火祭りの国

毎日のように物騒な話題や有名人の不祥事を暴き立て、大騒ぎし、煽って、突(つつ)いて、忘れての繰り返し。

どんな問題であれ、事実にもとづき、原因を探って、解決の方法を探るという方向性に向かうほかなく、その道筋は粛々淡々と進むという一択のみ。

そのプロセスを確実にたどれることが、社会の成熟というものだ。

だがこの国では、事実のレベルだけで大騒ぎし、事実未満の憶測・意見やら虚偽・捏造やらが増幅・拡散していくものだから、なかなか原因にたどり着けず、根本的解決がいつも遠い話になってしまう。

騒いでいるうちに飽きるか忘れるかして、また別の騒げる話題を見つけて飛び火させていくという不毛な連鎖が起きているのみ。

飛び火は熱い(けっして心地よくはない)のだが、刺激的でもあり、暇つぶしにもなり、難しく考えなくていいというラクさもあって、誰も彼もが火を追いかけてしまう。

個人の火遊びに留まらない、日本社会全体が興じる火祭りだ。

不毛な火祭りだけが延々と続き、人々のストレスは増し、社会全体は荒んでいく。しかも中にいる人間たちは猛烈な勢いで老いて縮んでいっている。

火遊びに興じるばかりの、火遊びしかできなくなった、老いた小さな国。

あれ、これ本当に末期症状なのかも?

 

 

 

2025年1月下旬

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて

 

全国の公務員のみなさんへのエールを込めて、

昨年末にWEB講演をさせていただきました。関連する記事の掲載も。

日本を支えてくださっている公務員の皆さんに敬意と感謝を捧げます^^

 

ジチタイワークス増刊号(2025年1月27日発行)
記事の詳細は、以下のバナーもしくは、
URLをクリックしてご覧ください。


このブログの目的(世にあって世に染まらず)

 

この公式ブログは、更新を楽しみにしている人も多いらしく、週に一度くらいの頻度で更新するようにしています。

わざわざ公式ブログを見にくる人というのは、それだけのモチベーション・関心があるということ(と受け止めています。暇つぶしに覗きにくる人もいるかもしれないけれど笑)。


ここに掲載しているのは、日頃のやりとり(主に講座参加者や読者さん)で出てきた言葉の一節です。


この場所は、自分が話したいことを話す場所ではありません。

抑制的に、真実かつ有益であること、人の幸せにつながる価値ある言葉であることを心がけています。(本も、公式ブログも)

(ただ、堅苦しくならないように、カジュアルな(?)話題も交えるように心がけてはいますが・・それが一番出てくるのが教室です。なるべく多くものを持って帰ってもらおう、喜んでもらおうと、つい余談・脱線してしまいます)

 

ここは、なるべく見つからないように、小さく、地味に、ごく限られた人たちとの関係だけで細々とやっていこうという、世にあって世に染まらずを地で行っている場所です。

 

 


『人生をスッキリ整えるノート』の裏表紙
(地道がいちばんです)


 

 


自分が先か、〇〇が先か


「自分」より先に「仏教」を置くこと。

「自分」より先に「人さま」を置くこと。

「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。

「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。

どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。

仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。

「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。

仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。



今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。

自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。

両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。


この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。

「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、

自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。

仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、

そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。

そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。



ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。

かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。

「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。

自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。

仏教に立っているか、自分に立っているか。

普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。

そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。





2025年1月下旬




「感謝」より大切なこと


感謝を語る人は大勢います。でも、感謝よりも大事なことがあります。

 

現実を正しく理解することです。


苦しみがあるなら、その原因をつきとめて、原因を取り除かねばならない。

過去に原因があるなら、過去を卒業せねばならない(※次の号で掘り下げます)。

相手との関わりに原因があるなら、関わりを清算せねばならない。

自分の業が原因であるなら、時間をかけて、自分の業を客観視して、反応のクセを書き換えていかねばならない。


そうした地道な、でも確実な道のりと、「感謝」というのは、まったく異質(無関係)なのです。


感謝というのは、即効性がありそうな気がする。だけれど根治療法には決してならない。

正しい理解 は時間はかかるし。簡単ではないのだけれど、

仮に同じ歳月をかけるとして、結果的にどちらが解決に近づくかといえば、

感謝ではなく、正しい理解だということです。


※なお、正しく理解して、問題を解決したうえで、それでも残った価値あるものに「感謝する」というのは、アリです。つまりは順序が違うのです。



2025年1月



2025年春の講座ラインアップ

2025年春の講座ラインアップ:


