「若い」というのは、年齢というよりも、どんな時間を過ごしているかで決まる気がしてきます。
若い人たちの特徴は、まったく新しい(未知)の体験に飛び込んでいること。
そのぶん緊張や不安もあるのかもしれないけれど、「やってみる」ことに踏み出せる。前に進むことが当たり前。身も心も、それができるようにできている。
体験することを恐れない。体験そのものが生きること。
それが、若さの特徴のような気がしてきました。
◇
では、そうした若い命(※若いという言葉を連発すると、そのぶん自分が年寄りになった気がしてよろしくないのですが笑)のそばにいる大人の特徴はどうかというと、これは2つに分かれる気がしてきました。
1つは、「やってみる」姿を見て、自分も喜びや楽しさを感じられる大人。
もうひとつは、自分のほうに意識が向いていて、やってみる姿に共感できない大人。
後者は、仕事か、趣味か、過去か、性格か、人によっていろいろだろうけど、若い命のそばにいても、別のことに心を使っている。 いつも気難しい顔をしていたりして。
◇
考えてみたら、心はとらわれることなく、自由にして、流れ続ける状態が、本来の幸福(快)であるはずだから、
そうなることを促してくれる、若い命の「やってみる」の間近にいられることは、すごく貴重にして幸福な時間のはずなのです。
自分にとらわれずに、若い命(幼い子であれ、小学生であれ、高校生であれ)に心を合わせて、自分も喜びを得るという、
それができる、親、学校の先生、保育士さんたちは、実はすごく贅沢な時間を過ごせているということ。
人間というもの、自分一人で幸せを感じるのはそもそも苦手な生き物なのだから、ほんとは、若い命に合わせれば(ときに一緒に遊んでもらえれば)一番いいのかもしれません。
それができるためには、”自分抜き”、つまりは自意識を抜く、すなわち妄想を解除することが必要になってくるのだけれど。
◇
「大人になったら何になる?」という質問は、将来、望みが叶うとしたら何をしたい、何になりたい?ということ。
ちなみに私が今なりたいのは、保育士さんです。
資格を取れるのかどうか(取っても雇ってもらえるかどうか笑)わかりませんが、今ならできる気もします。
保育という仕事の難しさや責任は別の話として、幼い心に自分の心を合わせることは、昔の自分よりも、今のほうがはるかにできるような気がするのです。
”自分抜き”ができると、遠い昔の自分が感じていたこと、考えていたことも、わりと自由に思い出せます。机の引き出しを引くかのように、当時の自分を取り出せる。相手の心に合わせることもできる。
大人の引き出しと、子供時代の引き出しを、自由自在に引き出せたら、相手に合わせることが可能になる。「遊べる」ようになる。
子供の相手がすごく上手な保育士さんや学校の先生がいるけれども、そうした人は、引き出しを引くことが上手なのだろうと思います。心が自由。だから軽やかに引ける。
若い命のそばにいられる人は、自分抜きをして、いろんな引き出しを錆びつかせないようにして、楽しく過ごしてほしいなと思います(お節介ではなく、自分もそうありたいという純粋な願いとして)。
今いるその場所が特等席みたいなものだから。
2025年4月下旬