人を失った悲しみというのは、ごく自然な人・生き物としての感情です。
その感情そのものを否定したり抑圧する必要はまったくありません。というか不自然です。感情というのは、おのずと湧いてくるものだからです。
もちろん外の出来事に「理解するにとどめて反応しない」ことは、心の使い方次第なので可能ではあります。ただそうした心を選ぶかどうかは、あくまで本人に委ねられることになります。
自分にとって必要だった人、大切だった人、かけがえなかった人、いわば自分という存在の一部であり、前提になっていた何かが失われてしまうというのは、
自分そのものを失うことでもあるので、動揺することや深く落ち込むこと、悲しみを感じることは、ごく自然なことかと思います。
悲しみというのは、事実です。
もしその先を考えるとしたら、事実をどのように受け止めるかだろうと思います。
喪失という事実を、悲しみをもって受け止めることも、ひとつの選択でしょうし、
心に穴が空いたような感情の希薄(空疎)を感じることも、ひとつの選択です。
そうした選択は、本人にとってはそうとしかできないものでもあって、そのこと自体は、正しいとかそうではないとか判断できるものではないように思います。
人が抱く感情というのは、あくまで自然な心の発露であって、またその人だけが選びうるものなのです。
だからどのような感情を覚えることになっても、それは自然なことであり、大切なことでもあります。
ひとつだけ、仏教的な視点をもって、失った悲しみをどう受け止めるかについての考え方をお伝えするなら、
人を失った悲しみというのは、それだけその人が自分にとってかけがえのない、大切な人であったということ。
そうした人に出会えたということ。
そうした人と一緒にいられたということ。
そうした人との時間、その人の姿や言葉を覚えているということ。
その人が、その時間、その生命、その心を、自分にくれたということ。
そうしたこと自体が、奇跡のような授かりものであり、深く”ありがとう”と伝えるべきことだということです。
与えてくれたものの大きさ、深さをも、ちゃんと思い起こすこと。感じ取ること。
そうした思いと一緒であれば、悲しみというのは、ただ苦しいだけの感情にはなりません。
さまざまな思いと感情と感謝も含む、その人への自分から贈ることができる精一杯の思いやりということになります。
そうした想いをまるごと持って、”一緒に” 生きてゆくことなのかもしれません。
2026年9月10日