生きるとは、自分が幸福・納得にたどり着く”可能性”そのものです。

人生には、今の自分に見える以上のはるかな可能性が広がっている(ほんとです)。

可能性を広げるための学びを、この春、始めようではないですか――

 

2025年3月16日(日)

10:00~12:00
大人になった私たちは今どう生きるべきか

名古屋・栄中日文化センター
 
何歳になっても悩みはつきものだし、世の中、首をかしげるおかしなことばかり。自分はどう生きればいいか。家の問題、子や孫に残せるもの、やがて来る「人生の卒業式」に準備すべきことは・・? 
さまざまな話題をもとに「歳を重ねるほど、幸せが増える生き方」を一緒に考えます。健康法や先人の生き方など最新情報をまとめた特別教材つき。
 
受講費 3300円(税/教材費込み)
*質問を事前募集します。聞いてみたいことがある人は紙に書いてセンター受付まで(任意)。
お問い合わせ・受講申し込み(オンライン受講可):栄中日文化センター0120 - 53 - 8164


2025年3月16日(日)
14:30~17:30 
「こころを整える練習」 ~クリアな心で仕事に励むスキルを実体験
大阪・大阪市中央公会堂

現代には、心をめぐる問題が数多く存在します。日頃のストレス、コミュニケーション不全、蔓延するスマホ依存、先行きへの不安や孤独など。必要なのは「正しい心の使い方」。過剰に反応せず、ストレスを溜めこまず、クリアな心で日々を生きるには? さまざまな世間の話題も取り上げながら、筋の通った考え方(解決の手順)と、心を洗う実践(瞑想法)を紹介します。
 
<受講方法> 下記の必要事項をEメールでご連絡ください。koudounosato@gmail.com 2月28日(金)まで。折り返し案内をお送りします。
①氏名(フリガナ) ②郵便番号、住所、電話番号、メールアドレス ③自己紹介(ご職業・日頃の活動等) ※宗教・精神世界・マインドフルネス・心理学などの分野で指導・情報発信している方はご参加いただけません。ご了承ください。


2025年4月15日(火)から
毎月第3火曜/4月から12月までのレギュラー講座
13:00~15:00
名古屋「生き方として学ぶ仏教 ブッダの生涯編」
名古屋・栄中日文化センター
 
人生をめぐる悩みに「そろそろ答えを見つけたい」人のための仏教講座。堅苦しい話は一切なく、聞いてわかる・すぐに使える「生き方・考え方」として学びます。テーマは「ブッダの生き方~古代インド編」――ブッダの生涯をたどりつつ、自分の人生を振り返り「人生これでヨシ」という納得の境地をめざします。原始仏典を編纂したオリジナル教材を使用。
 
※オンライン受講は興道の里への事前登録が必要です。

お問い合わせ・受講申し込み: 栄中日文化センター0120 - 53 - 8164
 https://www.chunichi-culture.com/programs/program_190316.html


2025年4月16日から毎月第3水・全4回
14:30~16:00
大阪・市民公開講座  生き方として学ぶ仏教・全4回
 
人は誰もが、後悔や不安、「これでいいのか」という迷いを抱えているもの。そうした問いを解決してくれるのが仏教です。この講座では、宗教としてではなく、毎日の暮らしに役立つ「生き方」として仏教を学びます。「わが人生、これでヨシ!」と納得したい人は、ぜひご参加ください。
 
◆4月16日(水)仏教入門~なぜ人は満たされないのか(人生の目的とは)◆5月21日(水)明日をどう生きていく?~やり残した宿題を片付ける ◆6月18日(水)心をスッキリ整える~坐禅体験と健康な毎日の過ごし方 ◆7月16日(水)明るい人生の卒業に向かって~正しい見送り方・旅立ち方
 
会場 NPO法人岸和田健老大学
〒596-0076 大阪府岸和田市野田町1丁目12−7
 
どなたでも受講できます。一般市民の方歓迎
受講料(教材含む)全4回 一般4800円
第3水曜日 午後2時30分から午後4時まで 講座後に無料の個別相談あり    
申込開始 2025年2月4日(火)から 一般の方はE-mailにて ①お名前 ②ご住所 ③電話番号 を大学事務局にお知らせください。kouza@tvk.zaq.ne.jp 折り返し案内メールをお送りいたします。

お問い合せ先 認定NPO法人 岸和田健老大学事務局 Tel 072-431-1575 



親としての自分を卒業した後は


子供を育てる幸せ・喜びを体験できた人は、ラッキーです。

子供は親を求めてくれるし、素直だし。愛おしいものですよね。

そういう体験を過去にできたなら、その思い出を大事に取っておきたいものです。人生で一番幸せだった時期のことを(そうではなかった人もたくさんいます。だから子育てが幸せだったという人は、すごく幸運なのです)。

