医療倫理としてのブディズム2

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看護学校3年生とは、2年ぶりの再会だ。

2年前に比べると、やはり大人になった印象はある。これは毎年感じること。

本当の知識は、覚えられる、思い出せる、使える ものでなければならない(学習3原則)。最初から心がけて知識を学ぶことだ。

でないと、すぐ忘れる、出てこない、試験・現場で使えないことになる。下手な勉強とは、そういうものだ。

2年前にやった事例や話題を振ってみたが、やはり忘れていた学生も少なくなかった(^^;)。覚えている人も、2年前のレポートを持参してきた人も。こうした人たちは、2年前の学びと今がつながっている。ありがたい話(笑)。


これも毎年のことだが、「業」の話をすると、とたんに元気を失う学生もいる。高い確率で、親との関係が「心の荷物」(負荷)になっている人たちだ。

親から「自立」することは容易ではない。

①経済・生活において自立すること(つまり働けるようになること)、

②精神的に自立すること――
「あなた(親)の思い通りにはなりません、まずは自分の人生をしっかり生きます」といえること、

業の深い親に向けては、①親がどんな業の持ち主かを正しく理解し、②距離を置き(反応せずにすむだけの距離を確保し)、③自分自身の業(心のクセ)を自覚して、④少しずつ別の生き方・考え方に置き換えていく必要がある。

人はみな、自分のために生きることが基本だ。親に振り回されたり、荷物を背負わされ続けたりする必要はない。

自分の人生は自分で選ぶこと。

「今の自分に納得できている」ことが、正しく生きているかを測る基準になる。


3年生は、3日目もしっかりワークをしてくれた。

講義で取り上げる知識・情報は、リソースによって変わってくる。教科書、専門サイト、医師・専門家・看護師によって、さまざまに変わる。

だから決して鵜呑みにせず、しかし「技法」だけは守って、技法に沿って、必要な時はもう一度自分で調べて、自分で考えて、「覚えられる、思い出せる、使える」ように工夫して、学び、またレポートを作成してほしい。

3年生はよく頑張ってくれた。さすがに心の体力がついている。講師としても納得で終わった。感謝とリスペクト。


その一方で、これも数年に一度のことだが、「喝」を入れざるを得ないこともある。

多くは、やはり1年生のクラス。まだ高校生気分が抜けていない様子が見えることが、たまにある。

いろんな理由・事情があるのだろうという同情もあるが、自分の判断で、勝手に手を抜いたり、講義中に寝てみせたりする。

努力しても寝てしまう・・というなら同情するだけで終われるのだが、「これくらいやっても大丈夫」と判断している様子が伝わってくることがある。

疲れている、お昼を食べて消化に血液が取られている(頭に回らないw)、知識の解説が続いて苦痛、先生の説明の仕方が及んでいない・・いろんな可能性はある。

こうした時、おそらく多くの先生方は「大目に見る」ことを選んでいる。見ないフリをしてやり過ごす。雰囲気を壊したくないという思いもあるかもしれない。

だがこれは、人間と人間のサシの(直接の)関係性だ。自分のあり方と、相手のあり方の両方が問われる。

一方が真剣に話している場面で、あからさまに無視したり寝て見せたりしたときに、相手が何を感じるか。そのあたりの想像力は、持っていないと始まらない。

今回印象的だったのは、知識の解説で寝たのではなく(それならば心情は理解できるし、講師の側で工夫せねばと思うことも可能なのだが)、

体の感覚を意識しましょうという、マインドフルネス、瞑想と呼ばれる体験の時間を始めた時に、机に突っ伏して寝始めた学生が何人か出たことだ。

特に難しいことではない。だが体験することを、自分一人の判断で拒絶した(全員とはいわないが、そうした可能性を感じた生徒も何人かいた)。

さすがに、言わざるを得ないと判断した(何年振り?)。


そもそもこの場所に来たのは、誰の意志か。誰かに引きずられてやってきたわけではあるまい。

自分で看護師になろうと志し、自分の意志で学校まで歩いてきた。すべて自分の選択だ。

中高生と違って、「やらされている」ことはゼロである。自分の物事、自分の人生、自分の未来。

ところが、そうした自覚もまだ持てない、自覚を示せない人がいる。

そうした人を周りも許容してしまう。慣れてしまって「問題に気づかない、問題が見えなくなっている自分」そのものが問題だということに気づかない。


ちなみに、講義中にスマホやタブレットで芸能人やら漫画やらを覗き見ている学生も、たまにいる(※今年の3年生にもわずかだがいた。大目に見たけれどw)。

あえて何も言わないが、見えてはいる。

「ふとよそ見をしてしまう」(雑念が湧く)ことは、心の性質だが、その心に流されてしまう自分の弱さ、だらしなさを受け入れるかどうかは、自分のあり方の問題だ。

ほんの少し努力すれば強くなれるのに、簡単にラクに流される

その結果、弱くなる。弱くなるだけ、しんどいと感じる物事が増える。

自分を甘やかすことは、単純に、自分にとってマイナスなのだ。


幼い子供なら、成長の途上だからと大目に見ることはありうるが、この場所は、プロの看護師になろうという人たちが集まっている場所だ。当然、求められる最低限の態度というものがある。

