本人は思うのだが、実際は、自分を美化するという業であり執着にうまく調和する選択だったりする。宗教や自己啓発はその典型だ。

またたとえば、過去から目を背け続けてきた人は、「答えは本の中に書いてあることはわかります」と言いつつ、本を読まず、書いてある実践もしない。

わかったふりをして、実際に目を向けることから逃げ続けて、これまでの自分をそのまま温存している姿だ。まさに心の思うツボ。
 
瞑想にも類似の罠は潜んでいる。

瞑想のプロセスにおいては、過去を見る、他人を見る、世界を見ることになる――見て、その時見えたものを言葉にする。自らを思い知るための下準備としてだ。

どんな言葉も発しているのは、自分の心。
だから心に見るものは、最終的には、自分の心を思い知るための材料になる。

だから相談に来る人たちには、まずは思うことを何でも言葉にしてくださいと伝える。瞑想や内観も同じ目的を持っている。

だが多くの人は、そのプロセスを飛ばしてしまうのだ。自分を見つめるだけの時間を作らない。自分の中に見えたものを言葉にしない。
 
本当はその言語化したものをふまえて自分自身を見つめていく作業が来るのだが、その困難な作業に進む前に、別の方角に、ラクなほうへと走ってしまうのだ。



自分を越える、変えるというのは、容易なことではない。

過去を越えることも、執着を断つことも、業を克服することも、

生涯かけてもたどり着けないくらいに、本当は難しい作業だ。

仮に50年生きた人がいるとして、その人がもし自分を越える、変える作業に乗り出そうというのなら、

その人は、50年も生きてしまった自分が、本当に越えることなどできるのだろうかと、事の重大さを自覚する、たじろぐくらいが、真っ当な感覚というものだ。

本当の意味で慚愧し、懺悔し、悔やんで、顔から火が出るほど恥ずかしく思って、

それでもこのまま生きていくことは望まないから、

できるかどうかはわからないが、やるしかないという立場に、最終的に立つ。

道に立つとは、本来それくらいの大事(だいじ)なのだ。



もちろんそこまでの難題・難行にすべての人が挑まねばならないということではない。
ブディズムはそもそも金科玉条という流儀を取らない。

だが、人間というものが、あやうく、また哀しいと思えてくるのは、

人間は、自分の心が仕掛ける罠に気づかず、いとも簡単にハマって、正しくない選択をしてしまい、しかもその選択が自分では正しいと思ってしまっている(気づかない)ことが多いことだ。

人が理解しておくべきは、
 
自分の心がよかれと思って選択することは、高い確率で間違っているということ。

簡単に心が仕掛ける罠にかかってしまっている。

そうした自分に気づけないのが、人間というもので、
その危うさは、業が深いほど、執着が強いほど、飛躍的に高くなっていく。

本当に自分を越える、変えることができる人というのは、自分に厳しい人ということになる。

自分に厳しいとは、他人を追いかけず、左右されず、外の世界を当てにせず、ひたすら自分を見つめる強さを持てることだ。
 
(※自分を見つめるきっかけとして、他人・過去・外の世界を振り返るはよい。だがそれは自分がその時どう向き合ったかを思い知るためだ)。
 

なにしろ人生の汚物はすべて、自分の心に詰まっている。

それを直視して大掃除することをしないなら、当たり前だが、汚物が消えることはない。いつ覚悟を決めるかだ。


厄介なことは、覚悟を決めたつもりが、実はそれは覚悟でもなんでもなくて、執着したがる心の罠にかかっているだけかもしれないことだ。

心が見るものが真実とは限らない。選択を間違い続けるのが、人間というものだ。

「間違えているかも」と思えるくらいの慎重さ、自分への健全な懐疑があってはじめて、いやそれでもなお難しいのだが、

ようやく自分が正しく見えてくる可能性が出てくる。

 

 

2024年7月

ある日の法話から

 

相談したいという人たちへ


この場所を見つけて、相談したいと連絡をくださる方々へ


この場所は、開かれた心と慈悲の思いをもって、なるべく多くの人に新しい可能性を見出してもらおうとしています。

だから、ご相談にはいつでも応じる方針でいますが、いくつか最初に、お役に立てる場合とそうでない場合とを分ける線引き(基準のようなもの)をお伝えしておくことにします:


1)求めるものは、あくまで自分自身の生き方である(でなければいけない)ということ。

本を読んで、「私の親に会ってください」とか、自分以外の誰かを変えよう(変わるように助けてほしい)」と考える人がいます。

でもこれは、見当違い。自分以外の誰かを変えることは、誰にもできません。本人が自ら見つけて、自分のあり方について直接相談してこない限り、変わる可能性はありません。

「自分以外の誰かを変えたい(変えてほしい)」と思っているということは、その誰かにまだ執着しているということ。

この場所が伝えられるのは、そうした自分自身の執着を断って、その相手から自由になる方法なのです。

この場所が伝えられるのは、人に執着して苦しんでいる自分自身を変える方法です。自分が執着している誰かを変えることではありません(その先は妄想の領域です)。


2)少しでもこだわりやプライド、譲りたくないものがある人も、時期尚早です。

わかりやすい例でいえば、「あなたのプライドが邪魔しているのですよ」と言われて、ムッとしたり、そんなことはありませんと言い返してしまうようなら、まだ自分を見つめる覚悟ができていないことになります。

それはそうです――プライドを乗り越えているなら、反応するはずもないし、プライドを越えねばならないことを自覚しているなら、「そうですよね(理解できます)」という言葉が自然に出てくるものだからです。

反応してしまうということは、まさに図星ということ・・でも図星であることを、まだ認めたくない段階だということです。ならば、時期尚早ということになります。


3)誰かをかばおうとしてしまう人も、まだ執着にとらわれています(ゆえにこれも時期尚早)。

最も多いのは、肉親の業(ごう※)を指摘されたときに、とっさに肉親をかばって弁護してしまうこと。代わりに自分が悪いのだと主張する人もいます。指摘されて腹を立てる人さえいます。
 
※ 業:ごう がわからない人は、『大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ』(筑摩書房)をお読みください。

こうした人たちの心にも、プライドと同様に、肉親への執着が存在します。執着があるからこそこそ悪く言われたくないと思ってしまう。かばってしまう、指摘されると腹を立ててしまう。

でもそんな自分に決定的に影響を与えているのが、肉親だったりします。それが事実ならば、それはその通りですと受け入れなければ、自分への理解が進まず、結果的に前に進めなくなってしまいます。

端的にいえば、親のことを指摘されて「違う」と言いたくなるということは、自分と親との間の線が引けていない(まだ混同している)可能性が高いということです。まだ執着の只中にあるのです。
 
ちなみに、苦悩を抜ける道筋の大枠というのは、
 
①苦しみの原因を、自分か、自分以外の他者か(親も含む)に明瞭に分け、
 
②自分の中の原因を自覚して反応しなくなること、または
 
③他者を見ても、思い出しても、一切反応しなくなること

です。反応しなくなれば、苦しみは止まるので、苦悩は解消します。

ところが指摘されると反応してしまうーーなぜなら執着があるから。この段階に留まる限りは、苦悩は続きます。 


4)自分で連絡してこない人も時期尚早です。

これは技術的なことだけれど、自分で連絡せず、人を介して(利用して)くる人もいます。

これも成り立ちません。自分のことは自分でやること。自分のことは自分で語ること。

最低限の自立ができていること。それが前提です。

※他人のことなのに、線引きできずに、○○さんの相談に乗ってあげてくださいと「つないで」しまう人も、自立できていない可能性があります。というのも自立していれば、「それは自分でやらないとね」と気づけるし、言えるものだからです。

 