子供はすぐに大きくなるし、大人になった子供は、もはや別人。そりゃ仕方ありませんよね。幼い子供のまま、いてくれるはずはなく。

あの頃の子供と、今の子供とは、まったくの別人。遠い昔の話。でも確かにあったこと。

遠い昔を愛おしみながら、大人になった子供と向き合うことができれば、親としての愛情を保てることになります。

でも昔のことを今に持ち込むことで、相手(子供)に執着したり、今の関係性に物足りなさやさみしさを感じてしまうとしたら、それはやはり過剰な妄想であって、

そういうさびしんぼな自分に気づいたら、少しガマンして、自分の物事に戻る・・というのが、親としてのマナーなのかもしれません。



「親としての自分」は、もちろん死を迎えます。いつか卒業。親の方で卒業するか、子供の方で求めなくなったら、その時点でいったん終了ということになるのでしょう。

ただ、これは「役割としての自分」の終焉であって、あるのが当然というか、自然です。

仕事をしている自分も、妻・夫としての自分も、すべての役割は、変化するし、終わりもする。

いろんな役割が自分を作っているけれど、その役割は、細胞のように新陳代謝して入れ替わる。

ひとつの役割が終わるとしても、全体としての自分は最後まで続く。新しい役割を引き受けるか、新しい喜びを見つけるか。

自分がどのように変わっていくか、入れ替わっていくか、そういうこともかけがえのない体験として、最後までよく味わって、体験しつくす。

きっとそれが人間としての自分にできること。


役割に執着せず、新しい今を生きる。


それがひとつの答えなのかもしれません。



2025・1・10




歳を重ねて思うこと


歳を重ねて、行動範囲や交友関係が狭くなってくると、なんだか世の中、本当に大丈夫なのか、と心配になってきたりするものです。

聞こえてくるのは、悲惨な事件や事故、災難、病気や戦争、不祥事、そんな話題ばかり。

こういう醜悪な情報が耳に入ってきても心のバランスが取れるくらいに、仕事や家事に忙しくて、せいぜい世間の動向が、暇つぶしの話題レベルに留まっていればよいのですが、

自分の日常が一人静かで、特に新しい変化もなくなってきたら、なんだか世界は悲惨なことばかり、滅びに一直線に向かっている・・・ように思えてくるようになります。

ほんと、世界はいつまで続くのだろう・・・という不安、懸念。

人間は歳を取ると、そう思えるようになってきます。きっと多くの人が同じ。

動ける範囲が狭くなってくるぶん、外の世界の可能性も見えにくくなってくる。


だからこそ、自分以外の命のことを積極的に愛おしむことが大事になってくるのだろうと思います。

自分は老いつつあるけれども、若い人たちも生きている。
彼らには未来がある。未来を作っていく。

子供たちには、今と未来しか見えない。だからこそ動くし、考える。
自分には見えない未来が、彼らには見える。

だからこそ未来は彼らのもの。未来を創っていってもらう。

動物だって同じ。生まれた瞬間から未来しか見ていない。
植物も同じ。彼らも未来に向かって伸びていくことしか考えない。

生命というのは、みんな未来に向かっていく。未来を創っていってくれる。

そういう姿は、自分の周りにも、まだまだ溢れている。

そういう「未来」に気づける心でありたい。

自分自身については、できることをやって、働ける限りは働いて(それこそ70,80,90になっても働いている人はいる。働いている人のほうが元気だったりする。その可能性があるならチャレンジしたいと思う)、

もうほんとにムリということになったら、自分の範囲を小さくして、

その分、人でも動物でも植物でもいいから、「未来」に向かっている生命の姿を見つめて、

未来へと続いていくことこそがこの世界の本当の姿なんだ、という思いを新たにする。


そういう生き方でよいのではないか、と思っています。




2025・1・7



自分を大切にする一年に


(※最近「自立」へと踏み出した60代の女性に向けて)


親という生き物(結婚(してしまった)伴侶もそうですが)は、不思議な存在です。子供の幸せを願うどころか、勝手な怒りなのかやっかみなのか、子供の人生を妨害して、足を引っ張って、壊そうとさえする生き物さえいます。