この講義で毎年最初にお伝えするのは、「患者目線で見る」ということ。患者として、この人はちゃんと向き合っているか、最低限の礼儀や常識はあるかを見る。

苦しみを抱え、ときに命がかかっている。そんな人が病院で出会うのが、看護師だ。

その看護師が、別のことを妄想していたり、スマホを呆けて眺めていたり、目の前で寝たりして見せたら、当然、怒るか、絶望するか、その看護師を拒絶するか、

絶対に看てほしくない と思うだろう。


今回は、自分のため・自分の物事であるはずの場所において、至近距離にいる一人の人間が何を見て何を感じるかを想像もせずに、「寝ていい」という安易な選択をしたように見えた。

だから「喝」を入れた。

いろんな理由・事情・思いもあるだろうし、先生はみな工夫を重ね続ける義務を持っている。この看護学校に手を抜く先生は、おそらくいない。先生方はみんな真剣だ。私だって毎回連日ほぼ徹夜だ(今回も、3年生2日目の講義を踏まえて3日目の追加資料を作るために徹夜した笑)。

つねに何が起きているのかを見つめて、理由を突き止め、改善すべき点を改善する。それが、先生側の義務であり、約束ではある。


だがさすがに、内容次第で寝たり起きたり、あるいは先生の様子を見て態度を使い分けたりというのは、

自分の物事・自分の仕事として引き受けようというプロの予備軍が許容すべきことではない。アウト。

今回はさすがに見過ごすべきではないと判断して、ド厳しい(かもしれない)喝を入れさせてもらった。


来年以降も、𠮟るべき時と判断した時は叱らせてもらう。

人間として伝わってきたもの、感じたことについては、正直に、素直に、伝えさせてもらう。

求めるのは、自分(講師)が相手(学生)を理解することであり、自分(講師)が相手(学生)に理解してもらうことだ。

理解しあえることは、人間関係の目標だ。学生たちが将来看護師として患者と向き合うときのゴールにもなる。患者を理解し、理解してもらうことが、信頼関係を作る。

もっとも、理解しあえる関係は、遠い夢のようなものでもあり、どんな場面でも、手探り状態で、永久に手応えが持てない理想でもある。

だが、だからこそ努力すべきは、自分が言葉を尽くして精一杯伝えることだ。


先生も然り。目に余った時は、怒って見せていい。ただし、生徒たちが言ってくる(言ってきてくれる)ことを、全身で受け止める覚悟が必要だ。ときに反省を迫られる指摘・批判であっても、誠実に受け止めて、「教師として自分にできること」につなげていく覚悟だ。

それだけの覚悟があるなら、失礼な態度や、本人にとってマイナスだと見えた時には、「人間として」本気で怒って見せていい。教師たるもの、真剣たれということだ。


特に職業専門学校というのは、すべての学校の中で、教員も学生も、最も真剣でなければならない場所だ(無論、楽しいところは楽しめばいいのだが)。

看護専門学校は、自分の意志で集う場所。目標は、学べるだけ学んで、知識と手技と体験を重ねて、国家試験に合格して、プロの看護師になること。

すべては自分のためであり、自分の物事。

ならば、今の自分のあり方が正しいか、自分で自分に納得できるかも、自分で判断できなければならない。

人のためではなく、人のせいにするのもアウト。すべて「自分が自分に納得できるか」だ。


この先も、看護師になろうという意欲をもって来たはずの人たちには、一人の人間として見て、是は是、否は否として向き合っていく。

それが、将来がかかっている学生たちへの、最大限の礼儀だと思っている。


坊さんの喝は(寺の修行とはそういうものだが)、逃げられない厳しさがある。

「汝、わかるか?」(あなたは理解できる人ですか?)

ということを突きつける(問う)ことだから。


わかってもらえればよし(その時は感謝と尊敬を)。

わからねば、わかるまで伝える努力をする。

わかろうという意欲がないとわかったときは、静かに身を引く(関わりを終える)。

人間関係とはシンプルなものだ。


2年後にどう変わっているか。楽しみに待つことも、毎年の恒例だ。


人々の苦しみを癒せる看護師として、この先の世界を支えてほしい。

そんな夢を見ながら、全力で向き合おうと思っている。




2024年7月19日
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