宗教学としてのブディズム


7月16日は、名古屋・栄中日文化センターでの講座。

定員80名の大教室だが、ほぼ満席に近い数の人たちが集まってきてくださっている。

動機・背景はさまざま――信仰をお持ちの方もいる。

だが、確かめようのないことを信じると、現実が見えなくなる危険性が増す。

現実とは、なぜ今の自分に至ったか、今の自分は正しい選択ができているか、周りの人たち(家族・子供)の思いが見えているか、

さらには、その信じる宗教が、真ん中にいる者たちの欲望や独善(慢)に囚われていないか、といった問いのことだ。

典型的な例としては、つらい現実から逃避するための宗教というものがある。

本人にとっては、現実を見ずにすむという快はある。だが、その一時的な逃避と引き換えに、時間・お金・未来・人間関係というさまざまな価値を手放してしまうことも起こりうる。

信じるから手放す。だがその手放したものをエサにして、権力欲、顕示欲、支配欲、物欲その他の欲望を満たす人間がいる。

信じることが持つ危うさだ。

宗教が危険なのは、信じる者が救われず、信じさせる者だけが利益を得る構図・関係性を作ってしまいかねないことだ。

誰が、何を、どれだけ得ているか。そこに過剰な欲はないか。

確かめようがないことを、「それっぽく」語る妄想が忍び込んでいないか。

その妄想は、教義や儀式や施設や、「これを頑張ったら昇進できる、報われる」といった巧妙なエサとなって現れる。

本当に必要なものは、宗教ではなく、一人一人の心の苦しみを解消する方法でしかない。

その方法は、自力でたどり着けるなら、宗教は要らないし、

その方法を知るには、特別な信仰やら巨額の献金やらも不要である。

ただ、その方法にたどり着くには、必ず引かねば(取り除かねば)ならないものがある。

それが、欲と妄想だ。

だが妄想の力はあまりに強く、人は「これが真実かもしれない」「この宗教がきっと正しいのかもしれない」という期待を捨てられない。

だから、宗教を求めてしまう。

そうした欲や妄想を隠し持った信仰は、本当は役に立ちませんよ、ということをお話してきた。

ある意味、夢を失わせる中味でもある。胸が痛まなくもないが、だが超えるべきは、自分を見つめることなく、妄想にすがろうとする自分の心そのものなのだ。

その一線は、せめてこの場所くらいは、保たねばならないとも思う。

でないと、都合のいい妄想ばかりになってしまうからだ、この世界が。

宗教学、いや生き方としてのブディズムを、この場所では続けていく。


講座終了後は、無料の個人面談。苦しみに満ちた過去を背負い、今も独りで苦しみを抱え続けている人には、とことん向き合う。ひとりで悩んでいる人は、ぜひ足を運んでもらえたらと思う。


全員終わった後は、もう夜。特急で大阪に向かう。車内で、看護学生のレポートをチェックする。明日からは看護専門学校での3日連続講義。



2024年7月16日
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