最初のきっかけは、たぶん小さな妄想です。親の側の勝手。その妄想が悪い方向に転がって、親であるがゆえの権力(体力・経済力等)とあいまって、

最初の妄想(悪意)がどんどんと悪い方向へ、子供を苦しめる残酷な方角へと肥大していくことが起こります。まっとうな人間なら自分で歯止めをかけようと努力するものですが、たまに自分の悪意を受け入れてしまう(正しいと思い込む)人間がいたりするのです。

実家を出る、別れる、捨てる・・そうした選択が、自分を守るために必要なこともあります。そうした選択をしなくていい人もいますが、選択しなければいけない人もいます。

こればかりは、自分が置かれた状況をもとに決断するほかありません。答えを出せるのは自分。答えの正しさがわかるのも自分です。


決断の仕方は簡単です。相手が変わらない、変わろうとする努力を見せない、そんな相手との関わりが苦しくてたまらない・・という現実があるなら、

単純に相性が悪いということ。最も自然な選択肢は、離れることです。脱出すること。


たとえば老いた(でも病的な頑固さ・傲慢さは枯れない)父親に苦労してきた女性なら、そうした父親を捨てること。遠慮はいりません(笑)。

母親はどうするのかといえば、母親は、そんな男と一蓮托生で、それがその人の人生なのだから、子供である自分が背負う必要はありません。病院への付き添いなども不要(あるあるですが)。本当に必要ならなんとかしますよ、こちらが手をかけなくても。

子供はつい勘違いしがち。親の人生を背負わねばいけないの?と。良好な関係ならありうるけれど、自分を失ってしまうほどの苦痛を背負ってまで引き受ける必要なんて、本当はまったくないのです。

人の人生は人に委ねること。

自分は自分の人生を生きること。


もうひとつ、自由を求める人に大切なのは、家に置いてあるモノに執着しないことです。どうしても置いておけない大切なものは、(なるべくこっそり)運び出すとしても、生活用品程度なら、忘れてしまえばいい。

「半年旅に出たとしたら?」と想像してください。飛行機に乗ったと仮定しましょう。半年好きな場所を旅して、家に置いたものを思い出すか。思い出せるか。

思い出せない程度の物は、必要がないということです。

必要なものは、新しい生活の中で少しずつ増やしていけばいい。とりあえずすっからかんから、少しずつ必要なものをそろえていくのは、いかがでしょう。


しばらくはぶり返し(過去を思い出してしまう)が続くかもしれません。親だった人たちの良い部分を思い出そうとしたり、今なら優しくできるのではと考えてしまったり。

でもそれこそが、執着を断ち切る前に生まれる妄想です。その妄想と闘うことがカギになります。

もう闘わなくてよいのです。終わらせてください。


休める間はゆっくり休む。そんな自分を責めないように。
どんな状態でも、自分を許してあげること。
自分に優しく、寛容になりましょう。

そして、自分のために生きること。


人間は、自分のために生きてよいのですよ。犠牲になる必要はない。ましてこちらの幸せを願ってくれないような、自分の都合・要求で頭が一杯のちっぽけな人間のために、こちらの身をすり減らす必要はない。

自分のため、自分が好きだから、自分がやりたいから、自分が報われるから、やる。

そういう当たり前の前提に立ってできること(仕事も含めて)をもって、生活を作っていくことです。


人はもっと幸せに生きてよいのですよ。

幸せを知る一年にいたしましょう。


※なお、今回の言葉に抵抗を感じる人は、まだ執着の途上にあるのかもしれません。あるいは、今の関係性が、自分にとっての正解なのかも。答えを出せるのは自分自身です。


 

2025・1・5

興道の里・今年の抱負


新春のご挨拶第2弾は、興道の里の今年の抱負:

まずはインド出張。その後は、新刊の原稿書き。十代向けの学び方・生き方をまとめた本。

講座は3月16日&18日の名古屋での特別講座からスタート。

『ブッダを探して』の新聞連載は8月一杯か、2025年度内か。

レギュラーでやってきた仏教講座をどうするか。月に1回のペースでオンラインでやるか、夏までいったん休止とするか。

というのも、年の前半は本2冊を書き上げねばならず(ただでさえ遅れ気味で迷惑をかけているのでケリをつけなければ)、

新たな拠点の完成が7月頃。場所を変えて心機一転スタートするという形もありかと思っています(月に一度オンラインでいいからやってほしいという声があれば考えます^^)。

これまでは手広くやってきたけれども、そろそろ時間という有限のリソースを重点的に使うことも考えないといけない時期なのかもしれません。

子供たち向けの未来を育てるプロジェクト(やってみないと何ができるかわからない)。

本の執筆(未来に遺せる財産として)