他にも、いくつかありますが、総じて、相談して変わりうる可能性がある人たちとは、


①事実を指摘された時に、それは事実ですと受け止められる人

自分のことであれ、誰かのことであれ、事実は事実。苦しみがある、その原因はこういう過去、こうした関係性にある・・そうした理解を、そのまま受け取れる人。

事実を指摘されて、まだ反応してしまう段階であれば、「相談→実践→変わる」のステップには入れませんよね。

その意味では。どんなに耳の痛い指摘も、冷静に、謙虚に、受け止める心の準備ができている必要があります。
 

②あくまで自分のあり方を見つめられる人

他人を語らない・論じないこと。自分以外の誰かを変えようとか、変わってほしいといった執着を、この場所に持ち込むことはできません。


③なすべきこと(実践)をやる覚悟ができている人

自分を変えるには、自分のあり方を自覚して、そうした自分を作り替えていくための実践に踏み出す必要があります。

いつまでも過去に執着したり、誰かを変えようともくろんだり、人に腹を立てたり責めたりしているのなら、本気で変わる覚悟がないということになります。

この場所は、原因をつきとめて、伝わる言葉で言語化して、この先何をしていけばいいか、具体的な実践・行動までお伝えすることを方針としています。

その行動に踏み出す覚悟や意欲があるかどうか。
 
ないということは、「変わらなくていい」ということ。となると、これもやはりお役には立てません。


他にも見るべきものを見たうえで、はたしてお役に立てる可能性があるのかを見極めています。

おそらくこの場所は、本人には想像できないくらいに、人の心の奥を見て(見えて)います。
 
利を図るという発想がないので、お役に立てる可能性があれば、どこまでも一緒にいるし、お役に立てない状況であるなら、様子を見ることになります。
 

ためらい、おそれ、プライド、自己弁護、ごまかし、美化、詭弁、正当化、誰かへの執着・・・そうしたものが少しでも残っていたら、ブッダの智慧という、ほぼ万能して、でもかなり鋭い(人によっては痛い)知力は役に立たないだろうと思います。
 
執着は、智慧よりも、強いので――こうした真実をきちんと伝えることも、この場所なりの配慮(人それぞれの人生の尊重)から来ています。 


自分の苦しみを自覚して、原因を突き止める作業を手伝ってほしいという気持ちが強くあって、何を指摘されても、そうか、それが執着にまみれた自分に見えていなかった真実だったかと思えるに至った人であれば、

お役に立てる可能性もあるかもしれません。



とはいえ、本当に苦しんできた人は、ある程度、自分のあり方について飽きている・懲りていることが多いものです。

また、誰かに苦しめられたり、傷つけられたりしてきた人は、本人が思っている(思い込んでいる)ほど悪くない(他に原因がある)ことが多いので、

そうした人たちは、この場所で、本当の原因を明快な言葉で指摘してもらって、その原因を取り除くステップを理解することで、スッキリして、希望を見出して帰ってゆくので、

この場所・ブディズムは、優しくて、元気が出る存在(味方)に映るはずです。


その一方で、捨てたくない執着の只中にある人にとっては、ここは敷居の高い、峻厳な場所に映るかもしれません。
 
優しかったり、厳しかったり・・まさにお寺であり、道場です。心によって、見えるものが変わるのです。

 
人の心は、みずからが作り出した執着の壁にぶつかっている状態だと思ってください。高くなったり、低くなったり・・・
 
壁が消える方法を(決して難しいことではありません)伝えるのが、この場所であり、ブディズムです。

苦しみも、原因も、自分の中にあります。そうした自分自身を正面から見すえる覚悟ができた時に、

ブディズムは、ほぼ万能の可能性をもって「優しい姿」で現れていたことを知るのだろうと思います。

 


人生は長いし、世界は広いので――

時間をかけて、真実(正しい理解)に近づいていけばよいのだろうと思います。


最終的に、答えが出ない人生は(答えを出さないことを本人が選ぶのではない限り)存在しないというのが、ブディズムの人生観です。

答えは出していいのです。終わりなき自問自答を生きることも価値を持つけれども、答えを出して、生きるという営みが持つ可能性の最果てまで体験することも、価値を持ちます。


答えを出さない生き方は、世の中に無数にあるから、

ひとつくらいは、答えを出しきる生き方もあるということ、その方法を示せる場所があってもよいと思います。
 

この場所は、つねに可能性を見ます。
 
人間が、十二分に生きて、心の隅々まで苦しみがない境地にたどり着く可能性を。


*相談してみたいと感じている人は、とりあえず各地の講座に足を運んでみるのが一番よいかもしれません。基本的に、この場所はオープンに、カジュアルに、フツーにやっています。



2024年7月1日