歴史学としてのブディズム


7月15日は東京での仏教講座。今、明治から昭和初期(戦前)までの日本と仏教との関係について講義している。

日本における仏教が、いかに役に立っていなかったか、特に日本社会の凶暴化(明治維新、日清、日露、日中そして太平洋戦争)に加担までしていたことが、史実をたどると見えてくる。

言葉だけの慈悲であり、理屈でしかない「お釈迦様・ご開祖様の教え」だ。

現実を見据えて、人の苦を増やさない方法を考え抜く。その時代・社会における危うい風潮や妄想を見抜いて、新たな可能性を智慧(知力)をもって切り拓く。

本来のブディズムは、人間の心に救う迷妄(≒衝動に駆り立てられ、妄想に取り憑かれた心の状態)を突き破るもの。いわば「知」の最先端であり最強の方法だ。

だが、その方法としての真髄とは、はるかに遠い仏教の現実がある。

自分たちが世と同じレベルの欲と妄想に取り憑かれたままでは、決して妄想を越えられず、智慧を得ることはない。

「過ちを二度と繰り返しません」とか、「世界に平和を」と言ったところで、永久にかなわない。それどころか、世のため、人のためと言いつつ、平然と人に苦しみを強いることを犯してしまう。

戦争が終わるまでの日本仏教はまさにそうだったし、実は今も続いている。

そうした理解を得るために、文献を漁って教材にまとめる作業をひと月ほどやってきたが、最後にまとめるにも時間がかかって、結局徹夜になってしまった。


歴史から何を学ぶか。歴史は繰り返すというが、これも厳密にいえば少し浅い理解だ。

歴史を作るのは、人間の営みであり、社会を動かすいくつかの因子だが(因子の一つが、権力者の選択であり、メディアが醸成する社会の風潮であり、人間一人一人の選択であり、その他さまざまあるのだが)、

その因子は「変数」であって「定数」ではない。どんどん変わってゆくものだ。

変わりうる因子のことを計算に入れずに、「過去こんなことがあったから、未来にはこんなことが起こります」と予測することはできない。

表面的に「歴史は繰り返す」ように見えるとしても、それは繰り返しているように「見たいから見えている」のであって、「そのように見ようと思えば見える」レベルの繰り返しを見ているだけである可能性が高い。

変わりうる因子は、どんどん新しくなっているし、その量も増えているのかもしれない。

だから未来は基本的に予測不能。

ただし、因子を作るのは、人間の心であり、心の動きは、実は有史以来それほど変わっていない。

その心の動きにまで深く掘り下げて、「なぜこうなったか?」を歴史上の事実を通じて振り返れば、どのような歴史上の惨禍にも「確かな理由があった」ことが見えてくる。

その本当の理由を掘り下げるには、「人間の心そのものを見る(歴史上の表面的な事実だけではなく)」という視点が欠かせない。


そうした視点に沿って、日本仏教の歴史を講義してきた。そろそろ終着地点に近づいてきた。

人間というもの、人間が作る社会、そしてその軌跡としての歴史は、決して美しいものではない。

価値あるものも無数に紡ぎ出されてきたが、やはり人間は人間だ。取り返しのつかない(未来が決定的に変わってしまう)過ちも多数犯してきている。

悲劇的なのは、その過ちの原因となった「心」そのものを、人間がまだ理解できていないことだ。

心を理解できれば、なぜ歴史上の過ちが起きたのか、今後、どのようなことが起こりうるのかという可能性が見えてくる。

ブディズムを活かして、歴史を理解し、未来を予測することも少しは可能になる。

ちなみに予測しうる未来というのは、いくつかの変数の組み合わせによるから、必然的に「複数」出てくる。

その複数ありうる未来のどれを選ぶか。最も望ましい(苦しみを増やさない)選択をするには、自分自身が、個人としてどのように理解して、どんな選択をするか、

自分自身のあり方を明瞭にすることに、最後は帰結する。


生き方として学ぶ日本仏教(この場所での講座)は、ごくわずかな人たちに向けての、限りなく自制された内容だ。広く知ってもらおうとは思わない。

ほぼ確実に、日本、いや世界でココだけ。本に著した内容もオリジナルだが、この場所で伝える仏教及び歴史も、さらに輪をかけてオリジナル。

偏った内容ではなく、「史実をいかに見るか」という点では、歴史学の定説・主流以上に「深く、鋭い」内容になっている。

この複雑な世界を正しく理解するための、仏教はその技法たりうる。歴史学としてのブディズムだ。



2024年7月15日