そして、仏教講座。

この3点が活動のマックスかと。


悩ましいのは、どこまでの範囲に向けて発信するか。動画、SNS・・だけれど正直、そうした媒体を通して触れてもらったところで、遊びや暇つぶし、いわば消費コンテンツとしての位置づけを超えられるとは思えず。

学びを得るには、やはり相応の環境設定が大事。

自室でテレビの旅番組をながめたって、旅の醍醐味は味わえない。足を運んで、五官で感じることで、本物の旅になる。

学びも同じ。日常に浸かったままでは得られない学びというものがあるはず。

広く知ってもらうとか、ラクに学んでもらうといった便宜におもねる(媚びる)のではなく、少し敷居を高くして、

学びたい人はしっかり足を運んでもらって、リアルな体験として学んでもらう。この場所はやはり道場。エンタメじゃない。

そのうえ今のSNSや動画などの環境は、コンテンツがあまりに雑然としすぎていて、見るだけで精神的な負荷(無秩序ゆえのストレス)が溜まる構造になっている。

この構造は変わらないのかもしれないけれど、だとしたらあえて乗じることなく、まったく別の場所・別の形で、別の可能性を作っていくというのも、

ひとつの見識であり、良心的な選択といっていい気がする。

見つからなくていい、目立たなくていい。

志ある人が、偶然でも必然でもどんな形でもいいから、この場所を見つけてもらって、まずは連絡してもらって、足を運んでもらって、きちんとリアルな関係性を育てていく。

そうした関係性で生まれてくるものを選りすぐって、未来につながるものを残すようにすればいいんじゃないかな。

ということは、この先は、この場所で学んでゆく人たちと一緒に、「未来に何を遺すか」というテーマにチャレンジするということ。

その挑戦を始めるのが、新しい拠点ということになりそうです。


日本に帰ってきて十余年。作品が広く世に届いた、受け取ってもらえたということが、出家人生における第一の奇跡。

そして興道の里というイメージが、いよいよ具体的な形に結実して、新たなステージに入る今年は、第二の奇跡。

人の幸せ、社会の前進を真面目に願うという性格が、仏教という智慧を得ることで、社会的な価値を持つに至ったことが、第三の奇跡。

かつては「いいかげん大人になりなさい」とかさんざん言われた時代もあったけれど(笑)、その頃とまったく同じ思いが、今は、誰にも文句を言わせない(言ってもらってもいいけれど笑)形で、くっきりはっきりと姿を現しつつある。

捨てなくて(あきらめなくて)よかった・・というのが、今の実感。

予想もつかなかった未来に突入している。まさかこんな生き方があったとは。


まだまだ奇跡の途中。


みんなが幸せに生きられる可能性を願って、まじめに歩んでいくので、

この場所を偶然見つけてくださった人たちは、引き続き、静かに見守っていてくださいね。


 

2025・1・3

 

 

 

 

2025年 年初めのご挨拶


新年あけましておめでとうございます
(新年といっても観念=妄想にすぎぬではないかという絶望的なひねくれ思考はこの際捨て置いて笑)

いつもは4日以降の始動なのですが(みなさまの平穏を邪魔したくなく笑)、今年は1日早く始めます。

昨年を振り返っての印象は、ひとりで生きる決意を固めた人たちがけっこうな数出てきたこと。実に「善きかな」でした。

「地獄の実家」から脱出した人、

「最悪の旦那」とようやく別れることができた人、

呪いの家をなんとか飛び出して、新しい棲み処を探して、仕事も見つけて、

明日どうなるかはわからないけれど、まずは自由を手に入れたという勝者が、大勢いたのです。

みなさんそろって女性たち(そうした脱出劇を体験した男性もいるだろうけど、この場所での比率は圧倒的に女性たち)。

しかも50,60代かそれ以上。

たぶん40代くらいまでは、まだ親への執着も捨てきれなくて、そこまで覚悟が固まらないのかもしれません。

さんざん苦労して、迷路をさまよって、やっとこさ、このままではいけない、このあたりで変わらなければ、と決意できたのが今。

人生、遅すぎることはない。仕事だって、今の日本社会なら、まだまだ見つかるはず。
 

真面目に働けば雇ってもらえる・・そういう仕事・職場を探し続けることだと思います。それが今年のテーマです。


ともあれ、あっぱれです。よく頑張りました。

自立へと踏み出した人たち、でもまだ生活が不安定な人たちは、お気軽にご連絡ください。

実家脱出、離婚、一人暮らし・・そういう人たちを応援します。


まずは、新たな人生あけましておめでとうございます



2024・1・3