熟年夫婦クライシス~「家族のために」は要注意

10月18日(日)は愛知・高蔵寺で「人生50年の棚おろし」、20日は愛知・栄で講座「ブッダの生涯」。

18日に配布した『ブッダを探して』インド編は、来年3月16日の栄での1日講座でも配布予定。

50代以降の課題・テーマを事前募集したのだが、今回は、ある男性の悩みを取り上げることから始まった。その話を振り返ってみます――


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熟年になってから、夫婦間の隔たりが顕在化するというのは、よくある話。離婚を切り出すのは、7割方は妻の方だともいう。

私は、夫と妻、いずれの思いをも聞く立場にある。中には、妻のほうに原因があって、「これは別れざるを得ないね」と夫のほうと話をすることも、なくはない。

他方、夫の側に問題があることも、当然ある。どちらが悪いということでもないのだが、夫としてのあり方に若干至らぬところがあって、そうした小さなスキマが、20年、30年と経って大きくなって、気づけば修復不可能なくらいの穴に拡大してしまっているというケース。

よくあるのは、これは今回寄せられた悩みには当てはまらない可能性もあるのだが、

夫は無自覚、だが家のことはほったらかし、妻にやらせっぱなしで、それでいて、

「家族のために働いてきた」と考えているケース。

妻や子供たちからすると、夫=父親は、家のことに興味がない、自分たちのこともほったらかし、話も大して聞いてくれない、話がつまらない――。

ちなみに、「話がつまらない」というのは、相手に興味を持っていないから。つまり知ろうとしない、聞こうとしない。その部分がすごく希薄だから、口をついて出てくる言葉が、その人(夫)についてだけの話になってしまう。

「話していて楽しい」というのは、まず興味を持ってくれる、話を聞いてくれるという前提があって、そのうえで自分にはこんなことがあったとか、あれは自分はこう思うとか、自分自身について、素直にそのまま言葉にする場合に成り立つ。

だが、こうしたコミュニケーションは、どうにも男性のほうが苦手らしい。男性というのは、自分には興味があるが、相手(妻・子供)にはあまり興味がない。

「仕事しているからいいじゃないか」という形で、そんな「会話のない自分」を正当化してしまっていることがある。なぜか自己完結してしまっている。

そうした自分のあり方から出てくる言葉が、「手伝うことはある?」とか「子供のことで相談はある?」みたいな言葉。

これ、聞かれる側からすると、「そんなこと、自分で見つけてやればいいじゃん」「父親なんだから、自分で聞けばいいじゃん(これまで聞いてこなかったくせに、今さら何言ってんの?」と感じる可能性が少なくない。

もしこうした聞き方をされて、「じゃあ、あれやって」と言おうものなら、「自分が頼み事をした」という図式になってしまう。「え? じゃあ、わたしが頼んで、手伝ってもらって、あなた(夫)、ありがとうって感謝しないといけないわけ?」という反応が出てきてしまう(ここまで言語化はしていないだろうけど、ミクロの反応ではそう考えることになる)。

「いちいち言わなくたって、自分の家なんだから気づいたことはやればいいのに」と思うし、

「父親のくせに、わざわざこちらか相談しないといけないの? その前に、フツーの会話があれば、わかることもたくさんあったと思うけど。いちいち話さなくてはいけないの? あー、めんどくさい(怒)」

という感情が出てくるから、もうわざわざ話をする気力もなくて、「別に(何もない)」という言葉になってしまう。

「別に」というのは、精一杯の思いやり(家族だからこその努力)だったりもする。ほんとは、こういう「わかりきった(言うまでもないし、言うエネルギーを使うこともバカバカしい)」話には、もう沈黙(無視・スルー)したいというのが、相手の本音なのかもしれないのです。

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今回、少しそういう話をしたら(「手伝うことある?」ってどうなのかな?という話をしたら)、女性たちがウンウンと深くうなずいていた。似たような夫婦関係を生きてきたのかもしれない。

送ってくれた男性、そして世の熟年男性の方々には、これ申しわけないのだけれど、こういう図式(パターン)は、驚くほど多い。

こうした男性はえてして、

「これだけのことを自分はやってきた(やってあげてきた)」
「これだけのことを頑張ってきたつもり」
「だが、妻も子供たちもそっけない、自分の居場所がない」
「報われない」

