「自分」より先に「仏教」を置くこと。
「自分」より先に「人さま」を置くこと。
「自分」より先に「普遍的価値」を置くこと。
「自分」より先に「方法(誰もが共有しうる)」を置くこと。
どれも「自分を引いて考える」という点は同じです。
仏教は、慈悲、つつしみ、普遍的な価値を真っ先に考える思考法です。
「自分」が先立つものは慈悲じゃないし、「自分」が前に出るのはつつしみじゃない。自分、自分で発想すれば、普遍的価値は遠くなる。
仏教にもとづいて生き、仏教を伝える役目を負う人間というのは、そういう思考法・生き方が身に着いていることが資格のようなものなのです。
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今の世の中は、多くの人が、自分語りに夢中。自分があれをやった、こう考えた、こんなことがあったということを、吟味することなく得々と、あまりに簡単に発信できる世の中です。
自分語りに夢中な人たちが一方にいて、もう片方に、他人事に夢中な人たちがいる。
両者とも一定数いるから、供給と需要がかみあって、その内容(真実か、価値があるかといった実質)に関係なく、お金や影響力まで生み出せてしまう奇天烈な世の中です。
この構図、「自分を越える価値」に思いをめぐらせるという発想や思考法とは、正反対です。
「自分ファースト」「自分のことだけ」に夢中な頭(脳)には、
自分以外の人のこと、世の中のこと、未来のことを考えるという「発想」が出てこない。
仏教というのは、本当は、そうした自分偏重の発想を突き崩す、いわば「ガツンと」ぶちかます威力を持っていなければいけないのですが、
そうした点をふまえてみれば、仏教を語る言葉は、弱い、弱い。
そう、「ガツンと」来ないといけないのでした(笑)。そのことをしっかり心に留めて、次の作品づくりに取りかかろうと思います。
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ともあれ、「まずは自分を引く」というのが、仏教の思考法です。
かといって、それは卑屈になるとか負けを受け入れるという話ではなく、かりに理不尽を強いられたとしても、「仏教ならば?」と考えるということです。
「自分」から入る思考より、はるかに強力(その威力が見えないのは、まだ仏教の威力がわかっていないから)。
自分を越えるからこそ、自分を守れるし、大切な価値を守り抜くこともできる。仏教は、そうした可能性へと導く思想であり方法論なのです、本来は。
仏教に立っているか、自分に立っているか。
普遍的な(誰もが共有しうる、幸せにつながる)価値を見ているか、自分だけを見ているか。
そうした視点を持てば、世に飛び交う言葉も、自分自身の思考も、正しいか間違いか、どこがおかしいのか、気づきやすくなるのではと思います。
2025年1月下旬