医療倫理としてのブディズム


7月17日から3日連続で看護専門学校で講義。大阪のとある学校。

初日は、1年生向けの月イチ講義の最終日と3年生向けの初日。

1年生は平均年齢20歳未満という若いクラス。人は年を重ねるにつれて、年齢差・世代差が開いていく。そのことを気にする人たちもいる。

だが、伝えねばならないことに、年齢も世代も関係がない。

伝える価値があることは、①時代を越えて普遍的な内容と、②日々新しくなる知識や情報・技術をいかに見るかという「視点」である。

その部分を伝えることが、先生・講師の役割だ。その役割に、年齢は関係がない。伝えるべきものを選別する眼と、伝えようとする情熱と、どうすれば伝わるのかという工夫だ。

工夫はつねに新しくなる。その工夫を重ねることに情熱を持てるならば、先生役としては合格だ。他方、情熱が失せれば、その時点が引退すべき時だ。

前日夜は、大阪の宿に着いてレポートを採点する(またほぼ徹夜だ)。この講座の目的は、「技法に沿って目の前の患者に向き合ってもらう」こと。正しく理解し、方法を網羅し、明確な基準・根拠をもって選択してもらう。

すべてが漏れなく見えている(理解できている)ことが、看護、いやプロフェッショナルな仕事のすべてにおいて必要。

だから、技法を無視して、自分の考えだけを述べている答案は、失格とする。「私はこう思う」で終わるなら、勉強は要らないし、成長もしない。素人どまりだ。

つい「私はこう思う」で片づけがちな脳を、「技法に沿って」、つまりは、その仕事において絶対に欠かせない、「私」を超えて、「私」の前に置くべきいくつかのチェックリストに沿って考えを組み立てる。

それができて初めて「倫理的な」看護であり医療たりうるのだ。


仏教を専門とする私にこうした講義ができるのは、「技法」「倫理」「思考の道筋」は、普遍的なロジックであって、医学・看護の専門知識以前の常識であり、誰もが共有すべき知性そのものだからだ。

医師であれ、看護師であれ、患者であれ、立場の違いは関係ない。

立場を超えて共有せねばならない思考の道筋がある。それが「倫理」と呼ばれてきたものだが、その内容が過去あまりに漠然としていたため、

この講座では、徹底的にその中身を分析し、「これが倫理の本質だ」ということを言語化して伝えている。


医療倫理は、答えが出せない問いだという声もあるが、とんでもない勘違いであり、怠慢だ。目の前の人間の全人生がかかっているのに、答えを出せないなんてあってはいけない。

出せるように頭を鍛える。実際に出すための技法(論理)は、存在する。

その技法を伝えてきたのが、この講義だ。

すでに9年目か。医師、看護師、医学生など見学に来る人たちも毎年いる。ぜひ見学に来てほしい。

この講義では、徹底して「患者」の側に立って、最低限見えてほしい、考えてほしい問題点を問う。あえて突きつける。

プロとして明快に答えられないなら、そこに盲点がある。倫理の欠落だ。それが顕在化した時に、医療過誤や患者の悲しみや取り返しのつかない後悔が起きてしまうのだ。

日本の医療政策、ワクチンと言いつつ実はワクチンではない(遺伝子組み換え・改変剤)別物、その安全性と有効性、さらにはマイナス(副反応・副作用・後遺症・死に至るリスク)、一人一人において当然選択は違ってくるという医療の本質。

どれだけ事実を調べたか、データを把握しているか、現実に生じている苦しみを見て、何が原因か、防ぐためにどう理解すればいいか。

試しにいくつか問うてみるが、まともに答えられる医師や看護師は、実はほとんどいない。「そういわれているから、たぶんそうなのだろう」程度の浅い理解で簡単に選択してしまっている。

プロフェッショナルとは、素人に見えない部分まで、漏れなく見える者のことだ。

そして自分の思い込みや、思惑や、利権や打算計算や面子やプライドではなく、苦しむ人の苦しみをやわらげ、病んだ人を健康な日常へと戻し、できれば健康なまま長生きしてもらって、そのぶん、多くの幸せな体験をしてもらう。

そうした願いをもって、最も苦しみを増やさないですむ合理的な選択を促す。励ます。寄り添う。

それができる者をプロフェッショナルというのだ。


いわば当たり前の職業倫理だが、その倫理が急激に「別の何か」にすり替えられている印象も、なくはない。

プロであるべき医師や専門家たちが、合理的な選択のための思考の手順・基準を示すのではなく、

簡単に結論そのものを勝手に出してしまう。思考することなく、最初から選択肢を一つに決めつける。患者としては一番腹立たしい態度だ。

その結果、現実に苦しみが生じているのに、その苦しみを見ようとしないのだ。結論一択を押し通す。

こうした現実があるから、一般の人・犠牲になった人たちが苦しみの声を挙げているのだ。


今の時代ほど、医療への不信が高まった時はない。

その責任は、特に苦しみを背負った人たちを納得させられない者たち。いわば倫理が欠如したプロフェッショナルにある。


看護師は、医療の最前線に立つ人たちだが、看護師もまた見えていない人が多すぎる印象はある。みんな優秀で真面目。だが業務に追われて、「苦しみを増やさない選択」を導き出す時間がない。そもそも選択するための論理的な思考の手順を持っていない。

このままでは、患者の苦しみを救えない。それどころか、疲弊し辞めてしまったり、医療政策・病院・医師の側の思惑に振り回され、ときにいいように利用される「都合のいい医療従事者」になってしまう。

患者も、看護師も、もちろん医師も、現実を正しく見るための技法が必要だ。かつては「倫理」と呼ばれてきたもの。この学校では「技法」と呼んでいる。



(つづく)

2024年7月17日