という言葉を語る。驚くほど共通している。

自分がやってきたことをアピールすることについては、饒舌。だが、妻がどういう苦労をしてきたとか、子供たちから見ればどんな父親に見えていただろうかというような話(想像力)が、見事にない。

「自分が家族のためにやってあげてきたこと」は語るのに、「家族にこんな思いをさせてきたかもしれない」と振り返る言葉は、ほとんどない。

そして、こうした長年にわたる一方通行の思い(痛い言葉になってしまうけれど、男の側の自己満足)に、妻・子供が「見切り」をつけてしまった後に、

夫の側で定年が近づいて、その後の人生を考え始めた頃になって、ふと家族の方を向いたら、「そっけない」「相手にされない」状態にすでになっていたことに、やっと気づく――ということが、多いらしい。ものすごく多い。

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「やってあげた」
「報われない」
「家族のために(頑張ってきた)」

これ、言わないほうがいい。そういう発想に立ってしまっている自分に「愕然とする」くらいのほうが、本当は正しいあり方なのかもしれません。

恩着せがましい、つねに見返りを求めているのは、自分自身かもしれないのです。「働いてやったんだぞ」「養ってやったんだぞ」「育ててやったんだぞ」「この家、誰のおかげで持てたと思っているんだ?」的な発想。

気持ちはわからなくはないし、事実そうした部分もあるではあろうけど、問題の根幹は、まったく別のところにある。

そうした根幹をなす欠落に気づかなかった自分自身は、どうなのか?

そこをすっ飛ばして、あれをやってあげた、これもやってあげたという発想になってしまえば、これもズバリ言うけれども、ケチ臭い器の小さな人間――ということになってしまうかもしれない。

家族には、そういう部分が見透かされているのかも。

人生観の根底をひっくり返してみるほうがいいのかもしれない――

働いてきたのは、まずは自分のためだし、これまで生きてきたのも、自分のため。

自分の人生に、妻となった人と、子供として生まれてきた人たちに、付き合ってもらったというくらいの理解のほうがいい。「よく一緒にここまできてくれたなあ」と感謝できないと。


感謝もないから、「だったら実家に戻ります」という話になる。妻の選択は、実はかなり合理的、というか根拠があるものかもしれないのです。

こういう展開は、世の中にものすごく多い。一昔前なら、「じっと堪える妻」として付き合ってくれたのかもしれない。でも、今はそうじゃない。多くの女性が、こう考え始めている――

「なんで、わたしが、あなたと一生添い遂げないといけないの?」

そして、あわてふためく夫。だが、時すでに遅し――ということも、続出している。

◇

結論をいえば、

自分の人生は、自分で生きることが基本。すべては自分のため。納得しなければならない(人のせいにしないということ)。

家族であれ、ペットであれ、実は誰一人、「自分(オレ)のため」に生きているわけじゃない。「来てくれた」「いてくれた」「今もいてくれる」だけでも、本来は感謝すべきこと。

「これだけのことをやってあげた」という思い上がりを捨てること。自分がやったことと同じか、それ以上のことをやってもらってきたのかもしれないのだから。

家族の思いを想像してみる。そして聞いてみる。「理解する」ことに徹する。

家のことは、自分の物事としてやる。自分から動く。当たり前の話。

もし想像してもわからない――というならば、それが自分の器(うつわ)。受け入れるのみ。

もし聞いても答えてくれない(もう答えは出ている)――というならば、いさぎよく互いの自立をめざして話し合う。その先は、「妻だった(妻でいてくれた)人」には別の人生がある。別の人生を生きる権利がある。

自分もまた、夫ではなく、自分一人に戻って、自分が納得のいく生き方を考える。行動していく。

妻だった人、子供でいてくれた人のことは、追いかけない。幸せに生きていってくれればいいという思いを胸の片隅において、自分の人生に専念する。


遠くなりすぎた距離が再び縮まるのか、もはや時遅しなのか。いずれの可能性もあるけれども、今の状況を整理するなら、こうした内容になります。

かなり厳しくて申しわけないけれど・・おそらく正しい理解です。



2026年10月21日